かつて、衆目を好む石像が居たのだという。余程の人好きだったのであろう、一度目を離すと抱きついてくるのだそうだ。
かつて、暴虐の限りを尽くした大トカゲが居たのだという。人々は恐れをなし、遂には猛毒の沼に沈めてしまったのだという。
かつて、人々を守るために世界を暗躍する組織があったという。それは多くの不思議を解明し、世を救っていたらしい。
かつて、人は栄えていたのだという。それはそれは昔の話で──
◇◇◇
「はあ、はあ」
自身の荒い息と鼓膜を穿つような無数の雨音があなたの耳に届くすべてだ。あなたは鬱蒼とした森林を駆けていた。足場はぬかるみ、気を抜けば木の根が足を絡めとろうとする。もはや足の感覚もなくなりかけていて、宙を走っているようにさえ感じられた。
村の外へ出たのは3人だった。1人目は叫んであなたに異変を知らせた。それは長い雨宿りで皆が眠りに落ちたときだった。彼は一番体が小さく力もなかったが、気が良くて、誰もが彼を好いていて、気付いたときはアレが首に食らいついていて、もう動かなくなっていて──
2人目はあなたに止まってはいけないことを教えてくれた。彼とあなたは、逃げに逃げ、力の限り走りきった。振り返ると、あの巨大なムカデはもう追ってきていないように見えた。彼はその場にへたり込んで、ほっと溜息をついて項垂れた。そのときあなたは、鳴り響く雨音こそがそれの歌であり、あらゆる木々がそれの隠れ蓑であることを知らなかった。木に寄りかかっていたあなたは雨音が一層強くなるのを感じた。耳元の樹皮がぞわりと動いた。鳥かリスかと思って目を動かすと、あの大ムカデが、その無数の足を木々に打ち付けて重々しい雨音を奏でながら、彼の首筋に食らいつくところであった。
そして3人目があなただ。雨の日には絶対に村から出てはならない── その言いつけを破ったわけではない。村を出たときはまだ、雲はあったが雨は降っていなかった。村から出たのも、ただ少しだけ好奇心を満たすためで、すぐ戻るつもりだった。ここまで大ごとになるなんて予想もしていなかった。村の老婆から聞いた、かつての人々の話。それを全て信じているというわけではなかったが、村の外には自分の知らない何かがあるという期待感が、あなたの心にずっとくすぶっていた。しかし、あなたは後悔していた。その好奇心に突き動かされるべき日を誤ったのだ。まさか、老婆の語った伝承の存在が、自分の身近にいるなんて思わなかった。雨の日に出かけてはいけないというのは、子供が迷わないようにするための教訓に過ぎないと思っていた。
──雨音が大きくなった。
それは雨が強くなったのか、それともアレが近づいてきているのか、あなたにはわからない。目的地がない以上、雨が止むまでただ走るしかない。
──雨音が少しずつ近づいてくる。
視野が狭くなる。もう目の前しか見えない。木にぶつからないように、あなたは必死に体を傾ける。
──雨音が響く。あなたの背後から、あなたの頭上から。
体全体の感覚が薄れる。もうあなたは自分が走っているのか、ただその場でもがいているのかさえわからない。
どんどん息が苦しくなっていく。喉がひりつく。
──雨音が耳元で鼓膜を穿つ。パラパラと軽やかに、重々しく、何度も何度も、頭の中をかき回すように。
走れ、走れ、走れ、走れ……
あなたは足に違和感を感じた。何かが引っかかったような。体が前に傾いてく。地面が眼前に迫ってくる──
「よくがんばりましたね」
耳元で、聞きなれない──しかし優しい──男性の声が囁いた。
◇◇◇
目が覚めると、あなたの目に映ったのは石の天井だった。雨の音は遠かった。
「目覚めましたか」
男が少し離れたところからあなたを見ている。小さな焚火が石の壁を照らしていたが、その顔は暗く、よく見えない。ここは洞窟のようだった。男があなたの名前を尋ねる。あなたが沈黙すると、男は小さく笑った。
「警戒するのもわかります。名を知るというのは大きな意味を持つものですね。ただ安心してください。私はあなたの村を訪れた旅人です。村人の皆さんから、あなたたちを探すように頼まれたのです」
良い村ですね、と男は付け加える。食べ物と資源が豊富で、森の外の村とは比べ物にならないくらい平和だと。
それでも半信半疑のあなたに、男はあなたの村の特徴を告げた。外側に傾いた、村を囲う大きな柵。深くて手入れが大変な堀── 男が実際にあなたの村を訪れたのは確かなようだった。
あなたが自身の名を告げると、男は「他の2人は……」といいかけて、首を振った。そしてその代わりに、大きなムカデをみましたか、と尋ねた。あなたは小さく頷く。あれは夢ではない。2人の断末魔がいまだに頭の中で響いている。
「……自分を責めないでください」
泣く子供を抱く母のような声。男は続ける。
「誰も、もう大ムカデのことは信じていないようでしたから。それだけ、先人の防備が完璧であったということでもあります」
あなたは自分の気持ちが少し落ち着いてきたのを感じる。それは洞窟の暗闇と男の言葉が、あなたの罪をまるごと隠してしまったからかもしれない。もしくは小さな雨の音が、それが近くにいないことを教えてくれたからかもしれない。
