忠誠の代価──あるいは唐揚げとペンギン
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 ほとんど灯火の消えた市街地を、よろめくように走る中年男性がいた。白衣の裾は泥に汚れ、上質のスーツはあちこちほつれている。革靴は傷だらけだ。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
 冷たい夜霧に覆われた街の中を、男は必死に走り続ける。ときどき後ろを振り返るが、すぐにまた走り出す。
 そして男はようやく、町外れの廃工場で一息ついた。水銀灯が夜霧を切り取り、ぼんやりとした光を投げかけている。
「よし、ここのマンホールから地下を移動すれば、財団も追跡は不可能だろう……後は娘を迎えに行くだけだ」
「それは困ります、後藤博士」
 背後から聞こえてきた声に、男はぎょっとして振り返る。
 いつからそこにいたのか、コート姿の男がたたずんでいた。後藤はその顔に見覚えがあった。
「エージェント・マオ……なぜここに」
「簡単ですよ。財団はあなたの逃走可能な場所全てに、エージェントを張り付かせました。私の担当がここだったというだけの話です」
 エージェント・マオは笑みを浮かべながら、一歩踏み出した。
「僕は捕まる訳にはいかん」
 後藤は身構えるが、武器は持っていない。格闘技の心得もなかった。
 一方のマオはエージェントであり、荒事にも手馴れている。おそらく拳銃ぐらいは携行しているだろう。
 マオは穏やかな口調で、諭すように訴えかける。
「財団は冷淡ですが、残酷ではありません。今投降するなら、あなたの安全は虎屋博士が保証してくれます」
 だが、彼はこう付け加えるのも忘れなかった。
「ただし娘さんの身柄だけは、財団に引き渡して下さい」
 勝ち目はないと悟って、後藤はマオに懇願する。
「君にも確か、娘がいただろう。頼む、僕はどうなってもいい。娘だけは見逃してくれ! 君たちは僕の娘を殺すつもりだろう!? やめてくれ!」
 一瞬、マオの歩みが遅くなる。彼は重い口を開く。
「……あなたの娘さんは、SCP-293-JPに暴露しました。収容が必要です」
 だが後藤はあきらめず、重ねて懇願した。
「僕たちが財団に忠誠を誓うのは、それが家族の安全と幸福に結びつくからだ。だが僕にとって、もはやそれらはイコールではなくなった。君だって、僕の立場なら同じようにするはずだ!」
「確かに私もあなたと同じ立場なら、同じ行動を取ると思います」
 マオはうなずくが、立ち止まることはしなかった。
「しかし私にとっては今もなお、財団への忠誠が家族を守ることとイコールなのです。だから、あなたを見逃すことはできません」
 マオは懐に手を伸ばしかけたが、途中で手を止めた。
 そしてゆっくりと掌を前に差し出し、身構える。
「全力で抵抗しても構いませんし、あなたはそうするべきです。あなたが私を殺したとしても、私は恨みませんよ」
「すまん!」
 後藤は廃工場に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、それを思いきり振りかぶった。これでも学生時代は野球部だったのだ。当たれば一撃で倒せるだろう。
「えっ、うわっ!?」
 マオは一瞬慌てる。
 だが彼は逃げることはせず、むしろ逆に大きく踏み込んだ。まだ後藤が鉄パイプを振りかぶっている間に、彼の懐に飛び込む。
 動きだす前、勢いのついていない鈍器には殺傷力はない。たとえそれが、ほんの一瞬だとしても。
 後藤の手を押さえて鉄パイプの動きを封じると、マオは彼の顎に拳を繰り出した。
「すみません」
 後藤がもんどりうって倒れる。

 失神した後藤を拘束したあたりで、廃工場に乗用車とワゴンが到着する。
「間に合ったかな、エージェント・マオ?」
 武装したセキュリティ担当を随伴してきたのは、狐面の男だ。
 マオは浮かない表情で挨拶する。
「対象を拘束しました、虎屋博士」
「わかった。ただちに撤収だ。痕跡を残すな。それと撮影器具と記録媒体は徹底的にチェックしてくれ。撤収時は指定ルートC7を使用するように」
 白衣の裾をひるがえし、周囲にてきぱきと指示を下す虎屋博士。
 武装セキュリティのチームは後藤を確保して、ワゴンに乗り込む。こちらも恐ろしく手際が良かった。
 発進していくワゴンを見送ったマオに、虎屋が声をかける。
「乗っていくか?」
「ではお言葉に甘えまして」
 マオが乗用車に乗り込むと、虎屋は運転席に座った。

