片道切符と星のまよいご
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北斗七星は七つの星から出来ている。
自分には星が八つ見えていたのだが、
それを言うと嘘つきと呼ばれるから、
七つの星しか見えない事にしていた。

北斗七星は七つの星から出来ている。
それが、私の世界の「本当」だった。


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掛け算の順番は絶対不可侵の聖域で、アレルギーは母親の愛情で治り、世界は公平で、北斗七星の星は七つ。幼い自分が育ったのはそういう世界だった。そこを出て大学に入ったとき、唐突に呼吸がしやすくなったのをよく覚えている。「ここでは本当のことを言っても怒られないのだな」と思った瞬間を、友人と八つの星を数えた夜を、自分が忘れることはないだろう。真実というものがこの世にあると無邪気に信じることが出来た、短い夢のような期間だった。

そして大学を出て財団に足を踏み入れ、やっぱり本当のことを外で言ってはいけないのだなという現実を学びなおした。エネルギー保存則は案外簡単に破れるし、明けない夜は存在しうる。世界は暗闇に満ちていて、頼れるのはほんのわずかな光だけ。死の影はそこかしこに存在してて、明日が訪れるなんて保証はどこにもない。そんな事実に多くの人間は耐えられない。自分が辿り着き、あまつさえ友人を引き込んだのはそういう暗闇の世界だった。これから会う大学院生も、きっとその道を辿るのだろう。自分ではない同胞に手を引かれて。

かつて通った道。██という人間が、一つ溜息を押し殺す。どうにも、古巣に近寄ると余計な事を思い出していけない。切り捨てたはずの郷愁が、臓腑のどこかやわらかくなまぬるい部分に、まだべったりとこびりついているらしい。……ともかく、今は仕事で来ているのだ。雑念を振り払うように頭を振り、歩きながら一つ深呼吸する。安い居酒屋の排気が混じった清廉な都会の空気を吐き出すころには、完全に切り替わっていた。



大丈夫だ。自分が誰で、何を演じるべきかはちゃんとわかっている。自分は財団渉外部門のエージェント。所属は人事課で、主な職務は人材の引き抜き。異常と正常の境界線に立ち、踏み越えさせる、ある種の死神。平素通り白滝という偽名を使っていて、今回は同僚の頼みで仕事の帰りにここに寄った設定。目的は、仲間が見つけてきた新人職員候補を拠点の一つへと送り届ける事。牧羊犬の役、それも代演というわけだ。

一人で来させればいいだろう、と言ったのだが、どうやら極度の方向音痴らしい。ひょっとすると進路に迷ったせいで財団にも足を踏み入れてしまったのかもしれない。迷い込ませる側からすればその方が楽なのでありがたい話ではある。まあ、希望的観測を抱いてみたってしょうがないのだが。大丈夫、自分はいつもの“エージェント・白滝”だ。それだけを確認して思考を打ち切る。

“初めて来る道”を辿り、白滝は待ち合わせ場所として指定された図書館前のピロティへ足を踏み入れた。“エージェント・白滝”がこの大学に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。だから白滝は何度か周囲を見回して、ようやく対象が埋もれるように座っている片隅の椅子を見つけ出した。

真北まきた むかうさん、ですよね?」

おずおずと問いかけ、相手がぎこちなく頷くのを確認。安心した、と言わんばかりのほっとした笑顔を作って自己紹介を口にする。

「白滝、と申します。亦好またよしの代理で道案内に来ました。よろしく」

事前に聞いていた通り、人の目を見るのが苦手なタイプらしい。目を合わせようとするのをやめ、白滝はぺこりと頭を下げた。今日は普通のスーツだから、カーテシーでもレヴェランスでもない、日本流の普通のお辞儀だ。この大学で舞台の上のような挙動をするのは何となく憚られた。

