
座席越しに伝わる電車の揺れが、朝倉の体を軽く揺らす。平日のこの時間帯は乗客が少ない。空いた座席の方が多いほどだった。冷房の効いた車内はいささか寒い。先輩がいたらきっと、羽織物を欲しがったことだろう。
向かいの車窓からは鋭い光が差し込んで、目の前の座席を照らしている。茹だるほど暑い外の空気を予感させる、四角く落ちた光の形。線路沿いに生い茂る雑草の鮮烈な緑と、彩度の乏しい住宅街の灰色が、眩い窓の中に現れては消える。
朝倉は車窓の景色から視線を逸らした。眩しすぎて目が痛む。なんとなしに、胸元からくたびれた財布を取り出す。
偽名の身分証やら免許証やらが混じるカードポケットの中に、古びたレシートが一枚。久々に、それを抜き出してみる。ポケットからはみ出している一辺だけが、薄汚れて皺がついていた。
裏返す。薄れた印字面の裏には、雑な字で「誕プレ」とだけ書かれている。崩れすぎてもはや別の記号に見えるほどの言偏の形も全て、わざわざ見るまでもなく覚えていた。
電車がトンネルを通過する。眩しかった車窓は一転して暗くなり、去年よりも少し痩せた朝倉の姿を鏡のように映した。
初めて先輩がイクラのおにぎりをくれたのは、初任務を終えた日の深夜の休憩室だった。
任務の緊張感が未だに体から抜けきらず、眠ることができなかった。少し散歩でもして落ち着こうと寮の自室から抜け出して、ふらふらと歩き回り、3階の休憩室に行き着いた。隅の椅子に座ると、窓の外の別棟の明かりがよく見えた。星も月も見えない夜の闇の中で煌々と輝く、蛍光灯の白。こんな時間にも仕事をし続けている職員たちのことを思うと、尚のこと自分が情けなく思えてきて、朝倉は目を背けるように項垂れた。
目を瞑る。──嫌な記憶ばかりが鮮明に浮かぶ。びくり、と手が震えた。
「朝倉さん。……隣、いい?」
唐突に、上から女性の声が降ってきた。聞き覚えのある声だった。顔を上げる。
「……夕凪、先輩」
「よかった、名前覚えててくれてたんだ」
ビニール袋を持った先輩は、安心したようににっこりと笑って、隣の椅子に腰掛けた。
部隊は違うが、この先輩のことを覚えているのは当然だった。機動部隊には女性が少ないから、目立つのだ。同性が少ない環境だからこそ、顔合わせの時から面倒見が良さそうな印象を受けた夕凪が頼もしく見え、かつ印象に残っていた。
「初任務だったんだってね? お疲れ様」
「いや、その、……全然、動けなくて。足手纏い、でした」
口に出すだけで、指先が震えた。
またも乱れそうになる呼吸を、必死に抑えこむ。心臓に絡みつく恐怖がまだ生々しかった。背を丸め、膝の上で拳を握る。
──まだらに消失していく床や壁。
──奇怪に変形した家具や柱。
全てのものが悪夢のように歪んでいて、なおかつ朝倉たちに敵意を向けていた。
否、あれに敵意があったのかはわからない。そもそも知性があるのかさえ不明だ。けれどもあれが排他的で、回収部隊を脅かす性質を有していたのは確かだった。あの時、目に見えない「破壊」そのものの手触りが、朝倉の体のすぐ横を突き抜けた。一瞬の静寂の後の崩落音。背筋を這い上る寒気の中で、自分の死を幻視した。
「事前情報と、……全然、違くて。あんな現実改変現象、なんて……」
「聞いてるよ。……災難だったね。回収部隊が第二の異常性に見舞われるのは珍しくないけれど……初回にそれじゃあ、キツイよね」
ぽたり、と暖かなものが自分の手の甲に落ちる。一瞬の混乱の後に状況を理解して、狼狽える。
──こんなみっともないところを見せてどうする。
──先輩を困らせるだけなのに。
隣に座る先輩が、身じろぎをした気配を感じた。
「……別に、遠慮しないでいいんだよ。私も入りたての頃は先輩に支えてもらったし……言いたいことがあるなら、言っちゃいな。オフレコってことにしとくからさ」
そうは言われても、泣き顔を見せるわけにもいかず、俯いたまま口を開く。
「……どうして、エージェントにスカウトされちゃったんでしょう。全然、向いてなかったんですよ、私には。……お荷物にしか、なれませんでした」
しゃくりあげそうになる息を堪えて、言葉を吐き出していく。
実際には、スカウトの理由については、就職後に多少は教えてもらえていた。インターハイに出場したこともある柔道の戦績と、いつの間にか測られていたらしい人格適正指数なるものの総合成績から、財団のエージェントに相応しいと判断されたらしい。
スカウトを受けた後は、すぐに訓練施設に放り込まれ、銃火器の取り扱い等々を叩き込まれた。けれども異常に関する情報は機密の問題からか、座学は極度に抽象化・一般化されたものも多く、自分が対峙する異常が具体的にどのようなものかをイメージすることができていなかった。
それで、今日のあのザマだ。
あの瞬間の自分は、混乱と恐怖で、危険な異常を前に棒立ちになってしまった。隊長の一喝がなければ、自分はきっとあの場で死んでいただろうと思う。
曲がりなりにも格闘技でそれなりの戦績を修めていたから、自分は「優秀な新人」なのだと勘違いしてしまっていた。審判のいる試合と、実戦で命を晒すことの違いを理解していなかった。──極限状態でもきちんと動けるはずだと思っていた自分が愚かだった。
「……最初はみんな、そういうものだよ。無傷で帰ってきただけで偉いもんさ」
