四方八方は海に隠れて、未だ人の形を成していない。それは泡沫だが何も得ぬものだ。まだ、まだ何も得ない。
流線型の泡沫が泳いでいた。流線型の泡沫には、唯一の敵がいた。自己の長さを十倍して成立した距離の先に、楕円形の泡沫がいた。流線型の泡沫は、これを倒して、先に進まないといけない。
流線型と楕円形は元々敵だったわけではない。同じ場所で生まれて、同じように育って、同じような性質を持っていた。流線型と楕円形にほとんど違いなどない。
この血肉の戦いが始まったのは、流線型の泡沫の脈動期間を一単位とし、それが125単位と2/5単位した時間分前とほぼ等価である。戦いの開始から30単位と1/5単位前、ある声が聞こえた。
「この域は限界がある。最大の容量を1単位として、2/5単位と3/5単位が埋められている。それぞれの泡沫の近傍で、争いが生じる」
このことから、流線型の泡沫と楕円形の泡沫は戦うことになった。流線型の泡沫は戦いたくなかったが、楕円形の泡沫が好戦的であったためやむを得ずの展開となった。
絶え間ないぶつかり合いが繰り返された。領域を削り合う戦い。互いの泡沫の近傍は、疲弊して勢力を失っていく。先に勢力を保てなくなった方が負ける。それは、本能によって理解されていた。泡沫に刻まれた情報の導きだ。
体液空間の2/5を占める流線型の泡沫は、成長することを得意としていた。体がぶくぶくと大きくなって、片方の泡沫を圧迫する。楕円形の泡沫より糧を得ることに優れている。本気を出せば、血の道を枯れさせるほど得ることは可能だろう。それは、流線型にとってもリスクの高いことだったのでやらなかったのだが。
体液空間の3/5を占める楕円形の泡沫は、既に多くの領域を占めている。余裕のあるコスト配分で脈動できることが強みだった。流線型の泡沫は勢力を増やそうとしているが、楕円形の妨害によって簡単には上手くいかない。楕円形は理解していたのだ。この体液空間は、互いの泡沫が完全に占められるほど余裕がない。それは声が響く前から理解されていた。
以前、流線型の泡沫はみじろぎした。そのことでこの空間が狭いことに気づいたのだ。楕円形の泡沫は怒り狂い、嘆いた。依然として、体液の管理者はこの二人のことを調停しようとしたのだが、それには上手くいかない事情が多すぎた。事実として、資源は有限であり空間は狭量であり、それが母体の先天的な特徴に基づいており、解決する可能性は低かった。それに、互いの泡沫は配慮することができなかった。これからあるためには、今あるようにしないといけない。
流線型の泡沫は、傷を負っていた。
互いに近傍で接する二つの泡沫は、衝突した。虚空の闇に弾き飛ばされた。感覚を失う感覚と、制御を失う泡沫があった。
このことは、最初の始まる前の混乱として位置付けられた。流線型の泡沫は、全く初の感覚に驚き、また感動した。
それを癒すのに2単位と1/5単位時間必要とし、完全体にまで戻すのにはさらに3単位必要だった。休めている間は、満足に動けない。常に楕円形の襲撃に怯えた。傷は致命的ではなかった。だが、大きなものだった。
襲撃はなかった。流線型の泡沫は、安堵した。楕円形の泡沫は、同様に傷ついていたのだ。それは、まるで写真のように同一な傷だった。
流線型の泡沫は、血の道から滋養を一気に吸う。傷を癒すのに大量の栄養が必要だった。一瞬無防備になるが、流線型はこれが一世一代の賭けであると見做していた。
血の道が枯れる。楕円形の泡沫も気づく。血の道で滋養を奪い合う戦いの始まりだ。まるで兄弟で飯を奪い合うような、親の肉を食らうような、そんな残酷な戦いである。だが二つの泡沫は、これが残酷になり得ないことを知っていた。
楕円形の泡沫は、猛スピードで天井に向かった。全ての海を仰ぎ見て、声を発した。それは、何の声だったのかわからない。
流線型の泡沫は、楕円形を追った。勢いよくそれはぶつかって、生まれる前の泡沫は別の泡沫が弾け飛ぶ声を聞いた。もっとも、それは剥奪ではあり得ない。最初から存在しなかったのだ。
99単位を繰り返し、四肢を完成して泡沫は生まれる。そうして赤子は、光を目にした。
喫茶店にて
死刑、剥奪、生命、終焉、有限性、野蛮さ……。剥奪はいつも悪い。刑場には陰鬱な雰囲気が漂っていた。デモ隊の声がこだまする一方で、どこか森林の無音に似た静かさもあった。ソウフラ・キューが殺害される。いや、死刑される。その2つは区別しなければならない。少女にとって、それは明確だった。
『今から死刑が始まります』眼前の大人びた女性は言った。簡潔に、予断を許さないやり方で。
しかしその内容は、簡潔にまとめることは不可能である。死刑、生命の有限性を剥奪するもの。剥奪、何か本質的な定義によって悪いもの。これらの文脈は乱舞していて読解は難しい。
ことの始まりは、いや、ことは始まる前から始まっていたのか、始まりの有限性を規定することさえも困難であるが、仮に解釈の曖昧性を剥奪して、それを言語的営みのもとに開始するのならば、それは2005年のインドで起きた事件である。ヴェールが壊されて、世界中が犯罪の鼓動に浮き足たっているところであった。
ある種の重要性を持って語らないといけない。3333人の女性を強姦して、333人の男性を殺害した犯罪者、ソウフラ・キュー。彼が初めて犯罪を行ったのは、インドのムンバイだったのだから。
現場には大雨が降っていた。裕福な家族が多く住む区画で、犯罪は起きた。彼は33人の女性をそこでレイプして、3人の男性を殺害した。インド政府は、ただちにその男を逮捕した。
世論の形成を待たず死刑が行われることとなった。この犯罪は、裁判官によって厳粛に断罪された。死刑当日、ソウフラ・キューは、フラフラとした体で刑場に現れた。インドにおいて、死刑は汚れたものである。それにもかかわらず、刑場の周りには民衆で溢れていて、ソウフラの事件に対する市民感情を象徴した。
問題は、ヴェールが壊れていたこと。次に、ソウフラは超越した者であったことだ。
死刑の実施者は、後にその時のことをこう語る。
『私の家系は代々死刑を行う一族です。祖父も父も死刑をしていました。この時代になってからは、死刑が少ない時期がずっと続いていたので、私はほぼ保護金で生活していたようなものです。ですが、あの死刑は私のこれまで得てきた保護金と、優遇する政策全てを鑑みても、割に合わないものだったでしょう』
その時、犯罪者ソウフラ・キューは、次の時代へ行った。インドに隠した特権黄金の存在を宣言し、これからずっと犯罪を行い続けることを淡々と述べた。
「超越した」とは、生命を超えたということだ。彼らは如何なる手段によってもその有限性を剥奪することができなかった。異常は、世界を狂わせる。これまで正当に行われてきたものがおかしくなり始める。
2006年インドネシアに出現。33人の女性を強姦し、3人の男性を殺害した。国際指名手配によってインドに送還され、もう一度死刑が実行される。
距離は参考にならない。2007年にイギリスのロンドンに出現。333人の女性を強姦し、33人の男性を殺害した。このことを英語圏では、死刑の惨禍と呼んでいる。イギリスに滞在していた財団エージェントが、被害を避けるためにソウフラに銃弾を放った。これはソウフラにとって死刑だった。
2008年、ロシアのモスクワ郊外の村に出現。男性33人を殺害し、さらに死刑が実施された。
2009年、アメリカの研究所が画期的なプロダクトを発明した。『死刑III』である。法律的には、ソウフラの今の状態は死刑が執行され続けていると言える。インドの法律に照らして、死刑の執行を委託された形だった。そこから死刑機械とソウフラのイタチごっこが始まる。このシステムによって、ソウフラによる被害は大幅に減ったのだから、大衆は何も言うことはできなかった。
目の前の女性は、泥のように黒いブラックコーヒーを啜って、こう言った。