「亦好さんから話は聞いています。すみません、お手数をおかけします。こっちのキャンパスにはあまり来ないものですから」
「いえいえ。さあ、行きましょうか」

白滝はにっこりと笑って歩き出した。正直に言えば、早く安全地帯に送り届けてしまいたかった。

今回の任務はただの道案内、という訳ではない。この近辺に微弱な異常領域が発生しているのだ。幸い人通りの多い場所ではなかったこと、並外れた危険性は確認されていないこと等からカバーストーリーと少しばかりの記憶処理で対応可能であろうと見なされているが、そこに財団入りを目前に控えた迷子常習犯がいる、という事で自分が駆り出されたのである。財団職員候補と共に異常領域をかすめるルートを通れ、というのだ。何らかの「試験」を兼ねていたとしても不思議ではない。決して油断出来る状況ではなかった。

開けた空の下に出てみれば、日はとうに沈んでいた。当たり障りのない会話をこなしながら学生たちの間を潜り抜け、正門から国道沿いの道へと出る。視線を巡らせて方角を確認し、白滝は先導するように歩き始めた。少しおいて、内容の薄い会話を打ち切るように真北が背後で呟いた。

「しかし、意外だな。亦好さんも人違いとかするんだ」
「人違い?」

上体だけ振り返って10度ほど首を傾ける。彼は目をそらして大学を振り返りながら答えた。歩くペースが一切落ちないあたり、前を見ずに歩く事には不安を覚えない気質らしい。

「人違いっていうと語弊がありましたね。ただ、白滝さんって人はこのキャンパスの学部出身だから土地勘はあるって聞いていたんですよ。どう見てもここに来るの、初めてじゃないですか」

そういえば白滝になる前の「私」はこの大学を出ていたのだった、と思い出した。大丈夫だ、と白滝は自分に言い聞かせる。思い出したところで所詮他人事だし、疑われている様子もない。

「亦好さんがそんなことを」
「本人はしらを切るかもしれないからちょっと観察してみろ、と。違ったみたいですが」
「それは不思議ですね」

偽らざる本心だった。あの人が理由もなく他人の経歴を明かすとは思えない。ならばその理由とは何だ。その意図について考えていると、いつの間にか問題の領域が近づいてきた。あと少しで、道一つ隔てた先が異常領域というところまで接近する。彼は何かに気づくだろうか。怪しまれない程度にペースを落とし、周囲に視線をめぐらせる。何も起きていない事を確認するつもりだったが、白滝はそこで気づいてしまった。

人の気配があまりにもなさすぎる。元々人通りの多い道でもなかったが、これ程ではなかったはずだ。そして、交差点に置かれたカーブミラーに自分たちの姿が映っていない。どういうことだ、ここは安全地帯ではなかったのか。財団が認識できていない異常があったか、あるいは領域が拡大しているか。いや、そんなことを考えている場合ではない。何よりも対処するべきものがある。

「白滝さん? どうかしましたか」

背後の暫定民間人こうはいをどうするかが最大の問題だ。異常に関しては感づかれない限り何も言うな、というのが財団からのオーダーである。自分からヴェールを外すのは最終手段だ。

「ああ、いえ、失礼。この道で正しかったか少し不安になっただけです。少し確認するのでお待ちください」

眉尻を下げて申し訳なさでいっぱいという顔で取り繕い、交差点を外れ、視線が鏡に向かないように誘導する。そうしてから白滝は端末を取り出して現況を財団に報告した。真北からは道を検索しているように見えていることだろう。ちらちらと頼りなく光る端末の画面から目を上げると、真北がじっと白滝を見ていた。苦々しく笑ってみせる。

「すみませんね、案内のために来たのにこんなことになって。この道であってるとは思うんですが、もう少しお待ちください」
「いえ、僕一人ならまだ迷子になったと気付いていないくらいですよ。……白滝さんは道に迷うの、初めてなんですか?」
「……まあ、大人になってからはそうかもしれませんね」
「そんな気がしました。思い切って歩き出すと案外どうにかなったりしますよ」
「現在地をロストした時は下手に動かないのが鉄則では?」
「そうですか? 僕、いつも着くまで歩いてどうにかしてます」

「だから迷子になるのでは」と「それは”どうにかなる”の範疇なんですか」をどうにか抑え込み、白滝は「なるほど」とだけ言った。便利な言葉だ。真北はしばらくこちらを見て、唐突に言った。

