にんげんの息子
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神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

— 創世記 1:31

 

では、第七日には?

人間はみんなカワウソに変えられた。

 

 主を失った服や荷物が散らばり、暴走した車が店先で炎上している。街にはひとりの人間の姿もなく、ただ甲高い悲鳴とともにさまざまな騒音が、大気を占拠していた。午睡の冷めやらぬマドリードのアスファルトはいま、こげ茶色の小さな生き物たちで埋め尽くされている。
 アレホ、アレホ、と女が叫んでいる。それはほとんど絶叫と言っていいほどのものだったが、周囲にいるひとびと──いまや「ひと」はどこにも見当たらないのだったが──もまた叫び声を上げており、それらにかき消されていた。
 返事をされたとて、もはや聞き取れるような状況ではない。小さなこげ茶色の頭を振り乱して、うめき声を上げるカワウソの群れの中に、母親は最愛の息子の顔を探す。たとえイタチ科の生物になったとしても、息子の顔がわからなくなるはずはなかった。
 さっきまで、ラウラの手には小さな息子の手が繋がれていたはずだった。あの強烈な頭痛。町中の人間を昏倒させるような激痛が去った後、彼らの視界はひどく低くなっていた。そしてラウラの手からは、息子の姿がなくなっていた。
 どこかで爆発音がして、火の手が上がる。人の流れが一気に起きて、濁流のようにカワウソたちが逃げ出す。泣き声や悲鳴、止まらないサイレンや騒音が、カワウソたちの聴覚を蹂躙している。ラウラはもはやどこかに駈け出すこともできずに、その場に立ち尽くしていた。ぶつかってくる人波に追いやられながら、それでも視線だけは息子を探している。
 アレホ、アレホ、とつぶやきながら茶色の津波に押しつぶされるラウラは、そこになにかを見つける。アレホが普段から使っているバックパック。青い小さなカバンが落ちていた。波間を縫うようにして、懸命にそこへ近づこうとするラウラは、突然何者かに背中を引っ張られた。
「──奥様、ここは危険です。こちらへ」
 知った声に振り向くと、運転手のジョゼ──の声を持ったカワウソ──が、ラウラの背中の毛皮を強引につかんでいた。カワウソに人間のような表情筋はない。だが同じカワウソ同士なら、その表情は何となく察しが付くものだった。白目と下瞼の境目がわかるほど目を見開いた母親は、思わず脱力して運転手に受け止められる。
「アレホが、アレホがいないのよ」
「ご子息なら先ほど保護しました。こちらへ」
「ああジョゼ、アレホは無事なの」
「ご安心ください、さあ」
 元・世界オカルト連合所属の軍人だったというジョゼは、この異常事態にあって、ほとんど唯一正気を保てている「人間」のように見えた。自分自身の肉体の変化にさえ理解が追い付かない母親にとって、もはや彼だけが正常をつなぎとめてくれる存在のように思われた。
 通りを抜けて、人混みを避けられる場所へと移動したラウラを待っていたのは、変わり果てた息子が眠っている姿だった。ラウラやジョゼと同様、カワウソの姿に成り果てている。人間の頃よりもさらに小さくなった体を見て、母親は自然と神への祈りを口にしていた。繰り返し十字を切りながら、ラウラは息子のひげが生えた頬にキスをする。
「ああ、ああ、神様、息子をお救いください。息子をお救いください。どうか姿を元に戻してください。わたしの身体ならどうなってもかまいません……」
 なぜですか、なぜですか、と涙声で叫ぶ母親は、体を震わせながら天を仰ぐ。マドリードの上空は、昼であるにもかかわらず禍々しい血の色のオーロラが出ていた。大気を異常な電磁波が走り、空の色を穢れた血で侵襲している。
 彼女が願った先とは違う「神」が、スペインに顕現していた。

 

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スペイン・カワウソ内戦、穏健派がバルセロナを制圧

2016年 6月15日


[マドリード 15日 ヴォルフ] - 「スペイン統合臨時政府(SGPU)」は15日、バルセロナ市を制圧したと発表した。昨年の「トンガラシ翁」討伐以降、内戦状態が継続していたスペインにおいて、重要な激戦地における戦闘が終結した。正常性機関・EU・国連等との融和を主張するSGPUは、人類の軍事力を背景として各地の武装勢力を統一し、現在旧スペイン王国領の八割を実効支配している。
SGPU報道官の発表によると、同勢力の精鋭部隊「アヒージョ師団」による空挺降下作戦が行われ、バルセロナへの全面攻勢を実施。14日未明ごろに市庁舎および旧政府庁舎の制圧に成功した。バルセロナ市内の抵抗は14日昼ごろまでに掃討された。
バルセロナは急進的なカタルーニャ独立とヌートリア至上主義を掲げる「カタロニア民族解放戦線」の本拠地として知られており、バルセロナの失陥は同勢力に致命的な打撃を与えることになりそうだ。

 