「あなたは、隠された。財団の手によって、あるいは、死刑の手によって」
死刑の手によって隠された。言い得て妙だ。
「はい。それは紛れもない事実です」
「そして、あなたは逃れた。ある日、残酷に告げる有限性によって」
「逃れました」
「神に誓いなさい」
「はい。神に誓います。私は逃れました。有限性の限界から」
ただしこれは、前提要件の確認にしかすぎなかった。コーヒーが泡吹いてなくなる直前、女性は言った。
「あなたの有限性を規定する方法があります。死刑は、そのためにあります」
ああ、神に誓わなければな。少女はそう思った。
内海勅使郎空港の様子を語る
インディラ・ガンディー国際空港は、東京成田から直通である。現地のガイドは、笑って僕を出迎えた。握手を求めてきて、僕はそれに応じる。
ここはインド。僕は会社の仕事でここまできている。大した話ではないが、経緯を少し説明しよう。
僕が新卒で入った会社は、いささか人間性に欠ける黒い職場であった。大企業で給与も申し分なく、そこだけ聞けば理想的な会社ではあったのだが、そこで相応の働きを求められるプレッシャー、緊張した人間関係にすっかりと鬱になってしまった。なってしまったのだから仕方ない。
極め付けは、社内に拡散する僕の噂である。かつての悪い出来事がどこからか流出して、やめた。詳しいことは説明しないが、一言で言えば名誉の問題である。
しくじたる決断である。僕はお金を必要としていた。この職業選択に家族の話が関わっていたことは否定できない。有り体に言えば母の治療費を稼ぐためである。
僕は父のいない家庭で育てられた。母は金銭に困窮しながらも女手一つで僕のことを育て上げた。その辣腕には心から尊敬している。しかしそれが悪かったのか、僕が悪かったのか、母は僕の成人式を見届けると病に倒れてしまった。その病を治すために治療費がいる……ざっと僕が死ぬ気で働いても一生が二ついる金額だ。
僕のことを情けないと罵ってくれても構わない。母に恩も返せないで、与えられたチャンスを不意にする男なのだと! だがどうしても僕は耐えられなかった。
祖父の勧めで退職し、次はもっと小規模な会社を選ぼうと考えた。その時見つけた会社に今も働いている。冷蔵庫の会社だ。市場規模はそこまで大きくないが、飲食業において絶対に必要な仕事である。食い扶持がなくなったり、不安定な心配を抱える必要もないという塩梅である。
人間関係もよりミニマムである。一つの事業所に6人の正社員と1人の事務員。営業先は常連が多く昔ながらの信頼がある関係性である。
僕は落ち着いた。複雑な人間関係がどうにも合わなかったのかもしれない。母のことはまだ憂慮するとは言えど、ひとまず僕は自分の安定さを確保した。
ある時のことである。船間村マネージャーの一声、「内海君!」。
僕は振り向いた。マネージャーのこの声は、何か頼み事をしたい時にする声だ。僕はあまり頼まれごとをしないのだが、一個上の先輩はよくそれで疲弊している。
船間村マネージャーは、二の句を告げる。
「こないださ、妻も彼女も細君も奥さんも愛する人もいないって言ってたよね」
先月の飲み会でのことである。そう頻度があるわけでもないが、この会社では飲み会をやる。実は酒を飲むことはそこまで負担ではない。だがそれが伏線だったとは思いもよらない。
「ええ、家族以外には」
マネージャーは言った。
"うちの事業所は君以外に全員所帯やら除隊やらがあるんだ。30代の中央林間君は去年結婚して妻がいるし、江ノ島さんだって結婚10年目なんだ。マネージャーのぼくは孫もいるしね。60歳の横須賀君には海外へ行かせられないし"
ん? 海外って言ったか。確かに除隊して足を怪我している横須賀さんには、今更とうてい海外になんて行けそうにないわけだけども。除隊も所帯も聞き分けられない耳になったわけではない。
「だから君が良ければ何だけど」マネージャーは言い淀んで、僕の気持ちも澱んだ。
「海外出張の件を考えてくれないかな」
株式会社極東冷蔵は大阪の町工場を起源に持つ企業である。事業の拡大で日本全国に工場を展開して、業界でそれなりの地位を占めるようになったという沿革がある。その成り行きは、そのまま海外に向けられた。ここで冒頭の話に戻る。
人口が増え続けているインドは空前の開発ラッシュである。そこにいっちょ噛もうというのが我が社の目論見であった。
しかしこれに従わなくても僕の生活は順調である。自分探しではあるまいし、特に行きたい理由はない。インド映画もあまり見ない。
「もし行ってくれるならこれだけのお賃金と手当が出るんだけど……」
マネージャーは、僕に紙切れを見せた。そこには、だいぶ大きめの数字が書いてあるのである。
「…………」
「ね?」
マネージャーがこちらを見る。僕も見返す。それは、僕にとって最大の決断であった。治療費には足りないにせよ、お金はあるに越したことはない。
時として人間は愚かな選択をする。愚かな自分を生産するチャンスが出てきたのだと勘違いしたのかもしれない。人生でチャンスを逃してきた人間は、ギャンブルで与えられた「チャンス」を待望のものと勘違いして自殺する。福本伸行の漫画でも言っていた。
最終的に────僕はそれに同意した。まさかそれで後悔するなんて思ってもいなかったのだ。
インドで初めて会った人間は、会社の支社の社員である。彼女は、僕より年下で女性で、何なら年端もいかないと言えそうな年齢の若者だった。
僕はジロジロ彼女の身長を見ると、小さな口を開いて言った。
「ワタシのことはブッダと呼んでください」
「ブッダ? なぜ」
これがブッダとのファーストコンタクトであった。初印象は、「狂っている」である。
ガイドは笑顔が上手い。日本人の宗教感覚を知っているのか。他の国民にそれを言ったら激昂必死の危険球だろうに。それにインドだって仏教に縁がないわけではない。というか、地縁も血縁も恵まれに恵まれているだろう。僕はそう思って、彼女の話を聞き続けた。
「ブッダは悟った者、とてもエライです。あなたは日本人。だからこの名前が適当。この国で一番エライ人を知っていますか」
「エライ人? ナレンドラ・モディ?」
「ノー。首相がエラかったことはありません。二足歩行の家畜でもありません」
神人のことだろうか。この人は信仰心はないのだなと思う。
「それはワタシです。次会った時は平伏してください」
ガイドのブッダは、僕がこれまで会ってきた女性の中でも特に傲慢であった。ブッダという呼称が不適切であることはわかるが、彼女は本名を教えようとしないのでこれからはブッダと呼ぶ。
次にブッダはチップを要求する。僕はしぶしぶ100ルピー払うと、彼女は英語で「センキュー」と言った。
ガイドの奇矯な性格はともかく、空港の風景は目新しく活気に満ち溢れていた。
牛を二足歩行させたようなそのままの見た目の者もいれば、伝統衣装を着て煌びやかだけれども腕がいくつかある女性の者もいる。ブッダにいちいち解説をしてもらう。これまでいなかったタイプの人種のことを"New people"とか"वृषन्強大な人"とか呼んでいるそうだ。その内訳は今のインド政府にとっても明らかではない。
「彼らは雇用や保障を受けているのか?」
「受けている人もいます。受けてない人もいます」
ガイドのブッダは語り始めた。
"神人はだいたい雇ってもらえません。ワタシも雇いません。彼らが突如現れたカースト外の存在だからです。カースト外の存在は、とても偉くなるか触ることすら躊躇われるようになるか、そのどっちかです。イスラム教は外からやってきてここを支配しました。ある時とても偉かったです。山岳民はある時発見されましたが、誰も触ってはいけませんでした。でも現政権はヒンドゥー教大好きなので推進キャンペーンやってます。"
「May I help you?」
少女が僕の足元に現れる。堂々と話しかけた。
