狂騒序曲
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その日、いくつものフライトの到着を経て、入国審査官の男は業務に忙殺されていた。

ローガン国際空港に発着する航空機は増えるばかりで、検疫官も手荷物検査官も増員が追いついていなかった。空港職員はただでさえ最近になって大幅に増えた業務に手一杯で、その上単純な作業量が増えたのではどうすることもできなかった。

今まさに、彼の眼前ではおそらく中国語らしき言語で会話している3人組がいて、明らかにそのうち1人は15フィートほどもある歩く仏像のように見えた。1人は複数の腕と頭があり、それらをそれぞれカラフルな布で覆っている。最後の1人は不定形で、何か紫色に見えるガスを垂れ流していた。

「ええと、」

彼は口ごもり、彼らのパスポートに日本からの出国スタンプが捺されていることと、彼ら全員の乗降処理記録がシステム上に存在していないことの矛盾をどう指摘すればいいか考えていた。

第一の問題として、彼は中国語に不慣れであり、第二の問題としてはそれ以上に非人類(こういった呼び方が適切かどうかは、この3年間で常に議論されている事柄だった)に不慣れだった。第三の問題として、彼はパスポートの写真と実際の旅客の顔を見比べて入国審査をしなければならないのだが、彫刻やガス状生物の顔の見分けなどつくわけがない。
彼が悩んでいる間に、旅客の1人は事態の深刻さに気付いたようだ。彼女は複数の腕で同時に一個の頭を指差し始め、どうもその頭がパスポートに登録された顔だということを示そうとしているらしかった。

金属探知機のブザーが鳴り響いた。そちらに目を遣れば、憤然とした面持ちの老人と同僚の入国審査官が押し問答をしている。老人の掲げた右腕は鈍色に輝いていて、明らかに肘から先が機械だった。ついでに言えば、その接着面はどうも癒着しており、取り外しは不可能な構造になっているようだった。

既にカウンターの後方に長蛇の列ができている。旅客処理の効率の絶望的な低さについて何度目かも覚えていない改善案を脳内で纏めつつ、とにかく彼は責任者を呼ぼうと試みた。上司が過労でオフィスの机の上で眠りこけていないことを祈りながら。

「ああ、悪いな、すまない! 通してくれ、政府の者だ。彼らはこちらで引き受ける! 政府の客人なんだ」

メン・イン・ブラックに助けられるのはここのところの通例とでも言うべきか。お決まりのよれた黒スーツにサングラスの男は、審査カウンターの向こうから早足で近づいてくるなり奇妙なジェスチャーで3人の奇妙な旅行者に指示を出し、鮮やかな手付きで3枚のパスポートに入国許可のスタンプを捺した。

「悪いな、システムの不備だ。彼らは旅客として飛行機に乗れなかった──シートに納まらなくて。貨物室に乗る客向けの計上システムを開発するように各社をせっついてるんだが。ともあれ、君の素晴らしい業務態度を誇りに思うよ、この調子で頑張ってくれ。彼らが上手いこと国連総会で演説できれば、君は功労賞を貰えるかもしれないぜ。それじゃあ!」

連邦捜査局のエージェントは颯爽と去り、人外たちはその後を追った。申し訳なさげに礼をする7つ頭の異形が彼の脳内に強烈に記憶され、入国審査官は頭を振ってその忌まわしい記憶を排除しようと試みた。

「なあ、早くしてくれないか? 後がつかえてる」
「…………ああ、すまない。どうぞ」

手招きに応じて、次の旅客がブースに入ってくる。今度は間違いなく人間だった。疲れた目を擦り、真新しいパスポートを確認する。出国記録はリヤド、チュニス、モスクワ、香港。若いアラブ系。名前は東欧風。英国籍。
奇妙な取り合わせだが、さして不審な点はないように思える。世界は多様だ、特にあんな奴らの直後には。

「──あんたらも苦労してるんだな。馬鹿げた連中の相手をさせられて」
「ん? ああ、さっきのか。仕方ないことだ、世界は変わった」

小声で話しかけてくるは、奇妙に甲高い声をしていた。低い鼻筋の上で、小さな瞳がぎらぎらと輝いている。

3年前の事件以来、表社会に出てくるようになった奇妙な存在たちについて、多くの人間は興味と隔意を相応の比率で抱いてきた。特に若い層では、"超能力者"や"ミュータント"を受け容れる声が強い。一方で、宗教上の理由や直接的な利害、または単純な恐怖や嫌悪から、彼らを排斥するものもいる。
この男もそういった部類だろうか。声のニュアンスは蔑視の色が濃い。