「アレホさん、アレホさん」
 その声に目を覚ました子カワウソは、少しだけ尻尾を振って応える。だが、声は止みそうにない。まだ名前を呼ぶ声が続いている。少年の寝る部屋には、少しずつパンの焼ける匂いが漂ってきていた。五感が徐々に覚醒してくると、ぺたぺたと近づいてくる足音にも気が付く。
「アレホさん」
 うう、といううめき声は、毛布がめくられたことで小さな叫びに変わる。ベッドのうえで温もりを探そうともがく子カワウソを見て、黒い布を巻いたメスのカワウソは「おはようございます」と笑いかけた。アレホ少年はその言葉に観念して、しぶしぶベッドから転がり落ちる。
 こうして容赦なく朝の到来を告げるメイドのマリアは、きょうもアレホの寝坊を阻止することに成功した。学校の時間は朝九時から始まるが、アレホ少年の起床時間は必ずその一時間半前と決まっており、それは彼が昨日どんなに夜更かしをしてしまったとしても、変わらないルールだった。
「もう下の食堂室で奥様と旦那様がお待ちですよ」
「いつもありがとうマリアさん」
 ねぼけまなこで香ばしいパンの匂いがする方向へ吸い寄せられていくアレホの尻尾を、不意にマリアがおさえつけた。
「お祈りがまだではないですか? お坊ちゃま」
「お坊ちゃまはやめてよ。学校でからかわれてるんだから」
「いいえ、奥様の言いつけを守れない子は、お坊ちゃまとお呼びするしかありません」
「わかったよ……」
 アレホはベッド脇のチェストからロザリオと、小さな絵本の聖書を取り出す。マリアはもうとっくに朝の祈りを終えていたが、アレホと一緒に祈祷の言葉を口にする。
「かみさま、一夜の眠りを与えてくださり……」
 やがて祈りの言葉が終わると、アレホは一目散に階下の食堂室へ駈け出した。さっきまで眠たげに祈祷をしていたとは思えないほどのスピードで、子供部屋のある廊下から階段を滑り降りていく。虚を突かれたマリアは、慌ててそのあとを追いかける。
 もうアレホは食堂室にたどり着いていて、母親のラウラに抱きついていた。
「おはよう、アレホ。朝から元気ね」
「おはようおかあさん」
「おはよう、きょうもしっかりお祈りはできたか?」
「おはよう、おとうさん。できたよ、当たり前じゃない」
「あら、お坊ちゃまが寝ぼけたフリしてサボろうとしてらっしゃったのはわたしの勘違いでしょうか」
「ちょっと、言わないでよ」
 笑いが起きて、アレホは憮然とした様子で席に着く。
 父親のアブラアンが朝食前の祈りをはじめる。母親もアレホも頭を垂れ、目をつぶった。アーメン、という締めくくりの句を唱えて、ようやく朝食が始まる。食卓の上には新鮮なトマトのサラダと、豆のスープ、オイルサーディン、焼きたてのパンに絞りたてのオレンジジュースが並べられている。どれも既製品ではなく、屋敷の料理人がいつも用意している手作りのものだった。
 これが地元でも有名な上流家庭──ルイーズ家の食卓と考えると、少しさびしいものにも映る。だが文明社会を一度崩壊させられたスペインにおいて、これだけの料理を毎朝用意できるのは、まさに彼らが上流階級の「人間」たちであるからに他ならなかった。
 大半のスペイン国民は、今も人道支援の保存食で命をつないでいる。ほとんどの地域では電力供給も不安定なままであり、長期間保存のきく缶詰などが大量にイベリア半島内で出回っている。
 正常性維持機関、NATO軍、クエレブレをはじめとする伝承部族勢力などの協力のもと、英雄「アヒージョ」の活躍によって神格存在が打倒されてからすでに半年が経過していた。現在のカタロニア戦線をはじめとする急進派勢力はこれを「アヒージョに率いられたスペイン軍の勝利」と喧伝し、介入を狙ったNATO軍に対する抵抗運動を始めた。カワウソの捕虜や民間人に対する虐待などが明らかになったことで、抵抗運動は全土的な動きとなり、NATO軍は2015年中にはスペイン国内から撤退を決断することになる。
 「エスパノル・ヌートリアによるヒュマノに対するはじめての勝利」と位置付けられたその運動の成果は、泥沼の内戦を招来することだった。イベリア半島において強力な軍事力を保持する唯一の勢力であったNATO軍の軛を解かれたことで、各地に設立されていた地域評議会による暴力的な主導権争いが顕在化したのである。
 内戦は、アインシュタインに言わせれば「第四次世界大戦」のような様相を示していた。神格存在によって社会インフラがリセットされ、人間の軍隊までもがいなくなった結果、彼らに残されたのは爪と牙、そして石と木の枝だけだったのである。
 現在、旧スペイン王国の大半を制圧している「スペイン統合臨時政府(SGPU)」は、最も「穏健」とされる政治勢力だった。NATOの撤退によって内戦の勃発が決定的になった際にも、秘密裏にパイプを維持していた保守派政治家たちが中心となっている。このつながりを維持していたことで、彼らはその後の内戦において軍事的優位に立つことができた。
「──政府はカタルーニャ州を正式にスペイン王国領へ再編入する計画を発表しており……」
 臨時政府による「国営」のテレビ番組が、今朝の発表について流していた。現在スペイン国内のテレビ放送は、この旧国営放送を継承したSGPU系のテレビ局のものだけである。
 アレホは、もうほとんど朝食を食べ終えていた。数日ぶりに父と囲む朝食だったが、アブラアンはテレビ番組をじっと見つめており、口にパンを運ぶ手は止まっている。心配そうに父親を見上げる息子に気付き、ラウラはアブラアンに「ねえ」と声をかけた。
「パンがもう冷めてしまいますよ」
「ああ、ごめん」
 父親は息子に微笑みかけると、人間の子供用のスプーンでパンにジャムを塗りはじめる。他愛のない会話が始まるうちに、報道発表はいつの間にか終わっていた。やがてアブラアンも食事を終え、食後の祈りが始まる。このときテレビの電源を落とすのはアレホの役割だった。
 さっと椅子を降りて、テレビの電源に手を伸ばす。朝のニュース番組が嫌いなアレホはさっさとスイッチを押してしまうのが常だが、今日は一瞬だけ手を止めた。
「──ヴァチカンで昨日行われた〈キリストの聖体〉ミサにおいて、ローマ教皇・パウルス六世聖下がスペイン国民へ励ましのメッセージを寄せられました」
 アレホが振り返ると、両親は小刻みにうなずいてそのまま流すようにうながした。とてとてと自分の椅子に戻った子カワウソは、テレビが流すおごそかなBGMに少し眉をひそめた。
 SGPUはカトリックの連帯を前面に押し出した宣伝活動を行っており、それはテレビ番組の編成や演出にも多大な影響を及ぼしている。
 新たなスペイン国民意識の形成。それがこの国営放送に課せられた使命だった。それは言外に、旧来の国民意識がきわめて弱体化しているということを意味している。国民たちの共同体に、新たなアイデンティティを提供することは政治の役割であった。SGPUが用意したそれは、敬虔なカトリックの信徒たることを旨とする宗教的連帯であった。
「……昨今スペインのひとびとは度重なる試練に見舞われています。しかしながらひとびとは強く、また誇りを失ってはいません。ひとびとの中には、スペイン人に神罰がくだったと主張する者もいます。わたしはそうは思いません。
 キリストはご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされました。スペインのひとびともまた、そのあがないによって永遠の財産を受け継ぐ契約の民、キリスト者であるからです。
 彼らの肉体がいま、カワウソのように見えるとしても、神の御前においてはひとしく、その魂が人間であることは疑いありません。スペインのひとびとは、最後にはふたたび正常なる生活を取り戻すであろうことを、わたしは確信しています。わたしたちは彼らと共にあります。苦難を乗り越えるため、祈りましょう」
 きょうテレビのスイッチを押したのは、アブラアンだった。穏やかとも複雑ともつかない表情が、カワウソの顔面に表れている。アレホはそれを不思議に思ったが、口に出すことははばかられた。ローマの聖下パパは、内戦以前から敬虔なる信徒だったルイーズ家において、無条件に崇敬される存在だった。
「どうした、アレホ」
「ううん」
 そうか、とアブラアンはそれ以上聞かずに、食後のお祈りを始めた。
 アレホは素直に教皇の言葉に感動していた。それなのに、父親は微妙な表情をしている。どういうわけだか、少年には不可解だった。

