財団は秘密組織である。その存在も、活動も、目的も、秘密にされなければならない。
財団内部に対しても、それは例外ではなかった。
『オブジェクトを回収しました。ポッドに収容します』
『お疲れ様です、エージェント・厚木。海岸に車両を待機させていますので、そのまま帰投して下さい』
「遅いな……」
エージェント・差前は呟き、頭に巻いたタオルを巻きなおした。ゴム長靴と前掛けが、やけに似合っている。
彼の目の前には、オフシーズンの海水浴場が広がっていた。
何本目かの煙草に火をつけながら、差前は呟く。
「『蟹買ってこい』っていうから、しこたま買ってきたけど……」
彼のすぐ近くには、保冷車が待機している。「差前カニ宅配(Sashimae・Crab・Post)」の文字と共に、蟹の絵が躍っていた。
エージェント・差前は、持ち前の交渉力で冷凍カニを大量に仕入れてきたところだ。
そして指示を受けて、ここで待機している。
と、そのとき。
海面にザブザブと何かが浮上してきた。
「ん?」
重装備の潜水服に身を包んだ人物が、こちらに向かって歩いてくる。財団標準装備の中型収容ポッドを引きずっていた。
潜水士の資格を持つエージェント・厚木だ。
差前は無言で片手を挙げる。
潜水服の厚木も、無言で片手を挙げた。
二人は保冷車の荷台を開ける。中身は発泡スチロールの箱でいっぱいで、とてもポッドを載せる場所はない。
だが差前が箱のひとつに触れると、それがダミーであることが証明された。積み上げられた箱のように見えたのは、ひとつの大きなコンテナだったのだ。
潜水服のまま、厚木がシューシューと呼気を漏らす。
「凝ってますね」
「木場さんに特注した。よし、行こか」
ポッドの中身について、差前は何も質問しない。必要があれば財団から提示してくれる。それがないということは、知る必要がないということだ。
差前が荷台から降りると、代わりに厚木が乗り込んだ。偽装用の本物のカニ箱に身を隠すと、親指を立ててみせる。
「いいのか、そこで」
差前は呆れつつも、荷台の扉を閉じた。
――『鍋奉行』より各員へ。『かにすき』は順調です。『カニカマ』を投入して下さい。
エージェント・マオは自宅で資料に目を通していた。
『石川海砂(いしかわ・みさ)』
『福井県出身、在住』
『身長155cm、体重42kg』
『十七才女性、高校三年』
『美術部』
『デザイナー志望』
『母方の実家は広島県』
そして最後の項目を確認する。
『死亡』
たった二文字だが、重い情報が記されていた。
「ふむ……」
死体を遺族に引き渡せない事情があるのか、それとも死因にSCPオブジェクトが絡んでいるのか。
マオにはわからないし、知る必要もないことだ。
わかっているのは、彼女の死を隠蔽する必要があるということだった。
「夕飯までに片付けちまうか」
マオはペンギンの抱き枕を椅子から押しのけ、そこに座る。
――『カニカマ』を投入しました。要請により、追加の具材を投入します。『餅巾着』を買ってきて下さい。
「なんなんでしょうね」
広島出張中にメールを受け取った結城博士は、指定の場所に向かっていた。
帰りに呉で観光していこうと思っていた矢先だったが、財団の任務であれば仕方がない。
『あなたにしかできない任務です!!!!!!!』
財団からのメールには、そう書かれていた。
指定された場所には、ほかほかと湯気を立てているバイクが一台。その横にはエージェント・速水。
「最速の男、参上!」
結城博士は事情をだいたい理解した。火急の任務だ。そうでなければ、別のエージェントが来ている。
速水が差し出した包みを受け取ると、中には衣類一式が入っていた。この辺りの地図が同封されており、順路とタイムラインが細かく設定されている。
「女学生さんの服ですね。かわいいですけど、私に似合うでしょうか?」
返事はなく、バイクの爆音だけが遠くに去りつつあった。
石川海砂という少女は、進路に悩んで家出をする。向かった先は祖母のいる広島だ。
だが彼女はなぜか、祖母宅を前にして引き返す。
彼女が通っている高校の制服を着た少女が目撃されているので、ほぼ間違いはない。
その後は幼少時に訪れた思い出の場所などを歩き、祖父の墓を最後に足取りが途絶える。
彼女の家族は捜索を続けるが、数年後に山中で朽ちた制服だけが発見され、彼女は完全に失踪した。
「カバーストーリーとしては、こんなところかな」
エージェント・マオは仕事を終えて、軽く伸びをした。
窓の外を眺めると、遠くの道路を冷凍カニの配送トラックが走っているのが見える。外はもう夕方だ。
「人の親として、心底憂鬱な仕事だった」
この少女の遺族はこの先もずっと、彼女を探し続けるだろう。だが彼女が見つかることは決してない。
「せめて遺族に謝罪できれば……いや、何て謝ればいいんだ。無理だろ」
