灰色のコートを着た男が、雪の降る街に立っていた。
気付いたら、その街路に立っていた。
星のない濃紺の空と降り積もる雪ばかりが見える一本道を、雪の明かりだろうか、かすかな明るさを頼りにどこかを目指して歩いていたように思う。そうしたら、そこに立っていた。木造の建物と、そこから漏れる明かりの並ぶ街。
懐かしいようでいてまるで見知らぬその街の雰囲気に当惑して、呆然と立っていた。
ここはなんだと呆けていると、ふと、声を掛けられた。
「ん……お前さん、ここは初めてかい」
見れば、提灯のように揺れる明かりと、藍色の甚兵衛を羽織った小柄な男。
どこか残念そうな、あるいは同情のような色を滲ませる表情で、その男は声をかけてきた。
その言葉と甚兵衛の男から漂っていた酒の匂いで我に返ったのを鮮明に記憶している。
「え……と」
口から出た声に、自分の声はこんな物だったかと、ふとジャメブのような感覚に襲われた。
「まァなんつうか……気の毒だがしかし、来ちまったもんはしょうがねぇよな」
独りごちる男に、男は問う。
「その、ここはどこ……何なんですか」
「そこからか。ここは酩酊街。忘れられ、いつか消えてく酔っぱらいの夢みたいな街さ」
「……。はぁ……」
「まァ、なんだ、突っ立っててもどうにもならねェだろうし、ついて来な。案内しちゃる」
「え? その……」
「ここは色々複雑なんだよ。出てくにしろ留まるにしろ、ここまで来ちまうってことはそういうことだからな。まァ来い。ゆっくり話そうぜ」
歩き出した男に、コートの男がもう一度、尋ねる。
「ええと、貴方は」
「目の前に立ってる奴が何者かなんて、そんな事ァこの街じゃなんの問題でもねェ。呼ぶなら適当に呼ぶがいいさ」
何も飲み込めていない彼を、この後男は行きつけの酒場に連れて行くことになる。
話し声に沸く席を縫うように、案内役の男に連れられていく。
「やってるかい」
「あら、カシさん」
カシと呼ばれたその男は、カウンターの中に立つ和服の女性――女将だろう――に声をかけながら対面に腰掛けた。
「おう、座りな。ここは俺の行きつけでなァ」
「……はぁ」
「カシさん、そちらの方は? 新入りさんかしら」
追従するようにその隣に腰掛けた男を見て、慣れた手付きで酒を出しながら、女将はそう尋ねる。
「ああ、西の方で突っ立ってるのを拾ってきた。しばらくこの辺りの案内をしてやろうかと思ってさ」
「そうなの」
と、愛想の良い、優しげな微笑みを添えて、女将は男の方を伺った。
「ようこそ酩酊街へ。酩酊と停滞の街で店を営む女主人として、そして一住人として、あなたを歓迎します。よければ、仲良くしてくださると嬉しいわ」
「そうですね……どうか、宜しくおねがいします」
「ええ。どうかよしなに。と言っても……まだこの街のことは、わからないわよね。勝手もそうだけど、ここが何なのかも。カシさん?」
「ん?」
「案内役は、カシさんが?」
「そのつもりだぜ。ここにも案内の一環で連れてきたってわけよ」
「あら。じゃあ、ついでに北街の爺様にお使いをお願いしてもいいかしら」
「あー……酒屋の」
「ええ。都合が良ければで構いませんけれど」
「いや、いいさ。あんたさんにも世話になってるしな」
では少しお待ちいただいても、と女将は戸棚を探りだす。
「お前さん、酒は飲むかい」
「多分、人並みには」
「ここの酒はお前さんの知ってるのとは違うぞ。お前さんがどこから来たかは知らんが、そいつは確かなはずだ」
言われて、出された酒の匂いを嗅ぐ。
「……これは」
男の知らない匂いが混じった酒だった。それに何より、その少し濁った液体は男の知っているどんな酒よりも強い酩酊の匂いを醸していた。
「だろ? 上戸ってわけでもねェなら慎重に行くんだな」
警戒して口をつけずにいる男に
「まぁ、じきに馴れますよ」