 

 アブラアンは朝食を終えるとすぐに、身支度を整えた。黒布を体に巻き付け、首には人間の頃に使っていたネクタイ生地で作った細布を回す。エスパノル・ヌートリアのための服を縫製する企業など、まだこの世のどこにも存在していなかった。彼の仕事は、それをイベリア半島に生み出すか、あるいは呼び込むことだった。
 アレホ少年のいちばんの憧れである父アブラアン・ガルシア・ルイーズは、人間であった頃、マドリード県選出の上院議員だった。そしてカワウソになってからは、統合臨時政府の経済政策委員である。
 昨年のNATO撤退に伴う混乱の中、正常性維持機関や欧州各国の表立った支援が得られないと悟った彼は、直ちに行動を起こした。単身でマーシャル・カーター&ダークをはじめとする巨大超常資本の扉を叩き、戦後の国内市場における優位と引き換えに、物的支援や人的支援を引き出した。カワウソのための軍事力、カワウソがカワウソを殺すための武器をいち早く手に入れることが、この内戦において最大の優位を生むという確信からだった。
 SGPU内部の慎重論を押し切り、有志連合という形で人類の軍事力の一部を参加させたのも、彼の強硬な主張が受け容れられたからだった。それはいま、十分な成果を上げている。「アヒージョ」という二人の英雄を祭り上げながら内戦を戦い、舞台袖にあって彼ら政治家は、着々と国家再建に向けた取り組みを進めていた。
 同時に彼は、敬虔な宗教家でもあった。日曜のミサは、たとえあの悪魔がバルセロナの市民を食い散らかそうとも、欠かさずに参加した。聖体拝領のためのパンがなかろうと、御血のワインがなかろうと、祈りだけは欠かすことはなかった。
 幸いにして、内戦を経てなお彼の家族や資産は多くが守られた。それは彼が内戦における勝利勢力の重要人物であったことが大きいのであろうが、彼自身は、日々の信仰が呼び寄せた恩寵にほかならないと信じていた。
「閣下、ご気分が優れないようですが」
「いや……」
 秘書官が心配そうに、執務机の端に顎を置いている。未だに人間用のサイズのものしかない経済省の庁舎は、すべてにおいてカワウソたちの政務を不便にしていた。エレベーターに足を取られて大怪我をする者や、不安定になっていた棚や書類の崩落で命を落とす者などは後を絶たない。
 大臣執務室のテレビは、朝に家でみたときと同じく、昨日の教皇のスピーチを流している。消そうとしたアブラアンは、秘書官の表情を見てそれを止めた。アレホと同じ目で、教皇の発言に耳を傾けている。
「教皇聖下はこのところ、ずっとスペイン国民を鼓舞してくださっていますね」
「ありがたいことだ。国営放送の連中はこれさえ流しておけば仕事になるからな」
 普段ならば絶対にありえない類の皮肉に、秘書官は思わず目を見開いている。しまった、という顔にアブラアンがなるころには、若い官僚のカワウソはすっかり青ざめていた。
「どうされたんですか、今日は」
「悪い、忘れてくれ」
 オスのカワウソは、短い指を振って秘書の発言を遮った。疲れているんだ、と言い訳のように付け加えて、アブラアンは椅子から降りた。どこに行かれるんです、と問われ、「散歩だ」とぶっきらぼうに答える。午前のスケジュールではこれから省議となっていたが、それまでまだ一時間は猶予があった。
 スマートフォンは持っているからついてくるな、と厳命したアブラアンは、その足で近くの教会に向かっていた。デ・ラ・クルス教会は、このあたりの教区をまとめる教会のひとつであり、そしてアブラアンがもっともよく足を運ぶ場所でもある。
 司祭は、昨日ミサでみたばかりのアブラアンがまた来たことに、特段驚く様子もなく迎えた。
「司祭さま、こんにちは」
「……来るのではないかと思っていました」
 ビクトリアノ・ガルサ・アレナス司祭は、カワウソ用の神父の服を自分で縫製していた。毛並みの悪く、白く濁った瞳のカワウソは、人間では本来六十代の後半にあたる人物だった。司祭のロザリオが揺れ、聖堂の脇にある告解室へと二匹のカワウソが向かっていく。

 

「父と、子と、聖霊の御名によって。アーメン」

 

 薄暗い告解室で、二人の男の声だけがすべてとなる。心なしか、アブラアンの声は震えているようであった。司祭は、できるかぎり事務的に、いつものように告解をうながす。
「神のいつくしみに信頼して、罪を告白なさい」
 はい、という返事はすぐにあったが、それから長い沈黙があった。アレナス司祭は何も言わず、ただ男の次の言葉を待っている。意を決したように息を吸う音がして、小さなため息が漏れ聞こえてきた。アブラアンは、絞り出すようにして告解を始めた。

 

 ──────。

 

「……あなたに赦しは必要ないでしょう。あなたは罪を犯してはいないのです」
「ありがとうございます、司祭さま」
 告解室を出た若い方のカワウソは、あるいは入るときよりもさらに深刻な表情をしていた。
 司祭は、罪はないと言った。
 罪はないのであるならば、これからアブラアンたちが為そうとしていることは、正しいということである。
 教会を出たアブラアンがスマートフォンを見ると、すでに省議まであと二十分に迫っていた。さらには、秘書からの着信が数十件も残されていた。そんなに焦ることもなかろうて、とポケットへしまおうとした刹那、三十回目の着信が鳴る。
「よかった、閣下、大変なんです」
 秘書の慌てようは、尋常なものではなかった。閣僚の居場所を把握していなければならない秘書が、省議前にそれがわからないとなれば上司の局長たちから大目玉をくらうことは容易に想像がつく。それにしても、秘書の焦りようは異常に過ぎた。
「そんなにあわてるな、もう帰るところだ」
 困ったやつだとあきれて、アブラアンは庁舎に向かって歩きはじめる。すると車道を一台のバンが猛然と走ってきて、アブラアンの目の前で止まった。何事だと驚いているうちに、秘書が言った。
「いえ、閣下、息子さんが、アレハンドロくんが」
「アレホが、アレホがなんだ」
 バンから降りてきたのは、人間たちだった。ぞろぞろと降りてくる人間たちは、ひとりを除いて武装している。
「ルイーズ委員ですね。われわれは財団の者です」
「なんなんだ、いったい──おい、アレホがどうしたんだ」
 秘書が答えるよりも前に、財団を名乗る男がさきに言った。
「閣下、落ち着いて聞いてください。息子さんは誘拐されました」

 