「あんまり捨てたものでもないがね? 私の同僚の妻に蛇女ラミアがいることがわかったんだが、この前やっと自宅に招待してもらえたんだ。あれはあれで美しいと思ったさ。同僚の性癖に少しばかり議論の余地があるのは事実だが──」
「そういう話じゃない。おかしくないか、と聞いている」
「あー、うむ、悪いがそういった話題を私は好まない。ボストンには観光に?」
「…………視察だ。仕事でね、輸入の管理をしてる」

露骨に不機嫌になった旅客は、それっきりむっつりと黙り込んだ。
念のためにデータ照会をかけてみるも、問題はない。前歴なし、監視なし。すべてホワイト。多少思想的な偏りがあった所で、合衆国は自由の国だ。罪がなければ止める道理もない。

「帰りのチケットの登録がないが、滞在許可は9月11日までだ。それまでに購入の予定はあるか?」
「問題ない」
「ふむ……行っていいぞ。よい旅を」

声をかけても反応はない。差し出したパスポートを引ったくるようにして、男はブースを去っていく。

「──帰りの便など必要ないとも」

その呟きは喧騒に掻き消され、審査官の耳には届かなかった。
もし仮にその言葉を聞き届けたとして、彼にできることはなかっただろう。


その日、少年は狭い空を見上げ、路地裏のスナックフードの包み紙が積まれたゴミ溜めの中で、頬を腫らして横たわっていた。

彼の右手は弱々しく握り込まれ、怒りと屈辱が等量になって綱引きをした結果として、力を込めたり抜いたりを繰り返していた。
切れた頬肉は血と塩の味がする。剥がれた皮の感触は気味が悪く、少年は軽く舌打ちした。

左手で持った携帯電話はブラックアウトし、時折不自然に明滅してはメッセージをぼんやりと映し出す。
能力を叔母さんの携帯電話に応用する彼の画期的な試みは見事に失敗し、そいつはどこの掲示板に繋がっているかもわからないただのガラクタ──州の電波法違反──に成り下がっていた。

: スーパーマンが現実にいてほしいって思うのは、ガキの頃の自然な心の動きだと思う。けどさ、成長するにつれてそういう感覚はなくなっていくもんだよな。

: だからさ、怖がられるのは仕方ない。俺だってそう思う。指先からバチバチ静電気が出た所で、だから何なんだ? 良いことがあるわけなくて、ヘンな目で見られて、それだけなんだよ。

: けど、それにムカついて、やってやろうって思うのも同じことじゃないか? なんで反撃しちゃいけないんだ? スクールには馬鹿しかいない。誰もわかってない。ここにいる奴らも。

: ちくしょう

敗北感に打ちひしがれて、少年は上体を起こす。
摩天楼に切り取られた狭い視界の中、旅客機が低く離陸してゆく。マンハッタンの空はいつにも増して雲が多い。どこかの宗教団体が環境破壊の脅威を訴えるために雨乞いのデモを繰り返し、スタテン島を水没させようとしているらしい。
必死に祈っている彼らの様子を覗きに行った次の日に、祈りの儀式を真似た数人の同級生が教室じゅうで笑いを取っているのを目にしたことを思い出し、彼は憂鬱な気分になった。

誰もが自分と違うものを怖がるかといえば、そうでもない。
どちらかといえば、からかい、馬鹿にし、中傷しながら遠ざける。
それがなぜなのか聞いたって、教えてなんてくれないのだ。ただ同じことをする。もっと仲間を増やして。

何もかもが気に食わない。
意味もなくムカついて、今日も学校を抜けてきた。
反撃することもできないひ弱な自分に嫌気が差して、だからといって全員を感電させていたら、叔母さんは地区を追い出されてしまうだろう。