カシさん、これを爺様に渡してくださいな――と便箋を差し出しながら、女将は言う。そして、どこか切なげな顔をしながら続けた。
「慣れざるを得ないとも言いますけどもね。ここに出回ってるお酒はみんなそんなですし、ここではお酒くらいしか……ありませんから」
「なに、なんも無ェよりかはずっとマシさ」
そう言いながら、酒を煽る男。
「果てるまで泥みてェに酔っ払って、眠るように過ごすってのも、悪ィもんじゃねェしよ」
「……」
その台詞を聞いて、コートの男は気付く。
この酒場の全体に、カシと呼ばれた男の言葉の中にあるような閉塞感じみた前向きな雰囲気が、あの酒の匂いとともに蔓延している。
酩酊と停滞の街と女将は言ったか。であればこの雰囲気は成る程そういうものなのだろう。
この街はどこか優しいが終わっている――それが男が初めてその街に対して明確に抱いた感想だった。
「それで、お前さんの話をしよう」
酒を飲む手を止めて、カシは言う。
「私の」
「そうだ、お前さんのだ。お前さん、何まで憶えてる?」
「何まで?」
「ここは酩酊街。忘れられて行き着いちまった奴が辿り着く最後の吹き溜まり、なんだが、こんな奥に来ちまう前にある程度の奴らは帰ってく。それは何か大事なものを憶えているし、思い出したからだ。逆に言えば、お前さんはなにか大事なものを忘れてここにいる。だから聞くが、お前さん、何まで憶えてる?」
「何を忘れた、ならともかく……何を憶えている、というのは中々難しい質問ですね」
「ハ、それもそうか」
まァ良い。出ようぜ、歩きながら話すほうが良さそうだ――そうして立ち上がった案内人に、男も追従した。
女将から預かった手紙を懐にしまい酒場を出ていったカシの後を追う。
星のない雪の夜、木造建築が並ぶ街で、カシが再び質問を投げる。
「そいでお前さん、何者だ? どこから来た、何をしてた、そういうもんは憶えてるか?」
「……」
何かを口に出そうとはしたが、口を開いただけで何も言葉になりはしなかった。
「……わかりません。何かが喉に引っかかりはしたのに、答えられない」
「ほうか、そこまで忘れてるって奴は珍しいもんだが……ま、いないじゃないしな」
気にしなさんな、と結んで、何歩分かの足音を聞いてたから「一つ言っておくが」と発した。
「何も気にせず呑んだくれるのが、一番手っ取り早いもんだぜ。それがこの街の掟みてェなもんだ」
「この街……そもそも、この街は結局何なんです? ここはどこで、私はどうしてここにいるのか――」
「酩酊街。どこでもない、忘れられゆくものたちの墓場、ごみ捨て場。そうとしか言えん。言うなれば酔っぱらいの楽園だ。忘れられて、流れ着いちまった奴らが最後に留まる場所。酒に呑まれた奴らが最後に閉じこもる酒場みたいなもんだよ」
「忘れられて……何にです? 私はなんで、ここにいるんでしょう?」
「それはお前さんは何かを忘れちまったんだろうし、何かに忘れられちまったんだろうてことに尽きるわな」
ご愁傷様、と付け加えて、持ち出してきた酒瓶を煽る。
「菩薩様だか神様だか知らんが、お前さんの存在を承認するあらゆる全てに忘れ去られてるのは確かだろうよ。ここはそうして見放された奴らの集まる場所だから」
「それは……」
「それでも、ここを飛び出してく奴はいるけどな。若さっつうのは無謀だが、ここの奴らみたいな終わっちまってる連中にとっちゃ暖かく見守りたいもんでもある」
「ここを出る……帰る方法があるんですか?」
「あるにはあるが、帰る場所なんて無いぜ、きっとな。言ったろ、無謀って。もし、忘れられる前にいた所に戻ったとして、きっとお前さんに居場所は無ェよ」
「……そうですか」
「だから酒を呑むんだ、ここの奴らは。何度も言うが、それもそれで悪いもんじゃねェしよ」
「だからあんなに強いんですね、ここのお酒」
