その瞬間、エージェント・█████はSCP-106、オールドマンのポケットディメンションの中に、墜ちた。
それはほんの一瞬の些細なこと……定期的に発生する腐った男の収容違反の最中、Dクラスの元へ奴を案内させる途中に、起きてしまった不幸な出来事だった。
エージェントは井戸の如き窖の中に落下し、その蓋が閉じる直前に見たのは、自身を意図的に嵌めたオールドマンの、陰湿でニヤニヤとした顔だった。悪意の暗き喜びに満ちた笑顔である。
畜生と思う間も……糞ったれと悪態を吐く暇もなく、エージェントは背中から地面に落ちた。地面といってもそれは沼のような、血の煮凝に似た最悪の床である。唯一出入口になっていた上空の穴は既に針の穴のように、一縷のか細い光の一筋を垂らしていたが、それは所詮蜘蛛の糸。ぷつんと音が切れるように、上から降り注いでいた光源は絶たれてしまう。文字通り、『ポケットに仕舞われた』のだろう。
彼は、腐敗臭とも云えぬ酸い臭いに嫌悪感を隠すことなく丸出しにする。そして小さく頼りないライトで周辺を照らすと周囲一面に広がっていたのは、臓物の落書きである。まるで毛細血管をそのまま取り出して壁にぶつけたような五臓六腑の展覧会であった。
ひゅ、と自身の息を呑む音が聞こえる。ぞっ、と全身の産毛が弥立ち粟立つのが分かる。ぐっ、と拳を思わず握りしめた。
その緊張と恐怖の根源はグロテスクな展示品を見たからではなく、自身の持つ光源によって壁の詳細が鮮明になるにつれ……もっと云えば、腐敗しながら独自に新陳代謝を繰り返しているオールドマンの収集品にして戦利品が、まだ腐れ爛れながらも活きていることに気付いてしまったからである。
彼はエージェントとして活動する中において、写真や映像では感じられない臓物の生々しさをリアルかつ身近に知っていた。見知っていて慣れていた。例えば、体外に出たそれらは僅かに湯気を出すことも……新鮮な死体であっても、肉体の内部の臓器は僅かながらに痙攣するように蠢動することを知っている。
だがしかし、壁面だけでなく足元にも蓄積した血腥い落書きが、意図的に完全に腐敗させることなく生き物を活き長らえさせるなど、そのようなものは知らない。見慣れていない。分からない。知りたくない。そして何より……見たく、ない。
だが、ここは奴のテリトリーにして巣穴。どこを見ても、見回しても、嫌でも目に入る。万華鏡のように……。
殊に嫌なのは、上下左右に隙間なく脈動し、中途半端に腐った臓物の中に埋もれた存在……オレンジ色のツナギが未だ黒いヘドロになりきっていないまま、震えるかいなを伸ばす仕草だ。その橙色の死刑囚は先月、収容違反を起こしたオールドマンのポケットディメンションに引きずりこまれた跛であり、無辜の人々が知らぬうちに平和貢献した一人であった。
エージェントはオールドマンが戻ってきたら、斯様に壁の中に埋め込まれてしまうのかと思いながら、出口を探す。この中身は完全に解明し切れていないが、完全に封鎖された迷路ではないかもしれない。
隘路には違いないが、あの腐った男が自由に出入りしているように、幾つかの穴があっても不自然ではないだろう。
新たな加虐の対象にならない為に、エージェントは一歩踏み出した。しかしその一歩は滑りを伴った床の所為か、姿勢を崩してしまう。幸い、ギリギリ活きながらも腐敗した吐瀉物とも形容できる生理的嫌悪の塊の中に顔から突っ込むこと……そうして、壁や床といった汚物に手を触れずに済んだが、エージェントはある違和感を覚える。その違和を確かめるために一歩進むとズルリ……と、二歩目に足を動かすとヌタリと……三歩目ではグチャリと何かが溶けて、交わって、くっ付いて……混然一体となっているかのような……。