八方塞がりだ。

ふと、汚れた包み紙に混ざって捨てられている、真新しいチラシが目に入った。
モノクロ刷りの古臭いレイアウトは、まるで昔ながらのカトリック教会のポスターだ。
けれど──そこには十字架の代わりに、槌と鉄床によって組み上げられる、ひとつなぎの歯車仕掛けが描かれていた。

マンハッタン区に新設された教会が、オープニングセレモニーを実施する。
地元住民の参加歓迎。入信の有無は不問。
神父の説諭と3宗派合同の式典の後、それぞれの宗派は祈りの儀式を行い、宗派と地域の安寧と発展を祈願する。
責任者は教区合一神父、ネイサン・フィルモア
期日は、9月11日。

右手からはもう力が抜けていた。
ぼんやりとその紙切れを手にとって眺める。
鉄床を叩く槌の簡略化されたロゴマークは、かつてベッドの中で彼が初めて指先から流れる火花を目にしたときの、あの輝かしいシルエットに少しばかり似ていた。

ほんの少しだけ、気分が上向く。
チラシをジャケットの右ポケットに突っ込んで、ゆっくりと起き上がった。
とにかく、今日の夕食を貰えるかどうかはこの携帯電話をまともに動かせるかにかかっている。

ゆっくりと歩き出す。
少なくともこの時点では、彼には人前で恥ずかしげに名乗るがあった。

bluntfiendは存在しない。今はまだ。これからのことは結局不明だし、彼には目下の課題がある。


その日、業務中のジャック・ブライトは、メールフォルダに溜まった数十通の新着メールの中から、ふと目に留まったそれをクリックした。

SCiPNETの初期登録を何の問題もなくくぐり抜けられたとは到底思えない差出人名は、連勤8日目で強張った彼の口元を少しばかり綻ばせてくれる。
もっとも、内容自体はあまり調子の良くないものだった。仕事を増やすこと請け合いな内容に、ブライトは自然と半眼になる自分を自覚した。

どうやら目下の懸念事項のひとつが棚上げになっているようだった。メールボックスの下の方にわだかまった認証書類の提出遅れに関する矢のような催促を、もう数日ばかりはいなし続ける羽目になりそうだ。

溜息を吐きながら、ブライトは机の脇のメモ帳にサイト-64機動部隊司令部の連絡先を殴り書きした。隣のデスクで電話中の同僚にそれを投げ渡す。不満げな彼を無視してジェスチャー──"アポイントメント、電話テレ、長時間、責任者"。どうやら長時間電話口で待たされているらしい彼は頷いて、肩に引っ掛けた受話器はそのままに業務用の携帯電話を取り出した。

ブライトは再びメールボックスに目をやる。簡素な入力フォームを眺めて少しだけ思案し、それから文章を打ち始めた。

返信は早いほうが良い。それがいつメーラーを開くか分からない相手なら尚のことだ。

そこまで書いたところで彼は首をひねる。不機嫌さに拍車がかかりつつある旧友に対してよく我慢してはまずい。
メールの推敲にかかるブライトの傍らにひっそりと手続書類が追加されたが、彼がそれに気付いて頭を抱えるのは返信を終えたあとだった。

事務手続とは往々にしてこういったものであり、財団もまた書類からは逃れられない。


その日、少女と小動物は砂漠の只中に放り出されていた。

中天に差し掛かった日差しが、じりじりと世界を焼いていく。
気温は明らかに華氏100度を越えていた。流れ出す汗は乾ききった外気に触れた途端に蒸発し、荒野の白く焼けた砂に陽光が反射して視界を奪う。
およそ生物の住める世界ではない、白茶けた荒野。
ネバダ州のおよそ8割を占める砂漠地帯は、西部開拓時代にホームステッドの対象となることもなく打ち捨てられたままだ。

時折吹き抜ける熱風に砂が舞い上げられる開けた平地に、打ち捨てられたコンクリート製の建屋がぽつぽつと建っている。
黒尽くめの少女はそのひとつの入り口に、強烈な陽光を避けて座り込んでいた。

