いくらあっても意味がないなら、新しいものに変えてしまおう。
彼女は陽気な声で言う。
「染まりゆく季節」より
部屋の窓からは薄い光が射していた。特別な休日の黎明れいめいには静寂が満ちていて、聞こえるのは寄せては返す波の音だけだった。
長い間、ベッドに仰向けで寝ていると、天井の模様が絵画に見えてくる。彼女ならばこの模様をどのように作品に組み込むのだろうか? 才能も技術もない私には到底できそうにないことに思えた。
横に視線をずらし、彼女を視界に入れる。私に背を向ける形でベッドに座る女性がいる。背中から腰にかけて、つる草のような刺青いれずみが彫られており、彼女の痩せ気味の身体と怖いぐらいにマッチしていた。昨晩、私を撫でた指は煙草を持っていて、それからは青い煙が上っている。
身体を上げ、彼女の方へ顔を近づける。強くしなやかな横顔には青い瞳ひとみが存在し、そのすぐ下には棘いばらをモチーフにした傷があった。この傷は彼女が自分でつけた、完治しない作品Artだ。異常芸術家アナ―ティストといえども、自らの身体で作品を作るものなどごく少数-しかし、ここフシアルタルティ(Fusiartarti)のユーントークス区では違う。放浪の芸術家からAWCYといった大きなグループまで。この場所ではいくつもの芸術が生まれ、称賛や批判を受け、いずれ忘れ去られる。そんなようだから、街を歩けば作品が-正確に言えば自分自身に改造を施した存在が山ほどいるのだ。
そのため、彼女の容姿は特段目立つことはないし、彼女自身もそれは望んでいないようだった。彼女が言うには「自身がどれだけ奇抜で美しくとも、作品がつまらなければその人もつまらない」からだそうだ。
「チェトゥ(Ceyetu)」
「何?」
「え、ああっ、何でもない」
彼女-チェトゥは煙草の火をもみ消し、灰皿に捨てると、無言で浴室へと向かった。まだ、彼女の存在に慣れていない。ふとした瞬間にその姿に見とれてしまうのだ。思わず名前を呟いてしまうほどに冷たく美しい。それはどんなに美しい芸術にも例えることができなかった。
◆ ◆ ◆
薄暗い空の下を共に歩いているだけで、妙に感慨深い気分になる。二人ともまだ髪がシャワーの湯で微かに湿っており、外気と合わさるとひんやりした感触がした。どんな服の上にでも着るジャケット、ジーンズのズボンに無地の靴下、深く被ったキャスケット-それがチェトゥのいつものスタイルだった。
私は青いコートに紺色のロングスカートという服装だ。彼女の洒落た格好に憧れ、自分でも似たものを着たことがあったが、両親はそれを快く思わなかったらしい。教育係はその服を炭に変えてしまった。ただ、捨てるのではなく、焼却したのだ。それも私の目の前で。そんなものは由緒正しき、キュラム家(Culum family)にはふさわしくないということらしい。
「ブラス、それで、どこ行くつもり?」
「大丈夫。ちゃんと考えてるから」
ブラス(Blasci)、私の名前。なぜ、妙に男性的な名前を付けたのか理由を聞くたびに、異なる答えが返ってきた。おそらくだが、両親は男の子を望んでいたのだろう。古くから続く家系の跡取りとするために。この名前にはそんな理不尽な未練が染みついている気がして、あまり好きになれなかった。
チェトゥと出会ったのは、ニューヴァリースの展覧会でのことだ。作品を作ることは苦手だったが、芸術に触れて嗜むことは何よりも好きだった。その時の展覧会は、著名な芸術家から無名の新人の作品まで幅広く展示され、まるで夢の国にいるようだった。そして-展示されたものを片っ端から、見ていた時、そこで奇跡と出会った。圧倒的ながら繊細な模様、微妙な色の違いまで描かれた風景、混沌の中に美が顔を出し、こちらに笑顔を見せていた。キャンバスという平面に表された絵にも関わらず、草木が本当にここに存在するような衝撃が、意識を貫こうとしていた。これを描いた人に今すぐ会いたい。その思いで、展覧会の時間が終わる直前まで、私はこの絵の前に立ち、作者が来ることを待った。何時間も過ぎた後、私は出会ったのだ。運命の人に。