ルイーズ西経済相「わたしは決して屈しない」対決姿勢鮮明に

2016年 6月16日


[マドリード 16日 ヴォルフ] - 「スペイン統合臨時政府(SGPU)」のルイーズ経済相は16日の閣議後、自身の息子が誘拐された事件について、「わたしは決して屈しない。要求に応じる考えはない」とコメントを発表した。
ルイーズ経済相の長男・アレハンドロくん(9)は15日朝から行方がわからなくなり、同日昼ごろ、カタロニア戦線系テロ集団「真の御言葉」による誘拐の犯行声明があった。
同集団幹部はSGPU経済政策委員会のトップであるルイーズ氏を「民族の経済主権を海外の人間たちに売り渡した売国奴」としており、政府の解散と巨大超常資本の排除を要求している。

 

 おとうさんは助けに来てくれるはずだった。
 登校途中、アレホの乗った自動車に「なにか」がすさまじい勢いで衝突した。車内は一瞬無重力と化し──振り向いた運転手のジョゼの顔が、彼が覚えている最後の記憶だった。
 目が覚めたとき、ジョゼはいなくなっていた。なにが起きているのかわからないまま、見知らぬカワウソたちがアレホを廃屋の中へ連れ込んだ。事故の衝撃でひどい頭痛が残っていて、少年は終始うつろなままで椅子に縛り付けられた。
 しばらくして、自分が何者かによってさらわれたのだということに気がついた。怖くて口を利くことができない少年は、少しでも状況を把握しようと周りを見回す。彼のいる場所はもう何年も使われなくなって久しい工場のように見えたが、本当にそうなのかもよくわからない。まだ昼のはずなのに、この工場は窓という窓がふさがれていた。
 涙が、いまさらのように出てきた。自分がこれからどうなるのか、もはや想像すら困難だった。周りにいるカワウソたちはそれを無表情──誰もかれもが布を巻いて、顔を分からなくしている──に見守っている。恐怖のあまりにずっと下を向いて目をつむっていると、不意に前から声がした。
「きみの名前は、アレハンドロ・ルイーズ・ハイメで合ってるかな」
 リーダー格らしいカワウソが、顔を覆っていた布を取っていた。父親のアブラアンと同じぐらいの年齢に見える中年は、アレホの生徒証を持っていた。まだ人間だったころの写真が使われているIDカードは、彼の通う私立学校のものだった。
 小刻みに震えているアレホは、ゆっくりとうなずいた。
「そうか、アレホくん。よろしくね。ぼくは"レングア・ヴェルタデラ"」
レングア・ヴェルデラ真実の言語……」
 カタルーニャ語さ、とレングアは言った。カタルーニャ出身の人に会うのは初めてでないはずだったが、アレホにはレングアが初めて会う人種のようにも感じられた。カタルーニャの人たちは、たくさん死んだとアレホは聞かされていた。地獄と化したバルセロナのひとびとは、同胞を信頼せず、スペイン人となることを拒んでいる、とも。
 アレホの認識は、SGPUが復興と正統性をアピールするために無理やり再開させた学校教育の成果だった。カワウソや人間の教師は、SGPUの策定するカリキュラムにしたがって教育を行う。カタルーニャにいる人々は人間への恐怖から、未だにSGPUと対立しているのだと。自分たち「スペイン人」が常日頃から戦っている相手──それがカタルーニャ。
「ぼ、ぼくをどうするの」
「きみをどうにかすることはないよ。ぼくらはどうにかして、きみのおとうさんと話がしたいだけなんだ」にこにこと笑っているレングアは、でも、と言葉を継いだ。「きみのおとうさん次第だね」
「おとうさんとお話がしたいなら、ぼくが言ってあげるよ。おじさんたちもきっとそんなに悪い人たちじゃないんでしょ。電話番号だって知ってるし──」
「おお、ありがとうアレホくん。きみのスマートフォンに載ってた番号、ついさっき使ってみたんだ」
 レングアが取り出したスマートフォンは、たしかにアレホのものだった。はっとした少年は、ジョゼのことを思い出す。このスマートフォンは、普段は運転手のジョゼが預かっていた。ラウラに使いすぎを注意されて、学校にいる間はジョゼが持っていることになっていたのだ。
「ねえ、ジョゼさんは……」
「あの運転手かい、彼は──どこにいったんだろうね」
 肩をすくめて見せたテロリストは、知ってるか、と周りの仲間に聞いている。みな一様に首を振って応え、「知らないみたいだ、ごめんね」とレングアは謝った。「はやく会えるといいね」
「うそ、知らないの、ほんとうに、だってそのスマホは」
「アレホくん」
 ずい、とレングアの顔が近づいてくる。よく見れば、その目は異様なほどに血走っていた。思わず小さな悲鳴を上げたアレホは、歯をがちがちと鳴らし始める。
「な、な、なんですか」
「おとうさんにさ、言ってくれないかな。はやく助けに来てって」
「そんなこと言わなくても、くると、思います……」
 そうかなあ、とレングアは腕を組んでいる。あまりにも意外な反応に面食らったアレホは、言葉の意味を考え始める。父親がさらわれた息子を助けに来ない。アレホからしてみれば突飛すぎて、考慮の埒外にあるような話だった。
「来ないかもしれないんだよ。助けにさ」
「どうして、ですか」
 鼻からふっ、と息を吐いたレングアは、仲間に顎で何やら指示を出す。すると、ごみの山だと思っていたところに光が点いた。テレビだった。そこには背広風の服に身を包んだアブラアンが映っていて、政府の広報用の台の上でなにかをしゃべっている。だが様子がおかしい。急に嫌な予感がして、アレホは思わず息をのんだ。
「──わたしは、このようなテロリストの脅しには決して屈しません。たとえ肉親を人質に取られようと、スペインの再統合と復興のための政策は続けられます……」
 突然、ぶつりと映像が途切れる。仲間がテレビのリモコンを放り投げていた。
「どうしようか、ねえ。アレホくん。どうしたらいいかな」
「そんなこと、言われ、て、も」
 言葉の後半はもう泣き声と区別がつかなくなっていた。あんなに悲壮な顔をした父親ははじめてだった。言っていることは難しかったが、アレホにはなんとなくその意味するところがわかった。
 おとうさんは、スペインのために仕事をしている。そのためには、ぼくを助けないこともある。
「強がってるだけだと思ったんだけどね、電話しても本当にあんなことを言うのさ。きみのおとうさん」
 レングアの言葉を拒否するようにアレホは激しく首を振り、椅子を蹴っ飛ばして──盛大に転んだ。すぐに周りのテロリストたちが集まってくるが、レングアがそれを制した。少年は這いつくばりながら、じっとカワウソたちを見つめている。恐怖と怒りがないまぜになった双眸は、しかし無力感にも満ちていた。
「おとうさんはさ、自分がヒトだと思ってるみたいなんだよね」
 心底馬鹿にした笑いが、テロリストの顔に貼りついていた。
「だから、カワウソが苦しんでても構わないのかな。どう思う」
 別に答えを求めているわけではないレングア・ヴェルタデラは、倒れたままのアレホに顔を近づけた。ぐす、とまたべそをかき始める少年の顔を見て、ほんの少しだけ、同情したような顔つきになる。
「ごめんね。きみに言っても仕方ないよね」
 撤収しようか、とレングアは言った。倒れていた椅子が仲間たちによって起こされ、そのままどこかに連れて行こうとする。アレホは必死にもがき、あらんかぎりの力で身体をよじったが、彼を縛り付けるロープはびくともしなかった。
「はなせ、はなせ、この、この」
「──ほんとに」暴れるアレホを見て、レングアがため息を吐いた。「使えないガキ」