痙攣するような呼吸のせいで、うまく返事ができなかった。ちゃんと聞いていることを伝えるために、こくこくと大きく頷く。
躊躇うような沈黙のあと、暖かな手が背に添えられた。その手の優しさが無性に苦しくて、情けなくてたまらなくなる。遠慮するような力加減で、何度も背中を上下するように手が撫でた。
「これは私の勝手な意見だけどね、朝倉さんはきっと優秀な隊員になれるよ。資質がある。羨ましいくらいに。──だから、自信持って、大丈夫」
ただのお世辞には聞こえない響きがあった。まともに声が出せなくて、その言葉の意味を問う代わりにまた頷く。夕凪がどうして自分のことをそこまで評価してくれているのか、わからなかったけれど。
時間にしてみれば数分のことだっただろう。けれども、今日の任務と同じほどに長く感じる時間だった。ようやく朝倉の息の震えが治まってくると、暖かな余韻を残して手が離れていった。
「……もしお腹に余裕があったらさ、私の夜食に付き合ってくれないかな」
がさり、とビニール袋を漁る音。目の前の小さなテーブルに、取り出されたペットボトルとおにぎりが二つずつ置かれる。おそらく、敷地内のコンビニのものだ。最初から、朝倉と食べるために買ってきてくれたのだろう。
「水と麦茶、どっちがいい?」
「……じゃあ、麦茶を」
受け取ったペットボトルは表面が濡れていて、若干ぬるくなっていた。
おにぎりは両方とも同じ「イクラ」だった。黒地のパッケージは、いつもの百円のコンビニおにぎりよりも少しだけ高級感がある。朝倉が見ている前で、夕凪はすぐにパッケージを無造作に破っておにぎりを頬張った。それに続くように、朝倉も包みを破る。
「……なんかさ、イクラって食べると、ちょっと贅沢な気分になれるじゃん。コンビニのおにぎりの中でもお高めな方で、こう、特別感? があって」
夕凪の言葉に頷いて、一口、おにぎりを齧る。口の中に広がる米の感触で、自分は腹が空いていたらしいと気がついた。最後に食事をしたのは任務前だから、空腹なのは当然だ。
そんなことにさえ、今まで気づけていなかった。
「こういう日々のささやかな幸せを忘れないでいることが、この仕事で正気を保つ秘訣だと思っているんだよね」
口の中で潰れるイクラの感触。塩気の効いた味が口内に満ちる。
「まあ別に、君がイクラアンチなら別のを選んでくれていいんだけどさ。好きなものをちゃんと美味しく感じられているかってのが、結構メンタルのバロメータになるものなんだよ。冗談じゃなく」
最後の一口を食べ終えた夕凪は、穏やかな顔で言った。
「だからさ、忙しい時ほど、ちょっと贅沢めな好物を食べるといいよ。これ、先輩からのアドバイスね」
「お疲れ様です」
「お疲れ様!」
プラスチックのコップの中にお冷を注いで、乾杯。コップの中で氷が揺れて、からん、と音を立てる。ただの氷水なのに、訓練後の乾いた喉にはたまらなく美味しく感じられる。最近は日が長くなったけれど、窓の外はもう、日が沈んで暗くなっていた。
夕凪と並んで座っているカウンター席の前を、レーンに乗った寿司が流れていく。ちょうどよく現れたイクラの皿を手に取って、夕凪の前に置く。一瞬、彼女は驚いたように目を見開いて、すぐに小さく笑った。
「好物、覚えててくれてたんだ」
「忘れませんよ」
「そっか。……嬉しいなあ」
夕凪が照れくさそうに笑う。
この職場で一番、大好きな先輩。もし叶うならば、同じ部隊に配属されたかった。あの時気にかけてくれたから、だけではない。同じサイトにいる都合上、訓練などで顔を合わせる機会が多いけれど、質問すれば誰よりも丁寧に答えてくれた。射撃が苦手だと相談すれば、つきっきりで訓練に付き合ってもくれた。憧れないわけがない。自分の部隊の隊長には申し訳ないけれど、一番尊敬している先輩は夕凪だった。
続いて流れてきたマグロとサーモンも机に並べ、醤油皿を二つ用意する。
「訓練、辛くない? 体壊したら元も子もないから、無理は禁物だよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。実戦の怖さを考えれば全然ですし、訓練自体なら、部活の合宿の方がよっぽど大変だったので」
「それなら、いいんだけど」
夕凪がイクラを一貫、頬張る。朝倉も醤油をつけたサーモンを口に含んだ。緊張のせいか、あまり、味がしない。早く本題に入らなければ。
「……ところで、ちょっと、相談があるんですけど」
「うん? 私が手伝えそうなこと?」
何となく、目を合わせにくくて、朝倉は皿に視線を落としたまま歯切れ悪く言った。
「少し先のことなんですけど……お盆って、機動部隊でも休めますかね」
アノマリーに祝日はない。あれらは休日も平日も関係なく人々を脅かす。だから機動部隊も、正月だろうがお盆だろうが常に動ける状態でなければならない。入りたての新人がその時期に休みを要求するのは憚られたが、別の部隊の夕凪になら、多少は相談しやすかった。
「父に、今年は日程を合わせてお盆を祖父母の実家で過ごさないかって誘われまして。上京してからは、ああ、家族相手には、自衛隊所属ってことにしているんですけど。大学進学で上京してから、もう何年も祖父母に会えていないので、──その、もし可能なら、って」
沈黙。続きを促されているのか、それとも。
