シャンティ・クライム・パラライザ 後編: 下
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ライ

後編: 下

前編: 上 | 前編: 下 | 後編: 上 | 後編: 下


だ銃撃の音が鳴りやまぬ大阪コンチネンタルホテルのロビーに、だしぬけに甲高い破砕音が響いた。それは紫の煙を纏う思念体がソファーを殴り壊した時の音でも、ガラスに投影された魔法陣から妖魔界実体が召喚された際の音でもない。六道一家総長、津根岐つねぎの振るう呪術凶器、"五寸釘バット"が、ついに芯から折れた音だった。

「へへ、どうだよ……」

エージェント・米倉よねくらは肩で息をしながらも、会心の笑みを漏らす。その手には、弾を撃ち尽くしたばかりの拳銃がハンマーのように握られていた。

釘バットはそもそもが釘を打ち込んで攻撃力を上げる代わりに、バット自体の耐久力を失わせる諸刃の剣。"五寸釘バット"は呪詛による一撃必殺を可能にしていたが、こうして長期戦に持ち込めばおのずと釘バットであることの弱点も露わになってくる。その隙を突き、米倉は銃把の部分で殴りつけることでバットを粉砕したのだ。


「ハァッ……しぶといなぁ!……けど勝負はァこっから……!」


対する津根岐は、息を荒げながらバットの残骸を投げ捨て、なおも拳のみで戦いの構えを見せる。米倉は呪詛の籠った渾身の打撃を散々に喰らい、津根岐は銃弾による負傷と呪詛返しを受けていた。辺りにはどちらのものともわからぬほどに血が飛び散り、互いに肉体は満身創痍。至近距離で呪術をぶつけ合った2人は、もはや気力のみでこの場所に立っている。

互いに相手を睨みつけ、折れぬ意志を示すように拳を振りかぶった時  

「はい、やめやめ」

突如として2人の間に割って入るように男が"出現"する。博徒らしく和服を着流したその男は、事も無げに2人の拳を両手で受け止めた。


「何すんねん"芝右衛門"!邪魔する言うんなら先ずテメエから……!」

「叔父貴を付けんかい坊主。もう引き際だ、増援が来てるぜ」


食って掛かる津根岐に、芝右衛門と呼ばれた男は顎をしゃくって正面玄関を指した。そこには最寄りのサイトから到着したばかりの重装備を身に着けた機動部隊員たちが、ロビーにて銃撃戦を繰り広げていた六道一家のヤクザたちや、彼らが呼び出した異常な実体を次々に制圧している光景があった。もうしばらくすれば、このカフェスペースにも彼らがやってくるだろう。

「じゃかあしい  」なおもそう喚き、暴れようとする津根岐を六道一家の者たちが縋り付くような形で抑え込んだ。芝右衛門はその光景を見て愉快そうに続ける。


「ここでお前さんが潰れるようじゃ困んだよ、御堂の大親分にメンツが立たねえ。今は逃げが最善の一手だ」

「勝手に、話してんなよ……俺がお前らを、逃がすと、思うのか……!?」

「カカ、粋がるねえ。お前のことも今日は見逃してやるって言ってんだ、年寄りの厚意は捻くれず受け取りな」


米倉はよろめきながらも銃口を向けたが、芝右衛門は恐れることも無くその姿を嗤った。弾倉にもポケットにも残弾が無いことはとっくにバレている。「では、ラバ」そう言って芝右衛門は津根岐たちとともに、どろんと太鼓を鳴らすような音に合わせ姿を消した。後には立ち上る煙と、数枚の木の葉のみがひらひらと舞い落ちる。それを見て、張っていた糸が切れるように、米倉はその場にくずおれた。


「ちくしょう……死んだら祟るぞ、稲城いなぎ……」


『対抗犯罪』の職員たちが救助に駆け寄る中、米倉はうわごとのようにそうつぶやくと、そのまま意識を夜闇の内に沈めていった。




高層ビルの谷間には、初夏の生暖かい夜風が強く吹き抜けていた。ロビーの『対抗犯罪』職員へ9階での惨状と"黒い蝶"のことを伝えた後、稲城 祐希いなぎ ゆうきは、窓からバルコニーへ飛び降りる。そのまま逆井さかいが辿ったであろう逃走ルートをなぞるようにしてホテルの非常階段を駆け下りながら、稲城は風の音に負けぬよう通信端末を強く耳に押し当てて叫んだ。


「だから!石神いわかみは今どこにいるかって聞いてんですよ!」

『ああ、何か所用があるとかで、少し前にサイトを出ていったが』


『対抗犯罪セクション』の主任、粟屋あわやは、稲城の気迫に対し通話越しに判るほど困惑していた。説明していないとはいえその緊迫感のズレがもどかしく、稲城はより声を荒げる。


「何かあいつ宛の電話とか掛かって来てませんでした!?」

『ん?そういや確かに、通話に出てから血相変えて走っていったような  

「大当たりかよクソッタレ!」


通話を無理やりに切り、稲城は端末内の位置情報特定機能を呼び出す。サイトー81KK職員に支給される通信端末には標準的に財団製のGPS機能が内蔵され、自分や他の職員の位置情報が測位できるようになっている。任務上の理由から閲覧が制限されていることも多いが、バディとして行動していた稲城と石神は互いのアクセス権限を共有していた。

幸運にも、管理システム上では未だ2人のバディとしての登録は解消されていないままだ。石神の端末が生きてさえいれば、彼女が今どこにいるか判るはずだった。恐らくはそこに、逆井も居る。石神の職員コードを荒々しく入力し、稲城は検索を開始する。

「……どういうことだ?」

結果が表示された時、稲城はハタと足を止めた。画面に映っているのは自分を示す青のアイコンと、検索対象を示す赤のアイコン。その縮尺が示しているのは、石神が彼の周囲100m以内に居るという事実だった。稲城は思わず辺りを見回す。非常階段を下りた先は大通りに面したビル街だ。立ち並ぶ建物、今しがた出てきたホテル、目の前を通り過ぎる無数の車。一体どこに  いや、まさか。

「地下か……!?」

稲城は足元のマンホールに目をやる。その分厚い鋳鉄の蓋の向こうでは、大都市大阪が吐き出し続ける濁った下水が、轟轟と唸りを立てて流れていた。



何事にも慣れというものがある。匂いは嗅ぎ続ければ鼻の嗅細胞が疲労し、どれだけ強い匂いでも、いや、強すぎるからこそ、嗅覚が麻痺してしまう。しかし、汚濁の川が横を流れる饐えた匂いに慣れてしまっても、危険の香りだけは今も石神 茜いわかみ あかねの脳に警告信号を送り続けていた。

