どこにでも落ちてるただの石
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彼女は夜、車を走らせ家に帰ろうとしていた。
街灯も乏しい山腹を、這って進むような狭い道路。
少しの不運と、夜の雨が彼女を空へ導いた。


真っ暗だ。
彼女が気が付いてみれば、真っ暗な森の中だった。月明りもなくほとんど何も見えない。
服を探ってみても、携帯電話は見当たらない。
彼女の体は血だらけだった。めまいもひどく、手足に激痛がある。

おそらく、崖下へ落ちたのだろう。
その直前に大きな衝撃があった。衝突事故だろうか。生きているのが不思議だ。
地面に転がっているべき車も見えない、もともと走っていた道路さえ見つからない。
彼女は、回転しながら落下する車体から、投げ出されたものと推測した。
とにかく、道路へ戻らなければ。彼女は歩き始めた。
1歩2歩歩くだけで激痛が走る。斜面を上がれば、さっきの道が見つかるはずだ。

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どれだけ歩いたのだろう。おそらくまだ20歩も進んでいない。
気の遠くなるような時間をかけて、手を伸ばせるほどの距離しか進んでいない。
めまいがする。
暗くてよく見えないが、体から流れる血の量は、危険な量であることはわかっていた。
めまいがする。
気分が悪い。おなかがいたい。歩くだけで激痛が走る。
ここで座っていても、明るくなれば、救助のヒトが見つけてくれるだろうか。
彼女はそんなことを考えてみるが、それまでに生きていくのに必要な血はすべて流れてしまうだろう。
めまいがする。
歩きたくない。
何を考えたらいいのだろう。
どうしたら助かるのだろう。

そんなとき、彼女が思い出したのは父のことだった。
まだ小さかったころ、父に秘密基地が欲しいとねだったことがある。
父は休日にダンボールを使って、小さな基地を作ってくれた。
今思えば、休みの日に子供のためとはいえ、よくあんなものを作れたものだ。
きっと疲れていただろうに。とても楽しかった。
お母さん。
オムライスが食べたいな。お母さんのオムライス。
食べられるかな。もう無理だろうな。嘘みたいだ。何も見えない。
これが走馬灯というものだろうか。
変な日本語だよな。彼女は妙なことに考えを巡らせていた。
これはもともと、思い出が走馬灯のように見えるって例えだったはず。
そこから走馬灯だけが残ったのだ。言葉の変遷に目がうつろう。
あふれかえる過去の記憶。よせては帰す波のようだ。

「アイリ」

これはいつの思い出だろう。
それは彼女にもはっきりしなかった。

「アイリ。そんな簡単にあきらめてはならない。
 分数の計算くらい、いくつか解いていけばできるようになる。
 ほら、2分の1から考えてみるのだ」

誰…?
彼女にも、わからない記憶だった。
それが誰だったか思い出せない。声はわかるのに、顔はわからない。
もう疲れた。
疲労と苦痛で、彼女は歩くのをやめようとしていた。
もう歩かなくていいよね。すごく痛いんだから。もう歩けないよ。

「アイリ。足の速さなど気にすることはない。
 どれだけ時間がかかろうとも、ゴールにたどり着ければ良いのだ」

彼女の目がかすんでくる。
やはり血を失いすぎると、視界がぼやけるのかと奇妙な知見を得る。
もう立ってるのがやっとだ。誰か助けに来てくれないか。淡い期待が浮かぶ。
もうここで、座って待つことが、最善ではないか。儚い希望が湧いてくる。

「アイリ。お前は大人になる。
 大人になれば、車にも乗れるし、子供を作ることもできる」

なぜ今日は雨だったのだろう。せめて月明りがあれば、周りが見えたのに。
携帯電話があれば、助けも呼べるし灯りにもなったのに。
なぜもっとちゃんと寝ておかなかったのだろう。
こんなに疲れていなければ、ちゃんと運転できていたのに。
彼女はまさか、こんな普通の日が、最後の日になるとは思ってもいなかった。
終わりというのは、特別ではないということか。
それもしかたないと、彼女が地面に倒れようとすると、またあの声がする。
以前よりはっきり、まるでそばにいるかのような声が聞こえる。

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「アイリ。生きるということは、とても楽しい。
 この海もあの山も、無限に広がるこの空も、すべてお前のためにある。
 思い通りにいかないこともあるだろう、時折泣きたいこともあるかもしれない。
 それでも、思い出すときは、なにもかも楽しかったと言えるようになる。
 だから簡単にあきらめてはいけない。」

無意識に、彼女の右足が前に出た。
倒れる体を支えるように。
どういうことか、彼女にもわからない。まだ残っているのか。
彼女の中に生きる力が。
目に涙が浮かぶ。苦痛と恐怖からあふれたものかと、最初は思った。
しかし、そんなことは日常でありふれたものだ。それとは絶対に違う。
この目からあふれるものが、どこから来るのか彼女にははっきりわかっていた。