◆ ◆ ◆
「すいません、フィルギャ・レモネードと142000ホットコーヒー下さい」
「お嬢さん方が今日の一番客だよ。せっかくだから少し負けといたげる、お支払いはドル?アストーニー?」
「アストーニーで」
「じゃあ、590だよ。しかし、こんな朝早くからどこ行くの?」
「ちょっとそこまでですよ」
「へえ、じゃあ気おつけてね。それからレストランの方にもお腹すいたらいつでも来なよ。新メニューのカニクリーピーパスタが結構人気だから、ぜひ、食べに来てね。」
朝早くから開いている店は事前に調べておいた。気のいいおばさんが経営している飲み物の店だ。
「コーヒー早く渡して」
「ここじゃなくて向こうで飲むんだよ。あの緑の建物の、ビーチが見える場所」
太陽はまだ完全に明けていないものの、さっきよりずいぶん昇っている。雲がほとんど無い綺麗な空だ。道は海の景色とよく似合う石造りのタイル。見える限りの建物は色もカラフルでバラバラだ。赤、青、白、黄、黒、紫。しかし、それらが一つ一つ主張しあい、なおかつ、大きな調和Harmonyを奏でているように感じた。
「着いたよ」
コーヒーが入った紙製の容器を渡し、眼下にある開けた景色を眺める。下方には先ほどまで登ってきた住宅街が見え、一番向こうには青く、澄んだ海が在った。朝の光と夜の闇が混じって溶け合う今だけの景色。目に映るその神秘に感動を覚えながらレモネードを口にする。
「どう?こうゆうの」
「まあ、いいと思う」
「……それだけ?」
「まあ、それだけ」
「はぁ……分かった」
せっかくの景色もこの天才には響かなかったらしい。この時のために色々準備してきたのに残念な結果になったようだ。レモネードの甘みも酸味も幾分と落ちたような気がする。
「もしかして、落ち込んでる?」
「当たり前だって……もう帰ろうか」
「もう帰るの?」
「何言ってんの、まだ出来上がってないんでしょ、作品。あんたが、“一日中アトリエに居たい”なんて言うから、スケジュールの合間縫ってデートの予定作ったのに」
「えっ、これってデートなの?」
「……気づいてなかったの?」
「まあ」
「まあじゃないでしょ……」
さっきの言葉はかなりショックだった。だが、少し考えれば分かっていたことかもしれない。チェトゥは芸術面では天才かもしれないが、こうゆうことには鈍感な方なのだ。
「ていうか、なんで身体を重ねられるのにデートはしてなかったんだろ?」
「そういうことは……まあ、あるんだよ。私たちは違うけど」
「違わなくなくない?」
「違う。あんたが朝から晩まで創作に時間割いてるせいだから」
「……機嫌悪くなってる?」
「なってる。割となってる」
「そうゆうときは相手に吐き出せばいいんだよ。心の中に溜めてるともっとひどくなるから。話すなら聞いてあげてもいいよ?恋人だし」
チェトゥの声からは少しの焦りが見えた。彼女なりの気遣いなのだろうが、私の気持ちを逆なでているような感じしかしない。
「……じゃあ、言うけど私たちって本当に恋人?」
「何でそう思うの?」
「恋人になってからどれぐらい経ってる?」
「えーっと、7ヵ月くらい?」
「その間、何か恋人らしいことしたっけ?」
「4回ぐらい一緒に寝たよ」
「それは前から」
気分を抑えようとするが、自分の言葉が鋭利になってゆくのを止められなかった。
「ああ、確かに。……そう考えると確かにないね」
「それで初めてのデートがこれでしょ?」
「えっ、あっ……ごめん」
チェトゥの気分は目に見えて下がっていたが、それは私もだ。
「しばらく考えてたことがある」
「何?」
「もう別れて前の関係に戻らない? 恋人はやめて、アーティストとパトロンに」
「……何で」
「恋人同士でもあんまり意味とか感じられないし、その方がチェトゥもアートの方に専念出来るんじゃないかって思って」