「おうよ。まァ、そんなこんなでお前さんは多分これからここで過ごしていくことになるんだろう。気晴らしの酩酊に溺れて、果てるまでの停滞を続ける忘却の街で」
安心しな、案内役は買ってやる。そう言ってカシは歩調を速めた。
それから、男の寝床となった建物――彼がその街に訪れた初日にカシに付き従って訪ねた酒屋、その離れである――にカシが訪れて終わらない雪と夜の街を案内して飲み食いし、カシが飲食に飽きるか酒に潰れるかすれば彼の寝床まで連れて行き、自らも寝床に引き上げる、そんな生活が始まった。
「ここ、ずっと夜なんですね」
「ああ、まァな。言っとくが雪も止まねェよ」
「なんていうか……本当に閉じた街ですね」
「ま、そりゃ他に行き場も無ェしな」
「それでも温かみがある。良い人が多い。大体は酔ってるのが難点ですが」
「言ったろ、悪いもんじゃねぇってな」
「ええ……悪いものじゃあ、ないみたいですけど」
「けど?」
「いえ、だからこそ……居着いてしまうのが怖い気がして」
「ほおん……」
酒や料理を前に、そんな話をする。
「だからお前さん、未だに酒に手つけねェのか」
「まあ、それもあります」
この街は優しいが終わっている、その印象は未だ覆っていなかった。それに加えて、来訪から数日経って思うところもあった。
「そいで? つまるところお前さん、出てく気なのかい?」
「……どうでしょうね。ただ、ここに居続けるのは良くない気がします。いずれ全てを忘れてしまうようで」
「まァ、ここはそういう街だしな」
「それも存外悪くないんじゃないかって思いは、確かにある。けど、自分が何なのか、それを憶えいていないことに気づいたとき、とんでもなく恐ろしかった。自分がわからなくなるというのは、とても怖い」
「それすらどうでも良くなるまで、酔っちまえばいいさ。そうすれば、完全に果てて消えちまえるからな」
「消える?」
「文字通り、消えるってことさ。何もかもを完全に忘れ、忘れられてここからいなくなるのさ」
「それは……そうなれれば、とても良いんでしょうね」
本心から出た言葉ではあった。しかし同時にだからこそ、とも思う。
思うだけで言葉にはせず、料理とともに飲み込まれてしまったが。
また寝て起きて、街を連れられて歩いていた。
突然、ゴツッ、と何かにぶつかって男はつんのめる。
「おう悪い、いたのか、済まねェ。気付かんかった。けどお前さんも気ィ付けてくれな」
同行者が、何もない空間――男が何かにぶつかった辺り――に向かってへらへらと謝辞を述べる。
「何がはひか……」
固い物にぶつかった痛みから鼻を抑える男に、同行者が言う。
「見えなくともそこにいる奴ってのは、いるんだよ」
この場合『見えない』ってえのは抽象的な意味合いだが、分かるよな? と付け加えて、続ける。
「なんつうかな、つまりそう、存在しない存在というかな……『いない』けど『いる』奴。あるいは『いる』けど『いない』奴か。そういうのもよくこの街に来るんだが、すぐ消えてっちまう。それこそただ街を通り過ぎるみたいにな。そういう意味じゃ珍しい奴らさ。そう考えりゃついてたな、お前さん」
「……」
ついてるも何も無いだろう――それじゃあ交通事故の被害者はみなついていたことになってしまう。
口に出かけた文句を押し込んで、ムッとしながらも、先を行きだした案内役を追って歩を進める。
存在しない存在か、と、そう考えながら。
「ここにはいろんな人や物がいますね、つくづく」
酒場の席で、そう漏らした。
「そりゃま、そうだろうな。生み出されては消えていく、存在ってのはそういうもんだ」
「そして、その前にこの街に流れ着く」
「そういうこった。俺もお前も、誰も何もな」
「……正直、まだ受け入れがたいなと」
「そうかい。で、お前さん。まだ手前のことは思い出せないか」
「ええ……まぁ」
「そんなら、会ってみたらいいかもしれんのが、一匹いる」
