
すう、と消毒液の果実じみた匂いを吸い込む。意識の外から飛んできた通知音に集中を乱された私は、手にしていたメスを置き、そのまま携帯電話に持ち替えた。メールが一通届いている。もうじき日が変わる時間だというのに、お互い大変なものだ。
指を滑らせそれを開く。映し出された画面にはそれぞれ、件名に「無貌事件に関する協力依頼について」、差出人の欄に公益財団法人犯罪心理学協会・谷崎翔一との記載があった。
無貌事件 最近世間を騒がせ始めた連続殺人事件の通称である。曰く被害者は全て浮浪者であり、全ての死体の顔面が、切り裂かれ、あるいは抉られ、あるいは陥没させられた状態で見つかるために、この名が与えられたそうだ。
私は少し考えてから、依頼を受ける旨を返信し、ようやく患者に向き直る。手術室はいつもどおりの光量で、いつもどおりの室温が保たれ、いつもどおりの”Heal The World”が響いている。違うのは、今この部屋には私と患者の二人だけしかいないという点。
「先生、半田先生、私はもう良くなるんでしょうか?」
腹を開かれ、管を通され、無理やり延命させられてなお、患者は縋るように微笑んでいる。消毒液と血液の混ざるいつもどおりの匂いがする。いつもどおりに臓腑で埋まった床を、いつもどおりに私が片付けることになるのだろう。億劫に感じることもまた、いつもどおりだ。
「大丈夫、大丈夫、ほんの少しの辛抱ですよ」
私は問いに笑顔で返し、再度メスを握り込む。患者は未だ白痴のままだが、幸い体力は残されていた。ふと、私は自分の顔に手をやる。マスク越しにも自身が笑顔であることを知りたかった。口角の角度、頬の強張り、目尻の緩みに至るまで、全てが昔の通りに再現できていることを確認すると、私は患者に向き直る。
「ああ先生、あんなに痛かった腕も足も、もうちっとも痛まないんだ。まるで全部切って外されちまったみたいに。そしたら今度は腹だ、腹が、胸が、裂かれたみたいに痛むんだ」
「大丈夫、大丈夫、今に全てが良くなります」
言葉通りに四肢を切り落とされた患者が、歯を見せたまま身を捩る。顕になった心臓が、彼を操りたいがごとく早鐘を打つのが見て取れる。振り上げられたメスを見つめながら、患者はまた、笑った。
そのまま私は手をゆっくりと動かす。鼻に、右目に、左目に、引き攣ったままの口角に、何度も刃を突き立てる。くぐもった声を発する喉を断つ。もがくように上げられた肩を抉る。ナイフで乱雑に切られたような傷を作る。爆ぜる寸前の心臓を、刺す。患者はもう、自ら動くことはない。
「じきに全てを思い出させてあげましょう。私があなたにそうしたように、この世界にも」

抉られた眼孔から流れた血液は涙のように、手術台を染め上げていた。
「いやあ、よく整えられた部屋ですねえ。半田仁志はんだひとし先生。それはもう 」
「偏執的、ですか? 昔はよく言われたんです」
作業を終え、仮眠を取った次の日の朝だった。私の部屋に、その谷崎翔一という男が訪ねてきた。黒くくたびれたパーカーと、いささかシミの目立つ安っぽいジーンズ。背丈は170cmないくらいだろうか。丸められたきりの背が、余計に小柄さを引き立てている。正気を失った小動物のような顔。しかしそのハシバミ色の目にだけは、なにかの輝きが見て取れた。
「とんでもない! 羨ましいと感じたまでです。ぼくは片付けが苦手でしてね」
「左様ですか。それで、これからどこへ向かえばよろしいのでしょう?」
私はパソコンに向き直り、ここ一週間の予定を確かめた。手術の予定は入れられていない。事務の方にも事件の捜査に協力するとは伝えてある。曲がりなりにも大病院だ。私以外にも優秀な医師はいるし、時世を鑑みても急患は少ない。今後予定が埋まることもないだろう。ふと、彼の目が私の右手に向いていることに気づく。私は無意識に机に立てられた家族写真を触っていた。それをパタンと伏せ、谷崎に向き直る。
「その前に、説明を少々。あなたもこの事件については知らない訳ではないでしょう、連日ニュースで持ちきりですからね。その名も 」
