鏡面
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崖際を走る。少し目を横にそらせば、そこには海。ここだけが唯一の楽しみだ。つまらない運送作業もここのためだけに走らせることが出来る気がする。先輩が言う運転の楽しさは何一つ理解できなかった。でも、今日の海の機嫌を横目に走らせることがどこか楽しみでもあった。海は誰よりも自然に敏感だ。風を感じ、時の流れを刻み、月を愛し、常に存在し続ける。そんな存在を少しでも感じるタイミングを得ることができたことを愛していた。

だからこそ、海の機嫌が悪いとき、私はいつも精神を尖らせていた。別に何か理由があるわけじゃない。例え海が荒れている時でも無事に作業が完了する事がほとんどだ。しかし、悪いことが起きる時はいつだって色は沈み、聞こえてくる波音は大きなものだった。ガソリン切れ、忘れ物。些細なことかもしれない。でも面倒なんだ。


その日はとても晴れやかな日だった。春も終わり、夏が近づくころ。空気は澄み、一部の缶詰たちを除けばうららかな雰囲気だった。ドライバーってのは仕事が無ければ気楽な仕事だ。大抵は控室で溜めたガソリン代の経費の精算や惰眠に勤しむ。部屋の中には着替えとか、ちょっとした軽食とか、軽く読んだまま放置してる支給された本とかが放置されてる。いつかは片付ける必要があるなと思いながら何もしない。変人どもの集まりな財団じゃ仕事がない時にだらける程度で何かを言ってくる奴はいない。ただ、冷ややかに一線を引かれるだけだ。人間関係が自分の仕事に何か影響を及ぼすわけじゃない。

仕事の時間が来た。近隣のサイトに書類を届けるだけの仕事だ。十二分に武装が施されているどこからどう見ても一般的な家庭用の乗用車に乗って、往復4時間の旅。つまらないと言ったらつまらない、簡単な仕事だ。

巧妙な偽装が施されているサイトから入り組んだ小道へ。小道から薄暗い林道へ。林道から海沿いの崖路へ。サイトまで高速道路で40分。いつも小さなトラブルが起きるとしたらそれまでの40分だ。

小回りが利くこの車で小道を走るのはあまり嫌いじゃない。しかし、一度だけ曲がり角にぶつけたことがある。その時はなぜかはよくわからなかったが減給されていた。別に罵声を投げかけられようが殴られようがさほど気にはしないが、給料が下がることだけは勘弁だ。それ以来この小道は自分にとって憎たらしい存在でしかない。せいぜい5分に満たない道のり。可能な限りの注意を注ぐ。脳がすぐさま糖分を要求してくる。通り抜けたら飴を舐めよう。

林道の路肩に一度駐車し、ポケットから飴玉を取り出す。割いた包装をポケットへ入れ、飴を口へ。ブドウ味。どこもぶつけなかったことに安堵しつつ、飴を舐めながら注意力を研ぎ直す。この先は緩やかな下り坂だ。何かノリノリの音楽でもかけよう。




林道を進む。右も左も木。濃厚な土の匂いが少し開けた窓から入る。この時期はまだ日光が差し込むが、夏も盛る頃にはライトをつけないと見えないくらいに暗くなる。今年の夏はあまり仕事がありませんように、と少し皮肉気に呟きながらアクセルを踏み込んだ。




20分ほど林の中をグルグルと走り、急に視界が開けた。林道を抜け、崖道を往く。5mだか10m下に今日も海はいる。一般道まで15分ほど。スピードを気持ち緩めながら曲がりくねった道を進む。

5分ほど走り、ある事に気が付いた。風は凪ぎ、空は晴れている。日光がこれ以上なく心地よく降り注ぐ中での運転だ。しかし、波は酷く荒立ち、色は何処か深みを帯びている。きっと水面の方では風が強いのだろう。そのせいで水面が荒立ち色が普段と変わって見えるのだろう。幾らでも説明は思いつく。しかしそのどれもがこじつけで、それが分かっているからこそ不安感がより掻き立てられた。何故だ、何故海はここまで荒れている?

