青天の霹靂
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明日は晴れるといいな。

  
初めは小さなひび割れだったと思う。誰も気に止める事のない極小の傷だったに違いない。それが今では、空を見上げれば木の枝ソックリの白い亀裂があちこちに伸び、あおぞらは巣掻いている。四方に絶え間なく広がる罅割れは、最早隠し通す事ができない。

エージェント・ヨコシマは財団に課された任務を遂行するため、バイクに跨りエンジンを蒸かした。バイクを発進させる直前、エージェント・七瀬が「そんなことをして意味はあるのか」と問うた。どういう意味なのか聞き返すと、「何もかもが終わるのに仕事をしている意義があるのか」とそう云うのだ。確かに七瀬の言葉は正しいのかもしれないと、ヨコシマは思った。だが、全てが終わったと判断するには早過ぎる……財団は指令を撤回していないと答えると、七瀬は「もうやめてくれ」と、か細く呟いた。

ヨコシマは安心させるように笑いかけると、七瀬は顔を背けた。彼は苦笑した後、バイクを発進させサイト-8181から出る。しばらくバイク走らせると、悲鳴の囀りが聞こえる山道に差し掛かった。そこは閉鎖的に収束しながら太陽光が乱反射する、淀んだ畑の広がる田舎風景だ。真っ青な新芽が芽吹く人形畑の向こうでは、珊瑚礁に似た高層ビルが地中に沈んでいる。碧落に押し潰されているようだ。

薙倒されたビル郡の上で煙のように漂う極彩色の風雲を、剣山の木々が突き刺さっている。樹木の根元で擁する男女が阿諛追従、舐り合っていた。極楽鳥達が美しいハミングで血飛沫を散らす。7頭の牛が尾の鞭を払いながら、互いの尻を追い掛け回している。目前に広がる光景は何と純朴な風景なのだろう……何と懐かしい田舎の情緒なのだろう……世界が終わるとは到底思えない。空に皹き渡るものさえなければ、日常が続いていたに違いないと彼は考える。

……イヤ……本当にこの光景は正しいものなのか……風景がヤケに眩しく……矢鱈ぐらつきコノ上なく不安だ。この焦燥が、ただの杞憂であれば良いのだけれども……。

ヨコシマはバイクを緩やかに停車させ、ゆっくり瞬きを繰り返した。瞬きする度に眼球の裏側に紙鑢でも挟まったような違和感を覚えた彼は、自身の眼を抉り出そうと人差し指を曲げた途端、声が掛かる。声の方を見れば数日前「二日前に埋めた自分の死体が収穫時だから」と、懸命に探していた男性が、親しげに唾棄しながらヨチヨチと駆け足で近寄ってくるのであった。

「どうしたんですか? ご自分の死体はみつかりましたか?」

「まだですわ……畝を掘り返しているのですケド、ナカナカ見付からないの。ごめんなさいねぇ。この前は付き合ってもらっちゃって……」

構いませんよとヨコシマが答えると、男は軽く会釈をして立ち去った。緩慢な速度でヨタヨタ、フラフラ歩き去るのである。今にも倒れそうな歩行は、転倒の有無を心配するには充分なものであった。男は転ぶどころか躓くことすらなかったが、突如飛来するように横切って来た赤子の顔を持つイノシシが、男性を捕食する。

長閑な墓地に断末魔が響き渡るが、ヨコシマは一切構う事無く沈む都心部へとバイクを走らせた。数分しない内に、ヒマワリ畑の群集が無辜として振る舞う、賑やかな往来へ到着する。悪鬼羅刹の群集の頭上に、絶滅したモンシロチョウがビルの窓硝子を砕き、赤く青く黄色い鋭利な紙吹雪を散らす。ソノ様子にヨコシマは若干右顧左眄したものの、早々に歩道を通り抜けゴミゴミとした路地裏に逃げ込んだ。