「無貌事件。もちろん存じ上げております。まさしくニュースで取り上げられる程度の詳細までですがね」
平静に、卓上の書類を整理する。谷崎の方に目をやれば、彼はパーカーのポケットからメモ帳を取り出すところだった。それからズボンのポケットを探り、フードを漁り、胸に足にと手を当ててから、最後にわざとらしく肩をすくめる。
「すみません、ペン借りても?」
「構いませんよ こちらをお使いください」
私は彼に量産品のボールペンを渡した。彼は口数を減らさないまま、ひっきりなしにメモ帳を引っ掻く。
「五年目になる相棒がいるんですがね、ペンはいつも彼が持ってるんですよ。最初の頃は借りようとするたびいちいち文句を言われたもんですが、いまではもうツーカーです」
薄っぺらい笑顔とそれに輪をかける軽薄な声は、故意を疑うほどには不愉快なものだった。谷崎の姿は一旦視界から外すことにし、その言葉だけに耳を傾ける。棚の上から紙コップを取り出し、冷蔵庫にある2Lペットボトルの茶を注いでから彼に渡す。
「彼はとても手が早いのでお気をつけを。いつも仏頂面でね、あの手この手で笑わせようと頑張ってるんですが お茶ありがとうございます。そうそう、無貌事件でしたね。ぼくがここに来た目的は」
「顔が意図的に破壊されているという悲劇的な事件ですね。病院内でも噂になっています」
谷崎は黄ばんだメモ用紙をこちらへ寄越した。そこには癖の強い文字で、近くの陸橋の名と時間を示す数字だけが書かれている。私はそれを一瞥したのち即座に記憶すると、谷崎の方に向き直る。彼はというと、ただでさえ小さな背中をさらに丸めて、注がれた茶をまさに飲み干さんとしている頃だった。私が出した手に、彼は「どうも」と空になった紙コップを寄越してくる。
「こんなご時世ですからね。公益財団法人犯罪心理学協会なんて仰々しい名は冠しちゃいますが、その実人手はすっからかんで。そこであなたに白羽の矢が立ったわけでございます。浮浪者相手に無償で医療を提供している、それも所属の病院に手は借りず一人で、なんて仁者、世界中探したってそうそうお目にかかれやしません。外科医ってもんで、人の中身にも見慣れてらっしゃることでしょう。もちろん報酬はお出しします。だからこの事件については、ものの試しってことでご協力いただけませんでしょうか。メディアには出してませんが、この事件にはどうも物証が欠けてるみたいで……ここはどうかひとつ、ねえ」
「私の意思はメールでお伝えしたとおりです。もちろんお受けいたしますとも。このような悲劇、早く終わるに越したことはありませんから」
私の言葉に気を良くしたのか、谷崎は笑顔を深めつつ、「じゃあ、ぼくは諸々の準備があるので、これで」と一礼しながら去っていった。私は彼の姿が完全に消えたのを確認し、自分の椅子に腰掛ける。ふと、先ほどまで谷崎がかけていた来客用のテーブルに目をやる。先ほど渡したボールペンが、そのまま姿を消しているのに気づいた。私は眉間に手をやってから、それを下ろすついでに引き出しから胃薬を取り出した。しばし休んだあとに、私は意を決して自室を離れた。
病院のエントランスは、笑顔で満ちている。それにかなりの気持ち悪さを覚えつつ、玄関を出る。病院の駐車場はいつもどおりにがらんどうだ。車が一台、二台。駐車場に入ってきたそれらは、進路を交差させ、そしてボディをこすり合わせるように事故を起こす。二台の運転手は車から出る様子もなく、まるで何もなかったかのように駐車をした。
冬の冷たい空気は、己の輪郭をいつになくはっきりとさせる。時間通りに陸橋へ赴けば、その根元はシートの青とテープの黄で丁重にデコレーションされていた。私が踏み込もうとすると、警備の人間に行く手を阻まれる。曇り空も相まって、ふだんは浮浪者のたまり場になっているであろうこの場所は、不気味なほどに薄暗かった。
「すみません、こちらは今立ち入り禁止でして」
品のない愛想笑い越しに、さらに貼り付けたような笑顔の男がひらひらと手を振るのが見て取れる。この寒い中、薄い黒パーカーを羽織っている程度だというのに、谷崎は全く寒そうな素振りは見せない。私は手袋の中で何度か手を開いたり閉じたりして、これから始まる全てに備えて、己を少しなだめた。
