鮮やかな緑と、烟る焦茶が入り混じる世界。
鬱蒼と繁る雨林の木々を、砂礫の嵐が吹き抜ける過酷な環境。
その中を行く、探訪者の陰影。
メディアスは砂嵐から自分の毛皮を守るため、本部から支給された汎用探検服を一辺の隙なく着込んでいた。しかしその迷彩柄も今や傷を受け、破れ、その下の滑らかな薄茶の体毛がところどころ顕になっている。次元の穴を超えた先の未開の土地は、カワウソとなった人類にとって苦難の道であった。
風に逆らい、茂みを掻き分け、メディアスは開けた草地に出る。そこで、彼は思いがけないものを発見した。自分より一回りは大きい、黒く角張った物体だ。砂に覆われた下に見えるその物質はキチン質のように鈍く光を反射し、中には玉虫に輝く無数の岩が埋め込まれているかのようだ。筋張った棒のような鉤爪が数本、塊から伸び、沢山の糸がそこから垂れていた。これは次元の先に暮らす生き物であると、メディアスには察しがついた。
メディアスは謎の生物へと近づき、おそるおそる手を触れる。温かさはないし、動く様子もない。生きてはいないと直感した。物体の頭部の方を回ってみると、そこには本来あるであろう頭部は欠けており、中は虚な空洞であった。
骸に潜って中を調査しようとした時、メディアスはすぐ近くで弦が擦れるような音を聴いた。突然の不協和音に驚いた彼が顔を出すと、そこには一匹の生きた存在があった。今メディアスが調べていた物体とおそらくは同種の、そして二回りは小さい個体であった。カワウソの体躯しか持たないメディアスでも背丈では勝っていた。その個体は先ほどの耳障りな音を出しながら、転がっている物言わぬ物体にしがみついていた。
まさに、親の亡骸に縋る子の姿であった。
メディアスの脳裏に一つの記憶が蘇った。かつて自身が父に対して同じように縋ったことを。ヒトの父子として生きてきた彼らがある日突如として、その姿をカワウソに変えられたことを。それから程なくして、他の国から忍び込んだ心無い狩人達に、父親は狙撃され、その肌を剥ぎ取られたことを。襲撃者が裁かれた後も、メディアスの下には棺に収められた父の毛皮しか還ってこなかったことを。スペイン人の一人であったがためにカワウソとして生き続ける彼の、心の原風景を。
泣き声をあげる異形の子に、メディアスは手を差し出した。
「それで、家まで連れてきちゃったんですか?本部の人はそれでいいって言ったの?」
業務を終えたメディアスが見知らぬ生き物を連れて帰ってきたのを見て、妻は天を仰いだ。カワウソの妻もまたカワウソであった。二人の毛皮に挟まれた子供は、堅牢な甲殻にその身を閉じ込めていた。
「上司に相談したら、研究の一環としてなら許可するってさ」
「どういう研究なの」
「この生き物の殻を、僕たちの作業服として使えるようにするまで育てる研究」
メディアスは少し顔を曇らせて答えた。彼が本部に届けた次元穴原住生物の遺骸は、その甲殻の頑健さを買われ、CESEXADの作業者が当該次元の探索を行う際の作業着の素材として期待される状態であった。しかし彼が持ち帰ったのは一匹分のみであり、カワウソにとっても一人分の衣服にしかならなかった。故に次元穴探索産業の発展を目指す本部の意向としては、この甲殻の量産体制を整えるべく、その前段階の研究に着手したというわけである。
「では、この子供はいずれ」
「そう、いずれはそうなるんだよ。でも、それまでずっと研究室に閉じ込めて実験体扱いするんじゃ、あまりにも居た堪れなくて。それで思わず申し出ちゃったんだ」
「気持ちはわかります、貴方ですから。上司の方も許してくれてよかったですね。でも、家にいたって私にもできることそんなにないですよ」
「共働きだものね。でも、研究所よりは絶対マシだろう。幸いこの子は大人しいし、食事も僕らと同じものでいいみたいだから、何とか家で過ごさせてやれると思う」
そうは言ってもねえ、と妻は考える。国民全てがカワウソと化してしまったスペインではヒトが続けていた産業の多くは大幅な構成の見直しを強いられ、裕福な国民は決して多くはない。メディアスの家も夫婦共働きであり、夫は危険な次元穴に出稼ぎ、妻は新たな国民達の体格に見合った服を作る縫製業に従事していたので、虫のような子供の面倒を家で見続けることはできそうになかった。なら、あそこに頼むのはどうだろうか。
「この子について、私の職場に相談してみます。託児場には色々な子が来てますから、この子も大丈夫かも」