 車は夜の道路を走り続ける。車内にはエンジン音だけが鈍く響いていた。
 やがて、ぽつりと虎屋が呟く。
「彼の娘を確保したよ」
 マオは流れていくナトリウムランプの鈍い光を見つめたまま、無言で溜息をつく。
 虎屋はこう続けた。
「収容しなければ、犠牲者も同じ境遇の人間も、もっと増える。ここで連鎖を止めない限りはね」
「わかっています。わかってはいますが……」
 マオは拳を握りしめた。
「財団への忠誠と、家族の幸福。イコールで結べなくなったら、誰だってこうするでしょう」
「ああ、私だってそうするさ。だがそれでも……」
 虎屋は呟いた。
「それでも、『確保・収容・保護』は変えられないんだ」

 数日後。
 収容室の扉が開いて、後藤博士が室内に入ってきた。
「サヤ、元気にしてたかい?」
 室内でフクロウの絵を描いていた幼い少女が、振り向いて表情を輝かせる。
「パパ!」
 娘が抱きついてくるのを、後藤は笑顔で受け止める。
「おいおい、ちゃんと寝てなきゃダメだろう。お医者さんに怒られちゃうぞ?」
「ごめんなさい。でもママにお手紙を書きたくて」
 彼女が病室だと思っているのは、財団標準の人型オブジェクト収容室だ。
 後藤博士はポケットから、検閲済の封書を取り出す。
「ああそうそう、今日もママからお手紙を預かってきているよ。お返事を届けてあげるから、書いてくれ」
「うん! 昨日、みんなで遊園地に行ったときの話を書くの!」

 同時刻。
 サイトの休憩室で、マオと虎屋はコーヒーを飲んでいた。
「結局、彼女をSCP-293-JP-1として、研究対象に指定するのが限界だった」
 虎屋は仮面の奥から、コーヒーの湯気を目で追っている。
 それを見つめながら、マオは愛用のペンギン抱き枕にもたれかかった。
「表向きは、あの子は難病で隔離入院中。後藤博士の離反行為は不問とした上で、SCP-293-JPの専従に異動。出世の道はほぼ閉ざされましたね」
 マオは皮肉ってみせたが、目は笑っている。
「ずいぶんと優しい措置ですね、虎屋博士?」
「私を邪悪な唐揚げだと思わないで欲しいな、エージェント・マオ」
 虎屋は仮面を外して、コーヒーを一口飲んだ。
「こうすれば後藤博士にとって、財団に忠誠を誓うことが家族の安全とイコールになる。優秀な研究員を失わないよう、可能な範囲で処理しただけだ」
 マオは腕組みしながら、天井を仰いだ。
「財団は残酷ではありませんが、冷淡ですからね。同情だけでここまでしないことは、私にもわかっていますよ」
 二人は黙り込む。

 しばらくしてから、話題を変えるためにマオが口を開いた。
「ところで、男の子だそうですね」
 とたんにいそいそと胸ポケットをあさりはじめる虎屋。
「ああ、エコー写真見るかい? そうそう、スコーンをあげよう」
「エコー写真は昨日も見せてもらいましたし、スコーンは結構です」
 結局押しつけられたエコー写真を見つめながら、ニヤニヤ笑っているマオ。
「なんで笑ってるのかね」
 するとマオは、スマホの待ち受け画面に写っている愛娘を見せびらかした。
「うちんとこは娘ですからね。いいですよ娘は。そりゃもう華やかで。ほらほら」
「だが、いずれは嫁に行くだろう?」
 虎屋の指摘に、マオはしばらく沈思黙考する。
 それからこう言った。
「よければ、虎屋さんの御子息との縁談を……」
「せめて生まれてからにしてくれ」
 二人は顔を見合わせると、互いに苦笑した。
 虎屋が言う。
「うちの息子が同じような状況になったら、君は私を見逃してくれるかい?」
「それはできませんが……」
 マオは断った上で、こう続けた。
「あなたの御子息を守るために、『確保・収容・保護』の範囲であらゆる手を尽くす、とだけ約束します」
 すると虎屋はうなずいた。
「OK、相互協定成立だな。よし、そいつを祝してランチに行こう」
「いいですけど、唐揚げ定食頼むのだけはやめて下さいよ」

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