「いやあ、いいんだよ。その方はぼくの大事なお客さんだから」
今まさに死体の確認を終えたであろう谷崎が、警備の人間を制しつつ歩み出る。一歩一歩が地から浮いているかのような歩みだった。それに気圧されたのか、いつものことなのかは分からないが、警備員は変わらない笑顔で一礼して、一歩下がった。
「凄惨な遺体との対面はいつまで経っても慣れませんねえ。ぼくはこの仕事七年目になりますがね、何度目の初対面でも肝がぐっと潰されるような心地がしますよ。外科医の先生と言っても、悪意をもって作られたホトケさんなんてそうお目にかかるもんじゃないでしょう。どうです、見ていかれます?」
頷けば、谷崎は背後のブルーシートを顎で示した。ふと、影めいて谷崎の傍に控えていた男 二人の態度を見るに、先述の「相棒」とやらは彼なのだろう に気づく。長身で、驚くほど姿勢がよく、ロングコートの上からでも鍛え上げられた肉体が見てとれる。髪は短く切りそろえられており、目はサングラスで隠れていて見ることができない。二十一世紀であるにも関わらず彼の腰には二本の刀が差され、さながら侍のようである。
「応神薙。見ての通り、殺しても死なない武人ですよ」
紹介を受け、応神なる男は会釈をした。サングラスの隙間から覗いた視線が私に刺さる。頭を振ってそれを避けると、応神はこちらに関心を向けることをやめ、死体を隠すブルーシートの端を持ち上げた。愛想笑いをコピーペーストしたかのような職員たちの中において、応神の仏頂面は異質に映る。だからこそ、私はこの瞬間確かに彼に惹かれた。彼を含めて、谷崎を取り囲んでいる数人の捜査官らしき人物は思い思いの表情を浮かべていた。もっとも、応神はその捜査官らには少し避けられているようだったが。
「身元不明、四十から五十代男性、死後七十二時間以内、この辺りを拠点としていたホームレスと見られる。四肢は切断されているが、両手両足とも数メートル圏内で全て発見済みだ。腹部は開かれ、内臓のほとんどが叩き潰されるように損傷している。しかし一番酷いのは顔だ。何度も執拗に刃物を突き立てたような惨状で、目の損傷は脳にまで達しているらしい。目には2cm程度物が入っただけでも致命傷になりうる。相当の執着があると見えるな」
作り笑いに辟易していた私は、眉ひとつ動かすことのない応神の表情に却って安らぎを覚えた。谷崎もまた満足げに、ゆっくりと首を縦に振る。応神は再び死体に向き直り、傷に虫眼鏡を当てた。これでは誰が探偵役なのかわかったものではないと私は思った。
「付け加えるとするならば、この遺体は相当な業物で、かつ小さい刃物で意図的に作られているように見える。これじゃまるで 」
応神が顔をこちらに向けたかと思えば、谷崎は片手を上げて応神の言葉を制止した。彼のハシバミ色が一瞬輝いたような気がした。応神はあからさまに不満げな表情で立ち上がり、再び谷崎の影に控える。途端に、応神の気配が希薄になった。ただでさえ体格が良くさらに目を引く風貌までしているというのに、奇妙なものだ。
「薙くん。こんなところでいいよ。ここからは専門家の意見を伺いたい」
「専門家だなんて、そんな」
視線を手で払った私の顔を、なお谷崎は覗き込む。
「ご謙遜を。人の体のことで言えば、先生に敵うものはこの場にはただの一人もいませんよ。だからこそ、ぼくはあなたに声をかけたんです。この事件の難しいところでね、四六時中駆けずり回って聞き込みしても目撃証言ひとつ上がりゃしない。ヒントといえば遺体だけ。大きいヒントですがね。それもみんな顔が潰れてて身元すら辿れないときてる。恥ずかしながらお手上げでしてね。我々の努力に免じて、どうです? お知恵をお貸し願えませんか」
促されるままに、ブルーシートに膝を付く。数時間ぶりの対面だ。遺体は変わらず哀れな泣き顔で、私を見上げている。寒さも相まって保存状態は良い。アリバイ工作が万全な証しだ。顔を近づけ、懐から道具を取り出し、少なくとも真面目に検分しているフリをする。死体の異様な匂いだけは、未だに嗅ぎ慣れない。