その緊張を1歩ごとに押さえつけるような気持ちで彼女は足を踏み出し、最暗黒の下水道を進む。と不意に、懐中電灯が放つ丸い光の輪の中に人影が浮かび上がった。石神は声が下水道に響きそうになるのを寸でで堪え、額に大きな傷を持つその人物を睨みつける。

市俄会いちがかい流野ながしの組若頭補佐、逆井さかいわたる。この暗闇の中にもかかわらず、彼が手に持ったランタンの灯は消されていた。逆井は電灯の眩しさに目を細めながらも石神の方を向き、うっすらと笑みを浮かべる。


「ようこそ、"アビス"へ」

そう言いながら逆井は、スポットライトが当てられた役者のように、石神が照らす光の中で恭しく芝居がかった礼をした。パラドラッグ"シカゴ・ブルース"の製造者にして、関西の財団サイト管区全域に指名手配されているはずの男は、財団エージェントたる石神の前で臆する素振りも見せない。

「"深淵アビス"?」

「そう、この場所を俺たちはアビスと呼んどる  元は地下鉄工事の途中で見つかった、"存在しないはずの下水道"や。地下を張り巡らすようにどこまでも続いててなァ。大阪の至る所に地面1枚隔てて、だァれも知らんところからの汚水がずっと流れとった。さしずめ、マンホールの比良坂から迷い込む黄泉の国ってところか」


逆井は手を広げて、"アビス"の各所を見回すように指し示した。コンクリート壁に残された見たことも無い文様の落書き、寸断されたパイプから断続的に零れ落ちてくる赤黒いゲル状の塊、先ほどから石神の足元を通り過ぎていく目に見えない"何か"。その全てが、『未調』エージェントとしての石神の嗅覚に危険を知らせていた。


「でもなァ……こんな素敵な所、放っておく手は無いやろ?やから市俄ウチがもらい受けたんよ。俺らみたいなアンダーグラウンドの人間は、文字通りの地底とも上手くやるのは難しいことやないしなァ」

「本当に大阪の各所にアクセスできるとすれば、確かに有用でしょうね。移動も運搬も、全て人の眼を逃れたこの地下で完結できる。これだけの領域を見過ごしてきたとは……道理で『対抗犯罪』が市俄会を捉えきれなかったわけか」

「やろ?便利に使わせてもろォとるよ。始末する前に勝手にしゃべってくれた府議会のセンセにはほんま感謝やなァ。邪魔な条例案ぶち上げんといてくれたらもう少し長生きさせてやったんやけど」


言葉とは裏腹に、何の感情も籠っていないような気怠い態度で逆井は語る。懐中電灯を左手に持ち変えつつ、石神はゆっくりと彼に向かって拳銃を構えた。小さく鳴ったその金属音に、天井を見上げていた逆井は横目で彼女の方を見やる。


「興味深い話ですね。しかし逆井さん。私は別にそんなおしゃべりをしに来たわけじゃないんですよ」

「人がせっかく機嫌良うしてんのに。せっかちやなァ、"あみーちゃん"は。そんなに答え合わせがしたいん?」

「……ええ、教えてもらいましょう。"シカゴ・ブルース"とは何なのか。なぜそれを吸った人間が私の兄の記憶を持つようになったのか。そして、なぜあなたが私と、私の兄のことを知って、電話をかけてきたのか」


石神は、つい一時間ほど前に掛かってきた電話の内容を思い出す。"お前の兄のことを、自分はよく知っている"  逆井は、通話越しに石神へそんなことを言った。真偽は判らなかった。だが、逆井が何かを把握していることは確かだった。そもそも彼女の端末を呼び出す番号も、一般から秘匿された財団用回線へのアクセス方法も、兄の存在も、逆井には知りようもない情報のはずだからだ。

"知りたければ、指定する場所へ来い"。

それは明らかに危険な誘いであり、待機という命令への明らかな違反だった。彼女がそう理解していてなお、指示通りにこのアビスへ降りてきたのは、ただひたすらに「真実」を知りたかったからだ。兄の失踪、逆井、"シカゴ・ブルース"、市俄会、"O/Oを知ってるか"、そのすべてをつなぐ真実を。


「やろうなァ……あみーちゃんはそのために必死なんやもんなァ……ええで。約束やからな、全部教えたるわ」


くつくつと笑いながら逆井はランタンを点け、「付いてき」と言ってアビスのさらに奥へと歩き出した。石神は、なおも銃口を逆井に向けたまま、リーチの有利を保つように間隔を開けてその後を追う。無防備に背中を向けている姿にも、警戒は解かない。


「多分気づいとると思うけど、"ブルース"の半分はお前ら財団ハイイロの言うところの記憶処理剤でできとる。じゃあ、あと半分は何やと思う?」


アビスの形状は、進むごとに3次元的な迷宮のようにうねり捩じくれていった。時には下水道の壁はコンクリートではなく、手彫りでくり抜いた洞窟のような岩壁ですらあった。奇怪な構造に反響する逆井の声に意識は向けつつも、石神は注意深くその構造を記憶し、脳内で辿ってきた道筋のルートマッピングを行う。瞬間的な記憶能力と空間把握能力は、財団エージェントとしての訓練により身につけさせられた技能の1つだった。


「正解はなァ、ヒトや。ちょっとした技術使うと、ヒトの記憶を物質として抽出できんねん。そいつが抱いていた一等幸せなイメージをな」

「幸せの、イメージ……」

「"ブルース"買うような裏社会の連中にはな、そういうもんが欠けとんねん。真っ当に生きて得られる人並みの幸せってやつが。己の人生からそれを見つけ出せへんねやったら、他人から"奪う"しかあれへんよなァ」


曲がり、登り、曲がり、下り下り下り……やがて、広い空間に至ったところで逆井の歩みは止まる。いくつかの下水道が合流した場所なのか、石神の目の前には音を立てて流れ込む大量の汚水が川のように横たわっていた。その川の深さも、底に何が潜んでいるのかも、暗闇と水の濁りが悟らせようとはしない。

ぼちゃん。ふいに闇の向こうで、何か大きなものが水面に落ちる音がした。

「お、ちょうどええなあ。いっぺんに教えたるわ。"ブルース"が何からできとるか、俺があみーちゃんをなぜここに呼びつけたのか……」

逆井はランタンを持つ手を高く上げ、汚水の川がよく見えるよう照らし出した。上流から流れてきたその白いモノは、最初濁ったあぶくか何かに見えた。それが浮き沈みしながら石神の目の前にまで近づいてくると、その白い塊が一糸まとわぬヒトの背中であることが判った。微動だにしないまま汚水に顔をうつぶせに沈め流れていくその肉体は、とても生者のものとは思えなかった。