「……こんな場所に何があるっていうのかしら」
『さあね、そればっかりは分からない』

汗が流れることすら許さない、湿度10%以下の極限環境。
建屋の天井を見上げてぼんやりと呟く少女に、獣の甲高い声が応じた。

剥がれ落ちた壁紙が風化して砂と混ざった吹き溜まりの中で、埃まみれになってサソリと戯れる影がある。
大型のサソリの鋏に耳を挟まれて、さほど痛くもなさそうに振り払うその姿はフェレットじみた小動物だ。
長く大きな耳と白に時折紫の混じった毛並み、赤の瞳を持つ異様な外見の生物は、当然のように英語を話す。それも発音の良いクイーンズを。

『僕の能力では君の転移を制限できない。ここは君の世界で間違いないのかな? 今までベースラインからそれほど逸れたことはなかったけれど、似たような場所には何度も漂着したじゃないか』
「知らない。けど、ポータルは正常だったのよ。あのドルイドは私の行き先の意味を保証した。ここが大事な場所だって」
『以前も言ったと思うけど、鹿頭のドルイド僧がアイダホの山中に隠れ住んでいる意味をもう少し考えたほうが良かったんじゃないかな。つまり──彼女が、インチキなことを言ってる可能性を』
「その話はもう終わったわ、少なくとも彼女は財団から逃げるのを手助けしてくれた」

淡々と紡がれる嫌味を聞き流す。ここに来て3日、少女にはもう相棒の意見をまともに検討する余裕はなかった。
食料はあと数日は保つだろう。熱射病にかかるのを避けるため、探索は夕方になってからだ。不幸中の幸いとして、ここいらはコヨーテすら近づかないようだ。少女と小動物の夜遊びを邪魔するものはいなかった。お節介な役人たちを除いては。

『誰かから見られているよ、アリソン。そこから離れて』

相棒の警告に素直に従って、少女は建屋の奥に移動した。小動物は飛び跳ね、建屋の出口に行って陽光を浴び、身震いした。背中の一筋の銀色の毛並みが輝き、何かしらの人工の奇跡が起こったことをアリソンに知らせた。
放棄された核実験場の上空を、一瞬だけ点滅する光点が通り過ぎ、すぐに消える。

「何が見えたの」
『たぶん偵察機だと思う。政府か、連合かは分からない』
「財団じゃないのね」
『僕は彼らに詳しくないんだ。記憶は欠けてしまっていて、彼らのやり方を覚えていないから』
「私たちのことを悟られないなら、それでいいわ。夜まで隠れていましょう」
『それがいい。上手く行けば探しものが見つかるだろう──これまでの旅路を考えれば、たぶん、次の行き先へのポータルだ』
「だといいけど」

肩を竦め、少女はバックパックから毛布を取り出した。図書館で出会ったパンヤギの神を名乗る友人から贈られた毛布は包んだものの温度が一定で、普段は少し暑苦しい。しかしこの砂漠においては頼りになった。少なくとも昼に熱射病で倒れたり、夜に凍死する心配はない。

「ねえ、ヘキサ」
『うん?』

乾いたカビの欠片が舞い散る建屋の中、ぼろぼろのソファの上で丸くなった少女は、細めた茶色の瞳を相棒に向けた。

「いつになったら、父さんを見つけられるのかな」
『パラドックスを考慮するなら、そろそろだ』

注意深く空を見上げながら、小動物は静かに答える。

『君は君に会ってはならない。何かしらのちょっとした事故がタイムラインをめちゃめちゃにしてしまったから、君のパラドックスは君が解消しなきゃならないんだ。-81.2°宇宙の君は失敗してしまった』
「図書館に閉じこもるのは我慢ならないわ。きっとその子もそうだったの」
『理解はできる。とにかく、9月11日はターニングポイントだ。何かが起きるとしたらその日だろう。図書館にある預言はよく当たるから』

背中の毛並みを僅かに逆立たせる魔法生命は、相棒の少女を見ない。
傷つきやすい年頃の彼女には、一人でいる時間も必要だ。

『おやすみ、アリソン。日が暮れる前に起こしてあげる。今夜もずっと歩き回ることになるだろうから、まずは身体を休めることだよ』

返事はなかった。ただもぞもぞと姿勢を崩す音がして、しばらくすると寝息が聞こえてきた。
小動物は空を見上げ続ける。
人の感性を喪って久しい彼には、彼女の悩みの多くは共感しかねるものだ。だから経験と勘に従って、彼はできるだけのことをするしかない。