「そう、ですね。鋭い刃物……あなたの言葉を借りれば業物、ですか。そういった凶器が使われたというのはいささか考えすぎではないでしょうか。そもそも人体はそう脆くない。普通のナイフを殺人に当たって加工したことで、このような切り口になっているのでしょう」
自身が起こした事件の捜査を直接的に撹乱できるチャンスなどない。考えろ。私は唇を舐める。
「それ以外のご意見に関しては、異論ありませんよ。付け加えるとするならば……ここが胃に当たる部分なのですが、切り裂かれ中が見えているにもかかわらず内容物は見てとれません。一見痩せ型には見えないかも知れませんが、肌や骨の状態から見て、この方が適切な栄養が摂れていたとは到底思えません。ホームレスである以上、みなさん例外なく食事にはご苦労されているものですが、この方は特に顕著ですね。食事の取り合いから、トラブルになったケースも考えられるのではないでしょうか」
死体から離れたあと、私は谷崎に向き直った。谷崎は感心したようにメモを取り出す。こちらに視線を向け口を開こうとしたところで、応神からペンが差し出された。
「参考になるご意見を、どうも。これでやっと見えてきましたよ。食事の取り合いを発端とする個人的なトラブルが理由であれば、聞き込みはこの辺りのホームレスにターゲットを絞った方が良さそうですね」
「お力になれて何よりです」
こんなところでいいだろう。私が踵を返そうとしたところで、谷崎はあっと声をあげる。その声が乾いた風に溶ける前に、彼は言葉を続けた。
「いけない、忘れてた」
「なんです」
「もうひとつ聞きたいことがあるんですよ。遺体についてなんですが……」
ぱらぱらとメモを捲る音が言葉に混じり耳に届く。
「そう、まず最初に見つかったホトケさん、一ヶ月前ですが……この方もやはり顔の損傷が激しくてね、口角なんかは喉を通って鎖骨のあたりまで裂かれてましたよ。こちらが身長170cm」
谷崎は言いながら、指先で数字を示す。
「第二のホトケさん。この方は目が酷かった。164cm。そして今朝見つかったこちらの方がだいたい、160cm台。他にもいらっしゃいますがひとまずはこの辺で」
谷崎の指で中空に書き連ねられた数字が出揃う。
「何かお気づきになりませんか?」
漠然とした問いに、思わず首が傾く。この男は一体、何を求めて私の目を見ているのだろうか? ふた呼吸程度の間を挟み、理解が及ぶ。つまり私は試されているのだ。
腐っても公益財団法人、一般人の能力を手放しで信用するわけがない。また、まさしく谷崎のような努力の日々を経てようやく今の立場に収まった人間にとって、私のような余所者が捜査の中で大きな顔をすることなど、到底許せることではないのだろう。
この案件は、表面的には協力依頼を装っているが、本質は私の能力を試すことにある。彼が試験官で私が受験生とするならば、先ほどの問いはさながらテストといったところか。
「遺体の共通点、ですか? 傷の程度や細かな状態まではそれだけではなんとも……けれど、ああ、私にも分かることがありますよ。被害者の背丈ですね」
谷崎は、聞き入るように目を瞑っている。
「被害者は皆170cmかそれ以下の身長をしている。察するに、他の被害者も今のこの方と同じように、小柄かつやや痩せ型な方が多いのでは?」
「おっしゃる通りです」
どうやら満足のいく答えのようだ。私は続ける。
「これほど被害者の特徴が似通っているのであれば、犯人はターゲットを意図的に絞っているのでしょう。理由は様々考えられますが、最も可能性が高いのは、犯人自身の体格が原因という説ですね。被害者を連れ去るのも遺体を運ぶのも、大変な重労働だ。であれば自ずと、ターゲットは小柄な人物に絞られる。大柄な人間を殺さなかったんじゃない、小柄な人間しか殺せなかったんです」
谷崎はゆっくり頷く。私は続ける。