「アイリ。魔法を見せてやろう」

今度は左足が前に出て、しっかりと地面を踏みしめた。
なぜそんなことができたのか、考えるまでもなかった。彼女はもう考えなかった。
今度は自分の力で右足を前に出す。
もちろん、気を失いそうなほどに痛みが走る。
それでも歩くことを、やめることができない。
やめてはいけない。あきらめてはいけない。
あの夏の日、誰かもわからないその声は、魔法を見せてくれた。
たしかにそこには魔法があった。本当はわかっていた。
彼女はその声の、遠い日にあったはずの名前を呼んだ。

「(行け。時よ。
 波よ彼方へ。空よ目を覚ませ)」

あのときの魔法。夜を照らす光。
思い出せば暗闇さえ彼方へ追い払う。
遠くから波の音が聞こえてきた。

まだ歩ける。
ひとりでも歩けるよ。

真っ黒な木々の葉音が、岩だらけの地面を打つ雨音が大きくなる。
もうほとんど何も見えない彼女の視界に、小さな星が飛び込んできた。

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2つの小さな星。
そこに向かって歩く。裂けそうな体をひきずって必死に前へ進む。
そこがどこかもわからないのに。彼女はそこを目指して歩く。
また気の遠くなるような二十数歩、倒れる寸前にようやくその星に手が届く。
手を伸ばしてみるが、もう彼女の体には立っているだけの力も残っていなかった。

「アイリ。夜明けはもうすぐそこだ。
 いつか私の名を思い出して呼ぶが良い」

薄れていく彼女の意識に、遠くから声が響いてくる。
遠いあの夏の日と、同じ声だった。

なつかしい怪物の声だった。


気が付くと、彼女は再び車の中にいた。
白い天井、薬品のにおい。計器の音。救急車の中だ。
「大丈夫ですか?」
心配するような驚いたような声がかけられる。救急隊員だ。
彼女はストレッチャーに横たえられ、応急処置を施されていた。
助かったのだ。

聞けば、彼女は道路に続く階段の途中に倒れていたそうだ。
あと1時間でも発見が遅れていたら、間違いなく助からなかったそうだ。
落石によって崖下へ転落した彼女の車も、後日見つかった。
車体を押しつぶした石は、巨大ではあったが、どこにでも落ちてるただの石だった。

彼女は救急車に揺られながら、さきほどのことを思い出す。
命の危機だったとはいえ、幻想の記憶を作り出すとは、
たくましい想像力に小さな笑みがこぼれる。
ふと、彼女は自分がずっと右手を握りしめていたことに気が付く。
なにか握っている。彼女自身にも、なにかはわからない。
ゆっくりと顔の前にもってきて、指を広げていく。
車内の白い照明に、手の中が照らされていく。

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石だ。

薄い桜色の、少し透明な石だ。
救急隊員に聞いてみる。しかし、彼はわからないと首をふる。
あきらかに普通の石ではない。少し考えてみる。
すると彼が、シーグラスに似ていると言う。
破片となったガラスが海に行きつき、波に削られ丸くなったものだ。
「宝石みたい」
彼女はその石を見て、素直にそう思った。
ただのガラスだ。
どこから来たのかもわからない、なんのガラスかもわからない、小さな破片だ。
彼女はそれを、もう一度握った。まるで世界で一番の宝石であるかのように。
救急隊員が、連絡先を聞いてきたので、とっさに母の電話番号を答える。
その瞬間に母と父の顔が浮かび、涙が出そうになる。
ここで泣いては心配されてしまう。彼女はなんとかこらえ、今度は職場の番号を教える。

「ところで…」
救急隊員が不思議そうな顔で、彼女に質問をする。
事故現場に救急車を呼んだ人物がいたらしく、どうやら男性だったようだが、
名前も名乗らず、電話を切ってしまったので、心当たりはないかとたずねてきた。
彼女に心当たりはなかった。あるはずもない。
それでも、その誰かの声に、今は思い当たるところがある。

彼女はもう一度、手の中の石を見る。
海だ。
顔に近づけてみると、なつかしい海のにおいがした。
あの2つの小さな星。誰かのまなざし。
その光が微笑む。
大人になった自分の歩みを、2つの小さな星が見守っていた。
道路へ続く階段に、彼女がたどりつけるように導いていた。

ありがとう。彼女が小さくつぶやく。こらえきれないものがあふれる。
その声に、救急隊員がもう大丈夫ですよと答える。
道は続く。夜の雨はあがっていて、まぶしいほどの星空が広がっていた。

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