「一匹?」
「ああ、この前薪の用で森に行ったときに会ったんだがな。どうにもお前さんと似た匂いがするからよ」
まァ明日連れてってやるよ、そう言ってまたカシは酒を煽った。
宣言通り、次に目を覚ましてから連れてこられたのは、街の外れにある森の中。
「お前は見ない顔だな。『にゅーびー』ってやつかいな」
「ええ、そういうことになるんでしょうね」
切り株の並ぶ森の中、提灯や松明を並べ、並ぶ切り株に傘を挿して座り、対面する。
カシは静観を決め込んだのか、ただ黙って酒を飲んでいた。
「どうだ、ここは。案外悪くなかろ」
「そうですね。しかしそれ故に、最も嫌な場所と言ってもいい」
無自覚なままに、ここに馴染んできてしまっていることに気付く。
ここはそういう場所だ。何もかもが受け入れられる場所。そして、誰も彼もが囚われている場所。開かれていて、閉ざされている場所。
短いながらもこの街で寝起きするうちに、そう理解し始めている。
「貴方は獣……か、それとも」
向かい合っているのは、猫、と記憶しているような生き物。
皿に注がれた酒を舐めながら、それは言う。
「カカ、忘れたよ、そんなものは。いつかは名前があったような気もするが、それも忘れた。いつか鏡で見た姿くらいしか、自分のことなどとんと分からん。それだけが頼りさ」
「では、貴方は」
「言われなかったか? この街では目の前にいるものが何者でもどうでも良いと」
「……ええ、初日に、そう言われました」
「それはな、お前の目の前にいるような奴が少なからずいるからだ。ここはそういう場所よ。酒に溺れて、いつか自分すら忘れていく。しかしまぁ、そうだな。ことこの身に関すれば、ここに来たときには既に自らが何なのかすら忘れていたよ」
だからここに来たのだろうけどなぁ、と切り株の上のそれは酒を舐めた。
「自分が何者であるかすら忘れて……」
とても嫌で怖い話だと、ぞっとしない話だと、思った。
しかし我が身を省みて、他人事ではないとも。
「何、そう悪いもんでもねぇよ。言うたろ? それに、お前も薄々分かっとるんじゃないか?」
男の内心に呼応するように、猫は言う。
その実感故にますます嫌な話だと思わされる、そんな内心を知ってか知らずか、誘うようなことを言う。
居心地の良さに呑まれてここに居着いてしまったら、終わってしまう。
酒を舐めながら、ふいに「お前」と猫のようなそれが口にした。
「お前のことは初めて見た気がせんよ」
「……まぁ。どこかでお会いしてるかもしれませんね」
「いや、そういうんではない。お前のような奴を、知ってるような気がするだけだ」
「それは、貴方自身のことですか」
「かもしれんな」
一瞬の沈黙の後、酒を舐めるのをやめたそれは、食肉目の目で男を見据えて、投げかける。
「……なぁ、考えたことはあるか」
「何をです?」
「自分の存在と、自分の本質について」
「……ええ、まぁ」
こんな街に来れば考えざるを得ない話題だと、そんなニュアンスのこもった返答。
「存在としての存在だけがあって、自らを何とも知らぬ存在は果たして何なのかと、お前を見ているとそんなことを思う……いや、思い出す、なのか」
そんなことすら忘れてここにいるらしいと、猫は笑う。
一瞬、沈黙して、男は応える。
「この前、見えない壁に行き遭って。それで、存在しない存在というものがあるとして、では彼らは一体何を根拠に存在しているんだろうと、少し考えました」
「ほう?」
「結局のところ存在っていうのは――特に貴方たちのような不明瞭な存在にとっては――案外、誰かの認識に依るものなんじゃないかなって」
「……」
「だから、なんていうか……誰かが認識するようにしか存在できないんじゃないかなと、そう思うんですよ。普通なら、自己認識がそれを担保するんでしょうけど……そういう物を忘れてしまった存在は、ただの存在としてしか存在できない物の存在は、他者に依るのではと、少し、思いました」