「何というか、ちょっと雰囲気が変わりましたね」
「そうでしょうか」
「何というか、人間らしくなったというか。生き物っぽい。ちょっとだけですが」

異常に感づいたのかと思ったが、街の事ではなかったらしい。遠回しな罵倒かと一瞬思ったが、驚くべきことにその声や表情に一切の皮肉や揶揄の色はなかった。単に思っていることをあまりにも率直に口にしているだけに見えた。

「もしかして、私がですか」
「はい。……白滝さんは、人間と機械の違いって何だと思いますか」
「すみません、今は禅問答に興じる気分になれないのですが」
「そういうところですよ。さっきまでなら、二秒は考えてる顔して『難しい問題ですね』くらい言ってたでしょう」

白滝はわずかに笑った。これは率直なやり取りをしたほうが話が速いタイプの人間だ。少しだけ、懐かしさを覚えている自分がいることに気づく。

「私なら三秒は置きますね。それで、そういう応答がお望みでしたか?」
「いえ、別に」
「だと思った」

そんな事を言っているうちに、端末が小さく光って着信を告げた。限定的セキュリティクリアランスが臨時的に付与されたらしい。新しいルート二つに添えていくばくかの情報が記されていた。

「お待たせしました、こっちです」

歩きながら、開示された情報に目を通す。低レベルのミーム災害領域。侵入したものは鏡および鏡像を正しく認識できなくなる。今のところ、影響は領域外に出れば解除される。ただし、これらの情報は領域の拡大を検知する以前のものであることに留意が必要。まあそんなものか、と思ったところで短い補遺に目が留まった。関連の有無は不明だが、この領域は以前にも超常現象を発生させて数名の死者を出したことがあるらしい。下宿していた頃には一度もそんな話は聞かなかったから、事後処理が完璧だったのだろう。見事なものだ。

記憶通りの道を、指示されたルートに従って進む。そうしていたはずなのに、一つ角を曲がった先にあったのはあの鏡像の消えた交差点だった。天を仰ぎたくなるのを堪えて隣を伺い見る。幸いにも、彼は流れる雲を目で追っていて、来た場所に戻っている事に気づいた様子はなさそうだった。「自分一人ならまだ気づいていない」は気遣いというよりもただの事実だったらしい。何食わぬ顔で第二ルートに切り替え、歩きながら再び財団に連絡を入れる。自分のGPS信号は途中でUターンして問題の位置に戻っていたらしい。どうやら自分の認識はかなり弄られているようだった。そしてさらに悪いことに、他のエージェントたちは問題なく領域から脱出しているという。ここまで迷い込まされているのは自分たちだけらしい。溜息を押し殺して、白滝は歩き続ける。歩き続けて、どこに辿り着くというのだろう、と思った。いつの間にか、足を止めない理由は「財団拠点に戻るため」から「背後の民間人に気づかれないため」へと変わりつつあった。

真北が「おかしいですね」と言い出したのは、四回目に同じ場所へと戻ってきたときだった。

「ようやくお気づきになりましたか」
「ようやく? いえその、コンパスの動きがおかしくってですね」
「?」

促されて、首から提げられている方位磁針を覗き込む。与えられた地図を信じるなら、N極が指し示している方向は北ではなく異常領域の中心方向だ。

「……普通の挙動に思えますが。こっちが北ということでは?」
「この交差点ではそうですね。ですが、ここを出るとこの交差点を示すようになるんですよ。ほら」

真北はそう言って適当に来た道を引き返す。確かに、交差点を一歩出た瞬間、方位磁針は尋常ならざる速度でぐるりと回って交差点を示した。

「S極の示す方向へ進んだらここから離れられるってことですかね」
「そうもいかないみたいです。途中までは南に向かって進んでいても途中でどこも指さなくなって、気づくと北に向かいはじめてここに出ているので」

露骨な異常事態にも関わらず、淡々と真北は述べる。白滝は黙ってそれを聞いていた。ここで狼狽える事もなく目の前の現象を受け入れているあたりは、流石に財団職員の素質を見出されただけのことはあるという事か。

今度こそ白滝は天を仰いだ。腹立たしいほどに澄み渡った郊外の星空が、静謐に自分たちを見下ろしている。気づけば惰性で北斗七星を探し、その先の北極星に目を向けていた。方位磁針と同じ方角を示している。やはり、と思ったところでそれとは別の違和感に気づいた。