「あれは……死体……!?」

「ご明察の通り。このアビスにはいろんなブツが流れてくるけどな、一番多いのはああいった水死体エビスさんや。ここの死体はキレイなもんや……欠けもせず腐りもせず、全部が不思議と"死にたて"みたいでなァ。"ブルース"に使うには持ってこいの代物やった」

「"幸せのイメージ"は、ここに流れてくる死体から抽出していた、と」

「ああ。やっぱり頭が欠けてなくて、かつ新鮮な死体でないと質が落ちるからなァ。……あらら、あみーちゃん?どないしたん?」


逆井の言葉に、石神は自分が無意識に歯を食いしばっていたことに気付いた。ついに間近に迫った真実の重みに耐えるように固く食いしばられたその歯の力を、ゆっくりと、気持ちがこぼれてしまわぬようゆっくりと緩め、石神はようやく一言を絞り出す。


「……兄は、もう死んでいるんですね。だからここに流れ着いて、"ブルース"の材料になった」


"シカゴ・ブルース"は、アビスで回収された死体の記憶を抜き取り製造されていた。それを吸った人間に兄の記憶が見えたというのなら、そういうことなのだろう。失踪の報を聞いた時から覚悟はしていた。兄自身も、財団エージェントとして任務の危険性を承知していたはずだ。そもそも、この世界では人の死など珍しいことではない出来事ではないか。

それでも、このような結果であってほしくないとずっと願っていた。どこかで生きているのではと、そんな僅かな希望に縋って、これまで兄の行方を探し続けてきた。望んだこととはいえ、突きつけられた真実に、今にも膝から力が抜けそうだった。そんな石神の姿を見ながら、逆井は顔を伏せて応える。


「……そうやなァ、半分正解や」


半分?その言葉の違和感に、絶望の暗闇へと落ちかけていた石神の意識は現実へ引き戻された。逆井は顔を伏せ、肩を震わせて  笑っていた。困惑する石神をよそに、堪え切れないとでも言いたげな様子でひとしきり笑った後、逆井はようやく言葉を継ぐ。


「お前のお兄ちゃんはな、俺がバラしたんよ」

バラす……バラす。言葉の音と意味が石神の脳内で結びつくまで、数秒の間を要した。


「お兄ちゃんがアビスに流れ着いた、そこまでは合っとる。けどな、その時あいつにはまだ息があった。生きた人間が流れ着くんは初めてのことやったなァ。とはいえ、どうせ下水に溺れてて助かるかどうかもわからんし、見逃してやっても良かったんやけど……そん時どうしても"ブルース"の材料が足りんくてなァ。……ちょうどここや」


逆井は自分が立っている辺り、わずかに通路が窪んで、汚水の流れが淀んでいる辺りを指さした。


「ここでな、首を絞めたんや」


それを聞いた瞬間、石神の指はほとんど無意識に動いていた。彼女が構えていた銃の引き金は、強張った指の力を正しく撃鉄へと伝え、放たれた銃弾は逆井の左脇腹へと突き刺さった。しかし逆井は着弾の衝撃で体を揺らしただけで、痛みに呻く声の1つも出さない。服に滲みだした血が見えなければ銃弾が外れたのかと思うほど、逆井は奇妙な平静を保っていた。そう、痛みそのものを"感じてすらいない"ように。

石神は再度狙いを定めようとしたが、逆井は右手で素早く銃身部分を掴み、腕力で銃口を自分から逸らす。2人の持っていたランタンと懐中電灯が床面に落ち、高い金属音を響かせた。銃弾発射直後でまだ高温の銃身を素手で把持しているにもかかわらず、逆井は顔色の一切を変えない。銃の制御を取り返そうと手に力を籠める石神に、逆井は顔を近づけた。


「もう1つの疑問、何で俺があみーちゃんをここに呼び寄せたか、やったな?実は俺、ちょっとした超能力を持っとってなァ、バラした奴の記憶を見られんねん。もちろん、お前のお兄ちゃんの記憶も見た」


逆井はそのまま力任せに壁に銃を押し付け、石神の耳元で嬉しそうに囁く。


「やっぱり、どうせなら兄妹セットで揃えておきたいよなァ」


全身が総毛立つ。「  う、ああっ!」戦慄のままに、思わず石神の口からはそんな叫びが漏れ出た。とっさに銃から手を離し、足元に落ちた懐中電灯を拾い上げて逆井を殴りつける。逆井がよろめいて後ろに下がった隙に、彼女はこの場からの逃走を図った。

暗闇に消えていく石神の後ろ姿を見ながら、逆井は慌てることも無く、地面に落ちた衝撃で消えていたランタンを灯し直して、ゆったりとした足取りでその後を追う。石神がアビスの暗闇を明かりなしに進むことはできない。そして、追う逆井は彼女の懐中電灯の光を見失うことは無い。

答え合わせのお楽しみは終わり、ここからはつまらない手続きが始まる。一方的な「狩り」の時間だ。



逆井 渉が自分の異質さを自覚したのは、4歳の頃だった。床に落ちていた画鋲を踏み抜いたのだ。逆井はそれに気づかぬまま家の中を歩き回り、母が血まみれの床に悲鳴を上げてもなお、何を騒いでいるのかと首を傾げていた。


「生まれつき痛覚が鈍いのかもしれませんな」


運ばれた小さな診療所で、医者は母にそう言った。


「例えば、正座で痺れている時の足を触られると、普段とは違う変な感覚がしませんか?針で刺されたり熱い茶の入った湯呑を当てても何も感じなかったりする。それが"麻痺している"という状態です。息子さんは全身がそういう体質なんでしょう」


それは現代であれば「感覚鈍麻」という名前で知られる脳機能障害の一種だったが、当時は未だ世間がそうした知識に疎く、逆井の住む山間の辺鄙な町ではなおさらであった。結局のところ、逆井の体質は家族にも周囲の人間にも正しい理解を得られなかった。何しろ"痛みを感じにくい"という点を除けば、逆井は外見上普通の子供と変わりないのだ。逆井は普通に生活を送り、普通に他の人々と過ごし、そして問題は起きた。


ある日の帰り道のことだ。逆井と同級生の間で喧嘩が起きた。口論の末に相手が逆井の顔を1発殴りつけると、彼もすぐさまやり返した。だが痛みが理解できない逆井の拳には一切の力加減が効いていない。すると、相手はその痛みで怯み、簡単に泣き出してしまった。