無人の道路でヨコシマが一息ついた瞬間、大きな破裂音が響いてきた。ふと頭上を見上げると、青空に大きな亀裂が走っており、その切れ目から糠星が鏤められた銀河が垣間見えた。亀裂から黒い星の粒子が狭霧のようにフワフワと舞い広がり、粉塵のようにキラキラと輝いている。寒煙迷離に似た星屑の粒子を見詰めながら、少し前に財団の学者が「別次元から漂流してきたミーム・精神汚染と認識障害の塊」と、口にしていたことをヨコシマは思い出した。それは様々な異常物が渾然一体となり、視認した人間に様々な害を及ぼすのだという。

ヨコシマは地図とペンを取り出し、電柱で番地を確認したあと、該当箇所をくるりと囲う。彼が財団に課された仕事は、空のひび割れた箇所を調査し、提出するというものであった。おおぞらは調査段階なので詳細は不明だが、別次元から流れ込んでくるミーム・精神汚染と認識障害の塊を保護する膜のようなものではないかと推測されている。それが現在、青空に所々破れかぶれ亀裂が入ることで漏れ出し、広域な影響を及ぼしているのだ。

地図にしるしを付け終えたあと、ヨコシマは再び亀裂を見、おおまかな大きさを記そうと再び上空を凝視する。新たに出現した罅割れは、大きな透明の破片を落としていた。破片は地面に直撃した衝撃で砕け散る。人や建物に物理的な影響を与えることはないが、甲高い残響音が耳に癪であった。刻一刻時間が経過するごとに隔離する硝子の落下音を、ある人は秒針の音と評した。

バラバラとおおぞらの破片が翅のように舞い散る中、ヨコシマは亀裂の中にある存在を見た。人間のような骨格が宇宙を背に現れたのである。突如出現した巨人の骨にヨコシマは驚いたがヨクヨク考えれば、マトリョーシカの外側には人間の顔が描かれていることを思い出し、狼狽した自分が恥ずかしくなった。

ヨコシマは「300m・外側に巨人の骨あり」と地図に記した後、バイクを走らせ亀裂の調査を続行する。あちこち移動し、今か今かと舌なめずりする食パンの視線を傍らに、今日一日で32箇所の亀裂を発見することが出来た。成果としては少ないが、毎日機敏に働き熱心に業務をこなすことで膨大な情報量となり、財団に多大な貢献ができると確信して彼は働き続けるのだ。

青い暮色を西側に、太陽が虫のように乱舞する海岸沿いを走り、彼はサイト-8181へ帰宅を目指す。歯軋りのような波打ち際の音が心地よく、鉄と鉄を擦り合わせたような風を耳にする。月虹を背に舗装された斜の道を進むが、走行と鉄火一陣の風切り音の中に、轟々と唸る滝壺に似た音が混じっている事に少ししてから気が付いた。不審そうに海原に視線を向けると、ページが捲れるように波が動く地平線の果てに、大きな穴を発見した。ヨコシマはバイクを停止させヘルメットを外し、ヨクヨク見定めた。

海坂にあるその穴は見間違いなどではなかった。青い、青い海面が幾本の筋を作りながら流れ込んでいるのだ。極楽鳥達が血の泡を噴きながら旋廻し、暗い穴に吸い込まれていく。穴に落ちるのは鳥と海だけではなかった。地平線から離れたおおぞらの破片も、自ら飛び込むように吸い込まれていく……数百キロほど離れた孤島にある灯台も、雨細工のように先細りながら歪み、穴へ落ちていく……。

まるで地球が終わっていくようだと、ヨコシマは思った。手の平で掬った水が零れ落ちるように、地球が壊れているのだとそう感じた。少し離れた荒野で焦げ跡のようになった子供達の影法師が、喚声をあげ手を繋いで踊る様を視界の隅に留めながら、彼は破滅を自覚した。足元がグラグラ崩れ、瓦解しているようだ。手にしていたヘルメットを落とし、目を伏せる。目の奥から水位が競り上がる。堪えることなく感情のままホロホロと泣いた。ヨコシマの頭上で大きな破裂音が響く。大空に稲妻のような亀裂が入り、ぐらついた天蓋が彼の頭へ目掛け落下した。
 
明日こそ晴れるといいな。
 

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