「母にも『お前は顔覚えが悪いから、そろそろ顔を合わせないと私たちまで忘れられちゃう』なんて言われてしまっていて……そこまで親不孝者じゃないつもりなんですけど」
怖々、横目で夕凪の顔を盗み見る。「弛んでいる」と叱られそうな気配はない。いつもよりも、表情の薄い顔。そこに一瞬だけ、怒りとも違う引き攣るような何かが見えた気がしたけれど、多分、気のせいだろう。
「──朝倉さんは、家族と仲良いんだ?」
「はい。……その、つもりです」
「いいことだね」
考え込むように、カウンターの上の一点をじっと見ている。
「うん。──今からなら、調整すれば、なんとかなると思う。早めに言ってくれてよかった。帰省したい日程、後で送って。知り合いたちにも相談しとくから」
「えっと、いや、その、……そこまで先輩に手間をかけさせてしまうのは、」
「大丈夫。私も、親孝行は大事だと思うから。家族は大事にするべきだよ」
「なら、……よろしく、お願いします」
皿の上に残る、もう一貫のサーモンを食べる。先ほどよりも美味しい。胸のつかえが取れるだけで、こうも味が変わるものなのか。やっぱり、先輩の言うことは正しい。
「すみません、今日は私の奢りにしますね」
「いや、そこは先輩の私に奢らせてよ」
「……じゃあ、割り勘で」
結局いつものパターンに落ち着いてしまい、夕凪と顔を見合わせて笑った。
──あ、まただ。
片足にかけられた重心。扉の方へと向く爪先。顔色も口調も変わらないが、夕凪の姿勢は「早く話を切り上げたい」と言っていた。冷たいものが胸の内に広がっていく。
「……すみません、用事を思い出しました。では、また」
朝倉がそう言えば、夕凪は「そう?」と頷いた。何気ない足取りに見えるように背を向けて、逃げるように休憩室を離れる。
いつからか、夕凪は朝倉を避けるようになっていた。
これを「避ける」と言うのかはわからない。便宜上、その言葉で認識しているだけだ。別に、面と向かって悪く言われたわけでもないし、顔を合わせた瞬間に逃げられるような、露骨な避け方をされているわけでもない。
けれども、休憩室や廊下で立ち話をしている時などに、半身や足先が外側に向くようになった。まるで、その話を切り上げたいとでも言うように。言葉にされていなくても、姿勢から滲み出るものはある。口調、声色、それらに滲む違和感。
先日、人員調整で機動部隊の大規模な配属替えがあった。ようやく夕凪と同じ部隊に入れた矢先にこれだ。
鬱陶しがられてしまったのだろうか、と思った。先輩にしてみれば、妙な新人にまとわりつかれて迷惑だったのかもしれない。夕凪と同じ部隊に異動した後に、浮かれすぎたのが悪かったか。
──距離の詰め方、間違えたかな。
何が悪かったのだろうかと、過去の行動を振り返る。食堂での昼食に誘うのが頻繁すぎたのか、この前の回転寿司での相談が悪かったのか。あるいは、メールの返信が早すぎて気味悪がられたのか。
訓練生時代からの友人にも相談したが、「あんなに可愛がられてるのに何言ってんだ?」「勘違いだろ」という言葉が返ってくるばかりで、まともに取り合ってすらもらえなかった。
ここは人々を異常から守るための組織だし、自分はそのために全てを捧げると誓った。家族や友人にも何も話せない守秘義務。殉職したとしても、正しい死因は伝えてもらえない。正しい日常は遠くなり、日に日に、奇怪な非日常へと染まっていく実感。それだけの意義のある仕事だと思っているから、それらを全て受け入れた。
まだ新米の隊員だけれども、生半可な覚悟でここにいるわけではない自負はある。些細な人間関係の違和感にばかり悩み続けているわけにはいかないこともわかっている。
──それでも、
数少ない、「異常」という秘密を共有できる相手である仲間とすらうまくやれていないことの、なんと心細いことか。
──「朝倉さんはきっと優秀な隊員になれるよ」
あの夜にもらった言葉に、どれほど慰められただろう。──なのに今は、一番仲良くしていたかったあの人に避けられてしまっている。
その日は曇天だった。雲の厚さを思わせるような、濃い灰色が空を覆っていた。
薄暗い路地裏で、夕凪と二人きり。薄汚れたエアコンの室外機が一つ、生暖かい風を送り出している。その近くには空き缶が転がっていた。染みのついたコンクリートの壁が視界を圧迫している。この狭さでは横に並ぶと動きにくいので、自然と前後の配置になっていた。
「朝倉さん、ここにいると思う?」
「……人気ひとけのない場所を好むにしても、ここは逆に人が通らなすぎる気がします。獲物が少なすぎて、多分、狩場にならないのではないかと」
「やっぱり、そう思うよね」
軽く羽織った上着の下で、ホルスターの中の拳銃SFP9が鉄の重さを主張している。引き金ひとつで人を殺せてしまう武器。夕凪ほどに使いこなせているわけではないが、この武器の力は信頼していた。
──「また、力みすぎてる。呼吸、意識して」
訓練に付き合ってもらったあの日は、横から朝倉の射撃姿勢を観察しながら、的確な指示をしてくれた。あの時は距離を置かれる前だったから、肘や手首に直接触れて角度の微調整をしてくれたのを覚えている。今頼んだら、どうなるだろう。触れずに口頭での指示と見本だけで済ませるだろうか。それとも、指導自体を断られるか。そうであるならば、寂しい。
しばらく二人でこの路地裏一帯を練り歩いてから、夕凪が首を横に振った。またも空振りらしい。イヤホンからもまだ、対象発見の報は届いていないかった。