暫く唖然として、逆井はその泣き顔を眺めていた。なぜ泣くのか解らなかった。喧嘩の内容よりも、その意味が解らないことが無性に癇に障った。逆井は落ちていた石を拾い、何度も、何度も殴りつける。夕焼けの中、いつしか辺り一面は鮮烈な赤に染まっていた。


逆井がまだ子供だったこともあり、しばらくの間矯正施設に送られただけで大きな罪には問われていない。しかしその事件をきっかけに逆井は「人でなし」と呼ばれるようになった。直接的に攻撃を仕掛けてくるような連中は逆井が執拗なまでの報復を行うと手を引いていったが、家には連日のように嫌がらせが始まり、家族からもお前さえいなければと疎まれた。そうした日々が続き、やがて逆井は、中学卒業を機に家を出た。

働き口を探して行きついたのは、大阪だった。大都市ではガラの悪い者たちに絡まれることもあれば、狭い土地に人口密度が高まったことで揉め事も増える。逆井のような訳ありを雇う職場ならなおさらだ。しかし彼は、そうした問題に対する解決法を暴力しか知らなかった。

痛みを感じない体は怪我をしても気付きにくいという点で不便であったが、殴り合いの場では有利に働いた。喧嘩の後は必ず全身を見渡して怪我の手当てをする。痛みを緩和するためではなく、ただ「死なない」ようにするために。それは逆井にとって、治療というよりは機械の補修に似ていた。どんな傷を受けようとも、動けば問題ない。


そんな日々を何年か明け暮れていると仕事も回ってこなくなったが、今度は喧嘩の腕に目を付けられる。当時、二代目組長佐切さぎりの下で急速に勢力を伸ばしていた流野組に逆井がスカウトされたのは自然な流れだった。


「お前の強みは痛みを感じへんことでも、相手の痛みを想像できへんから手が鈍らんことでもない。何よりも、相手に一切の容赦をせんことや。誰やろうと長年の仇かのように憎しみを抱いて人刺しよる」


佐切は組に入ってきたばかりの逆井をそう評した。


「俺が思うにその原点はな、お前の体質を理解せん周りへの"激しい憎しみ"や。痛み感じへん人間なんぞ他にもおるわ。やけどな、その憎しみだけは体質そのもの以上の、お前の才能や」


不思議と、その評価は逆井自身にも腑に落ちた。痛みを感じない人生は、逆井にとって水槽の分厚いガラス越しにアクアリウムを見ているのと同じものだった。自分がその中に生きているという実感がない。ガラスの向こうで生きる方法が理解できない。どこまで行っても、自分が"欠けている"せいで普通の人間としての生を理解できないのではないか、という苛立ちが付きまとう。

苛立ちを暴力として発散させるように、逆井はとにかく脅して、傷つけて、殺した。それはヤクザとしての本分であったが、他の者と比べてもその容赦のなさは度を越し、彼は"冷血"の二つ名で呼ばれるようになった。逆井にとっては欠けている自分を馬鹿にされているようで気に入らない名だ。だから誰かがその名前を口にした時、逆井は自分の手首を切り、鮮血をそいつの頭から注いでやった。どうだ、温かいだろ、と。

そうしているうちに、徐々に"冷血"逆井の名は上がっていった。多くの極道が求める金や力、地位や名。そのすべてが手に入りつつあった。それでも、逆井の心は満たされなかった。




転機が訪れたのは1999年、泉州連合会との抗争の最中、鉄砲玉に正面から銃弾を食らわされた時の事だった。頭を狙った銃弾の欠片は彼の前頭葉の中に残ったが、組が手配した腕利きの外科医のおかげで奇跡的に逆井は一命をとりとめた。逆井は目覚めるとすぐさま殺しを指示した人物を突き止め、強烈な報復に打って出た。

黒幕であった人物の腹を短刀ドスで刺したその時、逆井の脳裏にはとりとめのないヴィジョンが次々と湧いて出る   幼少期に徒競走で転けた時のこと、親知らずを抜いた時のこと、兄貴分に煙草の火を押し付けられた時のこと  。どれも逆井には身に覚えのない出来事で、しかしどれもが、単なる幻覚とは断ずることができないほど確かにそこにあるように感じられた。そしてなにより、そのヴィジョンには"痛み"の感覚があった。逆井が生まれて初めて痛みを知った瞬間だった。


この奇妙な体験は、人を殺すたびに逆井に襲い掛かった。その内容に注目すれば、ヴィジョンが自分の手で殺した人物の記憶だということには直ぐに勘付いた。だがそれ以上に、他者の記憶を見ることは逆井に生の実感を与えてくれた。痛みも、喜びも、苦しみも、幸福も、ガラス越しではない人生の全てがそこにあった。満ち足りている者たちから逆井が"奪う"べき全てが。


死の境を彷徨ったことで得られた能力だからだろうか、記憶を奪うには、その人物の死に際に立ち会う必要があった。それもできるだけ近く、肌が触れ合うほど、目が合うほど近くで。首を絞めるというやり方は、逆井が死にゆく人間から最も鮮明な形で記憶を奪うことを可能にする方法だった。そうして奪った記憶は、いつだって自分の物のように思い返すことができた。


やがて、「幸せな記憶を抽出する技術」と「記憶処理剤」が市俄会のマーケットに入ってきたとき、逆井は真っ先にこの2つをドラッグとして活用する方法を考え付いた。自分と同じように欠けている人間が、それを埋めることのできる唯一の方法。完成したドラッグを佐切は"シカゴ・ブルース"と名付けたが、逆井は密かに"シャンティ"と呼んだ。

शान्तिःシャーンティ、サンスクリット語で「心の安寧」。他者の記憶を奪うという行為は、まさしく逆井の人生に欠けていた"安寧"を手に入れるための儀式だった。他人の人生を頭の中に奪い去るたび、自分は「人でなし」ではなくなっていく。その実感があった。


そして今夜。ホテルで財団エージェントの記憶を奪ったとき、会議室のようなヴィジョンが浮かんだ。部屋の中に並ぶ人々、その中の1人の女に逆井は見覚えがあった。そういえば以前アビスで殺した男、その記憶の中の妹に顔が似ているな、と気付いたとき、逆井は思わず笑みが抑えきれなかった。幸せに育った兄妹の人生。それを理解できるなら、より自分の安寧は完璧なものになる。

