真夏だというのにクーラーも効かせていない灼熱の部屋、蝉の群れの鳴き声の中で二人の職員が相対している。その内、動きやすそうな服装の女性職員が額の汗を拭いながら部屋の主に自らの任務の子細を報告していた。彼女の名は庭田。最近になって財団で働くようになったフィールドエージェントである。
「……というわけで、該当区域にはアノマリーの存在を確認できませんでした。以上で報告を終わります」
「了解です。この旨は私が上層部に報告しておきましょう。……お疲れさまでした、エージェント・庭田」
庭田の報告を聞き終わると、部屋の主は人間とは思えない無機質な声でそう答えた。目に光はなく、この暑さだというのに汗の滴一つも浮かべていない。部屋の主……鳴蝉時雨博士は受け取った報告書を軽く纏めると、薄い笑みを浮かべながら庭田に対し椅子に座るよう勧めた。
「暑くて喉が渇いたでしょう。水でも飲んでいってください」
「……それではお言葉に甘えて」
無機質な声とは裏腹に、庭田を気遣った優しい言葉。まあ、真に相手を気遣うのならこの部屋にクーラーでもかけそうなものだが……蝉狂いの彼女にその辺りの配慮を求めても無駄であろうと庭田は結論付けた。現状、水が出ないよりはマシなのだ。新人の研究員が挨拶回りをした際にこの部屋で複数回熱中症になってしまったという話を庭田は秋葉研究員を始めとする他の職員から何度も聞かされていた。
そんなことになる前に帰らなければと考えているうちに、鳴蝉博士は水を持ってこちらにやってきた。机にグラスに入った水がならぶ。……二人分ということはどうやら話をするつもりらしい。庭田は嫌そうな顔を浮かべるのを何とか抑える。
「最近はどうですか?財団には慣れたでしょうか」
「……はい、何とか」
「少しばかりの異常性ならば財団は寛容ですよ。まあ、貴女の場合は特殊ですから、厳しい目を向けられることもあるかもしれませんが」
鳴蝉博士は庭田の直属の上司ということになっている。その責任を果たそうとしているのか、彼女は時折こうしてカウンセリングめいた会話を行うことがあった。庭田が任務を遂行するに当たって他の財団職員と摩擦があったことは現在のところ余りない。先輩であるエージェント・涼代もフィールドワークのいろはをしっかりと教えてくれ、任務をこなすのに手間取ることはなくなったと言ってもよい。
しかしそれは鳴蝉博士の直属の部下とともに仕事をしているからであり、通りすがった「事情を知っている」職員から訝しげな視線を向けられたことは一度や二度ではすまない。私は財団のために働きたいだけなのに。複雑な思いが庭田の中で渦巻いていた。
だが、庭田もただ自身の境遇について燻っているわけではない。庭田の希望は目の前にあった。鳴蝉博士。彼女は庭田が知っている中で、「自分に似ている」にも関わらず、他の職員と円滑に交流ができる唯一の職員であった。私も鳴蝉博士のようになりたい。会話はまだ終わってはいない。変わりたい一心でついに庭田は口を開いた。
「あの、鳴蝉博士」
「……?なんでしょう」
「鳴蝉博士は私と似ているのに、どうしてそんなに他の職員と円滑に交流することができるのでしょうか?」
「……貴女と似ている、と来ましたか」
渋そうな顔を浮かべる鳴蝉博士。何かに悩んでいるような表情の博士を見て、庭田は一抹の不安を抱えた。すでに温くなってしまっている水を口にしながら答えを待つ。そして博士は庭田を見据え、重々しく口を開いた。
「私と貴女は違いますよ、SCP-693-JP-A-28」
「……っ」
庭田は喉元にナイフを突きつけられた気分だった。SCP-693-JP-A-28、それは庭田がSCPオブジェクトの一部として収容されていた頃の名称だ。SCP-693-JP……通称「人生に意味なんてない」。庭田はその異常性によってヒトへと変化したオオユスリカであった。庭田は倫理委員会の協議の結果、鳴蝉博士の下で試験的にフィールドエージェントとして運用されていたのである。
庭田、という名前は鳴蝉博士から受け取ったものであり、人間としての名前がなかった頃を除いて鳴蝉博士がこれまでに自分をオブジェクト番号で呼んだことなどなかった。息を飲む庭田に対し、鳴蝉博士は構えないでと前置きをし言葉を続けていく。
続く言葉に庭田は困惑した。
「今の貴女は完全に人間です。昔は確かにオオユスリカだったかもしれませんが、今の貴女は、ちゃんと知性を持った、自意識のある、何ら他と変わりない人間なのです」
「え……」
「だから私と似ているなどと言わないでください、エージェント・庭田。私の声は機械的であり、私の目には光は差しません。人間とはかけはなれた異常性も持っています」
鳴蝉博士は淡々と述べる。庭田はどう反応を返せばいいのか、分からなかった。ただ彼女が言葉を紡ぐのを見つめることしか出来なかった。
「私が他の職員と円滑に交流できているのは私が長く財団に勤めているからに他なりません。それに私を快く思わない派閥も未だ存在しています。貴女が気を病む必要などないのです」
「は、はい……分かりました」
「よろしい。では長話も終わりにしましょう。職務、頑張ってくださいね」
そういうと、水の入っていたグラスを片付け始める鳴蝉博士。これ以上の長居は無用、そんな空気を纏っているように庭田には思えた。……結局今のは鳴蝉博士なりの元気付けだったのだろうか?庭田は少々の疑問と困惑を残しながらも、部屋よりも幾ばくか涼しい廊下へと足を踏み出していった。
「いやー、よく耐えたねー、博士」
「……何の話でしょう」
エージェント・庭田が立ち去った後、鳴蝉博士の傍らには何処から現れたのか、エージェント・涼代が立っていた。茶化す涼代を鳴蝉博士は光のない瞳で睨み付けた。
「ほらほらあれあれ、私と貴女は似ていないってヤツ!あのときの博士のトーン、私ブルッちゃいましたよー」
「……貴女も自分の職務に戻りなさい」
涼代は怯むことなくおちゃらけた声を垂れ流す。鳴蝉博士は視線を涼代より外し、書類の束を纏める。
「だってあれでしょー?あのときの鳴蝉博士ー、完全に蔑視してたじゃない。よく相手を誉める方向に舵切ったと思うよ」
「……彼女のモチベーションを奪ってはなりませんから」
「否定しないんだ」
「したところで茶化すだけでしょう、貴女は」
「まあねー、で、その心はどうなのよ」
「……彼女と私が違うこと、そして彼女の方が人間としては優れていること、これは本心です」
鳴蝉博士は次の仕事をこなすために席を立つ。その目は部屋を出るまでエージェント・涼代を見ることはなかった。