「体格ゆえに殺せる相手が限られてくるなら、被害者の特徴から犯人の体格を逆算することだってできる。いくら小柄な遺体が多いからと言って女性一人の犯行とは考え難い。となると、そうだな……犯人は身長170cmに満たない程度の男性なのではないでしょうか、ちょうど谷崎さん、あなたのような」
ぱちん、と手を打つ音が響いた。
「素晴らしい! 素晴らしいですよ半田さん。まさかあなたがここまでのお人とは。いえ、みくびってただなんてとんでもない、ただ尊敬し直したってだけですよ」
軽薄な笑顔は変わらないものの、見上げる視線には敬意が感じられた。私は微笑み返す。
「素人推理でお恥ずかしい限りですが」
「いえ、いえ、大変参考になりました。“犯人は小柄な男性”、と。覚えておかなくちゃね」
谷崎は胸元に手を当てポケットから何かを探り出そうとする。またペンだろうか。各ポケット間数度の往復を経て私に向き直ったところで、応神が二本目を差し出した。
夜。空っぽのキッチンには、乾燥させた植物の甘い匂いが漂っていた。
「今日もお疲れ様、薙くん。キミのおかげで助かったよ」
シャワーを終えたばかりの応神は、谷崎からのねぎらいを躱し、カウンターに上げられている冷水で満ちたコップを手に取った。視線が合わなかったことを不満に思った谷崎は、自らの左手とそれに掴まれた手製の煙草人形を応神の視界の端でひらひらと翻す。応神は構わず無視を決め込む。流水に喉の奥が冷えていく。
「なんだいつれないな。キミに見せたくて夜なべして作ったんだぜ? この人形」
そんな力作に、谷崎は容赦無くハサミを入れていく。欠片となった煙草人形は谷崎の右手に収まるガラスの煙管に詰め込まれ、火をつけられることもまたつつがなく受け入れた。谷崎が息を吸って、そして吐く。煙が肺に届くことはない。透明な煙管の白い流れが、谷崎の輪郭をぼやけさせていく。
「よかったな、楽しそうで」
無視以外のあらゆる返事が今の谷崎にとっては愉快で仕方がないのだろう。吐き出された煙はみるみるうちにキッチンを満たしていった。
「今となっては、財団広しといえども信頼できるのはキミくらいのものだよ」
「……そうだな、おれもそうだ。あんたくらいしかいない」
「それにしても、キミもずいぶんと変わったよね。以前までなら、己より弱い者には絶対に手を出さなかった」
「必要とあらば、おれの父祖も許してくれるだろう」
同居五年目にして、家具調度類は二人の男のうちのどちらが自らの持ち主なのかを忘れつつあった。リビングの三脚の椅子は、来客用の一脚を除けばほぼ均等にクッションをくたびれさせているし、戸棚の端には込められたブルーブラックのインクをすっかり乾かしてしまった万年筆、貰い物の赤い簪などが思い出となって鎮座しているのを、二人が知っている。最初のうちこそ不可侵とされた本棚の中身でさえすっかり共有財産だ。ごく一部のオブジェ 応神を喜ばせようと買ったものの結果として眉間の皺を深めさせるばかりであった、清和源氏に連なる者がつけていたとされる面頬やスリット部分が一六八〇万色に光る遮光器などを除けばだが。
空になったコップが差し出されたために、煙草人形を刻み続けていた谷崎の手が止まる。再び冷水で満たされたコップは、今度は谷崎により傾けられる番である。
「それにしても面白い人だね、彼。半田さん、あの外科医の先生だよ。専門家として知恵を貸してくれるだけでなく、面白い推理まで披露してくれるとは。当分は退屈しなくて済みそうだ」
「どうだか」
応神は肩を竦める。仕事を共にする中で、退屈そうな谷崎の様子など見たことがなかったからだ。小言もそこそこに、道具と共に刀を取り出し刀身の手入れにかかる。
「あの半田とかいう男、おれはそれほど信用ができるとは思えない。奴のあの推理だが 」
言いながらも、ハシバミ色が鈍く光ったのを応神は見逃さなかった。
「奴の推理、被害者が小柄揃いなら犯人も小柄なはずだと言っただろう。被害者の特徴から犯人を推測しようという考え方自体は悪くない。だが、あの情報だけでは犯人が長身である可能性を否定するには不十分だ。小柄な人間に運ぶことができる死体なら、大柄な人間にはより容易い。そうだろう?」