マオは後ろめたい気持ちを振り払うと、スーツに着替え始めた。
「差前カニ宅配」のトラックは、指定されたルートでサイトに向かっていた。
道路は次第に混み始めていたが、トラックはほとんど信号に捕まることもなく、順調に走り続ける。
「えーと、次の信号が青に変わるのが二十七秒後か。で、ここから側道に入って市街地に行けば、渋滞は迂回できると」
木場購買長特製のカーナビによる指示に従って、差前はアクセルを踏む。
マイクを通じて、荷台から厚木の声が聞こえてきた。
『もう少し丁寧にお願いします。彼女が起きたらアウトです』
「誰だよ彼女って。まあいいや、わかった」
保冷車は側道に入ると、市街地を走り始める。
だが差前は知らない。
この先で交通違反を取り締まり中のパトカーが待機していることを。
――『鍋奉行』に緊急連絡。『味付けにうるさいパパ』が台所に来る予定です。
――こちら『鍋奉行』。パパはあかんなあ。『ポン酢』でごましてくれへんか。
その少し前。
「おいおい、ダブルヘッダーかよ!」
中国自動車道を爆走していたエージェント・速水は、やけに嬉しそうな口調でぼやいてみせた。
「よくわからんが、ぶっ飛ばせばいいんだろ!」
彼が走り去った数時間後、『盗難バイクによる轢き逃げおよび速度超過』という情報が警察無線に乗って放流された。
一方、先ほどの市街地。ここは一旦停止の十字路があるのだが、守るドライバーは少ない。
そのため、取り締まりのパトカーが頻繁に待ち伏せしている。今日もそうだった。
しかしエージェント・速水が近くを走り去った直後に、このパトカーも動き出す。周辺のパトカーは全て、速水の乗った『轢き逃げ犯の盗難バイク』を追い始めていた。
パトカーが去った数分後。
差前と厚木の乗ったトラックが、一旦停止に気づかないまま十字路を直進していく。
――こちら『鍋奉行』。『かにすき』ができた。
「あれ、マオじゃねえか」
「そういうあなたは差前さん」
スーツ姿のマオと、前掛け姿の差前は、互いの格好を見つめる。
ここはサイトの休憩室だ。
マオは差前がなぜそんな恰好をしているのかわからなかったが、ネクタイを緩めながら笑ってみせた。
「仕事の報告をしてきた帰りですよ。そっちは魚屋さんでも始めたんですか?」
「そんなとこかな。厚木もいるぞ」
「うわあ!? 防護服の展示品かと思ったら厚木さんかよ!?」
防護服を着て立っていた厚木にマオが驚いていると、休憩室に速水が入ってきた。
「俺はやはり最速だった!」
三人は顔を見合わせて、おおよその事情を察する。
「なんか走る任務があったんですね」
「いつも通りで何よりだ」
すると休憩室のドアがノックされ、結城博士が入ってくる。土産物の紙袋を両手に持っていた。
「出張のおみやげに、もみじ饅頭を買ってきましたよ。こっそり置いていこうと思ったんですが……」
「わー頂きます」
男たちがベリベリと包み紙を剥がし、もみじ饅頭を食べ始める。
「潜水してきたので、糖分が美味しいです」
「俺もメチャクチャ走ったから、甘いものがうめえ」
もみじ饅頭にかぶりつきながら、マオがふと呟く。
「今日はみんな、仕事が忙しかったんですかね」
「そのようですね」
結城博士が微笑むと、その話題はそれで終わった。
そこから先は聞く必要もないし、話す義務もない。例え親しい同僚であっても、余計な詮索は無用だ。
そこにエージェント・カナヘビが、ひょっこりと姿を見せる。
「お、なんやなんや。おばあちゃんにおやつもろとる悪ガキどもみたいな絵やな。一個もらおか」
「一個食えるのかよ」
差前が差し出したもみじ饅頭をパクパクつつきながら、カナヘビがふと思い出したように言う。
「せやせや、こんだけ揃っとるんやったら、今夜は食堂でかにすきでも食べへんか? 財団のおごりやで」
「カニですか」
「いいですね、カニ」
マオと結城博士が笑うと、差前と厚木は顔を見合わせて苦笑した。
カナヘビは一同を食堂へと誘う。
「鬼食料理長に焼きガニと天ぷら、それにカニグラタンも用意してもろとる。他の職員にも声かけてくれへんか?」
「やったー! さすが財団、冷淡だけど残酷じゃないだけのことはある!」
一方その頃。
培養槽に浮かんだ人型の何かを見上げながら、前原博士は初期収容の報告書を閲覧していた。
検閲だらけで必要最低限の情報しか得られないが、それで十分だ。特別収容プロトコルさえ作れれば問題ない。
前原博士は培養槽の強化ガラスを撫で、同情するような口調で呟く。
「あなたがどこの誰『だった』かは知らないけど、不運だったわね」
ゴボリと気泡があふれ出し、それが全裸の少女を覆い隠した。
前原博士は白衣に手をつっこんだまま、収容室を退出する。
「さー、それよりカニだカニだ……っと」
財団は秘密組織である。その存在も、活動も、目的も、秘密にされなければならない。
財団内部に対しても、それは例外ではなかった。