君のいる世界を守りたい。

いつだってそれが、彼の存在意義だった。


その日、チェレスタ事務次長は執務室のデスクに座って、扱いが恐ろしく面倒な幾つかの情報と対峙していた。

彼女の目の前には2つの投影型ディスプレイが立ち上がっていて、画質の荒い青ざめた画面に2人の男性が映っている。1人は眉根の垂れた温厚そうな壮年の白人で、もう1人は鷹のような目付きをした褐色肌の若者だった。

「それで」

チェレスタは静かに、先程までの両者の報告を脳内で突き合わせ、纏めていた。
この能力が抜きん出ているからこそ彼女は若くして世界オカルト連合の事務次長級という要職に就いており、そして今、事務総長の留守を預かる代理人という大役を担っている。

「つまり、こういうわけですね。マーシャル・カーター&ダーク社によって、我らが中東方面情報部が把握する数に数倍するパラテク兵器がアフガニスタンとその後背地に持ち込まれており、米国はこれを完全に黙認していると?」
「それだけではありません、事務次長。紛争地帯において、MC&Dの商業兵力部門は公然と傭兵活動を行っています。民間軍事会社を名乗り、傭兵とパラテク兵器運用技術のパッケージを提供し、新たな商業形態を築きつつある。同地に対する深刻な正常性への脅威です」

いつにも増して不機嫌そうに、ウードというコードネームを預かる世界オカルト連合の若きカブール地区長は報告する。
頭脳明晰にしてあらゆる人物に同様に不快感を与えるこのクルド人をチェレスタは扱いかねていたが、喫緊の課題のひとつであるアフガニスタン方面では、この男が最も優秀な手腕を示しているのも確かだった。

彼の報告に連動して、新たな資料が提示される。プロメテウス社謹製の高速通信システムが、イギリス生まれの老舗超常企業が今や完全に死の商人に転身したことを裏付ける、異様に長大な取引リストを受け取った。

チェレスタは明らかな頭痛の種が一つ増えたことを認識する。MC&Dに対する制裁は容易なことではない。彼らの本拠地は依然として英国を含む西ヨーロッパであり、彼女自身の管轄区域では最高クラスの大物だ。
3年前のあの忌々しい事件以後、彼女は公的な場で御年6歳のアイリス・ダークと握手したことすらあるのだ。あれほど屈辱的な体験はそうそうできるものではない。

「現状、アフガニスタン方面は治安維持が最大の課題よ。それに関連して、ノリエガ少将の報告は興味深い。同地過激派の勢力図が大きく変化し、戦闘員の流出が加速した。そうよね?」
「私の所掌する米国北東部方面に関連しての結論だが、そうなる。非常に──非常に興味深い。MC&Dによる派遣戦闘員の需要が高まったのは当然の帰結だ。明らかに、健康で有力な妖術師、パラテクノロジー生産に長けた技術者、訓練を受けたゲリラ活動家が世界中で本来の活動地域外に脱出し、少なくない数が北米に侵入した痕跡がある」
「何かしらの巨大な計画が?」
「不明だ──不明だからこそ、確実に存在するとも。通常、彼らはここまで組織だった行動をすることは不可能だ。そのような能力は元々有さないからな。となれば、その能力を提供した存在を疑わねばなるまい」

鼻息を荒げるノリエガは、物理PHYSICS部門の北米部局を管理する上級将校の1人だ。背後のぎしぎしと軋るような環境音から察するに、ボストンの自身の快適なオフィスで椅子に全体重を預け、書類綴を適当にめくっているのだろう。ウードが明らかに不快気な表情をするのを意に介さず、ああこれこれ、と肥満体の背筋をほんの少し伸ばす。

「面倒な協定はさて措いても、財団との資料共有には利点があった。こういう場合、ORIA以外でもっともらしい動きができる連中を、我々はよく知ることができたからね?」
「インサージェンシーのことを言っているのなら、確定は時期尚早です」

チェレスタは先んじて釘を刺す。
この老獪で優秀な、風見鶏を装う老人が何を考えているのかは、もはや火を見るより明らかだ。

「合衆国の現大統領は親財団派で、国連の影響を軽視している。我々の恒久的な発言権の確保は妨げられつつある──成程、成程。この件を好機だと思うべきではないかね、事務総長代行?」
「事務総長は在任中であり、国連総会のために本部を空けているだけです。不規則発言は謹んでください」