キッチンの霞は晴れつつある。薄い刃に応神の顔が反射している。持ち主自身も驚くほどの仏頂面だった。
「おれは人を効率よく始末する方法を知っている。あの死体は明らかに同類が作ったものだ。それに、プロに頼られた素人が全能感から見落としをするのはよくあることだが、あの医者は多少煽てられたくらいで冷静さを失うような人種じゃない。あんたも同じように感じているはずだ。そして、何より」
「何より?」
狂ったウサギの笑顔はそのままに、声ばかりが冷たく響く。応神はなお続ける。
「あんただ、谷崎。あんたはなぜ、おれを止めた? その上でなぜ、あの推理を肯定した?」
応神の洞察力は確かにプロの能力だ。しかしそれは、谷崎に迎え入れられた協会のポストで、谷崎の働き振りを見て、盗み、ときに過ちを指摘されつつ時間をかけて自分のものにした技術でもある。推理に関しては弟子の立場たる応神が気づき、師たる谷崎が気づかぬはずがない。
追及を受け、谷崎が出した答えは 笑いだった。
「素晴らしいよ、薙くん。ぼくはキミを相棒に選んでよかったと思う瞬間が毎日のようにあるんだけどね、今のがまさにそれだ。こんな幸運、何に感謝を伝えれば良いのかわからないな。手始めにまずお天道様に祈るとして」
「また安い賞賛で煙に巻くか」
くつくつと手で口元を覆いながらも、谷崎は姿勢を正す。
「いいや。たしかに薙くんの言う通り、あの推理には穴があるし、キミはいつだって正しい形を示す。単なる思い違いか、ぼくたちですら知らないヒントを彼が持ってるからなのかはわからないけれど」
「なら、なぜ」
「決まっている」
煙草人形の残りの欠片が、ごみ箱へと投げ入れられる。最初は機嫌よく笑顔を浮かべていた人形が、首だけになったいま、どういう理屈か涙目になっていた。
「そうする必要があったからさ」
いたずらっ子のような谷崎の表情を見て、応神は引くことにした。これ以上問うたとして、望む答えが返ってくることはないだろう。だが、彼自身には確信めいた感覚があった。「またか」、と。
「さあて薙くん、明日も早い。そろそろ休むとしようじゃないか」
言いながら、谷崎はキッチンの戸棚を開ける。歯ブラシでも取り出そうとしているのだろうが、両の手は中空に惑い続ける。調理器具の殆どが処分されがらんどうの戸棚を前に、どうして迷うことがあるのだろう。応神はため息をつく。
「もう一つ。聞いとかなきゃならないことがある」
「何だい?」
渡された歯ブラシを咥えつつ、谷崎が応じる。
「あんた、幸せか?」
「無論」
谷崎の表情は変わらない。
半田仁志はもとより優秀な医師である。裕福な家庭に生まれ育ち、何不自由ない環境で勉強に専念できた彼は、医大への入学、医師免許の所得共に最低限の年数でこなした。そんな彼が、都内の大病院に勤めながら優秀な医師として才能を発揮するだけでなく、恵まれない人々へ無償で医療を提供する仁者との評判を獲得することも、讃えられこそすれ彼の才覚であれば当然の起結であると誰もが受け入れた。半田の周りの人間にも、半田自身の口元にも、常に笑顔が溢れていた。
医師として働くうちに、半田は生来の内臓への興味を日に日に強めていくこととなった。例えば、子を宿せば十月とつきの内に他の臓器を押し退けながら8kgほどの重さにまで膨張する子宮であるが、平時はというと握り拳程度の大きさで慎ましく腹に収まっている。では子宮を持たない男の体はどうかというと、当然拳大の空洞が空いているはずもなく、精嚢や前立腺、女のそれとはやや形を変えた膀胱などの臓器が、パズルのように隙間なく敷き詰められているのである。紙面の上に知識として並べ立てられていたそれらの事実は、半田の前に実態として現れて以来、彼を魅了し離すことはなかった。
あるとき、半田は患者から子宮を抜き取った。患者が患っていたのは子宮頸がんである。麻酔の微睡みから覚めた患者に、半田は説明した。病状の進行が予想以上であったと、本来ならば患部の切除のみで済ませるべきところを、全摘という形で対応せざるを得なかったと、力が及ばず済まなかったと、ゆっくりと、努めて冷静に、穏やかな声で説明した。