「親切な顔して物売ってくる乞食の一種です。ウチミさん? 買わなくても大丈夫。大切な時間を無駄遣いすることはありません。そもそも空港内に入ってくるのはダメ。この物売りは、卑しくて目ざとい。人に抜きん出ることに懸命なのは良いですが、傲慢です」
「買う」
「こういう類いのを漬け上がらせてはいけません。仲間内で共有されます。そのせいで日本人、スリ、乞食、物売りのいいカモです」
花を一本買ってあげて、金を渡す。笑顔になった少女は、金を受け取ると一目散に走っていった。
「あの花、普通の値段の二倍はします。強欲なガキです」
おそらくあの少女は、神人なのだ。二本のツノのみが異常さを醸し出していて、目は赤く染まっている。近くであの子を見たかった。
僕はポッケに手を入れると、スマホがないことに気づく。
「えっ」
「あーあ。財布出す時よそ見するからです。目ざとい人間は間抜けな者を見分けます」
「あのスマホがないと困るんだが……」
日本へと連絡を取ることもできない。
「大丈夫です。このワタシがガイドをしている人間に窃盗を働いた罪は重いです。万死に値します」
そう言って、ブッダはどこかに連絡をした。よく聞き取れない言語であるが、部下に命令しているような語気は感じ取れた。それからやや経って10分後だ。男たちに抱えられた少女が現れた。
少女を抱える男たちは屈強で、どこか戦士のようにも思える。
「ウチミさん。この人逃れられない罪を犯した。処遇、決める権利がある。何すればいい? 指の一本くらいなら警察も取り合わない。神人の生命損傷罪にはならない」
「そんな。年端も行かない少女に罰を与えようなんて気にはならない。スマホさえ帰ってくれば」
マジでやりそうなブッダの目は、爛々と輝いていて怖かった。異質な神人より胡乱なガイドの方が怖い。海外はそんなに治安が悪いのだろうか。インドだって文明国の一つなのだし。
この子だって、雇ってもらえない政治状況と貧困の被害者なのだろう。僕がそれを裁くことなどできない。
「ん? ウチミさん、あなた勘違いしている」
ブッダは話を続けた。
"神人に少女とか少女じゃないとか関係ない。彼らは最初から完璧な責任能力を持って生まれる。だから彼らに福祉とか保障とかそういう考え方は合わない。
ウチミさん、さっきはそういう意味で言ったのではなかったのか? つまり、神人を保障する人はいるのかと。その答えはノーね。なぜなら神人は自分のことを自分で責任持てる。
神人の子は、生まれてくる時に必ず聞かれます。「あなたは生まれたいですか? 生まれたくないですか?」もし、生まれてきたくないと言った場合、親が腕を突っ込んで死なすね。生きたくないで生きている神人は、絶対に存在しない。生まれに後悔しない。生まれに完全に満足してる。"
「さっきの子も、悪いことをやろうと思って悪いことをやっている。であれば、指一本は妥当です」
「だって、インド政府は雇用の促進キャンペーンをやってるって……」
「国政のやることは常に的外れです」
隣のブッダの部下が指で二を表現する。するとさらに隣の男は、首を切る動作を表現する。やたら露出度の高い服装をした女性は、性的に挑発するポーズをとった。風俗産業に売り飛ばすという意味だろうか。
「待って待って、そんなことは僕は望んでない! スマホさえ帰ってくればいいから」
「ま、いいね。ではスマホの状態を確認してください。少女のことは部下がやります」
僕はスマホの状態を確認する。電源は正常につき、SIMカードは入っている。データが完全なことから、どこも弄られていないことがわかる。「大丈夫だよ、問題ない。」そう言って、ブッダを宥めた。
落ち着いて空港の様子を見回す。
親子連れらしき神人が大きな荷物を抱えて歩いている。彼らは、下半身が人間の体で顔が牛のそのものである。大きな荷物は、何らかの家電用品だろうか。英語でクーラーであることが読み取れる。
日本製のクーラーは、他の国のものより安価であるのでどのカーストにも人気らしい。また、IT産業の触発に伴って、最近では中間層が増大した。冷蔵庫も売る余地があるのだろう。
天井が高い。普通の人間より巨大な神人も見受けられるので、それへの配慮だろうか。身長が五倍六倍ある神人の群衆が一斉に改札口から現れる。ネックレスがある者は女性だろうか? 人間型ではないのでわからない。いわゆる人間型だけではない。だが冷蔵庫は使いそうである。
しかし空港は騒がしい。何か雑多な人間が集まってきていて、秩序のとれていない感じがお祭りの前夜のようである。
空港の大きな入り口から空を飛ぶヘビが「シュー!」と音を立てながら入ってくる。流石のインド人もこれには驚いて、空港の管理者らしきスーツの集団が抑えに入ってくる。ヘビというか、龍である。ブッダに聞く限りただの乗客のようだ。
小さな人々が隊列をなして歩いている。運送会社の制服を着た、人間型の神人だ。
その背後には、空港の天井まで高さがある巨大な神人が移動している。「彼のような巨大な人々は、どのように移動するんですか」とブッダに聞いてみる。
「あそこまでの規模の人。なかなかいない。神人界隈では有名人。飛行機には乗らないので、飛行機で来る人の出迎えだね。今日アメリカから大事な客人あります。あなたちょうど良かったね」
客人の警護団は、中心の要人を覆い隠すよう守っている。僕にも見たことのある顔ぶれがちらほらいる。あまりニュースを熱心に見るような性格ではないけれど、知っていることもあるのだ。だがその姿を見て流石にはっとする。そこにいるのは、アメリカ大統領ではないか。
「違う違う。確かに大統領すごいこと。でも神人の巨人、それだけでは現れない。見て」
そこには、車椅子で移動する男性がいた。
「財団O5評議会No.5 作る者クリエイター、これからインドにはアメリカと財団が味方に着きます」
社宅にて
過激化する世界情勢のことについては、ニュースや新聞を一瞥することもないような僕のリテラシーにも問題がある。そこで僕はインターネットで今現在の情勢について調べた。その一端についてお話ししよう。
2001年のマンハッタン・クライシス事件で明らかになったのは、世界の警察たるアメリカでさえ超常現象のテロリズムには屈してしまうというところである。
2006年にはコロンビアが夢界に落ちる。サプライチェーンの脆弱性が明らかになった。コロンビアは、石油の輸出国の一つであったのだ。
大衆にはテロリズムと超常現象への恐怖が拡散する一方、ある二つの論点について国家のレベルでは牽制と権勢の争いが起きていた。それは超常現象を国家がどう扱っていくかという議論である。アメリカが現世に残留した悪魔との共生を進めると、リベラルな価値観では「異常とともに生きられる」という発想が擁立された。その反対を行くのは、中国やロシアなどの権威主義国家である。彼らは、財団に並び立つような振る舞いを見せ始めた。一手に、異常性を集約しようとしているのだ。自然、アメリカと財団に、ロシアや中国が対面するといった構図にはなる。(10分で分かるニュースチャンネル「権威主義国家の危機 "次の財団は"」より)
ブッダは、郊外の建物に僕を案内した。バスで3時間、歩いてさらに10分ほどかかる場所にある社宅である。我が社のインド支部は、その近くにあるらしい。
「旅の疲れを癒しやがれ」とよくわからない日本語を言ってから、彼女は別の場所にあるという自宅へ帰った。
正式な業務は、しばらくないらしい。この土地のことを知る時間が必要とのことだ。ブッダは、手ずからインドのことを案内する予定であるらしいのだ。
社宅は、古めのアパートの容貌であった。しかし、部屋は割合に豪華であった。それなりの広さと風呂トイレ別。和箪笥からはなぜか日本の匂いがする。
僕は荷物を置く。色々あって、肉体は疲弊していた。風呂にも入らず眠ってしまったのだ。泥のように眠っている僕に雷鳴のような出来事が起きたのは実に深夜3時のことだった!