今回の捜索対象となっているアノマリーは、いまだに正体が掴みきれていない。朝倉たちに渡された情報はわずかなものだった。犠牲者の遺体に残った歯形が大型動物のものに類似していること、そしてその犠牲者の分布が広範囲であるということ。主にはその二つだけ。
「大型動物系のアノマリーのようなのに、どうやって監視カメラを掻い潜っているんでしょう。瞬間移動等の監視システムにも引っかかってないようですし……」
「異常性にも、色々種類があるからね。透明になれるものとか、画像・映像メディアに対するミーム的迷彩効果とかなら、報告書で読んだことがあるよ。……でも、アノマリーに先入観を持つべきではないかな。予想というものは大抵、足枷になる」
対象の潜伏場所を絞りきることができず、財団は人海戦術を強いられた。今日、複数の機動部隊が動員され、私服の下に最低限の装備をして住宅地やショッピングモール等の各所に送り込まれているのは、そういう経緯だ。
朝倉は夕凪との二人行動だった。
これはチャンスだ、と思った。自分が何をしてしまったのかはまだわからないけれど、この任務を完璧にこなせば、夕凪からの信頼を取り戻せるかもしれない。そう思うと、いつも以上に気も引き締まった。
──任務後なら、お礼、言えるかな。
昨日の昼頃、休憩室の椅子で仮眠をとっていた。さほど長い時間眠っていたわけではないはずだったが、目が覚めた時には、椅子の前の机にビニール袋が置かれていた。袋の中身はぬるい麦茶と見覚えのあるパッケージのイクラのおにぎり。裏面に「誕プレ」と崩れた字で書かれたレシートが、ビニール袋越しにペットボトルを重しにして置かれていた。
夕凪の筆跡は知っているから、これは先輩からの贈り物で間違いない。けれど、そこに署名がないのが気に掛かった。自分が置いたのだと知られたくないのかもしれない。それが何故かはわからないけれど、避けられている理由と関係している気がした。
──もしかすると、そんなに嫌われてたわけじゃないのかな。
レシートにボールペンで書かれた字を眺めながら、妙な気分になったのを覚えている。今まで自分が感じてきた違和感は、全部勘違いだったのではないかと。本当は避けられてすらいなくて、また、休日に食事に誘ってもいいのかもしれない。
まあ、どうであるにせよ、それを確認するのは任務の後だ。今は仕事に集中しなければ。
「……次は、モールの駐車場だね」
夕凪の言葉に、朝倉は短く頷いた。念の為、片手で端末を操作し、昨日配布された地図を表示する。
「機動部隊、続けるの?」
前を歩き始めた夕凪の唐突な言葉に、戸惑う。前方を向いている夕凪の顔は、見えない。
「初任務の時は辛そうだったけれど、最近はどう?」
「もう、大丈夫です。前よりは動けるようになりましたし、……少しは、お役に立てていると思うのですけれど」
「そっか。私も、頼もしい後輩だと思っているよ。──でも、いつ抜けたって、誰も責めないからね。ここは過酷だし、何かあったら……」
その途中で、夕凪は口をつぐむ。
案じてくれている。ああ、優しい先輩じゃないか。何を緊張しているんだ、自分は。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、覚悟の上でここに立ってますから。誰かがしなければならないことがあって、私にそれができるのならば、全うしたいと思っています」
「そう。……出過ぎたこと言っちゃって、ごめんね」
背の高い建物の隙間を抜けて、大通りに出る。目的地の建物がすぐに目に入った。モールの自動ドアをくぐれば、賑やかな店内BGMが出迎える。まだ残暑が厳しいから、店内の冷房が気持ち良い。今日のような、装備を隠すために上着を羽織らねばならない日は特に。冷えた空気が汗で蒸れた背中を撫でていく。
きらびやかな店の間を通り抜け、駐車場へ通じる階段に差し掛かれば、店内のBGMが一気に遠くなった。人々の喧騒から、薄皮一枚隔てた場所。まるで正常からヴェールで隔たれた財団そのものの立ち位置のようだ。部隊に入りたての頃は異常と関わる機会の方が非日常に見えていたけれど、最近は、自分もこちら側の人間なのだという自覚が芽生え始めていた。
このモールは縦には薄く、平面方向に広い。1・2階に店が詰め込まれており、3階と屋上は広い駐車場となっている。3階の薄暗い駐車場に足を踏み入れれば、一面、ほぼ満席に近いほどに車が停められているのがすぐに見えた。さすがは休日の昼間だ。おかげで見通しが悪い。
「……ここ、いるかもね」
夕凪が無声音で囁く。途端に、朝倉の背筋に緊張が走った。夕凪の勘はよく当たる。音を立てて唾を飲み下した。足元を見る。靴紐に緩みはない。ホルスターの中の拳銃をいつでも抜けるように、上着をはだける。
足音を忍ばせて歩く。不自然でない程度に、しかし隙はなく。この車の群れの中ならば、野犬以上の大型の生き物も容易に隠れることができるだろう。方々に素早く視線を走らせながら、一歩、一歩、進んでいく。
暑さのせいではない汗が滲む。財団謹製の防刃素材の服の下で、臨戦態勢に入った体が熱を帯びる。
──遠く、視線の先で、車の影がどろりと歪んだ気がした。
次の瞬間、予想外の方向から衝撃を受けて体が大きく泳ぐ。たたらを踏んだ体を支える、自分よりも一回り細い体。一拍遅れて、夕凪に柱の後ろに引き摺り込まれたのだと理解した。