トリスメギストス・トランスレーション・トランスポーテーション社を母体とするパラソーシャルの企業団体は、2020年を過ぎてから分離・独立の潮流が目立つようになっていた。その中の一つが、スペインに新たに生まれたエスパノルヌートリア(つまりカワウソ人)たちを中心とする縫製企業、ロパトリアである。メディアスの妻はここに勤めており、他のたくさんの従業員らと共に、工房で次々と衣類を仕上げていた。
「人類みなが衣服を身につけられるようになること、それを私たちは目指しています」
ロパトリアが作るのは、カワウソだけの服ではない。他国のヒトに向けた服も作るし、ヒトに似た様々な部族(ヴェールなき世では彼らも立派な国民だ)にも、各々が使えるような服を用意している。なるべく大量生産が効くように、シンプルでカジュアルなデザイン性が訴求されたそれらの布製品を、ロパトリアの従業員らは高らかに歌いながら仕上げていく。
「人も神もカワウソも、服が全てを繋いでくれる」
そんな毎日の作業風景を、工房の窓の外からじっと見ている存在がある。メディアス夫妻の下にいる、甲殻人の幼子だ。工房に併設された託児コーナーに預けられ、他のカワウソの子供やヒトの子供、あるいは人型神格の子供らと共にあった。しかし虫の子は他の子には興味を示さず、いつも窓から作業場を見てばかりいた。特に、ロパトリアの縫製歌が工房を包む時には、虫の子は一際その作業に集中していた。メディアスの妻は、歌い終える時にはいつも託児場の子供の顔の方を見るようにしていた。妻が養子にニッコリと笑いかけると、子は表情を変えることなく、自分の足の弦を掻き鳴らした。
この子供は、音を奏でるのが得意だった。手足の糸をピンと張り、反対の手でそれを擦る。時にはビオラのように、時にはウクレレのように。メディアス夫妻はその演奏を聴くのが慌ただしい日々のささやかな楽しみとなり、彼方の鮮烈な世界からやってきた子が時折見せる音は確かな心の安らぎとなった。
ただし、その演奏が聴けるかどうかは虫の子の機嫌次第であった。子は常に無表情だし、なにしろ言語を全く使わないし使えないので、メディアス達と意思の疎通ができているのかどうかも定かでなく、次元の隔たりは確かに残されていた。そして、カワウソが丹精込めて作ったシャツに、虫の子は最後まで袖を通そうとしなかった。
数ヶ月が経ち、次元の子供の体格は少しずつではあるが大きくなっていた。最初はメディアスより一回り小さかったのが、今では同じくらいの背丈になっていた。それは、子供の甲殻の中身をくり抜けば、成人のカワウソが身につけて過酷な世界を渡り歩くのに丁度良いサイズであることを意味した。
「研究は、成功だな」
苦々しい顔でメディアスは呟く。本部からの条件付きでこの子供がメディアスの下に預けられていた以上、子供の生育過程は当然CESEXAD本部も把握していたし、然るべき時期がくれば、メディアスは美しい音楽の源泉である我らが養子を本部の研究室に引き渡さなければならない義務があった。最初からわかっていたことだ。
「残念ですが、これも貴方の仕事ですものね。辛さはわかります」
「数ヶ月、短かったよ。この子が家にいてくれて、気ままに生きていてくれて。でも、仕事は仕事だ」
「じゃあ、行くのですね」
「ああ、僕の度胸は上司に逆らえるほど強くはないよ。でも、お別れになるなら、最後にこの子のために行きたい場所があるんだ。それからでも遅くない」
メディアスの上司は次元穴産業の発展を第一の目標に据えてはいたが、かと言って部下の心情を無下に握り潰すような冷酷な性根ではなかった。彼はメディアスに追加で一つ許可を出した…子供の最期の思い出作りとして、故郷を見せに行くことだ。彼が探索していた次元には他にも多くの調査者が向かっていたが、メディアスが抱える子供の種族は未だ発見されていなかった。それは子供の代替物が未だ見つかっていないことを意味したが、彼が一着の甲殻に身を包んで子供を次元の向こうへ案内するのが安全と見做せることも、また意味していた。
鮮やかな緑と烟る焦茶の中を、二匹の甲殻が進んでいく。その見た目はさながら父子であり、片方は育ち盛りの子供。しかしもう片方の命は既になく、中には別種の生物が親として収まっていた。不揃いな父子は砂嵐を弾き、茂みを掻き分け、ジリジリ進んでいく。