社宅は2階建てだ。外付けの階段で住民は昇降することとなる。鉄製で登る時カタカタと音が鳴るのだ。だがその時鳴った音は、カタカタなどと生やさしいものではない。ドガーン、だ。体が疲れ果てているはずの僕を叩き起こしたのは、その音である。
あわてて辺りを見回す。変な夢を見ていた気もするが内容をすでに忘れている。外には、ブッダが階段の上に立って下を睨んでいる光景があった。ブッダが男を階段の下から突き落とした様子だろうか。ブッダは階段を降りて、男を踏みつける。蹴り飛ばして転がる。うめき声で苦しんでいることがわかる。
「金塊はお前のためにはない。ワタシのためにあるのだ」
ブッダはそう言って、さらに執拗な攻撃を男に加える。だが男は、また彼も気概があるようである。こう言い返していた。
「ハッ、お前は傲慢さ。俺は神を信じている。許してはおけない」
「ワタシを?」
やり取りに致命的な齟齬が生じている。それは言語の問題ではない。信仰の問題であり、人工的な問題であり、神光の問題だ。
ブッダは、こう返した。やや聞き取りづらい英語だったが、僕にはそのように聞こえた。
"お前は、アレの真の価値を知り得ないのだ。他の者どもがそれを欲しがる重大性もな。お前が個人の信仰か、大局的な大義のためにそれを得ようとしているか、そんなものは全くどうでも良い。霧のように意味がない存在だ。アレは私たちには絶対に必要だ。そのように私は世界を作った。
逆に、あなたの目的に価値はない。私はあなたを信者の逆として罰を与えよう。地獄の責苦で苦しませよう。そして皮を剥ぐのだ。"
ブッダが悪いことをしようとしていると思って、僕は彼に向かって走ってタックルした。不意打ちを喰らったのか、ブッダを抑えることに成功した。
「なんですかウチミさん!?」
「やめろ。ブッダ、こんなところで罪を犯そうだなんて」
「ワタシのやることを止めようとしているのが、どんなことかわかりますか」
「後で聞きますから」
さっきまでブッダに嬲られていた男は立ち上がって、体をさっと後ろに引いた。僕はブッダを抑えながら社宅の側にあった坂道を転がっていって、下に落ち着くとまた立ち上がった。数発殴ったら、ブッダは反対の頬に打ち返してきた。ブッダのポニーテールが揺れる。
「ウチミさんのせいで……やってしまいました」
その嫌な事実に気づいたのは、僕があたりを見回したタイミングである。辺りでは、男たちが僕らを包囲していた。全員、何かしらの危険そうな武装をしていた。銃を持ち、構えているのだ。
ブッダは言った。
「ああ! 会社にもウチミさんにも内緒だったのに!」
「ブッダ!?」
「今更祈っても遅いです」
「祈ってないって!」
男たちは包囲をだんだん狭めていく。そして、緊迫感がブッダと男たちの間で張り詰める。知らない言語で互いに罵り合った後、男の中でリーダー格に見える者が演説を始める。
「見よ、これが嘘をつく者の末路だ。彼は神に謀った。この名はここで永遠に消す。死んで、そして償え! 地獄の道がお前に開かれるだろう」
男たちの歓声が夜の平野を響く。宗教的な意思を持った死刑の実施である。銃弾が放たれた。ブッダに届きうる弾丸が。
僕は、ブッダと男たちの応酬に割って入った。僕の頭に銃弾が衝突する。
ここで起きたことを説明するのには、僕の過去について語る必要があるだろう。僕に病気の母親がいることは前に説明済みであるが、当然、僕には父親もいる。ただ僕には彼に対して父親の情などないので、必然、父親ではない男、とか生物学的には父親な人とか言うことになる。
僕が生まれたのは、東京都の某市の病院だ。前々の診療から生まれる前の僕は、とある困難に面していたことがわかっていた。
僕の双子の兄弟は、母の腹の中で死にかけていたのである。驚くべき話だが稀にあることであるらしい。僕自体は、一個の生命として正常に成長していることがわかっていたが、やがて死にかけている弟と健全に成長した兄の中で、戦いが起こるのは必然である。
分娩の日の前に帝王切開なり諸々の手術をするなりして、出産の困難を避ける必要があった。もちろんその手段を取ることは、命を選別して優秀なものだけ選び取ることと表裏である。
だが僕たちに取られた方法は違う。生命を生命に取り入れる技術……。詳細な技術的次第は説明をしないけども、それは双子の「生まれる権利」というべきものを、自然選択に任せるものである。すなわち双子の闘争だ。僕は勝った。闘争の末、勝利した。完膚なきまでに。
ここで父が再登場する。父は、大学の倫理学の教授であった。
『誰が生きるべきか。有史以来たびたび議論されて来た。そして誰しもが結論を放り投げてきた。ただ私は、父なる私は息子たちの前でそれを放り投げることなどしない』
父の教えを思い出す。僕は生まれる前の戦いにおいて、それがどのような争いだったのか覚えているのだ。生優しいものではない。生は優しいものではない。それは永遠の戦いであるように思えた。生きるか死ぬかではない。負けたものは、死ぬことすらできないのである。
だから母と父の決別の理由を挙げるとしたら、それは生命観の違いと言えるだろう。父はたびたび僕に強く生きることを強いたのだし、母にとっては父に振り回される僕は見るに耐えなかった。
僕の人生は二人分の重みがある。死産した弟の存在しない人生と僕の何ら成果を出さない情けない人生だ。だからと言うわけではないが、僕は死んでいる生命と生きている生命の両方を同時に持っているのだ。
『前々から存在と非存在の間を仲立ちする者が必要だと感じていた。仲立ちする者とは、それら両方の性質を持つもののことだ。しかし"半分存在している"などということがあり得るのか? 植物状態の患者を指して"半分生きている"とか、そういう言い方ならできるだろう。だが私は言葉遊びに興じない。これらの妥協的解決点として、非存在と存在を同居させる結論に至った。ある集合が閉包でありその内部が空である場合、そこには同居状態が生まれる』
僕の頭部には膨れ上がった腫瘍がある。かつて戦った弟の跡地である。僕は頭の中に存在しない兄弟を抱えて、ある意味で養っている。何もしてないと言えるかもしれない。その区別はもはや不可能だ。弟は生まれる前にいなくなったのだから。それ故に、それ故に僕は弟のことをこう呼ぶ。《疎集合内臓》僕は死なない。半分を生きていないので。
頭部に銃弾が当たる。腫瘍が弾け飛んで空を舞う。そして、時間が巻き戻ったかのように再集結する。ないものは、死にもしないし生きもしない。幸福にもならないし不幸にもならない。生まれてこない方が良かった、なんて母には恵まれた僕には口が裂けても言えない。しかし、弟はそう言うだろう。
僕の『蘇生』を目にした男たちは困惑を口にする。実は蘇生ではないのだけれど、誕生でも発生でもないのだけれど、側から見れば僕の今したことは、いや、しなかったことはまるで神のみわざのように見えるだろうから。
ブッダは、その一瞬の隙をついてリーダー格の男に跳び膝蹴りを喰らわした。チャンスを掴める強靭なメンタルを持った女性である。
ブッダはコーヒーを奢った。チップを各所で要求する彼女には、珍しい精神だった。
「本来ウチミさんのような人間には関わりがないことです。マクロな世界の動きは、ミクロに動いている人間にそこまで関わってきません。マクロな存在は、一方的に、天変地異のように、ミクロな存在に影響を与えるだけだからです。ですが、事情は変わりました。話を聞いてください」