──あれがアノマリーだったのか。
もう、わざわざ柱の影からアノマリーを直接見ようとするような愚を犯す新人ではない。ホルスターから拳銃を取り出そうとして、──その腕を夕凪に掴まれる。
【一般人を回収して】
夕凪のハンドサインは、いつものようにはっきりとしていて読み取りやすい。
【どこ?】
指し示された先を見れば、波のように連なる乗用車の隙間に一人の女性が見えた。彼女の背後には朝倉たちが上がってきたものとは別の階段がある。買い物を終え、これから帰宅するところなのだろう。何て、間の悪い。
一般人の目の前での交戦は避けるべきだ。しかし、アノマリーは彼女の動線上にいる。次の犠牲者になってしまうかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いだろう。上からの通達では、今回は「確保」は努力目標で、一般人への被害を抑えることを最優先せよと伝えられている。
ゆっくりと、しかし確実に、彼女はアノマリーへ接近している。猶予はない。
今、あの人が食い殺されてもおかしくはない。
【先輩は?】
【足止めをする】
反論はできない。人型でないアノマリー相手では、自分の柔道の能はあまり役に立たない。この場で戦力になるのは明らかに夕凪の方だった。
夕凪はさらにいくつかの場所を指す。
【あっち側から回り込んで。私が囮になる。その間に回収】
続いて、【本部への連絡頼む】ともサインで伝えられる。夕凪はすでに右手に拳銃を構えていた。【了解】と答えたこの手は震えていなかったか。別れる前に何かを伝えようにも、ハンドサインは手話のように万能ではない。
【幸運を】
咄嗟に思いついて、人差し指と中指を重ねる。少し驚いたように目を瞬かせた夕凪は、すぐに親指を立てて答えた。機動部隊隊員の先輩としての揺るぎない風格。銃を構えたときの彼女の、怖いほど鋭い気配。朝倉より小柄でも、この人は経験あるベテランの戦闘員だ。
足音を忍ばせて、遠回りに女性の方へと向かう。姿勢は低く、極力車の群れの中に紛れるように。車の窓越しにアノマリーの場所を確認する。ちらりと垣間見えたその姿は、黒い煙のように揺らいで見えた。その輪郭の不確かさが、アノマリーであることを証明している。
背後で銃声が鳴り響いた。朝倉が充分に女性に接近したと判断したのだろう。アノマリーはその音に引き寄せられるように、見た目に似合わぬ速さで動き出した。
「──████ショッピングモール駐車場にてアノマリー発見。██部隊"ブラボー"が交戦中」
必要なことだけを端的に無線で伝えてから、女性の前に姿を見せる。彼女は夕凪の発砲音に驚いているようだった。刺激しないように、かつアノマリーに気づかれにくいように、極力声を抑えて話しかける。
「避難指示が出ています。ガス漏れだそうです。──ついてきてください!」
朝倉が再び駐車場へ戻った時には、全てが終わっていた。胴体を大きく抉られた遺体が倒れ伏し、その周りには赤黒い血溜まりが広がっていた。その全てにまたがるように、奇妙な形の焦げついたような染みが長く伸びていた。まるで上から黒いペンキをぶちまけたかのようだった。
足先が赤を踏むと、血溜まりの表面にさざなみが立った。
遠目から見ただけで、死んでいるとわかった。それほどの損傷具合だった。遺体の顔を見たくなくて、まともに息が吸えなかった。
この職場がどれほど危険かは知っていた。知り合いが死んだのも初めてではない。けれど、同じ部隊の人間が死んだのは初めてだった。
身寄りのなかった夕凪は、財団の手で葬られた。葬儀についての連絡を受けるまで、夕凪の両親が既に亡くなっていることすら知らなかった。もしかしたら夕凪は身内をアノマリーに奪われたから財団に来たのかもしれない、と今更ながらに思う。研修生時代、同期にそういったアノマリー災害の孤児出身の研修生がいたことが思い出された。
──「家族は大事にするべきだよ」
自分は先輩に、なんてことを言わせてしまったのだろう。
数日間の休暇を挟んで、朝倉の所属する機動部隊も元のルーティンへと戻った。日によって変わる訓練内容、幾らかの事務作業、そして不定期に挟まる任務。
朝倉も同僚も、以前と同じ毎日を送っている。あの日から変わったのは、夕凪がいないという、ただ一点だけだ。
──あの時もっと、うまく動けていたら。
休憩室で暗い窓の外を眺めながら、コンビニで買ったおにぎりを食べる。小腹が空いた時にちょうどいいボリューム。味はもちろん、いつもと同じ。
──もっと早く駐車場へ戻っていたら、先輩は死ななかったかもしれない。
「誕プレ」と書かれたレシートは捨てられなかった。けれどもこのサイズの紙に適したファイルの持ち合わせがなく、他の保管方法の案も思いつかなかったので、財布のカードポケットに入れっぱなしにしている。
──避難場所の指示だけして、私も残れば良かった。
目を瞑れば、あの赤色の海が瞼の裏に蘇る。直視に耐えかねるほどだった、夕凪の遺体。相打ちだったようだが、夕凪が致命傷を与えてからアノマリーが死ぬまでに時間がかかったらしい。腕や足もずたずたに裂かれており、まともな部位を見つける方が難しいほどだった。
夕凪はきっと、生きたままあの苦痛を味わったのだろう。