善き両親の居る環境でまっすぐ育てられてきたのだろう。物静かで冷静で、いかにも「真面目で正義感にあふれ」「おかしいと思ったことを指摘せずにはいられず」「仕事へのやる気に満ちていそう」な  逆井が最も好むタイプ。高揚が抑えきれず、思わず彼女の名前をつぶやいてしまう。


「楽しみやなァ……あみーちゃん」


さあ、奪いに行こうか。



上がり上がり上がり、曲がり、降り、曲がる。石神は懐中電灯を片手に、足を止めることなく下水道の迷宮を駆け抜ける。行きの際に脳内でマッピングしたアビスの構造を逆に辿り、ひたすらに出口を目指した。逆井は懐中電灯の明かりにより自分のことを見失わないだろうが、それはアビスの暗闇での話だ。先に脱出さえしてしまえばそんな不利など関係無い。

息を荒げながら走っていると、生暖かい空気が顔に当たる。それが何かしらのガスだったのか、勢いよく吸い込んでしまって石神は少しえずいた。口の端から垂れる涎を拭い、彼女はそれでも駆け抜け続ける。次の角を曲がれば、行きの際に下ってきた梯子が  

「うそ……」

そこには梯子は無く、ただ丁字路のようになった分かれ道があった。石神は思わず正面の壁を触るが、偽物や幻覚ではない。どこかで道を間違えた?いや、そんなはずは。

「アビスからは出られんよォ」

どこからか逆井の声が、奇妙な反響を伴って石神の耳に届いた。


「この下水道はな、"生きとる"んや。おんなじ道を通ってもおんなじ場所には辿り着かん  ほんの少し目を離すだけで、滅茶苦茶になってまう。壁やら横穴やらあらゆる構造が、気付かんうちにアビスそのものに引っ掻き回されとんのや。中に居る人間ごと、な」


石神は通信端末を素早く開き、GPS機能で自身の位置を確認する。現在位置を示す青のアイコンは、大阪の地図を縦横無尽に動き回り続けていた。立ち止まっている石神をあざ笑うかのように無作為に彷徨う計測値は、もはやこの空間に道しるべと呼ぶに値するものがないことを示していた。


「だから"認められて"いないあみーちゃんは、どれだけ逃げてもアビスから絶対に出られへん。そうやな、例えばバディを組んどったドブカスみたいな目のオッサン……稲城とか言うたかなァ。あいつがお前を助けに降りて来たとしても、お互いで巡り合うこともできずに両方野垂れ死ぬのがオチや。早いこと諦めた方が楽になれんで?」


パシャ、パシャと靴底に水飛沫が跳ねる音。逆井はすぐ背後まで迫って来ていた。石神は意を決して左の道を選び、また駆け出した。


無我夢中で走り、石神が辿り着いたのは、あの「汚水の川」だった。彼女の体からは自然と力が抜け、へたり込んでしまう。結局、徒労の遠回りだった。アビスの迷宮に惑う内に、先ほどまで居た場所に戻ってきてしまったのだ。それは逆井が言う通り、アビスそのものが意思を……そして、明確な彼女への悪意を持っていることの表れにすら思えた。


「つーかまえたァ」


逆井はその隙に、石神を地面へ押し倒す。藻搔こうとした手から懐中電灯は転がり、汚水の流れへと落ちていった。逆井は彼女の体に跨り、細い首に掌を添えて、ゆっくりと力を込める。石神は彼の腕を掴んで何とか引きはがそうとしたが、膂力で敵わない。


「さぁ、いよいよやなァ。お前の記憶を、俺に見せえ……」


逆井の瞳が赤く輝きだす。徐々に息が詰まり、思考にはモヤが掛かっていく。逆井の腕を引きはがそうと掴んでいた手からは次第に力が抜けていった。薄れゆく意識の中で、石神の脳裏には人生の様々な場面と、そこに居た人々の顔が浮かんだ。両親、兄、友人、サイトの同僚たち。それらの輪郭は、逆井の瞳が放つ赤い輝きに塗り潰されようとしていた。視界から赤が浸食し、全てを奪っていく。

それはある意味では、多くの人々の記憶を忘却させてきた財団の職員としての報いなのかもしれない。石神がこの場で「私の記憶を取らないで」などと言う権利は無いのかもしれない。だが  


「お前に、くれてやる理由もッ、無い……!」


意識を取り戻したほんの一瞬、ポケットから零れ落ちた通信端末ががむしゃらに動かした手に当たった。石神は最後に残されたありったけの力を込めて、逆井のこめかみをその角で打つ。こめかみが人体の急所と言われているのは、そこが頭蓋骨の中で一番薄い部分にあたるからだ。体の構造が標準的な人体に基づく限り、誰であろうと強打されれば脳震盪を引き起こし、平衡感覚を失わせる。そこに痛みの有無は関係がない、


「ぐ、ん?あれ、アァ……?」


痛みがない分理解は遅れた。逆井の視界は揺らぎ、体はバランスを取れなくなる。何をされたのかもわからず立ち上がろうとして、後ろによろけてしまう。脳の揺れが収まり、体勢を何とか立て直した時、逆井の目に映ったのは立ち上がった石神の姿だった。彼女の手には、逆井がベルトに差していたはずの拳銃が握られていた。


「くたばれぇッ!」


叫びと共に放たれた銃弾は、狙い過たず逆井に着弾した。その弾道は奇しくも、16年前に撃たれた額の傷口をなぞるようにして、逆井の頭を正面から貫いていた。貫通した弾丸は、逆井の脳漿を後ろにぶちまけさせる。

それでも逆井は、痛みも苦痛も感じることはない。しかし彼には、自分の中から急速に何かが失われている感覚があった。それは血液でも、体温でもなく、脳味噌と共に吹き飛ばされた「記憶」だった。これまで逆井が奪ってきた記憶が、積み重ねてきた自分だけの"安寧シャンティ"が、頭に空いた穴から零れ落ちていく。


「待て、待ってくれ、俺の……」


ふらふらと歩きながら、逆井は何かを掴もうとするかのように手を伸ばして、そのまま汚水の川に落ちる。そして、水面に浮かび上がってくることは無かった。




1人残された石神は暫く放心していたが、天井のひび割れから垂れてきた雫が頭に当たった、その冷たさでようやく我に返った。ともかく、このアビスから脱出しなければ。逆井が遺したランタンを拾い上げ、石神は目をこすって歩き出す。