北斗七星の星が七つになっている。

何度か瞬きをし、片目での観測を試み、最後には目を細めて、半ば睨むようにして星を数える。何を試しても、七つの星が変わらず自分を見下ろしていた。

偽りの空の向こうに、造り手の無知を見たような気がした。

自然は星を区別しない。確実な根拠はないものの、これは人為的な異常なのだという直感があった。星空を知らず、知ろうともしなかった者。もう少し知識がなかったら、星座を示す線か絵が空に浮かんでいたかもしれない。……いや、流石に馬鹿にしすぎたか。今のは”白滝”らしい思考ではなかった。こんな異常事態だ、星の数がどうなろうと今更動揺する事でもないではないか。星が七つの北斗七星なんてある種の自発的なカバーストーリーに過ぎない。それを信じている者がこの星空を敷いた、それだけわかれば十分だ。大丈夫、さほど気にすることでもない。どうして自分はそれにこんなに動揺したのだろう、とすら思う。

ふと視線を感じて地上に目を戻すと、真北が自分をじっと見下ろしていた。同行者の視線に気づかないとは相当に自分らしくない。目が合ったので、曖昧に微笑もうと努める。自分は今、うまく笑えているだろうか。

「……失礼。北の向きがおかしいのは方位磁針だけではないようです。北極星も、同じ方角にある」
「ああ、星もでしたか」
「そうだろうとは思っていたんですがね。思ったより動揺があったらしい」

頭を冷やすべく目を閉じて深呼吸をする。こういう時は氷山の浮かぶ海か氷を浮かべたコップに飛び込むのが一等だ、といったのは何の物語だったか。どちらも不可能だから、想像するだけに留めておく。星を受けて青く光る氷山と、そこに落ちていく自分を思い浮かべる。いつも通り、それなりに効果はあった。もう大丈夫だ。自分は落ち着いているし、この星空のことも「星を見たことがない病床の子供の空想かもしれない」程度の想定は出来るようになっている。案外そういう異常の起点は多い。それを確かめて、白滝は目を開いた。

「落ち着きましたか」
「ええ。失礼しました」
「僕にはよくわかりませんが、それならよかった」
「事態が好転した訳ではないんですけどね。お手上げだという事を受け入れただけです」

苦々しく笑って言うと、真北は不思議そうに首を傾げた。最後の道を指さして「まだ道はありますが」と言う。狂った北極星と方位磁針が示す方角、異常領域の中心方向だ。少し考えて、静かに答える。

「……その方向に進んで目的地に着くとは思えませんが」
「ここで立ち止まっていても可能性はゼロですよ」
「……」

真北が言った事は紛れもない事実だった。脱出方法がわからない以上、ここで二人とも立ち止まって飢え死にするという選択肢はない。財団に情報を送らなければならないのだから、誰かがそこに向かう必要がある。だが、それはすなわち目の前の民間人を直接的に、決定的に怪異に巻き込むという事だ。

「行ってみませんか? 迷子で死ぬことってないですよ」

白滝は思案する。この目の前にいる民間人に「そうですね」と言って、偽りの北へと向かわせるべきなのだろうか。とっても簡単じゃないか、迷わずそうするべきだ、と白滝は考える。人類のためであるならば、相手が誰であろうとも異常の最前線に送り続けることが出来る。いくらでも真実を隠し通して人を騙れる。白滝は自らをそういう存在だと定義している。今回の相手は特に簡単だ。大丈夫だと嘘をついて頷いて、歩き出してしまえばそれで終わり。何を迷う事がある。白滝は、心から、そう思った。


"私"はそうは思わなかった。


白滝とかいう人の形をした機構は知らないことだが、私は知っている。この場所は自分にとって、本当だと思った事を言ってもいい場所だった。その場所で、この地が孕む危険性を隠したまま異常領域の中心地に連れていくなどという役を私に演れというのか。そんなことをしたら、私は二度と星を見上げることが出来なくなる。これ以上この地で信頼出来ない案内者かたりてを続けるのも、三人称小説みたいにして他人事のように思考を続けて自分ごと全てを欺き続けるのも、心底御免だと思った。そんなのは偽りの星空を空に敷く者と同じではないか。

