肺に積もって雪煙
評価: +64+x
blank.png

自分は恵まれた幸福な人間であると思っていた。

食うに困らない中流家庭に生まれ、五体満足で持病も無し。家族仲は良好で、毎年夏休みにはディズニーリゾートに旅行に行った。テストで赤点を取ったこともなく、リレーの補欠に選ばれる程度には運動もできた。私立大に入り、大手企業に就職し、良い人生を送って来たという自負を持っていた。

ただ、本当にこれでいいのか?という疑念が常にあった。障害、ハラスメント、事故、天災。自分の力じゃどうしようもない不幸で苦しんでいる人が世の中にはいくらでもいる。自分はそういった類に全く縁がない。ただ運が良かっただけだろうが、いくらかの申し訳なさがあった。いっそ足首から下でも切り落としてみようかと思うこともあったが、そこまで馬鹿げた行為をするほどではない。

 
 

煙草を始めた。煙草に対して何らかの思い入れや憧れがあったわけではない。ただ社会的に許容された自傷であるからだ。自身の幸福に対する免罪符のつもりだった。その煙が美味いと思ったことは、ない。

会社の喫煙室は愚痴とノネナールが渦巻く中高年しかおらず、煙草を吸うためには興味もない競馬や武勇伝を聞かなければならなかった。ある日馴れ馴れしくセクハラ紛いのことを話しかけられ、つい言ってはならないことを口走ってしまった。それが気まずくて、喫煙室には入れなくなった。そして段々と自分の居場所もなくなり、会社にも入れなくなった。

吸いたいわけではないのに灰皿を裏返す回数は日に日に増えていった。短期の派遣で生計を立てていたが、余った金は煙草に消えていった。結婚を考えていた彼女も会社を辞めたと同時に別れた。切り出したのは自分だったか彼女だったかもう覚えていない。それからはずっと独り身だ。

そして、肺に癌が見つかった。下らない人生だった。やはり幸福の揺り返しは来るものだと実感した。両親が過度に長生きしなくてよかった。今の不幸な自分を見なくて済むから。人生で何が悪かったかと言えば煙草であるのは間違えない。何故辞めないのか。何度も思い浮かんだ疑問はニコチンでごまかされ、薄れ、消えていった。胸の痛みに悶えるたび、次の人生は煙草を吸わない人生にするんだと空虚な誓いを立てた。

来たる日、尋常ではない息苦しさに震える手が何かに包まれた。誰かいるはずもないのに、黒いスーツの男が枕元に座っていた。何かを言おうとしたがしゃがれた喉からはもう出るものはない。男は自分をじっと見ていた。その目はここ何年かではもう見たことのないような目つきであったが、それが語る感情が何かはもう思い出せない。男は胸ポケットに手を入れ、取り出したものをこちらに差し出した。一本のショートピースだった。畜生、今わの際だっていうのに最期の幻覚まで煙草なのか。自分の人生を狂わせた元凶を払いのけることもできた。だが──もう最期なんだ。何をしたっていいだろう。震える手で咥えた煙草に火が点き、灰に朽ちた臓器に煙が満たされていく。漏れるように口から煙が吐き出される。思えば、今まで煙草は何かの言い訳でしか吸ったことが無かったかもしれない。何にも縛られず飲む煙草、口に広がる甘い香りに初めて幸せを感じた。

男の顔はぼやけていきもう見えない。視界はただ白に塗り変えられていく。それは煙草から登る白い煙か、それとも目の霞みなのかはわからない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

それからどれだけ経ったのか。ずいぶんと長い時間が過ぎたようにも思えるし、一瞬であったかのようにも感じる。目の前はずっと煙のままだったが、次第に視界が晴れて段々と灰色になっていった。空の黒と地面の白。少し酒精の匂う雪景色の中に自分は立っていた。体は痛くない。元気な頃の姿、服装で立っている。自分は死んだはずでは。

シャク、シャク、と雪を踏む足音が後ろから聞こえる。振り返ると、和傘を差した着物姿の女性がこちらに歩き寄ってきていた。

「あら、新人さんね。ようこそ」

分からないことはたくさんあったが、まずここが何なのかを問いかけた。着物の女性は全てを理解して受け入れてくれるかのような優しい笑顔で、こう答えた。

「ここは酩酊街。あなたは現世で死に、忘却されて辿り着いたの。ここは良いところよ。酩酊に常世のしがらみも全てを忘れ変わらない時を過ごせる」

自身の死を告げられたが何とも思わなかった。もとより下らない人生だったのだから。もう私は死んだのだ。誰かに気兼ねなどすることはない。ただありのままの幸福を受け入れることができる。そうだ、あの最期に吸った煙草。またあの幸福な香りを味わいたい。いつも煙草を入れていた服のポケットから1本取り出し口に咥え、そしてライターを
 

バシッ
 

……いきなり叩かれた。手から離れたライターは地面へと墜落し雪の中へと消えていった。呆気に取られ顔を上げると、あれほど優しそうに見えた女性の顔から笑顔が消えていた。いや笑顔と言える表情ではあるのだが、目が明らかに笑っていないし首には青筋が立っている。女性は何かを押し殺すように肩を震わせながらも落ち着いて叫んだ。

 
 







特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。