ランタンの燃料が切れたのは、何度目かの梯子を上ったあたりだった。すると、辺りは完全な暗闇に包まれる。元々持っていた懐中電灯は川に落としてしまったし、通信端末は先ほど逆井を殴りつけたせいか、電源が入らない。石神は財団エージェントが携帯している簡易的なサバイバルキットで火を起こそうとしたが、この暗闇では作業もおぼつかず、手を滑らせてどこにあるかわからなくなってしまった。

普通「暗所順応」といって、人間の眼は暗い場所でも次第に僅かな光を捉えられるようになる。いわゆる暗闇に目が慣れる、という現象だ。だが地上から隔離され、その僅かな光さえ入ってこないアビスの暗黒では、目が慣れるということはない。石神は右手を壁に当て、手探りで進み続ける。


やがて水で体温が奪われ、疲労で体全体が痺れてくる。もはや自他の境界は曖昧となり、どこまでが自分で、どこまでが闇なのかさえ分からなくなっていた。それでも惰性のみで進む。立ち止まれば、もう2度と動けなくなってしまうだろうから。いっそ救助を信じて体力を温存すべきか、という考えは何度も浮かんだ。しかし、そのたびに逆井の言葉が頭をよぎる。


『ほんの少し目を離すだけで、滅茶苦茶になってまう。壁やら横穴やらあらゆる構造が、気付かんうちにアビスそのものに引っ掻き回されとんのや』

『稲城とか言うたかなァ。あいつがお前を助けに降りて来たとしても、お互いで巡り合うこともできずに両方野垂れ死ぬのがオチや』


アビスは姿を変え続ける。その言葉が事実であった以上、外からの救助を当てにすることはできない。だからアビスが偶然出口を開く僅かな可能性に賭けて、自力での脱出を試みるしかない。ただでさえ複雑怪奇なアビスの迷宮の中で、ただ1人、明かりも道しるべも無しに暗闇を彷徨い続ける。

朦朧とする意識の中で、ふと昔のことを思い出した。公園の広い芝生の上を追いかけっこし、飽きたら四葉のクローバーを探してまた疲れ果てるまで駆けまわった。全身を包む疲労感に身を任せ、手足を投げ出して寝転がっていると、夕焼けの差し掛かる中、兄が手を伸ばして自分のことを呼ぶのだ  


"あみー、ほら、帰るよ"。


あの日と同じ、兄の声が聞こえた気がした。幻聴だろうか?   いや違う、兄の声ではないが、確かにどこかから誰かの声が聞こえる。暗闇の中、ほんの少し自分の体が輪郭を取り戻した気がした。声はまだ聞こえる。石神は耳だけを頼りに、かすかな声の方へと進んでいく。あれは確かに、自分を呼ぶ声だ。


「石神!聞こえるか石神!ここにいるぞ!」

自分を呼ぶ声に導かれ、先へ進む。何度も何度も、"石神 茜"を呼ぶ声は張り上げられる。進めば進むほどそれははっきりと聞こえてくる。誰の声なのか、その顔がありありと想像できて、思わず口からは笑みがこぼれた。返事をする代わりに、脚と腕の力を振り絞ってひたすらに声の方へ進む。進む先には、光が見える。


「……ちゃんと聞こえてますよ、稲城先輩」


石神は射し込んだ光の中で上を見上げた。空いたマンホールの穴からは、稲城がこちらを覗き込んでいた。



「ずっと叫んでてくれたんですか」


大阪コンチネンタルホテルから1ブロックほど離れた路地裏。力の抜けた石神の体を、稲城がやっとの思いでマンホールから引き上げたとき、彼女はかすかな声でそう言った。いろいろと言いたいことや聞きたいことはあったが  精も根も尽き果てたといった様子の石神が放ったその第一声に、稲城は答えてやる。

「別に……ゴホン。別に、ずっとってわけじゃねえよ」声を張り上げすぎて荒れた喉は、咳払いでごまかした。


「逆井が逃げた場所を探ってたら偶然開いたマンホールを見つけて、その中から銃声のような音が聞こえてきた。そこにお前が居る気がしてな。お前のGPS信号を辿ったらありえない動きをしてたんで、こりゃ内部で何かしらの異常が起きてると思って外で待機してたんだ。声は……せめて逆井への牽制になればなとな」

「ありがとうございます。先輩のおかげで戻ってこれました」

「俺は待ってただけだ、全部お前の手柄だよ。逆井はどうなった」

「終了を……いえ、殺しました、私が。自分の判断で」

「……そうか」


初夏だというのに冷え切っている石神の体に、稲城は自分のジャケットを掛けてやった。かなり消耗しているだろうから、これ以上移動をさせるのは却ってよくないかもしれない。既にサイトに連絡はしてある。そのうちに救護班がやって来て適切な処置を行ってくれるだろう。稲城はそれまでの間を見守ってやればよい。


「はは。私、待機の命令違反で事件に首を突っ込んで、重要確保対象を勝手に殺害しちゃいました。確実に懲戒ものですね」


石神がそう言いながら天を仰ぐのを見て、稲城も漆黒の空を見上げる。路地裏の狭い夜空に星は見えないが、地下の暗闇よりはよほどマシに思えるのだろう。


「まったくだ、とんだ"お目付け役"も居たもんだな。俺の方が振り回されっぱなしだった」

「そう言えばそういう話でしたね。……本当に、ご迷惑をおかけしました」

「どうしたよ、急に改まって」

「……多分、もう先輩にお会いすることも無いでしょうから」


石神は、逆井に聞かされたという真実を全て稲城に伝えた。"シカゴ・ブルース"の材料、アビスの水死体、そして、行方不明だった兄の末路。話し終わった石神の顔は、稲城には"憑き物が取れた"という形容がピッタリであるように思えた。兄の捜索への執着を捨て去ってすっきりしたようにも、それまでの目標を失い空っぽになったようにも見える。


「辞めるつもりなのか?エージェント」

「あぁ……確かに、そういうことになるんですかね。私は兄を探すために『未調』に入ったわけですし。まあどのみち、こんな失態をしてしまったからにはそうなりますよ。『人事』の連中が知れば即座に異動させられるでしょう。私だって同じ立場ならそう判断します」

「失態か……いいんじゃねえか、別に。生きてるんだしな」

「どういうことですか?」

「昔、俺が特事課に居た頃、ペアとして付いてた先輩の話だ。優秀な人でな、ロシアンマフィアが旧ソ連製の超常兵器を密輸するルートを独自に突き止めた。それで取引現場を2人で押さえようとしてたんだが……俺がドジ踏んじまった。見つかって銃を向けられたところを、その人は俺を庇ってズドンだ。相棒を撃たれ、任務は果たせない。文句なしの大失態だった」