一つ息を吸ってから私は心を決め、真北さんに告げた。

「いえ。大丈夫だとは言えない状況です。最悪の場合、死んだ方がマシだと思う事態になるかもしれません。何があるかはわからない。出口があるかもしれないし、何もないかもしれないし、死ぬだけで済むかもしれない。我々が対峙しているのはそういう世界だ」
「……我々?」
「我々は財団と呼んでいます。私や亦好はそこのスカウト担当者で、あなたは新人候補の一人です。亦好さんがどこまで言っているかは知りませんが、我々の一員になるというのは、あるいは偽りの北を目指すというのは、未知の戦場に身を投じるという事です」

真北さんは黙ってこちらを見ていた。構わず続ける。

「勿論、最悪の事態は常に避けようと試みている。我々は無策で人命を消費しているわけではない。……ただ、今回どうなるかは、私にはわかりません。……ただ、現況を知ってほしかった。その上で、私はあなたに協力を乞いたい。財団に見出されるような人材としての意見を聞きたい」

私は腕を伸ばしてカーブミラーに映し出されているものを指差した。指先を辿って、真北さんの目がしっかりと鏡像を捉える。鏡の中に映っているのは一つの幻だ。歪んだ背景の中で、私たちの服を着た骸骨が映し出されている。ここの鏡だけではない。窓などに映る鏡像においても、二人の姿は骸骨へと置換されていた。黒い外套を纏っていたらさぞかしステレオタイプな死神がこちらを見つめ返していた事だろう。

「そこに映っているものが、この場所のもう一つの姿だ。……あなたはこれをどう見ますか。見て、どう思いますか」

真北さんはじっと無表情に鏡を見上げ、考え込んでいる。即座に目を背けた自分とは違うんだな、と今更のように思った。本当はもっと前からこの鏡像の幻は認識できるようになっていた。おそらくはそのあたりが分岐だったのだろう。ここを脱出したエージェントたちは皆鏡像を認識できていなかった。自分たちと彼らの間で何が違ったのかはわからないが。

「二十一世紀にもなって死の舞踏かよ」

しばらく待っていると、彼は出し抜けにそんな事を言った。あまりにも唐突で意外な台詞だったから、何かを聞き間違えたのかと最初は思った。

「どういう意味ですか」
「暗くてわかりにくいんですけど、これ古典的な手法の絵画なんですよ。”Memento mori”とか” Et in Arcadia ego”とか、聞いたことないですか?」
「前者は一応。”死を覚えよ”でしたっけ」
「そうです。後者は直訳すれば”アルカディアにも私はいる”。死神、あるいは死そのものの台詞として語られる事を踏まえて”理想郷にも死は存在する”と訳される事も多いですね。両方とも似たような文脈の警句エピグラムです。背景に露骨に散りばめられているモチーフから考えても、これは明らかにその文脈ですね。……死を覚えよ、目を背けるな、覆い隠そうとも死神はそこにいる。そんな所でしょう」

淡々と流れるように真北さんは語った。時代と手法、判断基準、それからいかにありふれた絵であるかについても何やら語っていたが、全く自分にはわからないのでよく読み取れるものだなと思うだけに留めておく。分野外の”自明”に突っ込みを入れると碌なことにならない。

「なるほど。それでその絵を描いた人間がコンパスを狂わせているのだとしたら、N極の方角には何があるか見当はつきますか?」
「さあ、何とも。でも、狂った針を追わなくてもわかりますよ。張本人に聞けばいい」
「張本人に? どうやって」
「さっき、大きなショーウィンドウのある店の前を通りましたよね。大きなガラス、というか鏡がわりになるものがあればいいんです。連れて行ってもらえませんか」

真北は質問に直接答えることなく、別の事を言った。もしかすると答えのつもりだったのかもしれない。説明を求めようとは思ったが、それより先に別の台詞が口をついていた。

「ほんのすぐそこで、さっき通ったところじゃないですか。もう戻れなくなってるんですか?」
「僕のあだ名、亦好さんから聞いてませんか?」
「聞いてますよ、”片道切符”でしょ。そんなに高らかに名乗ろうとしないでください」