"全てのことの始まりは、2010年の秋のことです。とある人物の死刑が執行されました。333人の女性を強姦し、33人の男性を殺害した犯罪者、ソウフラ・キューです。
死刑は普通汚れているものなので誰も見たがりませんし、近づきたがりません。その時は違いました。インド中から人が死刑が執行されてる建物の周りに集まって、その瞬間を皆で待ち侘びました。
同時に、争いも起きました。「死刑を執行するのが正しいのか」という疑問です。ここのところずっと、インドはそういう話で持ちきりなのです。ある人は、「これから起こる悲劇を止めるために死刑をするのだ」ある人は、「人権と死刑の存置は矛盾する」と言いました。でも始まった死刑止められない。ぼんやりとした雨の中、死刑されました。
死刑の瞬間、民衆の声も死刑場の壁も通り抜けて、ソウフラは言いました。
「俺はこのインドのどこかに財宝を隠した。そのありかは、脱獄囚たちが持つ鍵が知っている。では会おう! 次のユガで」
皆は、完全にその内容を理解しました。死刑の話などどうでも良くなっていました。この財宝があれば、崩れたかけたこの国の土地を立ち所に金銭で満たすことができると誰かが言いました。"
「そんなことはありません。ワタシ以外がこの世界を救うことはできません。というわけで、ソウフラ・キューの黄金を探しているのです。ウチミさんも手伝ってください」
「一気に話が飛んだように見えるけれど、僕は僕の仕事だけをする気でいるんだ」
「もう遅いです。あなたは関わってしまった。一人逃げた男がいるでしょう」
あの後、ブッダはリーダーの男と15人を素手でボコボコにして、アジトのあり方を聞き出し、何かを強奪していた。一人逃げ出したが、ブッダはそれを追えなかった。腕を折ったからだ。今も包帯を巻いている。
「あの男、他の人間に伝えました。黄金を狙っている新たな勢力が出現した、と。それにあのとき決断したのは、他ならぬあなた自身。ウチミさん、あのとき決断は既に終わっていた」
「……」
ブッダも僕のことを可能性が実現するタイミングを常に遅れて考えるノロマだと罵っているのか、そう思った。ない可能性に執着して、損ばかりしている人生である。もしああなったら、それは苦しい想定だ。
「要は、ブッダは折れた腕の代わりを僕にさせようとしているのか? 僕は人殺しに関わるほど狂ってないよ」
人殺しは、普通に嫌だ。弟のことはともかく、自分は普通の倫理観を持っていると思う。そこは父の反面教師が大きい。
「オーケー。ブッダはよく知っています。交渉のための条件悪くないです。では人殺しをしません。これどうですか?」
そういうことを言いたいわけではないのだけれど、ブッダは果敢に二の句を継いだ。
「母を救いたいんですよね、弟のために。ワタシ全てを知っています。神なので」
「なんだよ」
「ではこれでどうですか? フィフティフィフティ。そうですね、そしたらウチミさんが受け取れる金額は、日本円に直すとこうなります」
iPhoneの計算機の画面は、とんでもない額を示していた。母の治療費を賄うどころではない。あらゆる損失を勘案しても有り余る。
僕は手を震えさせながらブッダに手を差し出した。
決して彼女のことを信用したわけではない。一時的に同盟関係を結んで、利益を得ようと思ったのだ。ただこれが悪かった。
「握手ですか? いいですね、ではディール」
僕の人生で1番悪い決断は、おそらくこれだろう。
極東冷蔵株式会社デリー支部の生活
極東冷蔵株式会社デリー支部は、著しく時間と金銭感覚にルーズであり、怠惰な社員たちによって運営されていた。支社長のシャー・セイデンは、昼過ぎに出社してきてデスクで飯を食べる。飯を食べたら机の前で一眠りし、起きて30分ほど得意先との電話をする。彼の仕事はおおむねそれだけであり、あとは下からの書類を通過させるだけで済んだ。
セイデン支社長はこれでも仕事をしている方だ。僕のデスクの前に座っている人間は、業務中、ほとんど何もしない。書類は処理しない。電話は取らない。なんなら飯を食べることもしない。布団をかぶってうつ伏せになって、そのままずっと寝ている。そのくせ、真昼に礼拝だけする。イスラム教徒であるらしい。
支部では、神人を一人雇っている。ハル君だ。見たところダウナーな雰囲気のある男性だが、腕に銀色の鱗を持っており、ツノが10cmもある。だがそんなことは些細と思うくらい彼は仕事をする。ここではもっとも書類を処理し、電話を取り、営業に出る人間だ。
彼は日本に興味があるらしい。日本のことについて、業務の合間を縫って聞いてくる。
「ウチミさん! 日本では学生は屋上でご飯食べるって本当ですか?」
アニメか何かで聞き齧ったようなことを聞いてくるのだ。通っていた学校がそこそこ特殊なモノで、恥ずかしながら屋上で飯を食べたことはなかった。それを伝えると、ガッカリそうに肩を落とすのだ。
神人にはまだパスポートがないのである。今のところ彼の日本紀行は、机上の空論である。
「ハルは、生まれる前に自分が生まれたいと願ったんだよな。それはなんでだ」
「神人の事情、どこから聞いたんですか?」
「ブッダが言っていた」
「それ、別の人には聞かないでくださいね。わからないので」
相手の気持ちがわからないとか、何が起こるかわからないとか、そんな言外の文章が含まれてそうな言葉だった。
ハルもまた、意味深なテキストを残して置き去りにする人間の一人だった。
ブッダもここの社員だが、机に座っているところを見たことがなかった。
あるときセイデン支社長は、とある顧客を支社に案内した。と言っても、建物の関係上日がちょうどよく差し込むことだけが唯一の取り柄であるところの、狭い応接間に案内しただけだ。その顧客は、ムンバイから来たと言う。その一方で、喋り方が外国の訛り方で変だった。外は死ぬほど暑いというのに黒いコートに帽子で、また奇妙だった。
その人物の対応を僕がすることとなったのは、支社長のサボタージュだろうか。
「弊社の製品をご要望くださってありがとうございます」
ハルが用意した書類には、中国人の名前が書いてある。黒時計と書いて、ヘイ・シージーと読むのだろうか。
「人間を入れる冷蔵庫が必要だ。質問は二つ。一つは、あの女とどこであった? 二つは、金塊のことをどこまで知っている?」
僕は椅子から立ち上がって、後退りした。
「何で……そんなことを?」
僕が言うとその人は、日本語で言葉を言い直した。
「悪いことを申しました。私たちの金塊を賭ける戦いにご招待します」
男が指を鳴らすと拘束された支社長が別の部屋から現れた! 支社長の大きめな腹がきつめに縛られている。ハルは、嫌な音が鳴り響いた後で、血まみれになって現れた。他の社員は、逃走したのか闘争したのかわからないけれど、いなかった。
「残念ながらあなたは死なないのですね。ですがあなたの周りの者は死ぬ。それ故に疎集合……」
"私は、中国共産党の異常管理部の部長、黒時計ヘイ・シージーと申します。以後お見知り置きを。あの女というのは、あなたにブッダと名乗っている女のことです。私の前では、「国家主席」と名乗りました。私は無宗教ですから、その迷いが少し出ているようですね。彼女は端的に言って危険です。
かつてアルナチャル・パラディシュで中国とインドの国境線を100往復した女がいます。彼女です。軍隊が何度も出動しましたが、その時は正体がわかりませんでした。でもやっと見つけた。まさか日本の会社を隠れ蓑にしているとは。いいですか? あの女は軍事衝突の原因になってるんですよ?