エージェントは汗を――いや、これは汗なのか――額から質量を以て流れてくる物体を拭うと、ハンカチ代わりにした左腕の服に付着していたのは人間の代謝物とは云えない、黒いヘドロであった。
慌てたように……ではなく、気を動転させながら、ブーツの裏側を見てみると結構な厚底であるのにも関わらず、靴底は半ば融解していた。地にある臓物が靴の隙間に食い込んだのではない。酸を浴びたかのように、靴の裏が本当に溶けていたのだ。
「―――――」
エージェントは絶句しながら、半狂乱になってオールドマンのテリトリー内を忙しく動いた。逃走の中、脳内で構造をマッピングしている余裕など、ない。
曲がり角を折れば、暖簾のようにぶら下がったベタ付いた犠牲者の長い髪の毛が顔にぶつかる。すると、顔の表面に罅割れが生じた。
急ぎ足の余り、真正面から壁に激突する。速度の落としきれなかった勢いのある抱擁で、皮膚がとろけるような漫焉とした感覚の鈍りを感じた。
天井から涎を垂らしている蛇のような指先から滴り落ちた水滴が、頭皮を溶かす。たったの一滴で涓滴岩を穿つように頭蓋に穴が開き、直接涎が脳味噌に染み入る。悦を感じて吐いた。
エージェントが生命の危機以上の予感を実感ては体験し、あちらこちらうろつき回っているうち、蚯蚓千匹……わずかに蛇行した道の中に、これまで見たものとは違ったものがあることに気付いた。
赤子である。
人間が生んだとは思えない、巨大な赤ん坊がいた。
目はこちらを凝視し、吟味するようにゆんでの二本指をしゃぶっている。唇の付近の上下の皮膚が捲れあがり、歯列が見えた。当然のことながら一糸纏わぬ姿であるが、ふくふくとした身体で飢餓など縁遠いだろうに、何故か背骨が浮き出ている。注視すれば、右の片手開いた五指の間に活きた人間が複数絡まっている。
犠牲者以外に、エージェントがオールドマンの住み家で発見したのは、異形とも云える赤子であったが、その後ろから眩い何かが見えた。
穴だ。
出口だ。
外へ、現実世界へ帰れる扉がそこにいる。
エージェントはよろつきながら進みだすと、赤子の指の間に糸のように絡まった人間たちをボトボトと落としながら手を口元へ寄せて、両手の親指を残した全ての指を噛んで啼泣する。歯に己の血が付着した不気味なその叫びは、何とヒステリックな金切り声であったことだろう。
だが、意識が朦朧迷妄としたエージェントにとっては、些細な問題であった。
生きて帰れる喜びならば、比べる間でもない。先月犠牲になり、穴の中で壁に埋もれながら未だに生きている死刑囚と比肩すれば、あの巨大な赤子に踏み潰されるか、捩じられるか、嚙み千切れるか、死亡の原因などどうでもいい。例え死んだとしても、栄養剤を打たれた死に際の人間が生き続けるよりも幾分マシな最期を迎えるだろう。
だから、走った。
まろんでも、ぶつかっても、地を舐めるように滑っても、不格好であっても走り続けた。
そして、エージェントは――。
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場所は未だオールドマンの脅威が去っていない、サイト内。
エージェントの周りで慌ただしく機動部隊と、救急班が駆け付ける。
「初めての帰還者だ! 延命処置を!」
奇跡的にオールドマンの領域から生還した彼は、担架に乗せられ、財団最高の集中治療室に運ばれていく。
エージェントは蚊の鳴くような声で、ぼそぼそと唇を動かし、咽喉を震わす。化物に懇願するのではなく、同志の人間に向け、必死に仲間たち弱々しい訴えを行っていたのだ。
殺してくれと、たった一言の懇願を。
だがしかし……その言葉に誰も耳を貸す者はいない。注目する者はいない。
瀕死状態のエージェントの言葉が聞こえなかったわけではない。
黙殺されたのだ。
財団の新たな、知識の糧の為に。