思い出していたのは、初日に聞かされた、存在を承認しているものに忘れられて、ここにいるという話。
存在が誰かに依るのなら、と、そんなことを考えていた。
「ほう……そうか……」
納得だと言わんばかりの表情を、猫の身ながらそれは見せた。
「なるほど……それは確かに。それこそが、己であったか……」
そうかそうかと猫が呟いて。
「貴方は――」
男が問いを返そうとした次の瞬間には、その猫は視界から消えていた。
「あ……れ?」
これが消える、というやつか? と、呆気にとられる男にカシが息を吐いて、言った。
「この感じは消えたんじゃねェな。思い出したんだ」
「思い出した……?」
「ここから出てく方法、前に聞いたよな。そのうちの一つさ。何かを、特に大事なものを思い出すこと。そうすればここからは出ていける」
「……成る程」
「もっとも、戻ってどうなってるかはわからんがな。当然向こうにゃ居場所は無ェし、あの化け猫が何をどう思いだしたかも知れんし」
まァでも、あの感じじゃ、手前の在り方ってのを思い出せたのかもな――酒を仰ぎながら、星のない夜空を仰ぎ見てそう呟く。
ちらちらとチラつく雪を見て、男は尋ねる。
「思い出す――それでいいんですね」
「ああ。手前が何なのか、腑に落ちる答えが得られりゃ、きっとな」
腑に落ちる答え、男は反芻しながら空を見つめた。
「あら? 今日はカシさんはご一緒でなくて?」
いつも案内役のカシを連れていたコートの男が一人で酒場を訪れたのを見て、カウンターの向こうから酒と料理を出しながら、女将は尋ねる。
「はい。捕まるとあちこち連れ回されますし――絆ほだしと言うんでしたっけ、後ろ髪ひかれちゃいますから」
「そう」
ただ事ではない男の気色から何かを察したのか、男に向き合うようにして立つ。
「出ていくのね?」
「はい」
応答は直截で簡潔に。
「結局、貴方は何者だったのかしら」
「わかりません。何者でもない……です、きっと」
「わからない?」
「ええ。存在しない存在というのに、出逢いました。それと似たようなものだと思います。確かな自己なんて無い。無いけど、それでも私は私だと、彼とは違って私はそう言える。だからきっと、私は何者でもないという私なのだろうな、と」
「私にはわからないけれど……貴方本人がそう言うなら、そうなのでしょうね、きっと」
優しげで、しかし同時に寂しげな微笑を湛えて、女将は言う。
「……その。やっぱり、この街はお気に召さなかったかしら」
「いえ……ここはいい街だと、思います。でもだからこそ、私はここを出ていきます」
「そう……訳を、聞かせてもらってもいいかしら?」
「誰もがいつかは倒れて、忘れられます。それでもまだ、私は倒れていません」
世はすべて事も無し、あるいは色即是空か、さて私はどちらを信ずるのだったかとふと思って、「だから」と続ける。
「何者でもない何者か、でいいと思います。私はまだ、何者かであることを、何者かになることを、諦めません」
「じゃあ、引き止めても、無駄かしら?」
「ええ、まだ終わるつもりはありませんから」
何者でもないとしても、生きている。
実存は本質に先立つ。そんな言葉を思い出す。
終わる気はまだ、無かった。
「色々と、お世話になりました。彼にも、よろしくお願いします」
「そう。なら……酩酊街より、愛を込めて。終わってしまった私たちから、まだ終わらないあなたへ。親が子を見守るように、私たちは親愛を贈りましょう。愛を込めて、あなたを見送ります。酩酊街より愛を込めて、いってらっしゃい。ええと……お名前は、無いのよね」
「ええ。何者でもない、ので」
その声が届くときにはもう、男は口を付けていない酒を残して、その街からいなくなっていた。