そこで相談なのですが、私たちの側につきませんか? 目的の達成と十分な分前をお約束します。その代わり、あなたには彼女を裏路地に連れてきてもらいたいのです。"
「ええ……それは人殺しに加担しようって言ってるのと同じじゃないですか」
「なぜそう思うのですか」
「あなたは剥奪に喜んで加担しようって、そんな目です」
黒時計は、うなづいて僕の目を見た。
「それは申し訳ございません。あなたは人を判断する良い目を持っている。では身の上話でも語りましょうか。判断するのはそれからでも遅くはないでしょう」
もはや慇懃無礼となった過剰な日本語で、黒時計は身の上を語り始めた。
「私が学生の頃でした……」
"東北の生まれでしてね。共通語がなかなか話せないでいたのです。貧乏な田舎の村を出て、2年留年して北京の大学に入りました。その頃は、我が国の経済が膨れ上がる真っ最中で、何をするにせよ景気が良かった。大学は政府の補助金で入ることができたのです。学力には自信がありました。誰よりも勉強しましたからね。不安といえば、新しい場所に馴染めるかです。私は、この田舎の言葉を笑われるのが怖かった。矯正したんですが、どうしてもrの発音が上手くいきませんでした。
国際政治学の教授は、講義中に予断を許さない厳格な性格で知られていました。学生に授業中登場していない種類の知識の質問をして、答えられなければ「你什么意思你不明白わからないとは何事だ」と冷たく言い放つのです。
あるとき、教授は西欧世界における自由主義について取り扱いました。「あなた方には一旦全ての価値観を停止した上で問題に取り組んでもらう必要がある」と言った上で、現行の共産党の思想の瑕疵と西欧世界の考え方の利点を述べました。教授は私を当て、書籍の一文について問いました。私は何の本の話をしているかわかっていました。これは、シラバスの参考書籍に載っていた本の話だろう。
「自由主義社会で露呈した問題点は何か?」
そこで、そこで私は言い間違いをしてしまったのです。
「不能事事都如人全ての人間の願いを叶えることは不可能である」を、「不能事事都魚人魚の人間の願いを叶えることは不可能である」と言いました。ですが、そこで彼女が立ち上がって、私の名誉を挽回することを言いました。
「教授、彼はこう言いたかったんじゃないでしょうか? 魚とは、超常人類の比喩です。魚も、全ても、私たちにとっては同じです、と」
教授は私と彼女にいい成績をつけました。
彼女と仲良くなりました。彼女も同様に田舎から北京に出ていて、同じ気持ちを共有できる境遇でした。
彼女はキリスト教徒で私は無信仰です。その違いこそありましたが、仲良くなることができました。私は、学校を卒業すると彼女と結婚しました。私もキリスト教徒になって、職場で少し肩身の狭い思いをしたものの、それに後悔はありませんでした。
彼女が……あなたの言で言えば、「剥奪」されたのはそれから数年ほどのことです。キリスト教徒だけを狙った殺人事件です。私は当惑しました。日頃、神に祈っていた彼女が、いきなり、このような理不尽な方法で殺されるとは! 神はいないのか。
そのとき住んでいた場所は私が選びました。職場からは程近く、仕事によく、子が生まれた時に通う学校もありました。周りには信仰を同じくするものも結構いて、コミュニティの地盤が整った場所でした。しかし、それ故に犯人は狙いました。
全ても、魚も、願いは叶えられません。教会に魚のシンボルが掲げられていました。私は、彼女を病院に連れて行く前、少し息があることに気がつきました。
「ねえ、笑って……」
私は、彼女を殺しました。死ぬ前の彼女は、とても苦しそうにしていました。殺した方が彼女の信じるところに行けるのだろうと思ったからです。ですが、彼女は……。私の姿を見て、悲しそうな顔をしたのです。"
「確かに私は剥奪をします。それが、良いことであると信じているからです。質問に答える気になりましたか?」
僕は、長尺の言葉を聞いて答える気になった。
「一つは、彼女は僕のガイドです。初めて会ったのは、空港の改札前です。二つは、金塊というのがあるとだけ聞いて、何も他には知りません。最後に、あなたに従うことはありません。僕は無神論者じゃないから」
その瞬間だった。社内に煙幕が投げ込まれる。一瞬にしてハルを拘束していた男が後ろから掴まれる。機敏な動きで男を窓の外に投げる。
そう。これがブッダと行動をする時の始まりであった。始まりは常に暴力からだ。狙撃で社内が破壊される。
黒時計は、さっと身を引いて室内から退避をしようとしていた。ブッダは、手に持った槍のようなもので、黒時計の顔を突く。
「啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊! 杀! 杀! 杀!」
頭から液体が漏れ出て、黒時計は苦しそうにしている。ブッダは、2回3回の跳び膝蹴り、からの放り投げ、それを何度も繰り返して黒時計を完全に痛めつける。
黒時計は、果敢に反撃しようとするのだが、哀れ、実力が足りていない。
「たまにあります。ワタシの邪魔をする者。バガヴァッド・ギーター神の詩でも語りましょうか? ああ、無神論者なのか」
「该死くたばれ ……」
「無神論者に命は超えられない」
「それで、今日はどこへ行くんだ?」
「ムンバイ、ちょっと遠い」
このインドの状況をまとめよう。ソウフラ・キューの死刑から、時価数億円を超える金塊があることが明らかになった。そのためには、他を出し抜いて金塊のありかを調べねばならない。
ブッダ曰く、七人の脱獄囚が持つ鍵。そこにありかへの手がかりがあるらしい。
"金塊争奪戦には二種類の存在がいます。生命を超越した結果、死刑を執行できなくなった死刑囚、超越者。他所から介入してきて金塊をあわよくば狙う一般人です。一般人は、たいしたことありません。黒時計は雑魚中の雑魚、何の異能も異常も持たない平凡な存在です。"
僕たちはこの国の南北を縦断する鉄道、通称ナナ鉄道に乗ってムンバイへ向かった。ブッダは、これまでにすでに二つの鍵を手のありかを知っている。そのことについて簡単に話してくれた。
あるとき、鉱山開発に携わって金を稼ごうとしていたブッダとその仲間たちは、鉱山労働者のとある噂を聞いた。それは、インドの平凡を揺るがすような死刑囚の話だ。死刑囚は、かのソウフラ・キューと接触したのだ。それで、金塊のありかを知っているらしい。
ブッダはその鉱山労働者に金銭を支払って詳細な話を聞いた。その労働者の言うとおり、彼女はムンバイの鉄道で働いていた。彼女は、魂が強靭な女で、殺しても死なない。それこそが死刑囚の力であると、ブッダは言った。
もう一つは、インドと中国の国境地帯で破壊活動を行っていた軍の庇護者だ。これについてはわかっていることはほとんどないが、鍵の持ち主であることは確かなのだと言う。
「確かに僕と似ているけど、僕は死刑に至る罪なんて犯したことない。犯したことがあるとすれば、弟を殺したときだけだ」
──胎児に罪を問えるなら。
「ワタシが気になっているのはそこです。さっきの黒時計も、そして他の人間も、金塊への鍵をウチミさんが握っているのではないかと疑っています。そもそも、金塊には別の含意があるのではないかと思っているひともいるのですから。どのような経緯であなたはその不死性を宿すようになったんですか?」
「不死性ではないのだけれど、パッと見蘇生しているように見えるからね。僕はそのことを全て覚えて全て知っているけれど、逆にこっちから質問していいか? ブッダは、何で金塊が欲しいんだ」
「前に言ったでしょ。ワタシ以外が救世主になることは許せません。だから金塊を手にします」