遺体は酷い顔をしていた。遺体の瞼を閉じたときの、あの暖かさと柔らかさ。まるで、ヒューム値の低い場所にいるかのように現実感がなかった。
──私が代わりに、オブジェクトの足止めをすると言えば良かった。
──私が先輩の代わりに、
烏滸がましいことだ。それぐらいわかっている。「抜けても責めない」とまで言ってくれた人相手に、思うべきことじゃない。
おにぎりを頬張る。ぷつり、とイクラが舌の上で弾けて、口の中に塩気が広がる。
──お礼、言えなかった。
昔から、幽霊や魂の実在については信じていなかった。財団では霊的実体などという単語を耳にすることもあったが、それが果たして元の生者と同一の存在であるかについては、懐疑的な立場をとってきた。だから今更、夕凪の霊魂に対して祈ることは難しい。その存在を信じていないものに対して、どうして祈ることができるだろう。
墓の前で手を合わせてみても、胸の中に空虚なものが広がるだけだった。どうせ何を念じても届かない。
よく言われる言葉の一つに、「人は忘れられた時に二度目の死を迎える」と言うものがある。陳腐な言葉だ。
今まではこれも霊魂の存在と同じく、生者の自己満足だと思っていた。けれども、いざ、「残された者」と言う立場に立ってみると、すがることのできる言葉がこれしかないのだと思い知らされる。
最後の一口を飲み込んで、朝倉は椅子の背にもたれかかった。
恩を返す機会、感謝の言葉を伝える機会を、私は永遠に失った。右も左もわからなかった自分に、財団での歩き方を教えてくれた先輩。また食事に誘うつもりだった。一人前のエージェントになれたら、改めてお礼を言おうと思っていた。この仕事では薄皮一枚隔てた先に死があるものだと、知っていたはずなのに。
長く、息を吐く。肺の中に滞留する何かを吐き出すように。
──「忘れる」、か。
あの直後に、朝倉は自分の手であの民間人の女性の記憶処理を行った。今のあの人は、朝倉のことも先輩のことも覚えていない。平和で正常な日常生活に戻るためには不要な記憶なのだと、財団職員としてわかっている。
けれども、命懸けで助けた相手に忘れられるのは、あんまりではないか。
名誉もなく、社会での地位もなく、人々を守っているという誇りだけで続けている仕事だ。そう理解はしていても、いざ目にすれば、何も思わないではいられない。自分たちも保護したい市民たちと同じ、人間なのだから。
──せめて、自分だけは覚えていないと。
先輩のことを、二度も死なせたくはない。
死者と話せるオブジェクトの話がサイト内で噂になり始めたのは、冬が終わりを迎え始めた頃だった。この財団はありとあらゆる異常物体、異常現象を取り扱う。その中に死者や霊が関わるものがあることも知っていたから、驚くことではない。
けれども、そのオブジェクトの話を聞いた時、興味を惹かれずにはいられなかった。
一度だけ、任意の故人と再会できる。
特に代償も必要ないらしい。このオブジェクトが要求する条件は、呼び出せる相手は親しい人物に限られることと、同じ人を二度呼び出すことはできないということだけ。そんな都合の良い話があるか、と思った。だが、報告書を見る限りでは、現れるのは故人そのものであるらしい。故人しか知らないはずの情報までも、きちんと把握しているとのことだった。
もう一度先輩に会えるのならば、それが良くできた幻影だとしても良いと思ってしまった。
気づけば、実験への参加申請を書き始めていた。口実ならばあった。夕凪が殉職した回収作戦のこと。全く解析ができていないアノマリーのほぼ唯一の目撃者であり、かつ終了に成功した機動部隊隊員となれば、受理される可能性は十分にあるだろうと踏んだ。
その読みは当たった。
申請から一ヶ月も経たないうちに、そのオブジェクトの研究班からの簡素な返答が手元に届いた。朝倉と同じような実験への参加志望が殺到していたのか、実験の予定日は翌年の冬になってしまったが、不満はなかった。
──また、会える。
どんな顔をして会えばいいのかわからない。何故早く応援に来なかったのかと呪詛を吐かれるかもしれない。それが怖くないわけではない。
それでも、もう一度会いたかった。
あの葬儀で知った通り、夕凪は天涯孤独の身だ。自分が「たった一度の機会」を使っても、それを恨む彼女の親族はいない。実験における唯一の不安点は、朝倉自身が「親しい人物」であるかどうか──夕凪が呼びかけに応じてくれるか否かだが、もし来てくれなかったとしても、財団にとって一日分の実験機会を失うこと以外の損失はない。夕凪が現れないのであれば、それが先輩からの返答なのだと受け入れる覚悟はできている。
手帳の中の実験日に赤のボールペンで印をつけた。丁寧な文字で「夕凪先輩」と書いた。一ヶ月が、一週間が、一日が、研修生時代よりもよほど長く感じられた。先輩にもう一度会うまでは死ねないと、その言葉を胸に任務を駆け抜けた。雪が溶け、芽吹の季節が訪れ、上がり続ける気温に梅雨が追いついて、追い越して、折り返しの夏にたどり着いた。
あともう半分を耐え切れば会えるのだと自分に言い聞かせていた時、あのアノマリーの類似個体によるものと見られる被害報告が突然に相次いだ。
前回よりも高い頻度で犠牲者が出ていた。上層部は複数の個体が野に放たれていると判断した。朝倉の所属する機動部隊を含む対策班には、一刻も早い事態の収束が求められた。その一環で、朝倉の実験の日程が繰り上げられた。夕凪から得られるはずの情報は、今の対策班にとって喉から手が出るほど欲しいものだ。