粘っこい笑みを浮かべる老人の言葉を遮り、チェレスタはウードが仏頂面を浮かべる画面に向き直る。若き地方局指導者は、早く通話を切りたいという思いを顔中にでかでかと書き連ねているようだ。
社会性に欠けた同僚と社会性が過剰な同僚に囲まれる不快感を務めて押し隠しながら、チェレスタはウードに下命する。

「ウード地区長、カオス・インサージェンシーに対するカブール地域の各組織の認識をレポートに纏めてください。期限は4日後とします。可能であればアフガン全域、ORIAを含む周辺4ヶ国の主要組織にも調査対象を広げるように。リソース配分は自由に──」
「2日で終わります。50時間後には所定の形式で送信を。それでは」

ぶつりと通話が切れた。思わず憤慨の表情を浮かべてから、すぐにかき消す──ノリエガは明らかに失笑を堪えようとして、ほとんどそれに失敗していた。
その笑みも、チェレスタの次の一言によってかき消えたが。

「ノリエガ少将は現状について、財団北米司令部と完全な情報共有を。米国政府と協議し、入国審査を強化してください。ただし、審査そのものの遅滞がないように」
「何だと、チェレスタ。貴様、財団に対する情報優位をむざむざ捨て置けというのか?」
「申し訳ありませんが、それは現状の重要事項ではありません、将軍」

老人の驚愕する表情をビデオ撮影したい欲求に駆られつつ、チェレスタはばっさりと結論する。

「開催中の国連総会は、幾つかの重要な超常国家の承認と大使演説をもって国際社会への統合を呼びかける、連合にとって最も重要な事項です。連合とアルフィーネの面子がかかっています。国連総会の失敗は許されないことです──政治闘争はいつでも可能ですが、超常テロの脅威を野放しにする選択肢はありません。財団はもはや敵ではないのですから」

よろしくお願いいたします、と言いおいて通信を切断する。
ノリエガは老獪な狸だ。何やかやと理由をつけて、最低限の情報優位は独断で勝手に確保するだろう。
必要な時に必要なだけ、上級命令に違反しない範囲のことしかしない男だ。テロ対策は彼に任せて、事務処理を片付けねばならない。

ふと窓の外を見れば、傾きつつある首都特別区の太陽の下を銀色の翼が横切っていく。
ダレスに降りる飛行機だろうか。あれにテロリストが乗っていないことを祈らねばならないとは、全く!

首を振って、彼女は仕事の続きを処理しにかかった。まったく、優秀な上司を持つと苦労する。


その日、長いフライトが終わって、シートベルトから開放された少女は小さく伸びをした。

ダレス国際空港はワシントンDCの玄関口だ。アメリカ合衆国政治の中心、首都特別区を訪れる人間は人種国籍の区別なくこの場所を訪れる。
そして今や、人間以外もおおっぴらにこの空港を使うようになった。

検疫所でのひと悶着を、休憩スペースに座った少女は興味深げに眺めている。極端に毛深い3人の人間に似た存在が、片言の英語で検疫官に詰め寄っていて、どうやら彼らの外交上の特権について説明を試みているようだった。
後ろで腕組みをしている、少しばかり毛の薄い白っぽい人物はどうやら階級の高い存在らしく、どういうわけか2組ある腕の片方のペアで優雅にコーヒーを啜っている。

将校か何かなのだろう、黒い毛皮の存在が大声で喚き立てる偉大なる第三帝国がどうのこうの、という長広舌に、周囲で遠巻きにしていた観衆たちがどよめく。少女には少しばかり滑稽に思えた──どう考えたって目の前の鳥の親戚みたいな連中はナチスと関係がなさそうだった。

「ここにいたのか、シャルロット」

大柄な男が近付いてきて少女に声をかける。彼女はもっと滑稽な気分になった。シャルロットだって! その男があまりにも真顔でそんなことを口にするものだから、笑い出さないのも一苦労だ。コードネームは事前に通達されていなかったから、現地セルの連中が考えたに違いなかった。