「その向上心は本当に向上心でいいんだけど、救世主になって何をするんだとか、そういう論点に欠けているよね? 具体的な目標はあるのかな」
「何もかも誰もかもそれを言えると考えるのは無知です。それはいずれ来た時に話します。ワタシは、思慮深いのです」
ムンバイにて
ムンバイ。インド国内二位の都市で、日本で言えば経済的な観点からの大阪や歴史性の高さからの京都に比肩する地域である。とはいえ、ムンバイの歴史は京都より古い。日本より古いと言えばいいだろうか。古くは紀元前、マウリヤ朝、サータヴァーハナ朝など、多くの国家が生まれてきた。名前の由来はパールヴァーディーの異名から来ているのだと言う。
「いわゆるボリウッドがあるのはここです」とブッダは言う。インドは言語が多いので、映画産業も言語毎に分裂する形になるらしい。テルグ語のトリウッド、タミル語のコリウッド、マラーヤム語のモリウッド……例を挙げればキリがない。
金持ちがやたらめったら多いというのもよく言われる。その一方、貧乏人もまた多くあって、それは格差になっているわけだが。
「May I help you?」
少年の声だ。ツノと白い肌からおそらく神人の子だ。この辺で物売りをやっているのだろう。売っているのは、皿やブレスレットなどの土産物か?
「ウチミさん、前も言いましたよね」
僕は、数ルピーを払って商品を受け取った。
「僕は、剥奪された子には優しくしたい」
ブッダは首を傾げてもう一度言う。
「だからウチミさん。神人にはそういうのない。覚えが悪いのではなくて、あなたお人よし。いつか死ぬね」
神人の子は、商品を渡す時、手元に持っていたナイフで僕の心臓を刺した。目にも止まらぬ早業で、それは秒間5回を超えていたと思う。血が噴き出て、僕は命を失う。だが元より半分から生きていないので、半分しか死ぬことがない。それ故に《疎集合内臓》
神人の子は、僕が死んでいないことに驚いていた。蘇生ではないのだけれど。
「ウチミさん、その子の所在がわかった。囚人に雇われてる」
「流石このことを見越して」なんて言われたけど、大したことない。
ムンバイは秩序と混沌を両立させる都市だった。建造物のスカイラインが美しく対岸に見える一方で、混沌のスラム街ではヤク中がトンでいる。
僕が刺されたのはカオスの一面、ブッダが次に案内したのは秩序の一面だった。これもまた、混沌と呼べるかもしれなかったが。それは、日本でもなかなかお目にかかることのない大きさのビルディングだった。
ビルの入り口には鏡が置かれた一室があって、そこに黒服の男性に案内されて部屋を進んでいった。
「少し色々な道を通りますが、余計な人に話しかけたりしないでくださいね」
男は、そう言って忠告した。エレベーターを一度10階で降りる。その階は、ホテルのようだ。各階の著名人らしき人々がちらほらおり、ブッダと僕の姿はどこか的外れだった。そこに居た面白いものを説明しよう。
10階は、メインエントランスが円形になっているようで、そこから外縁の部屋に繋がる廊下がある。第一部屋、第二部屋とエレベーターに近い順番から数えると第五番目の部屋に僕らは案内され、数分待つよう言われる。その部屋に一緒に居た夫婦は、子供らしき男の子を囲んでいる。
「ジュール君。わかっているよね? まずアメリカに行って本格的な数学を学びなさい。あなたには数学の才能があるのだから。それを生かさないでいることは罪なのだ。私の息子であるからには、其の命に従ってもらう」
「ジュール君は、どこにも行かなくていい。インド国内でも立派な仕事はたくさんある。立派な仕事をやる必要もないけれど、とにかく稼いでもらう。そして、最終的には私たちの家を継げばいいのよ。それが望まれている。望まれているのだから仕方ないわ」
"ジュール君、はっきり言って私の人生で間違っていたのは、この女と結婚したことだよ。ジュール君に間違った血脈を継がせてしまった。利得に目ざといこの自由的な人間には、決してインド人の数学的なセンスはないのだから。ジュール君の、人間は国家的な生き物であるという見解にはだいぶ同意するよ。同意せざるを得ないな。良い人間は良い国政の中でしか得られない。アメリカは、悪い国政だ。
「いいえ。決してそんなことは思わない」だって? 君が正しく証明したじゃないか。君はジュール君を堕落させる。民主的な人間なんだよ。それよりもジュール君は、真実を見ることができる僭主的な人間になるべきだ。"
「Mr.内海、話しかけてはなりません」
黒服の人は僕にそう言って、またエレベーターに案内した。次はまた15階で止まった。
15階で案内された部屋には、男が数人一緒に居て、僕の耳に届く声の大きさで話をしていた。
「俺はある時、モハメッドアリ道路を牛耳ってる主と戦った。どのモハメッドアリ道路かって? ああ、お前らは西の人間なのか。東の人間であのことを知らない人は、いないからね。主は、強大な者だった。牛の頭で腕を5も持ち、空手とヨーガと青白い光を放つ魔法の使い手だった。俺にはそんな特殊な能力何もないね。だけど、気合いと根性と仲間たちのおかげで、彼らの圧政から道路を救うことができたんだ」
黒服の人が言った。
「彼は名誉支配制、寡頭制とも言いますかね。そういう性格の人間なのです」
「それは……どういうことですか」
「このビルの持ち主を見ればわかりますよ。彼女でさえ、最終的に国政によって死刑にされたのですから」
最後に僕たちはこのビルの最上階に案内された。背面の窓ガラスの奥に、ムンバイの都市が美しく輝いていた。そこにいるのは、妙齢の女性だった。デスクに座って、悠々としている。彼女はイギリス風の綺麗な英語で言う。
「ここまでにどんな人を見てきました?」
僕は答えた。
「民主制、名誉支配制、寡頭制、そして今僭主制の人間を見ています」
「詳しいのですね。Mr.内海」
「最初の夫婦は、自由さを追い求めるあまりに自由さを失っていた。寡頭制的な気質を持つ父と民主的な気質を持つ母の間で、ジュール君は戸惑っていた。最後に名誉支配制の人間は、自慢話をして周りの男たちを困らせていた。とはいえ、どこまであなたが僭主的なのかは眉唾だが。そもそも僕は、国家と人間を結びつけるアナロジーに同意的ではないのですよ」
「結構です。しかし、魂は実在します。わたくしがこの証拠です。このビルのエレベーターをずっと登って行くと、天幕の向こう側には天上界があります。天上界では、魂たちが新たな人生を選び取るのです。わたくしは賢いので、1番良い人生が何なのかわかっています。だからこそ永遠に生きていられる。良い魂を持つ人間は不滅、魂の徳性によって。それ故に、それ故に《優秀者支配》」
あらゆる人は死に、そして死刑される。彼ら以外は、問答無用に、一切の慈悲なく。
「わたくしは、シャルル・アリューラと申します。以後お見知り置きを。あなたは、Mr.内海。同じ超越者の方とあえて恐悦至極です。ここで提案なのですが、私と一緒に金塊を探しませんか? 同じ超越者の方と戦うなんて、おおむね道義に反しますもの。それに、ここまで来る勇気のある方は嫌いになれません。勇気の美徳は永遠ですもの」
「残念ながら、僕は仲良くなれさそうだ。この建物で、何をしているのか。それがわかれば、あなたが良くはないことを知れるはずだよ」
「わかりますか? ではご案内しましょう。言うなれば、この建物で100人の人間が生まれます。エレベーターを通して、勇敢で、節制的で、思慮深い男たちです」
彼女は、僕をエレベーターに案内しながら、喋り続けた。
"わたくしの過去は、説明しづらいですね。最初というのは、よく覚えていません。わたくしは元々アッティカのテーバイで生まれました。今で言うヴィオティア県の南部のあたりでしょうか。七つ門のテーバイです。ご存知ないですか?