 

カタロニア戦線、和平交渉への参加を示唆

2016年 6月22日


[マドリード 22日 ヴォルフ] - カタルーニャ州を拠点とする武装勢力「カタロニア民族解放戦線」の指導者・フランシスカ・アルデーロ書記長が臨時の会見において「和平交渉のテーブルに着く用意がある」と語った。15日にカタロニア戦線の本拠地であるバルセロナが陥落し、組織的抵抗が困難になったことを踏まえての発言とみられる。
「スペイン統合臨時政府(SGPU)」によって旧カタルーニャ自治州の再編入計画も発表されたばかりであり、内戦の終結に向けた動きが加速しそうだ。

 

 アレホが誘拐されてから、一週間が経とうとしていた。
 臨時政府軍の警察部門が全力を挙げて捜索しているが、未だにアレホの所在はつかめていない。状況はこう着したまま、次第にテロリストとの連絡にも間隔が開いてきていた。
 いまやアブラアン・ガルシア・ルイーズとラウラ・ハイメ・マルドネスは、スペイン中の同情を集める存在だった。息子を人質に取られながらも、スペイン国民のために尽力する政治家と、それを支える妻。
 政府が一丸となって強硬姿勢を貫けるのは、アブラアンの強靭な信念と、超常資本の思惑が一致したからである。SGPUのスポンサーであるMC&Dをはじめとした巨大超常資本は、アブラアンの息子の奪還を前提としつつも、この件において妥協を許すべきではないと主張していた。
 現役閣僚の子弟を誘拐された程度で要求をのめば、テロ行為の有効性を証明することになりかねない。誰もがアブラアンに同情していたが、アブラアンがそれに甘えることは許されなかった。そしてアブラアン自身も、それをよしとしなかった。
 一週間が経ってなお姿勢の変わらない政府に対して、レングアたちは相当に苛立ちをため込んでいた。そうこうするうちにもカタロニア戦線は降伏寸前にまで追い込まれており、ついにはSGPUと交渉のテーブルにつくと宣言していた。
 アブラアンたちは期待した。捕虜交換の過程で、アレホが返ってくることを。当のカタロニア戦線側も、閣僚の息子を有用なカードとして期待していた節があった。
 それらの期待は、みごとに裏切られることになる。

 

スペイン、「カワウソ内戦」終結へ

2016年 8月12日


[マドリード 12日 ヴォルフ] - スペイン統合臨時政府首班・サンダリオ・ロルカ・ベナビデス首相と、武装勢力「カタロニア民族解放戦線」の指導者・アマド・レイバ・ララ書記長代行が12日、連名で内戦の終結を宣言した。同時にカタロニア戦線の合法政党化も発表され、旧カタルーニャ自治州の新スペイン王国への再編入に向けた取り組みを継続することで一致した。
7月初旬から続けられてきた和平交渉で双方が合意したことで、約半年に及んだ「スペイン・カワウソ内戦」が終結した。スペイン統合臨時政府は早ければ来月にも憲法制定議会を招集する見通し。

 

 2016年の夏。
 カタロニア戦線の降伏と合法政党化が宣言されると、カタルーニャ独立・民族主義派最右翼を自任するレングア・ヴェルタデラは、現カタロニア戦線指導部を敗北主義者と強く非難し、国外での聖戦継続を宣言した。声明の中では、ルイーズ経済相の息子が、未だ彼らと行動を共にしていることにも言及があった。
 大方の予想を裏切って、アレホは解放されることなくイベリア半島から姿を消してしまった。
 深い落胆のうちに、ラウラは精神を病むようになる。
「あなた、アレホがね、昨日、こんなこと言ってたの……」
 日がな一日、ラウラは存在しない息子の姿を見るようになった。学校のテストで満点を取ったの、女の子とデートをしてくるらしいの、わたしにプレゼントをしてくれたの──母親の意識から、あの誘拐事件のことはすっぽりと抜け落ちるようになっていた。
 いたずらに時は過ぎ、もはやアレホの生存は絶望視されるようになった。
「お久しぶりです。ルイーズ先生」
 そんな折に、彼らは再びアブラアンの前に現れた。以前、医療衛生省が紹介してきた、スペイン国民を救いたいという人間たち。もとはと言えば、内戦後の国内市場における巨大超常資本の優越的地位を保障する密約に便乗してきた、おまけのような連中。
「ニッソ・ユーロ上級副社長の鳥越と申します。ふたたびお会いできて嬉しいです。ルイーズ経済相」
 通訳を介さずに、日本人はたどたどしいスペイン語であいさつをした。美しいテノール、しかしどこか冷淡で無機質な男は、どういうわけか首から上を、凹凸のない真四角の木の箱で覆っていた。この異常なほど印象的な男を、アブラアンはよく覚えていた。
「それから、わたくしどもの医療政策パッケージを後押ししてくださったことに、感謝を申し上げます」
 さすがに事前に覚えきれるほどの語彙ではなかったのか、通訳が鳥越の言葉を翻訳し始める。アブラアンは大臣執務室にやってきた人間たちを眺めながら、その態様の一貫性の無さに鼻白んでいた。真四角男に始まって、全身を機械に置換した4足歩行型のサイボーグやら、やたらと「ただの人間」の姿が少ない。
 自分たちは仲間だとでも言うつもりなんだろう、とアブラアンは納得した。気づけば、鳥越の話は本題に入っている。
「──は、すでに安定した発生段階にあります。予定では、9ヶ月後に」
「ありがとう、トリゴエさん。一つ聞きたいんだが、いいかね」
 通訳の言葉を聞いて、真四角の頭が意外そうに揺れた。まさか口を挟んでくるとは思っていなかったのだろう、やや怪訝そうに威儀を正す。
「なんなりと、閣下」
「きみたちは神を信じないと言っていたね。だから、禁忌にあえて挑むことができると」
「わたしたちは神を信じないのではなく、人間を信じているのです」
「人間こそが神だということか」
「神が人間を作ったのなら、そのやり方さえわかれば、逆も可能なはずです」
 アブラアンはあいまいな笑みを浮かべた。それは鳥越たちに伝わるようなものではなく、不気味な沈黙を生んだに過ぎなかった。
 鳥越は帰り際に、アブラアンの手を握って言った。
「わたしたちが必ず、息子さんを元通りにしてみせます」