こんなこと言いたくなかった。でも、このデートが上手くいかなかったら、言うと決めていたことだ。
「……そしたら家に戻るの?」
「いや、別のアパートでも借りるから、それは大丈夫」
あの家には出来ればずっと戻りたくない。
◆ ◆ ◆
私の家-キュラム家は旧貴族階級の家系だ。父親は外の大企業の重役であり、母親は市議会議員を務めている。両親はあまり家に居らず、私は使用人に育てられた。家が嫌いなわけではない、自分をこれまで育ててくれたことには感謝している。だけど、家庭での規則が、教育係の厳しさが、大きすぎる邸宅が、高すぎる地位が、両親が好きになれなかった。ずっとずっと苦しかった。優美な空気に窒息しそうで、宝石のような光で目が潰れそうになる。
そんな時に彼女に会った。チェトゥは闇なのだ。私に勝手につけられた飾りを取り除いてくれた人。チェトゥはどこかほの暗くて、冷たい気がする。でも、彼女の内には温かく綺麗なものがある。私とは真逆だ。私は外側のまやかしばかりが光っていて、内には何もない-空っぽ-ただ金持ちの家系に生まれただけの人間。
出会ってすぐにこっちからアプローチした。最初は作品の買い手として、次はパトロンとして、そして恋人として。……でもそれも今日で終わりだ。私と彼女では根本的に、何かが噛み合わなかったのかもしれない。彼女は闇が似合う光、私は外面ばかりが小奇麗などうしようもない塊。“別れよう”、口と舌がそう動こうとしたとき-
「いやだ」
「えっ」
「私はそんなのいや、絶対に別れたりなんかしない」
チェトゥの声がはっきりと世界に振動する。強く、はっきりと。
「なんで?」
「展覧会を覚えてる? 始めて会った時のことを?」
「……もちろん」
忘れるわけがない。
私を拘束する鎖が砕けた時のこと、貴女と出会った時のことなんだから。
「それなら、それが別れない理由だよ」
「どういうこと?」
「ああゆう展覧会のアートは記憶に残るってだけで凄いんだ。アートがお互いの印象を潰しあい、観客が感じる衝撃を薄めてしまうから。でもその中でも、記憶に刻印されたように離れなくなる-そんなのがある。」
空気が冷たいはずなのに身体中に熱が伝わってくる。まるで貴女の言葉が突き刺さるみたいに。
「それで-ブラスにとっては私の作品がそうだった。キャンバスの中の激情が誰かに伝わる-これって凄いことじゃない?」
……貴女がこんなに饒舌じょうぜつになれるだなんて知らなかった。
「当然だけど、永久に語り継がれることだなんて存在しない。誰しもいつかは薄れて、消えていく。でも、今、この瞬間だけの特別があったっていいんだ。出会って好きになるってことは奇跡なんだよ。私は別れない。こんな奇跡を通じて出会ったんだから-貴女を、ブラスを愛してるから」
体内に生き物が走るかのような感触がする。
「ねえ、ブラス、だから考え直し……ってなんで泣いてるの?」
「……うるさい」
チェトゥの姿はよく見えなかったが、慌てている様子が声からうかがえた。
手で目のあたりを拭う-
すると光が見えた。
「朝が来たんだ」
太陽が昇っていた。見える限りの街を染め上げている、明るい光。それは私たちを照らす光だった。この瞬間を-永久とも見える時間の、1ページにも満たないこの一瞬を祝福する光。
「……凄い」
思わず声が出た。
ここでこの景色を見てるのは私とチェトゥだけ。
「ねえ、チェトゥ-」
「思いついた」
チェトゥは唐突に飛び上がり、階段を駆けてゆく。
「ちょ、何が-」
「この景色、この光、これを表したいんだよ-キャンバスに」
「急だって、ちょっと待っ-」
「今すぐ始めなきゃ、アトリエ先に帰ってるから」
そう言うと、チェトゥは振り返りもせず、全速力で走って行ってしまった。
「ほんと相変わらず……」
呆れたが、それはいつもと違う感情を呼び起こすようだった。
「っていうか、コーヒー全然飲んでないじゃん……」
コーヒーを手に取り、しばらく眺めて、少し口に含む。
甘みと酸味はちょうどよかった。