「村の老婆が言っていましたよ。あなたは伝承を面白そうに聞く素直な子だったと── 彼女の話を信じていますか?」
あなたは頷く。こんなひどい状況にあっても──いやあるからこそ、実際に目にしたからこそ──あなたの胸はどこか高鳴っていた。それは恐怖や怯えではなかった。そしてあなたはその胸の高鳴りが不快だった。実際に友が殺されたというのに、どうして自分はこんな気持ちを抱いているのだろうか、と。しかし、心の奥底で膨れ上がる暖かいものを、抑えることはできない。
「ふふふ、いい目です。そうですね……なら、私も少し語りましょうか──」
男は語る。穏やかな旋律を奏でるようにゆっくりと。──かつてこの世界にはもっと高度な文明があったのだということ。その世界では、伝承のような"不思議な存在"は恐れられ、破壊され、しまいこまれていたのだということ──あなたは聞きなれない昔話に聞き入っている。
「私たちは、もう同じ過ちを繰り返しません。我々は彼ら隣人と、付き合っていかなければいけないのです」
だから、私たちは世界を廻りながら、その方法を探すのです。そう、男は言った。もっと話を聞きたい。そうあなたは思った。もっと外の世界、不思議な存在について知りたかった。
ふと、雨の音が強くなった。それは洞窟の出口から響いていたのではない。直下から近づいてきていた。男は足元を見つめながら、さもこれを予想していたかのように、静かに呟く。
「来ましたね」
続けて「どうしますか?」と男は尋ねる。
「私をここにおいて逃げれば、あなたはきっと安全に村に辿り着けますよ。彼らは個体数も多くありませんし、雨もじきにやむでしょう。村にさえ辿り着けば、雨の日の外出さえ気を付ければもとの平穏な暮らしが待っています」
私はまあ、死にはしませんよ。と男は付け加えて、あなたの元に一つ鎌を滑らせた。あなたが村で見たどんな鎌よりも鋭く、質のいい鎌だった。森の外の村から買ってきたものです、と男は言った。
「これを使って突き刺せば、きっとあの大ムカデも殺すことができるでしょう。彼らは特別頑丈というわけではありません。もし脅威が去ったのならば、またぜひ話の続きをしましょう。あれに勝てるかはわかりませんが」
男をおとりにして村に帰れば、また村の皆と不自由のない暮らしができる。男も生き残る自信はあるようだ。しかし。例え心構えがあったとしても、自分はこの鎌一本であのムカデを倒すことができるだろうか。あなたは断言できなかった。友があれに喰い殺される風景が頭を過ったのだ。
雨の音はどんどんと近づいてくる。洞窟の下の方から真っすぐこちらへ掘り進めているようだった。男はあなたの選択を見守るように、じっとあなたの方を向いている。
──あなたは鎌を手に取った。その瞬間、あなたのすぐ後ろから雨音がひときわ大きく響く。振り返ると、あれが床を突き破って出てきている。あなたはそれと目が合ったように感じた。その大きく、強靭な顎があなたを食いちぎろうと飛び掛かってくる。
──あなたは、大ムカデの頭に鎌の背を叩きつけた。
◇◇◇
「まさかそう来るとは思いませんでしたよ」
男は高らかに笑った。先ほどまでとは全く印象が違う、心底愉快そうな笑いだった。
あなたに殴られた大ムカデは、穴から飛び出して、怯えたように逃げていった。遠のく雨の音が、危機が確かに去ったことを告げていた。あなたはその場にへたり込んでいた。
「どうして殺さなかったんですか? その方が確実だったでしょうに」
背が高いせいで、男の表情は相変わらずよく見えない。しかし、じっとあなたを見つめているようだった。あなたがそれを見つめ返すと──
「──ふふ」
男は満足したように頷く。
「気付いたんですね。あの大ムカデこそがあなたたちを守っていることに」
男は地面に落ちた鎌を拾った。──あれほどの鎌を造れる技術のある村が森の外にあるなら、彼らはどうして資源が豊かなこの森と村を襲って自分たちのものにしてしまわないのだろうか。それは、この森には恐ろしい伏兵が待ち構えているからだろうと、あなたは気づいたのだった。
「そうです。私たちはどういう形であれ、共に生きているのです。あなたはそれを見抜くことができた。ほら、聴いてください。世界もそれを祝福していますよ」
あなたが耳を澄ますと、もはや雨の音はしなかった。代わりに鳥がさえずる音が聞こえて、洞窟の出口が徐々に明るくなってくるところだった。
あなたは男と共に洞窟の出口に立つ。空には先ほどの激しい雨は嘘のように、白々しいほど広い青が広がっていた。あなたはそこで初めて男の顔をはっきりと見た。
男はあなたへ微笑みかけて、手を伸ばして、私と共に来ませんかと尋ねる。あなたは、その手を取った。
「さあ、共に恐れましょう。共に歩みましょう。そして共に知りましょう! "同盟"へようこそ!」
木々の隙間から抜ける太陽があなたを熱いほど照らし、洞窟へ吹き込む強い風が、あなたの髪を乾かしている。あなたは友人たちに黙祷を捧げてから、洞窟の先へ、一歩踏み出した。