その実、説明の半分は嘘で塗り固められていた。病状の進行が予想以上であったことは確かだが、子宮の全摘までは不要なことは、半田自身が最もよく理解していた。力が及ばなかったわけではない。ただ、彼はその臓器が欲しかったのだ。済まないという言葉は本心である。自身の興味に、一つの身体を犠牲にしたのだから。
そのときの患者の顔が、半田には今も忘れられない
「笑ったんです彼女。命が助かったなら、と」
思い出話に浸るかのように閉じられていた半田の双眸が、再度患者の顔を捉える。
時計の針はいつものように血生臭い手術室を見下ろしながら、今宵もまた真上を指し直した。
「暗くなったモニターに映った私の顔もまた対照的でした。自分でも驚くほどの仏頂面でね」
言いながら、半田はサングラス越しに垣間見た応神の眼光を思い出していた。肉塊から引き抜いたのは、業物のメス、ではなく果物ナイフだ。
「自分が狂っているという自覚が、あの笑顔ひとつで確信に変わった。それと同時に目の前の彼女も狂っていると気づいた。私と彼女、双方が狂っているのなら、間違っているのは 」
顔面を完全に陥没させられた死体は、半田の言葉を聞くともなく、ぼんやりと天井を眺めている。非礼に対する不快感が眉間に現れそうになるのを自覚し、半田は笑顔を作り直す。
あの日から半田を塗りつぶした感情は、孤独だ。人類がみな狂人であれば、その自覚こそが人を孤独たらしめる。そして自身が狂っていると確信を持つほどに聡慧な半田は、孤独を埋められるのは同族のみであることにもまた、気づいていた。
「応神、薙」
彼は私と同じだ。少なくとも私はそう思うに足る確かな根拠を持っていた。私と同じく、応神薙も内側には確かな暴力衝動を秘めている。医師として多数の人間を観察したことによる直感。あるいは応神薙のコートの上から刀を差している異常な格好。人体の破壊方法への造詣と、谷崎に強く抑圧されている様子。明白だ。
「あなたならきっと、私の悲しみも分かってくれる……」
何をすべきかも、明白だった。この場合において、私にとって邪魔な者はただ一人だ。懐から携帯電話を取り出し、谷崎へとメールを打つ。この時間帯に起きていることは知っていた。自分へ連絡が来たのも、この時間帯だったからだ。かあ、と外で烏が鳴いた気がした。
先日とはうってかわって、気持ちの悪いほどの晴れだ。私は応神の運転する車に谷崎と同乗し、神奈川県の某所へと向かっていた。喋り続ける谷崎のことを適当に受け流しながら、窓の外をゆっくりと流れるコンビナートの光を眺める。私が死体を設置したのが今朝一時、それから家に帰ったのがおよそ二時半。谷崎から呼び出しを食らったのがその一五分後。
「谷崎さん。こんな早朝に、よく見つけられましたね」
「いやあ、運がいいのが昔から取り柄だったんです。ぼくはもうかれこれ七年間くらいだっけ? 薙くん、そう。七年くらいこれ一筋でやってるんですよ」
「七年もですか……いや、」
私としたことが、この手の人種に対して一つでも質問をしようものなら延々と喋り続けることを忘れていた。私は気だるい体を窓に預け、少しでも休息をしようと試みた。
「話を遮り申し訳ない。どうぞ続けて」
私は促す。にも関わらず、谷崎はしばらくぶりに黙った。車内にタイヤノイズと風切り音が響き渡る。静止の中にあっても調律のずれた小動物じみた笑顔が翳ることはない。これみよがしに応神がエンジンを吹かし、さらなる音を車内に追加した。
「ありがたいですねえ。沈黙は金っていうくらいですよ。半田さんには助手の才能があります」
ようやく開かれることとなった口は、再び高速で回転し始めた。どれもとりとめのない話題ばかりだ。BGMがわりに聞き流し続けるうちにやがて車はコンビナートを抜け、住宅街へと差し掛かる。ふと、轢死した猫の死骸を道路傍に見た。誰も片付けようとしないどころか、気にせずそれを跨ぐ通行人の口端は微笑すら湛えていた。ありふれた日常の一ページ然としたその光景に、いっそ次はあそこに死体を転がそうか、などと考えてしまう。彼らにとって、日常は希望満ち溢れていると信じるに足る代物なのだろう。死の影が傍に迫っているとも知らずに。