くるりと背を向けて歩き出しながら、ふと思う。片道切符、行ったきりで戻れない者。歩みを止めようとしない気質と、これから辿るであろう進路を考えれば、方向感覚の欠落を抜きにしても的を射た表現かもしれない。歩きながら後ろをついてくる”片道切符”に問いかける。

「それで、どうして大きい鏡があれば張本人に会えると?」
「あの絵は鏡像でした。描かれた鏡像の多くは自画像です。そうでなくとも、ある程度大きな鏡を正面から描けば確実に描き手の姿が映りこむ。自分の姿を直視せずして他者にそれを突き付けるのは不可能だ」

真北さんはそう言い切ってガラス張りの閉店した店の前で足を止めた。窓ガラスは二つの骸骨を映しているものの、鏡の代用にするにはガラスの向こうの暗い店内を見せすぎている。私は取り出したペンライトを掲げて灯した。厳密に言えばペンライトに偽装された簡易記憶処理器なのだが、モードと出力を変えれば普通のペンライトとして使うことも可能だ。効果は覿面で、窓ガラスは途端に鏡へと姿を変えた。

真北さんはそれを見ると、迷いなく鏡の中の一点を指差した。必然的に、鏡の向こうで彼の衣服を纏った骸骨が腕を持ち上げてこちら側の一点を指し示す。その”一点”を認識した瞬間、背後の薄闇が収束して質量を持ったように感じた。人の気配が、地中から湧き出たみたいに現出する。即座にターンして後ろに向き直れば、そこにはぱっとしない風体の人間がいた。大人だ。そいつは大仰に肩をすくめて口を開いた。

「そんな荒っぽいやり方で踏み入ってくるとは。大人しく北へと進んでいれば」
「御託はいい。とっとと元の認識を返してもらおう」

言葉を遮ると、そいつはわざとらしく鼻で笑った。お前など何の脅威でもないのだとあからさまに態度で示そうとしているのだろう。だが演技が下手だ。不自然に身振りは大きいし、視線には筋が通っていない。自信がないのがまるわかりだ。財団の渉外部門に向かってそんな演技が通ると思っている時点でこいつは大したことがない。とりあえず、撃てば死ぬのは確実と見ていいだろう。

「気が向かない限りは無理だな。……おっと、そこからは一歩も動くなよ。ここは我が領域、君たちの虚構が通らない世界だ。君たちが武器を抜くよりも速く──」

星空を改竄しておいて「虚構が通らない」とは笑わせる。それに、武器ならとうに抜いているのだ。

私はあたかも観念したかのように目を閉じてから、掲げたペンライトに添えた指を一気にスライドさせた。目を閉じてなお眩い閃光が暴れ狂い、二つの短い悲鳴が上がった。ふらふらと目を抑えて呻く首謀者の襟首を掴んで引きよせ、耳元に近づけた端末から音声式ミーム昏倒エージェント(通称”子守唄”)を再生する。掴んだ体から力が抜けるのと同時に、遠くで響いていた街の喧騒が戻ってきた。手早く拘束してから振り返ってガラスを覗き込めば、見慣れた”白滝”の顔がこちらを見返している。それで全部終わったのだ、と判った。眩んだ目では確かめようもないが、きっと星を見上げれば北斗七星の星は八つに戻っているだろう。私は財団に連絡をとって、何も見えていないだろうにどこかに歩き出そうとしている真北さんを呼び止めた。

「真北さん。もう安全です、全部終わりました」
「……白滝さん? 終わったって、何があったんです。急に光って……というか、無事ですか」

自分のいない方角に向かって話しかけられる、というのも中々に奇妙な気分だ。倒れた首謀者を細い路地裏の物陰に押し込んで隠しながら、私は申し訳なさそうに言った。

「すみません、光らせたのは私です。視力を奪った隙に首謀者の無力化を行いました。……申し訳ない、事前に言えたらよかったんですが」
「えっ、あなたが僕の目を駄目にしたってことですか」
「十五分もすれば視力は完全に戻ります。その頃には迎えも来る事でしょう。ああ、ここは目立つからこっちに来てください。あっちの方が人通りが少ない」