わたくしは、貧しい村の生まれで、乞食のよくいる一人だったのです。それが超越したのは、7歳の頃です。あるとき、智を愛する人がわたくしの目の前に現れて、妹を高く評価したのです。妹は、良い魂を持っていると褒められました。わたくしには、それがたいへん喜ばしいものに思えましたので、妹をその人の元へと案内し、家族に伝え、喜び、祝いました。お金持ちの人と結婚できるのは、とても良いことだったのです。ですが、それは結果的によくありませんでした。智を愛する人は、智を愛することなく、エーロスに耽溺する人であるということが発覚したのは、後のことです。
妹の訃報は、わたくしが成人した後に届きました。病気で亡くなったのだと、父は言いました。噂は、まるで逆のことを示していました。智を愛する人は、妻を、力で服従させる人だったのだと。わたくしは、差し止められていた妹の手紙を見る機会がありましたの。そこには、妹からわたくしに助けを求める声が無尽蔵に書かれていました……。
わたくしはショックで、これでもかと勇気を振り絞って、妹の夫を殺しました。"
「そのどこが徳を有している人なんだ」
「ええ。しかし現実はアンビバレンツですもの。神々が勇敢さを認めました。そして、その男を死刑したことが正しかったことを認めました。その男は、いずれ別の女にも手を出していたでしょう。それゆえに、わたくしの判断は正しかったのです。被害を減らしたのですからね」
「あなたの神は、あなたと相似ているんですか」
「ええ、もちろん」
エレベーターの内部には、今どき珍しくエレベーターガールがいて、ボタンを押してくれた。「天井界にご案内しましょう」そう言って、微笑みかける女性には陰鬱な雰囲気がないでもなかった。
"私の計画は、こうです。魂を用意して、女に産ませる。"
「……」
「……以上ですの」
ブッダはそれを聞いて答えた。
「冒涜的です」
「わたくしの計画は、最終的に先進国の少子高齢化を解決する画期的な実験ですの。それは、どのような観点から冒涜的とおっしゃるのですか?」
「人間は、人間からしか生まれません。豚からは、豚しか生まれないよう」
「あなたは、Mr.内海に自分のことをブッダと教えているのだとか? はて、人間から仏は生まれるのですか?」
「██████!」
"付言するとすれば、国家が人間の徳性を発揮できるようにしなければならないのです。そのためには、国家そのものが人間のようでないといけない。人間は、国家のように軍隊が自分自身を支配しないといけない。それがわたくしです。わたくしが国家としての要素を満たしているからこそ、生まれを制御する必要があるのです。"
そこには、男たちがいた。男たちは、皆一様に筋肉質で、精悍そうな顔立ちをしていた。男たちは、1番2番3番……と番号が割り振られた水槽の中にいて、目を瞑って瞑想し、保管されていた。それは、アクアリウムのようでもあった。
僕は、新たなに生み出される生命に嫌悪感を得ながら、彼女の恐ろしい計画に鳥肌を立てた。
「わたくしが魂を生みます。そして、良い国をつくります。それに何の異言がございますか?」
ブッダが武器を構える。武器と言ったって、それは土産物屋で買ったただの棒にしかすぎない。ただ、ブッダの身体能力は、考慮に値する要素として組み込んでいいかと思われる。
ブッダは、これまで僕が見てきた通りとても運動神経が良い。彼女が使えばただの棒も伝説の剣である。
ブッダは、手に持っていた1ルピー硬貨を数枚弾く。武器を脇に挟んで両手を開けて、器用に発射する。それが、猛スピードでシャルルの首にあたる。首が青く腫れていることが遠くからもわかる。シャルルは、号令を発して、男たちを解放する。
精悍な男たちの集団がブッダを襲う。僕が目を見張ったのは、その後のことだった。一瞬、たった一瞬でブッダは、男1人を気絶させた。首を叩いて、漫画やアニメのような体術で、昏倒させたのだ。他の男たちがブッダを打ってたかって打ったが、ブッダには高々少し怯むくらいの隙しかなかった。
「わたくしが強いのは、仲間がいるからではございません」
「オマエは、ワタシに逆らうな!」
ブッダは、だいぶキレていて首元に噛み付くことを狙う。ただし、それはシャルルの的確な体術に遮られる。シャルルがブッダの股間を蹴り上げて、ブッダは立って跳ねて、だけれどすぐに正気を取り戻した。建物の置物を除けながら、ガラスと壁を破壊して2人は喧嘩した。
もはや2人は互いのことを許せないし、互いの目的と有限性のために戦わざるをえないのである。
僕はビルの最上階を歩いて、真の黒幕の姿を見た。そこには、白衣を着た男性がいた。男性たち、と言うべきかもしれない。しかしそれは、さきほど見た男たちの姿とは異なって、そこまで強そうにも弱そうにも見えない。どちらかといえば肌は弱々しく内向的な目ですらある。ただそこにはちゃんと狂気を宿していたのだ。この特徴的な気配を僕は知っている。研究者だ。
「あなたは?」
「財団です」
「あなたの目標を聞いてるんです。金塊ですか?」
「……それを金塊と呼ぶのですね。また最終目標でお会いしましょう」
白衣の彼らは、男の肉体を抱いて言った。ブッダが喰らわせたダメージで横たわっている男たちは、彼らに回収されていく。僕に誰かが発砲する。スーツを着た女の攻撃だ。それでも、僕は死なないのだけれど。
「確保・収容・保護」
闇の中に、彼らは消えていった。
獣と主権者
「それでは、ゼミナールを始めよう。いや、始める前から始まっていると言うべきか?」
教授は、学生たちに宣言した。