 

社説: スペイン政府は富裕層によるヒトクローニングを禁止せよ

2027年 9月11日
信濃中央新聞編集部


10年前、スペイン統合臨時政府の主流派であったベナビデス初代首相を中心とする親夏鳥派政治家によって、ある密約が巨大超常資本との間で交わされた。すなわち「マドリード秘密協定書」の内容は、臨時政府への支援と引き換えに、戦後のスペイン経済を分割・譲渡するような形で巨大超常資本の参入を許し、スペインの経済分野における自主性を大きく損なうものだった。
昨年、この文書の存在が明らかにされたことで、ルイーズ政権は崩壊した。以降、国民運動となった「ヌートリアニスモ」の興隆によって、エスパノル・ヌートリアの諸権利回復への障害となっていた巨大超常資本の影響力排除が喫緊の課題となっている。
腐敗した政府と巨大超常資本による癒着は、さらなる深刻な問題を生みだしていた。「作られた子供たちアーティフィシャルメンテス」は近年、とくにスペイン社会において重大な社会分断を巻き起こしていると言われる。これは同名の著書がベストセラーとなったことで、世界的な注目を集めたが、以前からスペイン社会においては「公然の秘密」とされていた。
ヴェール崩壊後、バイオニクス分野で急成長を遂げた日本生類創研(以下、ニッソ)の欧州法人であるニッソ・ユーロによって持ち込まれた「ヒトクローニング」と「遺伝子治療」技術によって、カワウソ化した人間の遺伝子を治療し、次に生まれてくる子供を「ヒト化」させる。この「治療」によって生まれた子供たちは、「作られた子供たちアーティフィシャルメンテス」と呼ばれた。
出産にはひとり当たり約3万ユーロ(日本円で約3億円)と高額な費用がかかるため、スペインでも限られた富裕層だけがこの技術を利用していたという。このような高額にもかかわらず、利用者数は10年間でのべ数万人を数え、実際に生まれた子供も数万人に達すると言われる。スペイン・ブルボン家や、ルイーズ前首相も利用しているとされており(同氏は誘拐事件でヌートリアの長男と死別。この治療をスペインの全国民に義務化することを計画していた)、スペイン社会では同書の出版とともに大論争を巻き起こした。
作られた子供たちアーティフィシャルメンテス」の多くは、ヌートリアが多数派を占める社会において迫害されることを恐れ、海外や、もしくはバレアレス自治州・カナリア自治州といったヒュマノが多数派を占める地域において育てられているという。
世界超保健機関のショシャナー・ファイゲンバウム医師によれば、これらの子供たちは「遺伝子的に不安定な可能性があり、健康や寿命などに問題を抱えている可能性もある」という。スペイン政府は親夏鳥派との決別を契機に、この問題に正面から取り組むべきではないか。巨大超常資本の甘言に乗り、人倫を軽視する富裕層に対して毅然とした対応が必要となるのではないか。
また、生まれてきた子供が過激な「夏鳥思想」に染まらないようにするケアも必要だ。政府は国家的な事業として、これらの子供たちを引き取ることのできるヌートリアの家庭を募集し、社会への統合を図っていく責任がある。
生まれた子供たちに非はない。だが生み出した親たちの責任は、あまりにも重い。ヌートリアとヒュマノの真の融和は、この子供たちがいかに育っていくかにもかかっている。

 

 街で拾った新聞には、なにやらよくわからないことがたくさん書いてあった。この10年間、ぼくは学校に通うこともなかったから、他の子よりも遅れているところがある。
 ゴミをあさって食事を探し、路地裏で眠りにつく。レングア・ヴェルタデラのもとを離れた後の生活は、ずっとそれの繰り返しだった。去年ぐらいから、あの男は急に、ぼくを親元へ返すと言い出した。風向きが変わったとかなんとか、そんなことを言って──ぼくらは10年間近寄ることもできなかったスペインへ、あっさりと帰ってくることができた。
 実際のところ、あいつは、ぼくを高値でどこかへ売るつもりだった。今まで見たこともないような上等なスーツを着て、なにやらえらそうな人たちと話し合っていたのが聞こえた。
 ぼくはただ、おとうさんとおかあさん、マリアさんやジョゼさんのもとへ帰りたかっただけなのに。
 あのテロリストたちと一緒にいた10年間のことを、たくさんお話したかった。どれほどカワウソが人間たちから嫌われているのか。どうやって人間がカワウソを殺すのか。どうやってカワウソが人間を殺すのか。そしてどうやって、カワウソがカワウソを殺すのか
 ぼくはレングア・ヴェルタデラのノドを掻き切ったナイフを持って、マドリードの懐かしい街並みを歩いていた。ふいに、懐かしい灰色が見つかった。みんなで毎週ミサに行ったデ・ラ・クルス教会。ぼくがいない間に、ずいぶんと古びてしまっている。ところどころひび割れがあったり、間に合わせの修理だったりが目立つ。
 教会にいたひとたちは寄付をやめてしまったんだろうか。
 聖堂に入ると、中はもっとひどいことになっていた。柱や梁が剥き出しになったり、床板がはがれたりしている。粗末なベンチにおじいさんやおばあさんが点々と並んでいた。その奥で、ひとりの司祭さまがお祈りをしている。
 ぼくは昼のお祈りがまだだったことに気が付いて、十字を切った。そして司祭さまと同じように、お祈りをする。
「アヴェ・マリア……」
 お祈りが終わると、司祭さまはひとりひとり座っているひとを回ってお話を聞いてあげていた。なつかしい、アレナス司祭さまだった。あの頃もずいぶん老けていたけど、10年たった今はさらに老け込んでしまっている。毛皮はもうほとんど白いし、目の色と一緒だ。でも着ている服だけはあの頃と同じの、黒くてきれいな、司祭さまの服だ。
「司祭さま」
「おや、新しい方かな」
「ううん、お久しぶりです」
「すみませんね、この通り目が悪いもので……もしよかったら、お名前を教えてくれませんか」
「アレハンドロ・ルイーズ・ハイメです」
「……いま、なんと」
「アレホです。司祭さま」
 急に司祭さまの身体が、がくりと崩れた。ああ、ああ、とうわ言のように唱えながら、司祭さまは白色の目でぼくの顔を見ようとする。ぼくは気の毒になって、司祭さまを近くのベンチへお運びすることにした。
 座ってもなお、司祭さまは「ああ……」とくりかえしている。
「司祭さま、大丈夫ですか」
「もしこれが悪い冗談なら、おやめなさい」
「悪い冗談って」
「ルイーズさんの息子さんは、もう何年も前に亡くなったと」
「……ぼくは、やっぱり、死んでることになってたんですね」
 司祭さまは何も言わない。ぼくもずっと黙っていると、不意に司祭さまがよろよろと立ち上がった。
「……こちらへ」
 聖堂の脇に作られた、小さな部屋。おとうさんはここで、よく罪を告白していた。そうすることで、神様に赦してもらえる。でもぼくは昔から、薄暗いこの部屋が苦手だった。司祭さまは立ちっぱなしのぼくを振り返って、手で部屋を指した。

