尿瓶で蠅を黙らせる方法を教えてやる
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『──サンパウロ激震 価格は350──』

『──スマートカートはお客様のニーズを完璧に──』

漏れ聞こえてくるラジオ。コマーシャルを避けるためか、目まぐるしく受信局を変えられていた。見張りの足音とラジオの音しか聞こえない独房。ラジオのスピーカーは床に直で置かれているのだろう、ラジオの音が鳴る度独房の床は揺れ、ベッドで寝ていてもその振動を感じるほどだった。

しかしながら、このラジオが無ければ無遠慮な蠅の羽音が聞こえてくるので、むしろこの雑音は私とって救いだった。膝を突けば擦り傷ができるような粗い床の上で、私は手遊びをしながらどう逃げるものかと考える。ブラジルでカルテルに捕まってそのまま亡くなった財団エージェントは何人か知っているが、私がその1人になるのは御免だ。

連中に私を殺すつもりはまだ無いらしく、今朝は「これで身体を洗え」と固形石鹸が渡された。まだ使っていない大ぶりの赤い固形石鹸は、私が手で触ったせいで汚れてしまっている。私がベッドから石鹸を手に取ると、その裏面は完全に黒ずんでいた。使う気になれないのはこの汚れのせいではない。刻字されたその名前を見たせいである。日本語訳で「死体石鹸」。絶対に身体を洗う訳にはいかない。

恐らく普段は使われていなかったであろう独房を見回すと、空の尿瓶が目に入って気分が悪くなる。トイレが流れないと私が言った時連中が寄越した代物だが、あれも使う気にはならない。格子は錆びているが到底破れそうも無い。窓の無い独房の分厚いコンクリート壁にはヒビが入っているが、外の光が見えるほど深くはない。時間を知る術も無く、私はベッドのダニに噛まれるのを避けるため、座ったまま眠りに落ちた。
 

 

『──19時のニュースです。大統領は今日未明──』

ニュース番組のBGMで起こされてすぐ、受信局が切り替えられた。聞こえてくるラジオの番組の多くは音楽番組で、ニュースは意図して避けているらしい。音楽番組といっても私の好みではないジャンルのものばかりで、それも私には少し不満だった。辛うじて今が夜であることは分かったが、独房の光量は昼と変わっていない。眠る前と明らかに違っているのは、格子の目の前に見慣れない男が立っていることだ。

「飯だ。」

いくつかの皿が載った盆をこの独房に入れ、男はラジオの音が鳴る方へと歩いて消えていった。カルテルは私を捕まえた2日後には方針を変え、拷問、尋問を行わなくなった。ここ数日は私に対して何もせず、ただ飯を与えるだけだ。何か薬の類が入っていそうな匂いのするものと、薬の匂いや味を隠せる香辛料のきつい食べ物は避けて食べているので、今の所私の身体や精神に異常はきたしていない。

今日はどうやら話が異なるようだ。少し指で掻き回すと、小麦色のシリアルの山の中に何か白いものが混ざっているのが分かった。シリアルよりも小さな丸い粒。こんなに分かりやすい異物を私が食べると思ってはいないだろう。粒をつまみ、匂いを嗅いでみたがこれ自体は恐らく無臭だ。

私はシリアルの皿をひっくり返して内容物を盆に出した。白い粒だけを選り分けて再びシリアルの皿に載せていく。サイズが整えられている白い粒が何であるかに思い当たった私は、今朝差し入れられた石鹸を再び手にする。まだ汚れ切っていない表面を上にし、私は意を決して口を開き、舌で石鹸を舐めた。

甘い。すぐに舌を引っ込め、唾を吐く。私の舌が触れた部分は少し粘度を持った状態になっていた。これはただの石鹸じゃない。グリセリンの比率が通常のものとは比べ物にならないくらい高いのだ。これは『死体石鹸社』である『Soap from Corpses Products Inc.』特製の代物。差し入れてくれたのは財団というわけだ。となれば、この白い粒が何かも大体は察せられる。財団の意図も理解した。私に騒ぎを起こして欲しい訳だ。

私はおそらく肥料用のものであろう白い粒状の硝酸アンモニウムをプラスティックフォークで砕き、粉末に近い状態にして尿瓶に入れる。劇物・爆発物を扱う上で欠かせないのがガラス容器だが、こんな形で尿瓶が役に立つとは思わなかった。次に私は、グリセリンの塊である偽石鹸を細かくちぎっていく。どうせ時間はあるので、私は丁寧にこれをちぎり、フォークの間を通るくらい小さくしていった。

それからの具体的なやり方は伏せるが、私はこの爆薬を完成させた。最終的に尿瓶に残ったのは僅かな赤い液体だ。私はこれを尿瓶爆薬と名付けた。鉄格子の外に投げて落下の衝撃が加わった瞬間、この爆薬は大きな音を立てて爆発し、騒ぎと混乱を引き起こすだろう。見張りを務めている人間にこれをぶちまけてやれば尚更だ。

そう考えていたが、私はそこで1つ新たな悪巧みを思い付いた。財団は私が騒ぎを起こすことを望んでいる。騒ぎが大きくなる分には何をしても構わない、むしろやるべきだということだ。私は興奮を手の平に吐き、自分を落ち着かせながらその悪巧みに取り掛かる。

私は鉄格子とは正反対の壁で、最も幅が広く、深そうな亀裂を探し始めた。数十個あった候補から1つの亀裂を選び出した私は、プラスティックフォークをその亀裂へと斜め下向きに挿し入れ、液状の爆薬をそれに伝わせる。爆薬は零れ落ちることなく亀裂へと入っていき、亀裂は赤い液体によって埋まっていく。ケミカルな印象の強いその明るい赤色は、暗い独房を照らしてくれているような気がした。

尿瓶がほぼ空になり、私は衝撃を加えないようベッドの上に慎重に置いた。あとは亀裂を満たす尿瓶爆薬に衝撃を加えるだけだ。私は外れかけてベッドを傾ける要因となっていたベッドフレームの一本を力任せに外し、野球のバットのように両手で構える。両手に力が入りすぎ、痛みが走る。しかし聞こえてきたのは、逸る心を抑えるのに不向きな音楽だった。
 
 
『──お聴きの放送は ロック・ザ・ブリッド』
 
 
受信局は北米に切り替えられたらしい。ロックンロールのエイトビートが、私の足を震わせていた。

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