サイレンが聞こえてきたのはそのすぐ後だった。マフィアたちの混乱に乗じて稲城は先輩を抱え、最寄りの病院に走ったが、雪の降る道に傷口から血が零れ落ちていくのは止められなかった。"お前が生きてりゃそれでいい"。彼は責めることもせず稲城にそう言うと、ストレッチャーで手術室に運ばれていった。そして、2度とは帰ってこなかった。

より大きな超常犯罪に立ち向かうための力を求めて財団のスカウトに応じた後も、彼の言葉は稲城の心に残っている。だから石神にかける言葉は、何の慰めでもなく稲城の素直な気持ちだった。当然、財団職員として命を賭してまで大義に殉じなければならない時もある。だが、今お前がここに生き残ったなら、それはそれで喜ばしいことじゃないか、と。


「もしかして、それ以来ですか。稲城先輩がバディ組まずに単独行動してたの」

「そうだ。俺は自分を守ることはできる……だが、それで手いっぱいだ。相棒の命まで背負ってやれない。俺を庇ったあの人みたいに、結局どちらかの命を取りこぼしちまう。だからな、お前は十分立派だよ。俺が居なくても自分の命張って、ちゃんと生きて帰って来たんだ」


石神は、また空を見上げた。アビスの暗闇に慣れさせられた彼女の眼には、排気ガスとネオンの光に塗りつぶされた都会の夜空にも、輝く星が1つだけ見えた。人が死んで星になるというのなら、兄の魂もあの暗い地下に閉じ込められるのではなく、広い空に昇って行ったのだろうか。

アビスで兄は死に、自分は生きて帰った。そこに大いなる意味は無い、ただの偶然だ。けれど、意味を見出すとするなら、きっとそれが"意志を継ぐ"ということなのだろう。生きてさえいればやり直しは利く。死んだ者の仕事は、生き残った者にしか継ぐことはできない。


「……私、やっぱり『未調』のエージェント続けたいです」


気付けば、そんな言葉が石神の口からは飛び出していた。


「少なくとも、自分で届け出は出しません。懲戒は避けられないでしょうけど、例え北海道に飛ばされようと意地でも戻ってきますよ」

「そうか、なら俺も腹ぁくくらねえとな……。石神!今夜のお前の手柄、俺に全部よこせ」

「"手柄"?構わないですけど、何するんです?」


不思議そうに尋ねる石神に、稲城は苦笑するような笑みを浮かべて返した。


「拭けないケツを拭いてやる」




「今言ったことは本当ですか?」


サイト-81KK、管理官室。新渡にわたりとおる管理官は、普段通り柔らかな声色で、しかし鋭い眼光で稲城を見やった。部屋の内装は新渡の趣味なのか英国風の洒落たインテリアで統一されており、そこに構えた木製の重厚な机から稲城の方を見る彼の目は、相手の全てを見抜くシャーロック・ホームズの観察眼を思わせた。


「ええ、本当です。俺が逆井を撃ちました」


稲城がそう答えると、新渡の隣で同じように報告を聞いていた『対抗犯罪』主任の粟屋は、頭を抱えながらため息をついた。


「つまり、お前の報告をまとめるとこういうことか?お前は逆井を追って"アビス"なる地下の異常空間に迷い込んだ。そして戦闘になり、逆井を撃ち殺してしまった、と。……絶対に生かして捕えろつったよな?記憶処理剤の流通ルート吐かせるためによォ!」

「それについては本当に申し訳ありません。どのような処罰でも受ける所存です」

「……なんだ?今日はえらい神妙だな」


普段と違う稲城の態度に戸惑う粟屋をよそに、新渡は質問を続ける。


「なるほどなるほど。では、私から1つ伺ってもよろしいですか?同日同刻、エージェント・石神がサイトから外出しました。のちに彼女は逆井が潜伏していた大阪コンチネンタルホテル周辺で救護班に保護されています。貴方もその場に居合わせましたね?エージェント・稲城」

「ええ、それで間違いありません。逆井を射殺してしまった後、俺はアビスを脱出し、石神と合流しました。応援として石神を呼びつけてたんです。アイツに待機命令が出ていたことは失念していました」

「ほう。では、エージェント・石神は待機状態であったにもかかわらず貴方に無理やり現場に呼び出されただけで、逆井の殺害にもなんら関与していないと」

「その通りです」


新渡の眼光は鋭さを増していたが、稲城は臆することなく答えた。そのまま稲城を見つめつつ新渡は数秒の間沈思黙考していたが、やがて目を閉じ、いつものように柔和な笑みを浮かべた。


「そうですか。では報告書にはそのように記載しておきましょう、エージェント・稲城。貴方の処分については追って通達します」

「石神はどうなります?」

「それについても後日に。下がりなさい」


一礼をして、稲城は足早に管理官室を後にする。重い扉が音も立てずにゆっくりと閉まると、室内には新渡と粟屋だけが残された。


「……いいんですか?」

「何がです、粟屋主任。エージェント・石神は待機の命令違反で軽い注意処分、エージェント・稲城は確保対象の殺害と"アビス"を発見した功績を差し引き、警告に加え数か月の減俸、といったところで処分内容は考えていますが」

「いや、まああいつの報告を丸のまま真に受けるなら大体そうなるんですがね……」

「今回は本人たちの意思を尊重しましょう。名誉挽回の機会を与える、それが最大限の譲歩です。もちろん次はありませんよ」


粟屋はもう1度、ハァとため息をついた。


「……ま、管理官がそう仰るなら、俺もひとまず若気の至りには目をつぶってやります。ただ、市俄会の連中に関してはそうも言ってられなくなって来てますよ。ここ数年で思った以上に厄介さを増してきた……相次ぐ関連事案に記憶処理剤と"シカゴ・ブルース"……そしてなにより大阪の地下に広がってた"アビス"  文字通り足元を掬われた気分です」

「ええ、ますます彼らには〈撃滅〉の敵性レベルが見合うようになって来ました。……そろそろ、例の計画を実行に移すべきかもしれませんね」

「例のって……まさか本気ですか!?『倫理』がまた騒ぎますよ。特事のお偉方も必ず黙っちゃいません」

「それでも、毒を以って毒を制さねばならない時でしょう」


新渡は戸棚から1冊のファイルを取り出した。そこに書かれているのは、市俄会に壊滅させられた泉州連合会の残党組織を示した図。そして、彼らを秘密裏に買収し、1つの新たな組織として再編する計画だった。ひとたび計画に着手すれば、その新たな組織は財団の影響力と資金の下で、裏社会において市俄会を脅かすほどの勢力へと成長するだろう。