 

「父と、子と、聖霊の御名によって。アーメン」

 

「……息子を、人間に戻せないものかと、ずっと考えております。教えてください司祭さま、主はご自身に似せられて人をお作りになったと言います。われわれスペイン人は、このような姿で、果たして天国へ行けるものなのでしょうか」
 これは罪の告白ではないな、とアレナスは思った。そして相談の内容も、いま多くのスペイン人たちが抱えている不安と同じようなものだった。誰もが自分の姿を見て、絶望している。自殺率はここ数ヶ月で下がりつつあるものの、神格存在出現事件以前では考えられない数値に達していた。
「あなたも、あなたのご子息も、十戒を守り、ミサに毎週通って、日々の祈りをしています。わたしたちは最後の日に、主によって選ばれる契約の民です。それは、悪魔によって姿を変えられたところで変わるところのない真実です」
 またしばらくの間、沈黙がそこにあった。アブラアン・ガルシア・ルイーズは、神父の説教に対して、なにか反論をするということを考えるような男ではなかった。ややあってから、ふたたび父親は口を開いた。
「これから生まれてくる子供を、人間にできると言われたのです」
「………………」
「スペインに生まれる子供は大きく減っています。生まれてくる子供たちが、人間ではないからです。わたしは、この技術を使って国民に希望を持たせたい」
「それは素晴らしい行いです。どうかその試みが成されるよう──」
「しかし、しかしです司祭さま」
 アブラアンはほとんど叫ぶようにして司祭の言葉を遮った。驚いたアレナスは何も言えないまま、アブラアンの二の句を待つ。
「……いま、すでに生まれてしまった子供たちはどうなるのです。わたしたちはどうなるのです。この国にいる三千数百万余りの国民たちは、もはや呪われた世代として生きていくしかなくなります」
「あなたがたは神がお与えくださった技術によって、これから生まれてくる子供たちへ希望を見出しました。同様に、わたしたちにも神のいつくしみがあります。現に、想定されていた伝染病はなかったではありませんか」
「……はたして、ほんとうにそうなのでしょうか。病について起きた奇蹟は本物だと思います。しかし……」
 自信をなくした男の声は、徐々に小さくなっていった。
 司祭の言う「奇蹟」とは、いわゆるイベリア半島閉鎖計画に関係する事象だった。スペイン人のカワウソ化と神格存在の出現によって大混乱に陥った西仏国境地帯には、正常性維持機関やNATO軍によって防疫線が敷かれた。人と獣の中間存在の大移動に対して、各国政府や財団が最も警戒したのは、人獣共通感染症の破局的な感染爆発だった。
 いっときは完全な閉鎖状態に置かれた国境だったが、混乱の最中に行われた調査では、カワウソたちが持っているはずの感染症は、結果的にただのひとつでさえ見つからなかった。この件によって正常性維持機関や欧州連合は、スペイン人の多くに決定的な不信感を抱かれることとなる。
 神のみわざ。誰もがそう口にする出来事だった。
「聖霊を穢す者はだれでも、永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。わたしたちは、神のいつくしみを無下にしてはなりません。希望はないもの、奇蹟はないものと思い込むことは、そうすることと同じです」
「司祭さま、その通りです。奇蹟をうたがってはなりませんでした」
 アニマリー──AFCに関する人獣共通感染症に関する研究は、それからある種のタブーとして扱われるようになる。ともすれば、エスパノル・ヌートリアをゲットーへ閉じ込めておくための口実として、利用されかねない可能性を秘めていたためである。
 結局「トンガラシ翁」による「カワウソ禍」は、スペイン国民の身体という以上に、国土そのものにかけられた呪詛なのではないかという学説があった。内戦からいち早く距離を置き、現在は世界オカルト連合の庇護下にある伝承部族自治政府で主流となっているというが、詳細な研究成果はSGPUとも共有されていない。
「ちかごろずっと悩まれていたのは、それが原因なのでしょう」
「ええ……」
 ようやく落ち着きを取り戻したアブラアンは、「司祭さま、わたしのために、すみません」と言った。
「いいのですよ」と優しく声をかけたアレナスは、告解室の椅子から立ち上がる。

 

──あなたに赦しは必要ないでしょう。あなたは罪を犯してはいないのです

 


 アレホによる告解が終わった後、アレナス司祭は、父親が恐ろしい罪を犯していたことを理解した。そしてその息子もまた、恐ろしい罪を犯しながら、ここに来た。神は本当にお赦しになるだろうか──思わず、そのような疑問を抱くほどの。あのとき、父と子と聖霊に赦しを乞うていれば、こうはならなかったのではないか。
 考えるだけ無駄であった。いまや息子は戻り、父親が罪をあがなうには遅すぎた。
「アレホ、きみはこれから、どこへ」
「おとうさんとおかあさんへ会いに」
 司祭は荒い息をどうにか聞かれないように努めながら、壁の向こうにいるアレホへ語りかけようとする。
「もし──」
「ごめんなさい、司祭さま」
 扉が開く音がする。転がり出るようにして外に出てきたアレナスは、もはやそこにアレホがいないことを知った。尻尾を巻き、床にへたり込む。司祭はロザリオを握り、神があの家族を赦してくださることを懸命に祈りはじめた。彼にできることは、それだけだった。

 

*速報* スペイン王女、ヌートリアの男性と婚約を発表

2027年 9月12日


[マドリード 12日 ヴォルフ] - スペイン・ブルボン家の現スペイン王・カルロス5世の次女、ソフィア王女が12日午後、実業家のベラスコ・ファルケ・カソルラ氏との婚約を発表した。
ソフィア王女は10年前の「スペイン神格存在出現事件」でバレアレス諸島にいたことから難を逃れていた王族のひとり。対してカソルラ氏はカワウソ化した人物であるため、成婚した場合、初めて民間人のヌートリアがヒュマノの王族と結婚とすることとなる。
アントリーン首相は公式に談話を発表し、「おふたりの前途に幸福があることを確信しており、結婚はスペイン社会にとっても希望となる」とし、深刻な社会分断にみまわれるスペイン社会で、融和ムードの醸成に期待を寄せた。

