夏、蒸し暑さまっさかりの夜。愚にもつかない上司の戯言によって貴重な人生の時間を奪われた女は、家に向かって足早に駆けていた。女の家は最寄り駅から徒歩15分、安いから借りているアパートはそれ以外のメリットは無かった。
「あーもう、街灯ぐらい付けなさいよ、市」
女は暗い中でぶつくさ物申しているが、実はこれには訳がある。そろそろ墓地の横を通り過ぎる必要があり、女は怖さを紛らわすためにここでは饒舌になるのだ。
墓地にたどり着く。無駄に広いせいでここから5分くらいは死者を横目に歩くことになる。女は引っ越しを考えていた。こうしてしばらく歩いているとふと光が目にさした。おもわず目を向けると墓地の一部がぼおっと光っていた。こんな時間に墓参りかと思ったが、光は女の方に近づいていった。女は身構える。
光の正体が露わになる。火だ。それもろうそくやランプでは無い火だけの球体が宙に浮かんでいる。いわゆる人魂というものであろうか。女は声も出ずにその場にへたり込む。人魂は女に近づく。女はストッキングが破れることもいとわずに這いずって逃げようとするが、それ以上に人魂の方が速い。女はこれまでかと思った次の瞬間。
「うおおおおお、俺の尻を見ろおおおおおお」
肌がつるっつるの男が飛び跳ねながら尻を見せてきた。しかも穴の部分には目がある。その目が見えるように尻を突き出した姿勢で跳ね回っている。ついに声が出るようになった女はこう叫んだ。
「いやああああああああああああ」
「今日もうまくいったわあ。あの女の叫びよう見た?いやあだってよ。傑作だわなあ。見た?見たよな?」
のっぺらぼうな男が墓石に座りながら喋る。こいつは尻目。名前の通り、尻に目がついているだけの妖怪である。
「もうさあ、俺以外の妖怪もいなくなっちまってさ。あいつらは怖さってものを演出出来なかったからなのよ。そこらへん分かる?人魂AとBとCよ。」
尻目の話し相手は人魂たちだ。他の妖怪と違って、死んだ人間さえいればどこでもいくらでも現れるため、墓地はおあつらえ向きの場所ということだ。
「一応君たちに協力は頼んでみたけどさ、ぶっちゃけ君たちの時あの女なんも言わなかったじゃん。恐怖のきの字も無い。期待外れって言うのかなあ。」
尻目のぼやきは止まらない。しかしそこにBと言われた人魂が口をはさむ。
「いやあ…ちゃんと見てました?僕らの時のあの人の顔。青白くなってましたよ。サーって血の気が引いている感じの。」
「いや君たちに何が分かるのさ、こちとら何百年も人様怖がらせてんだわ。」
「じゃあその何百年多分全部無駄じゃあないすか。何すかいやあああって。あれ恐怖じゃないすよ。変態見た時のやつすよ。」
Cが追撃をする。するとAが仕上げに入る。
「そんだけ自信があるんならじゃあなんでウチらに頼んでんだよ。盆に帰ってきたらキモい妖怪に変な頼み事されて、面白半分で付き合ったらなんだこれは。お前の露出プレイに付き合ってほしいって分かってたらホイホイ来なかったわ。」
「お前らに妖怪とはなんたるかを教えてやったろうって親切心じゃねえか!人間捨てたてホヤホヤのお前らペーペーにこんな一々付き合ってくれる妖怪がどこにいるってんだ。」
「そもそも俺は人を怖がらせるつもりはねえって言ってんだよ!こちとら早死にして遺しちまった家族んとこに行くために戻ってきたんだ!」
「そうっすよ。ちゃんと自分ら成仏してるんで。じゃあそろそろ行っていいすか?後は一人で頑張ってくださいっすね。」
「それではお先に失礼します。」
「…ああそうかよ。はいはい分かった分かった。お前らに頼んだ俺がバカだったよ。やっぱ人間はダメダメのダメだってこったな!どこにでも行きやがれ、次泣きつかれてもしらねーからな!バーカ!くたばれ人間野郎!」
ひとしきり言い返された尻目は顔を真っ赤にして立ち去った。彼の今後の活躍に期待したいところである。
やりたいことが何でもうまくいくわけではない。これは人も妖怪も同じなのである。今尻目が留置所のような場所に入れられている経緯をざっと説明すると、まずあの墓地近隣で変質者が現れるという噂が広まる。それで警察が巡回していたところに出てきてしまう。そして捕まった後に警察も右往左往しているところをこれを察知した財団が尻目を回収して去っていった。というところである。
「おい人間、出せ、尻を見せるぞ。」
尻目に話しかけられている警備職員は気怠げそうに答える。
「何度も言ってるが出せない。とりあえず今は大人しくしててくれ。」
すっかり意気消沈している尻目は先までの威勢はどこへやら。その場に座り込むしかなかった。
「なあ、俺はそんなに怖くないか。」
警察に逮捕された時も、そして今も尻目を怖がる者は誰もいなかった。数百年のプライドもついにズタズタである。
「俺はあんたと会ってまだ10分ぐらいだから何とも言えんが…少なくとも怖がらせる前にネタを言うのは良くない。尻を見せると言われたら怖いものも怖くなくなる。いや、ある意味怖いかもしれないが…」
ああそうかいと吐き捨てるように言った後、尻目はふて寝をした。薄々分かっていたことをこうも連続で言われるとキツいものがある。さすがに気になった警備職員は話を続ける。
「そう落ち込むなって、怖いばかりが妖怪じゃないだろ。お前の見た目どう見てもコメディ寄りだしさ。元気出せよ。」
ただし、致命的に配慮が足りなかった。
「お前バカにするのもいい加減にしろよ!ああそうだよ俺が人を怖がらせるなんて土台無理な話だったんだよ!でもそうするしかなかったんだよ!俺の周りの奴らはみんな消えていった。怖がらせることを諦めた奴から消えていくんだよ。そんな奴、いてもいなくても変わんねーからよ。じゃあ怖がらせるしかねーじゃねーか!無理でも何でも消えるよりマシだろ!」
息を荒げる尻目、感情がぐちゃぐちゃになっているからか、尻の目からは涙が出ている。
「お、落ち着けって。な?悪かったって。」
「うるさい!死ね!」
「まあまあ、待てって。よく考えて見ろって。お前消えてないじゃん。たとえ怖がらすことが出来てなくても、とりあえずお前ここにいるじゃん。ってことはお前はいてもいなくても関係なくなかったんだよ。な?多分お前はコメディ枠としてめっちゃ重要だったんだよ。」
「お前俺を元気にしたいのかバカにしたいのかどっちなんだよ…」
「少なくとも、俺は生きてる間に本物の尻目に会えて良かったと思ってるぞ。ウケるし。」
ふんと鼻を鳴らして尻目はまたふて寝に入る。顔を反らしてもこちらを向いている尻の目は少しばかり潤いが取り戻されたかのようだ。