ハンドルを握る手に力が入り、汗が滲んだ。なにかが明確におかしいわけじゃない。道は変わらない。いつも通りに行けばいい。なにかがおかしい。何かが。
車にかけていた音楽を切る。激しく砕ける波とエンジンの駆動音がやけに鮮明に聞こえた。

あそこを曲がれば大通りだ。時計を見ると、出発から大体45分。トラブルは無かった。ここまでで何か無ければ大抵は大丈夫だ。なんとなく肩の荷が降りた気がする。
あとは高速道路を40分走り、偽装のためにいくつか回り道40分たっぷりとした後、目的地に到着だ。機密ってのは面倒だな。

高速道路はいつもより混んでいる。今日は平日。何かあったわけじゃないはずだ。そんな連絡は入ってない。まぁ、少し到着が遅れそうってだけだ。道に人が少なくなる最後の40分で飛ばせばいいか。

欠伸をしながら車が流れる事を待つ。緩やかに流れる雲を見ていた。

おかしい。今や車の混み具合は渋滞と表現しても差し支えない。今日は平日、それにここはそこそこ地方だぞ。混雑?何があったんだ。
不意に斜め読みしたまま放置していたマニュアルの存在を思い出した。財団から支給されたあの部屋にほっといたあれ。書いてある事が支離滅裂すぎて途中で読むのをやめた、アレ。何が書いてあったか記憶の糸を辿る。

『第2章: 異常が発生した場合』

背筋に寒気が走った。点が線で結ばれていく感覚。

「高速道路を通過する際、異常存在の発生に十分注意してください。出現自体は低頻度でありながら、遭遇時の十分な対処が求められます。現在、高速道路に異常存在が発生する際の前兆をつかむための研究が進行していますが、有意な結果は得られていません。」

余りにアホらしすぎてもはや小説として読んでいたあの章。

「殆どのケースでは一般人が財団の情報網より先に発見し、警察へ通報が入ります。その後、警察から財団へ連絡が入り、機動部隊が制圧に向かいます。」

徐々に重なる。あり得ないと唾棄したあの文章が、現実に。

「しかし、稀に認識災害を発生させる異常存在の出現が起きます。そのケースでは一般人による警察への通報は期待できません。ドライバーはいくつかの微細な二次的に発生する現象を掴み、いち早く財団へ通達する必要があります。現在までに観測されたケースでは具体的に以下のような現象が発生しています。いずれも科学的に検証された信用がおける情報ではない事に注意してください。」

いつしか風は強まり、雲が太陽を覆いつつあった。

・地震速報に表示されない地震

・異常な空の色

・不自然な渋滞

・事故が発生しているにも関わらず一切のアクションがとられない

10分が経過し、車は3kmほど進んだ気がする。余りにもゆっくりに進む中、周囲を見渡せば渋滞にイライラしている運転手を見る事ができるだろう。そんな中、自分だけが酷く恐怖していることに気がついた。確か、この車には認識災害に対抗するフィルターがフロントガラスに貼られてたはずだ。それがどれくらい効果を発揮してくれるかはわからないが、それに祈ることくらいしか今は出来なかった。或いは、心の何処かで何も起きていない、全ては自分の勘違いであった事を期待していた。

高速道路に入り、もう50分が経った気がする。目の前には、ひたすらに紫色の“何か”がいた。中央車線に横たわる、赤ん坊が粘土を握ったみたいな形の。周囲の車は減速はするものの、そのまま何かに突っ込んで行った。目の前の“何か”は多分、世界のバグか何かなのだと思うが、少なくとも周囲に同調してあいつに突っ込む選択は正しいとは思えなかった。危機感が強く芽生える。焦りが背中を焼く。思考が加速し、情報が氾濫するが何一つとして確かな結論は現れてくれない。

一つだけ確かなことはある。このままじゃマズい。

打開策が必要なのはわかるがどうすればいいんだ。頭を悩ませる間に、少しずつ車は前に進む。腹の底から恐怖が湧き上がる。腕が震える。アクセルを踏みたくない。進んだら。死んでしまう。

断頭台に向かう気分はこんな感じかな、とおちゃらけた考えが脳裏によぎり、思わず笑ってしまった。

なんだ、案外余裕があるじゃないか。


ポケットから飴玉をもう一度取り出し、口に含む。レモン味。嫌いじゃない。



奴をもう一度観察する。中央車線にグデっと存在しやがるアイツは横5mくらいだ。結構高い。フロントガラスからはみ出すくらいのでかさ。端っこの微妙にとられた路肩まで届いてはいない。なんとかしてそっちまで行くか?いや、無理だ。ただでさえ渋滞の密度だ。そもそも車線変更自体が不可能だ。やけにぼこぼこの表面が気持ち悪い。
観察するんだ。何か打開策は。

雨が降ってきた。空が暗い。勢いづいた雨は窓に斜めの後を残す。勘弁してくれよ。雨は嫌いだ。口の中に広がる柑橘系の清涼感のある香りと、ガラスに水滴が当たるコツコツという音がやけにミスマッチで脳内に鮮明に残った。