「ちょっとキリアコフ、お前、本気で私のことをそう呼ぶつもりなのか?」
「エーリッヒだ。そう決まった」

全身を灰色で固めた男のぼそぼそとした応答に、少女は本気で吹き出しそうになる。エーリッヒ! 言うに事欠いて、ドイツ系だと!? 生粋のウクライナ系ロシア人につけるコードネームのセンスとしては最悪だ。自分の名前といい、NYの現地セルは良い趣味をしている。余程鬱憤が溜まっているようだ。

「分かった、エーリッヒおじさま。家族ということなんだろ? この後はどこに連れて行ってくれるのかな」
「アパルトメントに直行する。ディーンウッドだ。荷物を置き、身支度を整え、それから礼拝に行く」
「へえ。礼拝堂は良いところを見つけたんだ? 私は練習用に空が見えるところがいいんだけど」
「無論だ。術者も筋の良いものが揃っている。必要なものがあればメモを作成してほしい」

片時も表情を変えることのないこのGRU上がりのエージェントが一体どうして自分のカバーに選出されたのか、少女には全く理解できなかった。相変わらずコマンドは細かいところが雑だ。そんなだから財団とGOCに良いようにあしらわれるのだが、最近は両者が別件で忙しくしているので、彼らはやりたい放題にしている。

「それならちょっと待ってくれ。まだ荷物を回収してないんだ──ええと」

周囲を見渡す。まだ成長期に入ったばかりの少女にとって、空港の案内表示は見づらいことこの上ない。
運良く、大量のカートを押す空港職員が目の前を通りかかった。

「ああ、ごめんなさい、警備員さん! ユナイテッド航空のターンテーブルはどれかしら?」
「うん? それならGレーンだが、お嬢ちゃんは1人かい。ここは迷いやすい、お連れさんはいないかね」
「大丈夫よ、エーリッヒおじさまがあっちに立ってるわ。まだ英語に不慣れなの」
「そうか、大人がいるなら安心だ。DCは観光名所こそ少ないが、お客さんはいつでも歓迎さ」
「そう? とっても良いところに見えるけど。それにおじさまのご用事を済ませたら、ニューヨークに連れて行ってもらえるの」
「そりゃあいい、今あそこは大変混み合ってるが、楽しい街だ。エーリッヒによろしく言っといてくれ」

じゃあな、と笑顔でカートを押していく職員を、少女は笑顔で手を振って見送る。
ふと背後に気配を感じた。よく隠された、しかし肌身に沁みる張り詰めた空気。

「殺気くらい隠せよ、エーリッヒおじさま? ここは空港だ」
「機密の漏洩は死罪に値する。コマンドの規則は脳に刻まれているだろう」
「スイッチは無反応。起爆条件がわからない脳内爆弾なんて邪魔になるだけだろう? 条件を確認してみただけさ」
「計画が露見するリスクは犯せない。以後、一般市民との不必要な会話を禁ずる。ティール工作員に対する正当な権限で」
「はいはい」

堅苦しいお守りにげんなりした素振りを大袈裟に見せつつ、少女はターンテーブルに向かう。
幸運にも、探しものはすぐに見つかった。厳重に梱包された大きめの包みを探し当て、旅券裏のタグと一致するのを確認するなり、すぐに包装を解いていく。
まもなく、少女の身体には少しばかり大きいキャリーバッグが姿を表した。
アイスクリームと水玉が全面にプリントされた、ポップな少女趣味のそれ。

にっこりと幸せそうに笑って、シャルロットという名前になった少女は後方で待つエーリッヒの元へ向かう。
キャリーバッグのプリントがほんの少しだけ剥がれ、シールで覆われた内側の模様が見えていた。
外側のシールと同じ色遣いで、しかしほんの少しだけ異なる絵柄。
描かれているのはアイスクリームでも水玉でもなく──カップケーキ

「9月11日、か。楽しくなるぞ」

まるでおもちゃを買ってもらえるのを待ち望む、誕生日を迎えた小娘がごとく。
空港のゲートを楽しげに潜り、悪夢が街へと解き放たれる。
そのことを知るものは、財団にも連合にも──ましてや政府にもいなかった。
氾濫するもの。混沌なるもの。這いずり蠢く分割された細胞たちだけが断片を繋ぎ、その朧気な輪郭を組み立てる。


狂騒の日は、まだ遠い。

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