だから今、朝倉は、この夏の夜空の下で踏切の前に立っている。
「──15分前です。朝倉隊員、準備はできていますか?」
無線機からのノイズ混じりの声に、「はい」と答える。心拍数が上がるのを感じた。
実験班が用意した照明は、死者が現れる予定の場所を照らしている。それが逆に周囲を深い闇の中に沈めていた。昼間の暑さと違って快適な、涼しい夜風。この深夜には蝉の声も鳴り止んでいて、言葉を交わすのに支障をきたすような他の音源もない。
腕時計の針を睨む。深夜二時まで残り13分。焦ったいほどにゆっくりと進む秒針を見つめる。一回転、二回転。見つめるほどに心拍数が上がり続けるのを自覚する。
──落ち着け、自分。この前の任務の方が、よっぽど危険だったじゃないか。
残り1分。自分の息の音が煩い。今更になって、夕凪と再会する事への恐怖が芽生え始める。何を言われるだろう。拒絶されるだろうか。罵倒されるだろうか。私が置いていったから、先輩は一人で死んだのに。
秒針が12を指す。祈るように両手の指を組んで、手順通りに夕凪との再会を強く念じる。先輩、どうか。どうか来てください。今更になって噴出した恐怖を抑え込み、祈るように一心に念じる。何に祈っているのかわからない。お願いします、どうか、もう一度だけ。
お礼を、謝罪を、させてください。
遮断機の降りる音が聞こえた。続いて、遠くから、鉄道車輌の接近音。自分の心拍が乱れ飛ぶのを感じる。
──来て、くれたんだ。
目を開けてはならないと、再三注意されている。だから首を垂れ、目を一層強く瞑った。車輌の音が大きくなっていく。頬を打つ風。レールの上を走る車輌の轟音。呼吸を止めた朝倉の前を鉄道車輌が通過する。
成功。
車輌の音が聞こえなくなるまで、目を開けられなくなることは知っている。車輌の音が遠ざかっていく中で、朝倉はつめていた息を吐き出した。深い息と共に一つの緊張が解けていき、別の緊張が足元から這い上がってくる。自分はこれから、先輩相手に対話をしなければならない。
実験の担当者から、時間の制限についても聞いていた。前回の出現では6分間だったらしい。自分に許されている時間は、それだけ。無駄に使える時間はない。悠長に私語を交わす余裕はないことは、重々承知している。
小さくなっていった車輌の音が、完全に消える。組んでいた手を下ろす。ちゃんと向き合わなければならない。この機会を無駄にしてはならない。ゆっくりと首をあげて、瞼を開く。一瞬だけぼやけた視界が、すぐに踏切の向こうへと焦点を合わせる。
青白い照明の中。見間違いようのない、かつてと全く同じ立ち姿で先輩が佇んでいた。
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「──あの、」
うまく声が出ない。みっともなく上擦った声が遮断機の上を飛んでいく。
「先輩、お久しぶりです。すみません。先輩が終了したアノマリーについての情報を聞きたくて、お呼びしました」
「わかってるよ」
想像していたような刺々しさはない。距離のせいで表情は読みにくいが、憎悪や怒りは見つけられなかった。あの時のままの柔らかな声で、夕凪は言葉を続ける。
「私が殉職した、あの作戦の時の話だよね。時間が限られているんでしょう? 私が知っていることについて話そう。推測も混じっているから、そこんとこは注意してほしいとも伝えてね」
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それは処刑台までのカウントダウンだった。
財団内のデータベースを自由に泳げる幽霊として、朝倉が頼ろうとしているアノマリーの全情報を閲覧することができた。それは自身の情報を歪め、擬態する性質があるようだったが、情報の異常への完全な耐性を有する幽霊の目からは、その真の姿──呼び出された故人を捕食する怪物の姿がおぞましいほどによく見えた。
呼び出されれば、間違いなく、死ぬ。
一度目の死は、見えてから襲いかかるまでが一瞬だった。衝動的な感情の中で覚悟を決めることができた。今回は違う。遥か遠くの地平線から、ゆっくりと自分を絞め殺しに這い寄ってくる怪物を見守るようなものだ。ようやく形になってきた自我戦闘訓練にも、精神の乱れのせいで悪影響が出始めていた。
──またしても私の場所を奪うのか。
ようやく、この新しい機動部隊として誇りを持って活動できるようになったのに。
どうするべきか迷った。強引な手段を用いれば、実験を阻害することもできるかもしれない。今の自分は生者とコミュニケーションを取ることができないが、逆に考えれば、コミュニケーションを阻害する反ミーム的健忘作用自体は「使える」。
だが、この実験を受け入れれば、最も大きな未練である「アノマリー情報の報告」が達成される。この情報は、死者が持っていても意味がない。生きた戦闘員たちでなければ、あの怪物を殺すことも収容することもできないのだから。
迷っている間にも時間は単調に進んだ。セキュリティカメラ映像の中の人間たちの装いが変わっていく中で、夕凪の中の判断の天秤は揺れ続けた。