あ。

一つだけ、できるかもしれない。打開策が。これなら。




少しずつ近づいていく。もはや奴との距離はせいぜい3mくらいだ。やるんだ。握りしめた飴の包み紙を窓の外に落とすんだ。認識災害は目から来るものだ。そう思い込むことが大切なんだ。
大きく息を吸い込む。口の中がスース―するにつれて、冷静になれた。気がする。

窓を少しだけ開けて、すぐに飴の包装紙を垂直に、落とす。

僅かに、後ろへ落ちた。風が奴の方から流れている。もしかしたら、向こう側へ通じる穴があるかもしれない。賭けるしか、無い。

サイトから出発して70分になろうとした頃、遂に目の前の車が奴に突っ込んでいった。自分の番が来た。

できるだけ大きめの穴へ突っ込む。曲がりくねった体内を進む、進む。サイトから出る時の小道を思い出しながら、できるだけぶつからないようにしながら。

1分?1時間?1日?時間間隔が徐々にあいまいになっていく。集中力が高まっていく。右へ左へ、直観と技術に任せ、向こう側へ。向こうへ、向こうへ。

周囲が静かになっていく。ただ目の前に壁と道があった。次に光が見えた時、緊張が一気に途切れた。時計は、奴の内側に潜り込んでいた時間が僅か1分にも届かないことを示していた。
張り詰めた糸が切れ、大きく息を吐いた。そして吐き出した空気を取り戻すように息を吸い込んだ。甘ったるいレモンの香りがした。




そして、安堵は一瞬で途切れた。




目の前の車が一台もいない異様な高速道路に驚いた次の瞬間、サイドミラーに揺らめく何かが写った。

奴は、通り抜けた車へどんどん迫ってきた。その巨体に反して動作は素早く、すぐさま追いつかれそうになる。

アクセルを深く、深く踏み込んだ。


スピードを緩めたら死ぬ気がする。その予感が強く頭を支配していた。メーターは既に200km/hを振り切っていた。サイドミラーから奴の姿が消えない。その事実だけでもより深くアクセルを踏む理由になる。もっと、もっと速く。

街路樹が一瞬で横へ流れていく。雨がほぼ真横の跡を残している。

カーブが来た。曲がる。曲がる。ハンドルをどっちに切ったかすらわからない。しかし、どこにもぶつかることは無かった。

料金所のバーを突っ切り、すぐにサイトへ向かう道に乗る。回り道なんてしてる暇はない。最短距離でサイト前の小道へ行く。


250km/hを超えた頃、奴との距離が少しづつ離れていったことがかすかに分かった。今は奴の姿は見えない。しかし、だからと言って油断できるほどの余裕があるわけじゃない。人が殆ど通ることのない道を通りながらスピードを維持する。サイト近辺の林道を通り抜け、小道へ入る。サイドミラーにはいまだ健在な奴の姿がかすかに写っていた。

人を撒くためにある、この複雑すぎる小道は一定の道順を守らなければ突破できない。普段はセキュリティのためだとため息をつきながら走っていたが今はそんなことも言ってられない。軽くぶつかる程度じゃ気にしない。とにかく早く、早くサイトへ。

距離がどんどん詰まっていく。右。奴は体をグネグネとくねらせながら迫ってくる。左。あと3回曲がればサイトだ。直進。もう後ろを確認する余裕もない。右。はやく。右。はやく。左。はやく。みぎ。

最後の直線。

天井が紫色に染まった。

やばい。追いつかれた。早くはやくはやく

とにかくアクセルを踏み込み、そのまま…







結論から言えば助かった、のだと思う。あの小道を作り出していた塀にはいくつか兵器が仕掛けられていたらしく、奴が私が運転する車に追いついたころにはほぼ全部が凍っていた。
そんなことを知る由もない私は最後の直線で全力でアクセルを踏み込み、サイトの建物へ突っ込んだ。サイトは頑丈にできており、そちらにはいくつか擦り傷のようなものがついた程度で済んだ。

財団の技術は優秀らしい。車のエアバッグは多分300km/hを超えた私の体をほぼ完全にガードした。骨折やら裂傷やらいろいろはあったが、おおむね無傷だ。奴は私がサイトに突っ込むと同時に出動した機動部隊によって収容された。

犠牲者の集計やら、記憶処理が必要な人数やら、壊れた料金所のバーの弁償代やら、大きすぎる代償が最後に残った。

そんなことをまだ知らないエアバックに埋もれた自分は徐々に薄れていく意識の中で安堵が心の底から湧き上がることを実感していた。

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