 

 門の前を通りかかると、青いボールが落ちていた。そして、それを困ったように見つめる人間の男の子もひとり。門の内側から、格子に手をかけてボールを見つめている。どうやら、レアルごっこをしていて門の外へ飛ばしてしまったみたいだった。
 ぼくはボールを拾い上げたけれど、あいにくの腕の長さなので投げても門を超えて入りそうにはない。蹴ればあるいは、と思ったけれど、エスパノル・ヌートリアの短足で行けるかは微妙な感じだ。
「おにいさん、だれ」
「ぼくかい。ぼくはアレホ。きみは」
「おにいさんもアレホなの。ぼくもアレホ。アレハンドロ・イサーク・ホザンナ」
 年齢は10歳ぐらいのように見えた。人間の子供がマドリードにいるなんて、よっぽど珍しいことのように思える。あれから10年も経って、マドリードの大半はきれいになっていたけど、この家は、教会と同じようにむしろさびれてしまっている。
「ホザンナって珍しい名前だね。なんて書くの」
 しゃがみこむと、男の子よりもすこし視線が低くなる。
「Jozannaだよ。こんな言葉ないよね、スペイン語には。もしかしたら、カタルーニャの言葉なのかな」
「カタルーニャにもそんな言葉はないなあ」
「おにいさん、カタルーニャ語知ってるの」
 ああ、そうだよ、とぼくは微笑んだ。そしてボールを取り上げて「どうしたらいい」と聞く。すると男の子は笑って、待ってて、と言った。門柱の裏でなにかを操作すると、かちり、という音がして鍵が開く。傷やへこみの目立つ門が、ぎいぎい言いながら開き始めた。
「はい、ボール」
「ありがとう」
 ホザンナはきちんとお礼を言った。
「えらいね。おかあさんとおとうさんから愛されてる証拠だ」
 ぼくはホザンナの頭を撫で、それから首にナイフを当てた。

 おどろいたことがひとつあった。この子の言う「おかあさん」は、ぼくのおかあさんじゃなかったことだ。マリアさんが立派なお洋服を着て、ぼくにひざまずいている。
「どうして、どうしていまになって」
「邪魔しないで。もう昼のお祈りはしたから。あっちいってていいよ」
「息子を、息子を返してください。ゆるしてください」
 ホザンナはナイフを当てられたまま、首の血管を締められて苦しそうにもがいている。刃にはまだレングアの血が残っていた。
「ぼくのおかあさんは、どこにいったの」
「去年、去年亡くなりました」
「ふうん」もがくホザンナの顎をぐっと締めて、ぼくは駆けつけてきたガードマンたちをどかすようにジェスチャーする。「じゃあおとうさんは」
「いま呼んでるところです。本当です」
「早く助けに来てって言った方がいいよ」
 来ないかもしれないしね。
 ぼくが自然と笑いがこぼれてくるのを、抑えきれなかった。ようやくおとうさんに会えると思うと、すこしわくわくしてくる。
「おにいさんは……だれなの……」
 うめき交じりに、ホザンナが聞いてきた。ぼくはナイフをにぎる手に力を込めて、にこやかに名乗る。
「アレホだよ。アレハンドロ・ルイーズ・ハイメ」
「おとうさんと、おなじ苗字なの」
 ぼくは何も言わずに、ほんのちょびっとだけナイフで首の皮を削り取って見せた。悲鳴が上がり、マリアさんが失神する。ホザンナは涙とよだれでぼくの腕を汚している。

「アレホ、アレホ」

 声がした。なつかしいあの声が。
 廊下の奥から、ひとりの老いたオスのカワウソが駆けてくる。うろたえて、おぼつかない足取りで、ぺたぺたと足音を鳴らしながら。ぼくの大好きなおとうさん。
 もうこの人間の子は用無しだった。ホザンナを突き飛ばし、おとうさんに向かって走りだす。おとうさんもぼくに気が付いて、びっくりした様子でこっちに向かってくる。
「アレホ」
「おとうさん」
 おとうさんはぼくを無視して、倒れたホザンナに駆け寄ろうとした。その首を掴み、あらんかぎりの力で地面へ叩きつける。抵抗する間もなく、おとうさんは床に転がった。
「お前は誰だ」
「おとうさん」
 アブラアン・ガルシア・ルイーズ。
 パニックになっていたおとうさんは、ぼくに気がついたようだった。ガードマンたちに手を出すな、と言いつけて、ぼくの頬に手をふれる。
「アレホなのか」
「久しぶり」
 ぼくは言いたいことがたくさんありすぎて、どれから言ったらいいかわからなかった。いままでどんなことがあったのか、教えてあげたいことがあまりにも多かった。
「おとうさん」
「赦してくれ、赦してくれ……すまなかった」
 泣きながら赦しを請い始めたおとうさんに、ぼくは思わず歯を見せて笑ってしまう。きき、き。こんなに心の底から笑うのは何年振りなんだろう。
「いろいろあったんだよ、10年間」
「頼む……頼む、息子だけは」
 話が聞こえているのかいないのか、おとうさんはただうわ言をくりかえしているだけだった。ぼくはひどく冷めて、顔を覆っているカワウソの手を引きはがした。
「息子だけは……なに」
「見逃してやってくれ、頼む、おれはどうなってもかまわない」
 ぼくはおとうさんの手首を放して、立ち上がった。なんだか、ずいぶん遠回りをしてきてしまったような気がした。役立たずなガードマンたちが、ぼくをにらみつけて、じりじりとあとずさる。主人の命令が出ない限り、襲ってくることもなさそうだった。
 ぼくはホザンナの方を見る。おびえきった表情の男の子に、ぼくはもう一度にっこりと笑いかけた。そしてゆっくりと近づいていく。ホザンナを守るようにしてガードマンたちが立ちはだかる。
「アレホ、おとうさんとおかあさんを大切に」
 もう言いたいことは何もない。屋敷の扉を出ると、マリアさんが呼んだらしい警官たちが、ぼくを取り押さえた。石畳の上に頭を叩きつけられて、意識が朦朧としてくる。そういえば、よく玄関の前で遊んでて、転んでいたような気がする。
 血が出ていた。ナイフを持ってるぞ、と誰かが叫ぶ声が聞こえる。取り上げられそうになり、ぼくは最後の力を振り絞って誰かの手を刺す。叫び声が上がり、黒い銃口がいくつか見えた。何故だかその中に、いくつかの顔が思い浮かぶ。
 それらは像を結ぶことなく、ぶつりと途切れた。

 

 

 

あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。

— マタイによる福音書 18:35

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