「財団運営の"フロント極道"構想  我々はこれにより、ヤクザを以ってヤクザを制します」



パラフードの聖地"新世界キッチン"には、今日も多くの美食家たちが集う。「色気より食い気」を地で行く者ばかりの彼らにとっては、行きかう人々の容姿をとやかく気にする余裕はない。だから例え、見目の麗しい少女が2人連れ立って歩いていたとしても、気に留める必要もないことだった。


「ねー、ボクあの"イコノミ焼き"ってやつ食べてみたいんだけど」

「あれは止めときなさい、食べ物としてあまりに非倫理的だから」


袖を引きながら屋台に指をさす少女は、そのツインテールに結われた長髪を、オレンジレッドからシアン、シアンから明るいピンクへと目まぐるしく色彩変化させていく。小さな体躯から繰り出されるその動作1つ1つが、どこかどれも戯画的だ。まるでアニメから直接飛び出してきたようなその異質なポップさは、彼女の存在が周囲の現実そのものに認知的不協和を齎しているかのようだった。

彼女を制止するもう1人の少女は、対照的に艶やかな黒髪を伸ばしていた。もしこの場所に市俄会に潜入捜査中のエージェント・麦塚が居たならば、晩餐会のレストランで逆井の居場所を教えてきた少女と、この黒髪の彼女が同一人物であることをすぐに看破しただろう。


「で、結局全部"お嬢"の手のひらの上ってワケ?」


クレープ屋で出来上がりを待っている間、虹色の髪の少女は何の前置きも無しに問いかけた。普通であれば何を聞かれているのかわからないだろう。だがそういった癖のある会話にはもう慣れたものだとでも言いたげに、"お嬢"と呼ばれた黒髪の少女はその文脈を読み取って返す。


「ええ、思いのほか上手く行った。逆井を失ったことで"シカゴ・ブルース"の生産は滞るだろうし、"アビス"が財団にも知られたことで市俄会は今までのように安全に事を運べなくなった。一方、財団も1番の強みである記憶処理剤が敵の手に渡ったことを知って、より大胆な市俄会対策を取らざるを得なくなってくる」

「ひゅーっ、さすが。市俄のみんなもビックリだろうね。それを手引きしたのがほかならぬ御堂みどう会長の孫娘だって知ったら」


黒髪の少女  御堂みどう 詩釣しづりは、それを聞いて悪戯そうに微笑んだ。詩釣は店員から受け取ったクレープを1口齧り、「じゃ、厄介な口は塞いでおきましょう」と言って虹色の髪の少女に差し出す。少女は目を輝かせ、真っ赤なベリーソースが零れ落ちそうな断面にかぶりついた。

クレープ屋から少女たちが歩き去るその背後。観光客と思しき紫色の触手に覆われた生物が立ち止まり、体内から粘液に塗れた携帯を取り出して空へと続く新世界キッチンの景色を撮る。写真を店のレビューに添付しようとして、その生物は思わず第三瑛骨をひねった。写真にはなにか、子供向け番組のパペットのようなものが2体写り込んで……いや、"置き換えられて"いる。

そこに居たはずの2人の少女に意識を向けることはできない。あと数秒で写真はひとりでにフォルダから消え、紫色の彼/彼女はこのちょっとした奇妙な出来事を忘れてしまう。少女らの剣呑な会話も、特異な容姿も、この場に居る誰もが頭の中に留めてはおけなかった。


「へもさ、ふぁんでおじょーはさ」

「ちゃんと飲み込んでから話しなさい」


クレープ1つを丸々、巻かれていた紙ごと口いっぱいに頬張った虹色の髪の少女は、詩釣にたしなめられると、目を白黒と"文字通りに"点滅させながら、アニメーションじみた大げさな動作でごっくんと飲み込んだ。


「でもさ、何でお嬢はあの程度で終わらせたのさ?ボクはてっきり、もっとステキな大混乱にするのかなと思ってたから、ちょーっとがっかりしちゃったんだけど」

「もちろん、六道一家を財団サイトにけしかけることもできたし、有力な組の拠点がどこに隠されているのか教えることもできたよ。でもね、それだけじゃつまらないでしょう?」


詩釣はそう言いながら、取り出したナプキンで少女の口を拭ってやる。


「今回撒いたのは火種みたいなもの。お互いがお互いを最大限警戒して力を蓄え続けた時、ちょっとの切っ掛けでその緊張は弾ける。そうすれば火は大阪だけでなく、この国全部に燃え広がるでしょうね。日本中が火の海に変わったその真ん中で、あなたには私好みの地獄をプレゼントしてあげる」


拭ったその手で、詩釣は虹色の髪の少女のおとがいに手をやり、クイと持ち上げた。周囲に星を飛ばしてきゃあきゃあと喜ぶ少女を、ワルツを踊るように抱き寄せて、そのまま詩釣は耳元で囁く。


「"楽しみ"は後に取っとき、博士ドクター。これからもっともっと、面白いもん見せたるから」



財団に見つかった異常な空間は、それこそ草の根1本でさえ科学の光を当てられることになる。未知を既知へと解明するために、未踏の極地に人類最初の1歩を刻むために。アビスもまた、その例には洩れなかった。


「1,2,3……時間同期確認ヨシ」

「そこ不整合あるんで注意な」

「"アリアドネー"展開します」


機動部隊γ-53 ("1辺4.2メートル")。異空間探査を専門とするこの部隊は、閉じ込められた異空間において基底現実へ生還するために尽力した財団職員たちがその前身となっている。異空間での振る舞い方には経験者として慣れたものだ。彼らは逸れぬよう慎重に進み、空間的な不整合も含めて記録していく。アビスがどれほど複雑な迷宮であろうと、その足取りは確かなものだった。

そんな中、隊員の1人はアビスのコンクリート壁に描かれた落書きに目を留める。照明を当ててみれば、それは明らかに、アビスに入った何者かが"伝える"意図をもって描いたものであることがわかった。ステンシルで吹き付けられたと思しき太陽を模したマークの下に、かすかに発光する塗料で英語と中国語らしき文章が併記されている。


「ウェルカム・トゥ……"アウターオーサカ"?」

Welcome%20to%20OuterOsaka.jpg

隊員は取り急ぎ写真をとり、「おい、先へ進むぞ」という先輩の声にせかされてその場を後にする。太陽の中心に描かれた"O/O"を意味する文様だけが、静かにその隊員の後ろ姿を見つめていた。


近畿に満ちた「異常」の闇は、未だ晴れない。


シャンティ・クライム・パラライザ
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