事態が動いたのは梅雨明けだった。夕凪が相打ちになった怪物と同種と思われるアノマリーが、またも正常な社会に牙を向いた。
天秤は情報の伝達に傾いた。
自分のようにアノマリーに苦しめられる人間を一人でも減らすこと。それが私の原点だったはずだ。
不可視の霊の目が見守る中で、端末の時刻表示がAM2:00に切り替わる。体がどこかに引き寄せられる、気持ちの悪い感触。
捻れた視界が、暗い夜道に切り替わる。目の前を車輌が通過していく轟音。久しく感じていなかった、肉の体の感触と重力。息を吸えば、夏の草木の匂いが鼻の中に充満する。生きている。これが束の間のものだと分かってはいるけれど。
車輌が踏切を通り過ぎて、視界が一気に広がる。こちらに向けられた照明が少し眩しい。目を細めて、踏切の向こうを見る。
あの頃よりも少し痩せた朝倉が立っている。
予想に反して、自分の表情筋は能面のように動かなかった。
硬直状態が解けたのか、朝倉が身じろぎする。祈るような姿勢を崩して、こちらを見る。
「──あの、……先輩、お久しぶりです。すみません」
セキュリティカメラ映像越しに見るのと、実際に対面するのとでは、雲泥の差がある。直に聞く一年ぶりの朝倉の声が、あの頃の自分の感情を無慈悲に掘り起こす。息苦しい。
「わかってるよ」
胸の内に湧き上がり始めた痛みを押し殺して、答える。時間がない。あれが来るまでに、必要な情報を伝えなければ。
この距離でも拾い落とすことなく聞こえるように、意識して声を張って、事前に何度も考えていた順番で話す。目で見た事実と推測をしっかりと切り分け、金の山よりも貴重な時間を少しでも有用なものとするように。
朝倉は泣きそうなほどに顔を歪めて、時折頷きながら夕凪の話を聞いた。
これはけじめだ。財団職員として時間稼ぎに徹し切れなかったことへの。この後輩に対する感情は、今は無視しよう。
夕凪が語り終えるのと、背後からそれがやって来る音が聞こえたのがほぼ同時だった。
「先輩、……私、あの時──」
最初は末端。指の先が食いちぎられる。朝倉が何を言っているのかうまく聞こえない。失って久しいはずの重い肉の体が激痛を訴える。生暖かい血がだらだらと流れ落ちていくのを感じた。これも錯覚なのか、それとも自分の魂にはまだ実体のようなものが残されていたのか。銃を握るためのものだったはずの手が無惨に壊されていく。
朝倉の顔を見る。何度も、自分の部隊からいなくなって欲しいと思った後輩の顔。自覚なく私を死地に導いた後輩。
恨み節を吐きたかった。
──呪って、どうする。
その言葉に意味はない。言ったところで、何も得られない。今まで辛うじて持ち堪え続けてきた、最後の誇りを失うだけだ。何のために今までその澱を飲み込み続けて来たか忘れたか。
上腕に牙が食い込む。痛みが思考を鈍らせる。食いしばった奥歯が割れる音。朝倉は返答を待つように、祈るような顔でこちらを見つめている。血と共に噴き上がって暴れ回る嫉妬。劣等感。情。怒り。──苛立ち。
もし、「機動部隊を辞めろ」と言ったなら。この子にはまだ家族がいる。もっと危険の少ないフロント企業のフィールドエージェントに、あるいは正常な社会へ戻ってくれるだろうか。
骨の砕ける音。咀嚼音。食いちぎられた片腕の断面から、勢いよく血液が噴き出す。痛い。思考が白く飛びかける。その間に聞こえる、朝倉の声。何が言えばいい。何を伝えれば。この命を投げ出して得た最後の対話の機会に、何を。
混乱。逡巡。混濁。
──「夕凪さん、君は早く機動部隊を辞めるべきだ。この職場は女性には向いてない」
──「でも、いつ抜けたって、誰も責めないからね。ここは過酷だし、何かあったら……」──ただ、同じ一人の隊員として見られたかった。
そうだ、私はずっとそれを求めていたのに────
聞くべきことは全て聞けたはずだった。時間に勝てたのだ。
──言える。
「お迎えの子」に連れ去られる前にと、急いで口を開いた。今までのお礼と、あの任務で先輩を置いていったことへの謝罪。誕生日プレゼントのこと。今までの事務的な会話と違い、言いたいことが次から次へと湧き上がり、言葉が脈絡なく口から溢れ出す。
「──私、ずっと、先輩のことを尊敬していました。先輩のような隊員になりたくて、……なりた、かったのに、」
私が生きている限り、先輩が二度目の死を迎えることはないだろう。そう実感した。私はきっと、死ぬまで先輩のことを忘れないから。忘れられるはずがない。
小さな子供に手を引かれている夕凪は、子供に応じず、その場に立ったままじっと朝倉の方を見ていた。何も言わずに、昔のような透き通った目で。
「先輩、ごめんなさい、──私が先輩の代わりに、」
夕凪が到達に口を開いた。
「それは言っちゃだめだよ。私は君を恨んでいない。指示したのは私だし、あの場では私が責任者だった。だから自分を責めなくていい」
夕凪の手を引く子供が増える。
「死者を想ってくれるのは嬉しい。けれど、引きずることに意味はない。君は過去ではなく、今と未来にいる守るべき人々を見るべきだ」
真っ直ぐにこちらを見据えている強い瞳は、自分が憧れた先輩そのものだった。
「君はもう、機動部隊の隊員なんだから。私の代わりに暗闇で戦い続けて。それが、生き残った隊員の使命でしょう。──じゃあね、朝倉さん」
その言葉を最後に、夕凪は子供達と共に歩き出した。何度呼びかけても、彼女が振り向くことはなかった。