道の中央に突っ立たせておくのも申し訳なくなってきたので、軽く声をかけてから袖を引いて路地の壁際へと誘導する。並んで壁にもたれかかれば、遠目からは誰かを待っているように見えることだろう。壁にもたれかかって軽く目を閉じていると、横から「ずいぶんと慣れていますね」という声がかかった。

「慣れている?」
「ここ、察するに結構狭い道でしょう。あまり初めて来る人が迷わずに選べるような場所でもなさそうだと思ったんですけど」
「ああ、そういう事ですか。私はここの卒業生ですから。懐かしい街です」
「あれ? 初めてって」
「私からは一言もそんな事を言っていませんよ。不思議ですねって言っただけです」
「それは虚偽というものでは?」
「叙述トリックとお呼び願いたいですね」

真北さんは釈然としていない様子で「そうですか」とだけ言った。白滝ならこういう事は言わないのだろう、と思う。要請は受け入れられているから、財団の迎えが来るまではあと少しだ。そうして、私はまたこの場所を離れて”白滝”に戻るのだろう。

「応援を呼びましたので、そのうち迎えも来るでしょう。もうこの地に危険はありませんし、こいつを担いで行くのは疲れる上に目立ちますから」
「……連れて行くんですか。それで、その人ってどうなるんですか?」
「我々の知る必要のない事です。……聞けば教えてもらえるかもしれませんが」

冷淡さを演出するのにさほど労力は要らなかった。表情を作らなくていいというのは楽だ。数拍の沈黙を置いて、真北さんは「ずいぶんと情報を制御するんですね」と呟いた。「死を覚えよ、目を背けるな、覆い隠そうとも死神はそこにいる」と鏡像の幻を読み解いていた時の声をちらりと思い出しながら、唱え慣れたお題目を答える。

「それが財団のやり方です。本当の事を言うと人は傷つく。迂闊に知識を得るととああやって狂ってしまう人々も出てきますから」
「わからないな。なら、どうして僕に”最悪の場合死ぬより酷い事になる”なんて教えたんですか」
「人間なんでね、気まぐれを起こすこともあります。単に、フェアじゃないなと思っただけですよ」

如何にも釈然としない様子の真北さんに向かって、ふと思いつきを口にする。きっと、”私”として今日この地で何かを話すのはこれが最後だろう。

「ああそうだ。人間は夢を見る生き物でもあるから、今日の一件をただの悪夢だったことにも出来ますよ。もしあなたが望むなら、こんな世界の事など知りたくなかったと思うのなら、全部忘れさせる事だって我々には可能だ」
「……やめておきましょう。狂ったコンパスの針を追って歩くのとあまり変わらなさそうだ」
「そう答える気がしていましたよ」

答えてから、自分がうっすらと笑っていたことに気づいた。どうやら私は安心しているらしい。この人は忘れることも思考を止めることも選ばないだろう、と思っていたのだろう。知り得る事実を受け止めた上で、考え続ける人だ。闇の中で迷い続ける事を躊躇いなく選べる人間だ。



遠くから、車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。財団の迎えだろう。拘束して植え込みに突っ込んである首謀者に視線を投げる。白滝は一切その主張に耳を傾けることなく制圧した。おそらくは死を隠匿するなという糾弾であったのだろう声を、響かせることなく封じた。白滝の行動は財団職員としては自然なことだ。相手の土俵で話をする必要はない。主張があるなら財団のサイト内でもっと適したインタビュアーが聞き出すことだろう。それが財団の在り方だ。

もしもこの声が、敵対する異常存在以外からぶつけられていたとしても私は答えを返せただろうか。ふと、自分に向かって問いかける。星が七つしかない北斗七星を否定しておきながら、自分たち財団が異常を押し隠すために広げたヴェールを肯定出来るのだろうか。

大丈夫、出来るさ、秩序を守るためだもの。そう白滝は考える。必要であるならば、自分は何だって偽れる。白滝は心の底からその嘘を信じることが出来る。

そしてその上で、その先を探して迷い続ける事だって出来るわけだ。ちらりとそんな事を思った。

車のエンジン音が止まり、ヘッドライトの光が路地裏に差し込む。財団の迎えだ。

「迎えが来ました。行きましょうか」
「そうですね」

二人は並び、歩み始める。虚構ヴェールに包まれた世界で、一歩ずつ。

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