この子は、自分の肌を狙う狩人の手中に囚われていることを知らないのだろうか。かつて狩人の父が経験したように。父の苦悶を子に与える運命を辿らざるを得ないことが、狩人の歩みを極限まで遅くしていた。子はそれに黙々と従った。
目的地が見えた。二人が最初に出会った空き地だ。メディアスは意を決して、そこに足を踏み入れる。遅れて入った子は辺りを見まわしたあと、偽りの父の足元に、そっと身を寄せる。少しの逡巡の後、メディアスは父の甲殻から身を乗り出し、かつての日と同じように、次元の先の子の顔を見る。
子供は足の弦を使って、厳かな旋律を奏で始めた。それはオーケストラのソロ奏者のごとく。カワウソ並の体の短い手足についた小さな楽器で、よくこのような深みのある音を出せるものである。在りし日の不協和音とは比べるべくもない、不安に濁ることのない、決然とした響きであった。メディアスは静かにして、子の演奏に心を委ねることとした。
音楽が終わり、メディアスが顔を上げた時、二人の周りには多数の生命があった。それらは音もなくメディアスを取り囲んでいた。いずれも、彼よりも二回り以上大きく、黒い光沢に玉虫の結晶を散りばめた重厚な体躯を持っていた。メディアスは自身の油断を恥じた。同胞の骸に潜り込みそれを弄び、更には子供を誘拐していたのは自分に他ならない。脅威存在を排斥するために子が他の仲間を無数に呼び寄せるのは、自然の成り行きではないか。
力のないカワウソを見つめる無数の視線の中から、一個体が踏み出した。群れの中でも一際大きな個体だ。先ほどまでカワウソと共にいた子供は、誘拐犯から離れ、おずおずとボスの足元へ歩いてゆく。おしまいだ。研究対象に逃げられるばかりか、虫達に蹂躙されて自分の人生がここで終わってしまうのは明らかだ。メディアスは全てを諦め、虫達の前に身を投げ出し、草地の只中に平伏した。
ところが、甲殻の群れは一向にメディアスに飛びかかる素振りを見せない。流石に怪訝に思ってきたメディアスの耳に、小さな旋律が聴こえてきた。ゆっくりと顔を上げると、自分の下で育ってきた子供が、現在身を寄せているボスの個体に向けて音を出している。続いて、ボスの側も足の弦を使って発音を始めた。子供よりずっと重厚な音で、地面に這いつくばっていたメディアスにとってはそれだけでも地が揺れるかのように感じられた。しばらく応酬が続いたのち、メディアスは自身の目を疑うものを見ることとなった。
甲殻生物のボスが突然もがき始め、地面を転げ回ったかと思うとまたすぐに立ち上がった。その姿は先刻までの荘厳さはまるでなく、さながらエビのような細身の身体が地面から高く伸びていた。そしてその足元には、ボスとそっくりそのまま同じ体格の黒光りする骸が一つ、転げているではないか。メディアスが状況を飲み込むより早く、身の回り360度から地鳴りのような騒ぎが聞こえ始めた。メディアスが慌てて身を振ると、彼を囲んでいた他の甲殻生物も全員が、ボスと同様にして自身の骸を投げ出し、痩せた本体を顕にしているのが見えた。そして最後にメディアスが見たのは、自分の家にいた子供が自らの殻をいとも容易く脱ぎ捨てている姿であった。
カワウソのメディアスの脳裏には、自分で自分の毛皮を剥がして裸の皮膚を晒す父親の姿が映った。
「それで、またこの子が戻ってきたんですね」
「まあ、結果オーライだった」
メディアス夫妻の家には、一匹の小さな子供がいる。エビのような細身の肢体に、カワウソから少しアレンジした袖口で仕立てられた純白のシャツを着せられて。
「でも、内心複雑だよ。自分らもこの子みたいに毛皮が脱げるなら、どんなに良かったか」
「まあ、いいじゃないですか。ヒトとカワウソと、この子たちと、みんな身体の作りは違うけど、それが悲劇になるか喜劇になるかは人それぞれだと思いますよ」
鼻を鳴らすカワウソの隣で、甲殻人の子は気ままに弦を掻き鳴らしていた。彼は今日のところは、引き続き家にいてくれる養子の演奏に耳を傾けることにした。心の毛羽立ちを撫で付けるには、ちょうど良い音色であった。
ギルルムク・ドゥルガガル
次元穴の先の熱帯区域で同定。雑食性。極めて頑丈な甲殻を有し、砂漠気候など物理的な高耐久を要する環境の探索に有用。当初は甲殻の入手に個体の処分が必要と想定されていたが、自身の意思で自由に脱皮可能なことが判明。甲殻の成長には6ヶ月ほどの期間が要される。
知能は高く気性も穏やかであり、手足の糸状器官を用いた演奏を用いてコミュニケートを行う。相互通訳技術の開発が望まれる。
記: メディアス