車の速度が落ちるのに釣られて、私の思考も一旦の区切りを得る。
切れかけの赤いネオン、虚飾にまみれた異国風の建物、聞こえてくる言葉はどれも日本のものではない。希望の笑顔に満ち溢れた猥雑なストリートだ。異質さと普遍性、背反する二つを繋ぎ止めるよう張り巡らされた黄のテープ。頭を下げてそれらをくぐり、裏路地のさらに裏へと、我々は潜り込む。
そうして現れた狭い路地には、ブルーシートに包まれた塊が、年代物のソフビフィギュアとともに転がっていた。表面だけを取り繕っても中身までがそうであるとは限らない。死体とその周りの赤い水たまりはやはり、どこにあっても異質なものだ。
慣れた様子で谷崎お抱えの班員らが現場を封鎖し、そして応神は真っ先に死体を検分する。私はポケットに手を突っ込み、意識的に落ち着いた歩き方をしながら死体に近づく。ふと、誰かの視線を感じた。
「半田さん。これらの事件には、もう一つ不可解な共通点があるのです」
「物証がないという点ですね。お会いしたときに、お聞きしました」
いつの間にか背後に立っていた谷崎に少し驚きつつも、私はつつがなく即答した。谷崎は変わらず、満足そうな表情で私の視界をうろつく。応神の方に顔を背けると、彼は変わらず死体を見ていた。口を開く谷崎を無視し、私は応神に歩み寄る。彼が検分を始めようと死体の側に座り込んだのに倣い、私も身をかがめた。
「どうですかな、応神さん。首尾の方は」
「さあな、しかしこの死体はどうも妙だ。……分かるか?」
ビニールシートを持ち上げながら、彼は言う。赤い液体がドロリと垂れた。暫くぶりに嗅ぐ異臭に顔を顰めるふりをしながら、応神の無駄のない所作に意識を向ける。拡大鏡ひとつ懐から取り出す動きにすら、育ちの良さが現れていた。
「妙、ですか。私にとっては他殺体はどれも奇妙に見えますよ。あなた方にとっては慣れ親しんだ存在であるのかもしれませんがね」
サングラス越しの瞳と目が合う。見られているような感覚は消え、私はようやく一息つくことが出来た。彼の仏頂面に変化は見られない。風が吹き、私は髪を少し抑える。しかし、彼の撫で付けたようなオールバックは微動だにしなかった。
「ご期待いただけるのは光栄ですが、私は一介の外科医に過ぎません。今後ともお役に立つためにも、今日はあなたのやり方を勉強させてはいただけませんか?」
応神はため息をつき、眉間にシワを寄せる。少しの呆れ、ひいては失望とも取れる表情だ。彼の表情が動くのを目の当たりにしたのはこれが初めてだと思い至る。間近で見れば、応神の顔立ちは思いのほか幼い。それだけ見れば、流行りの雑誌の表紙に飾られていてもおかしくないとすら思えた。私は微笑む。
「そうか。この前は随分と大胆な推理を披露してたから、てっきり場慣れしているものかと」
「まさか! 声が震えないよう振る舞うので必死でしたよ。それでも私は人の信頼がいかに得難いか分かっているつもりですから、初仕事から逃げ出すようなみっともない真似はしたくなかった」
応神が死体を検分する手を止めたので、私も背筋を伸ばす。谷崎を見れば、彼は班員となにやら話し込んでいた。現場の封鎖手順とか、近隣住民への説明だとか、そんな言葉が漏れ聞こえる。彼らの仕事も前よりは楽になっているだろうと想像を巡らせた。事件の認知度も高くなってきたからだ。
「私は医師という仕事に誇りを持っている。一生を他者の命のために捧げたいという気持ちに揺るぎはない。けれど、同時に死者に向き合うあなたの在り方を尊敬してもいるのですよ。お貸しできる力は微々たるものかもしれませんが、それでも頼っていただけるのなら、これほど嬉しいことはない」
「……あなたのことは前から胡散臭いとは思っていたが、その評価を改める時が来たようだな」
満足感に息が漏れる。釣られてか、応神の口角も若干上がる。てらり、と鋭い嘴のような犬歯が輝いた。笑顔というよりは、むしろ獲物を前にした猛禽類か何かを思わせる表情だった。
「さて、この死体についてだ。見たところ傷口が歪んでいる。凶器はメスだとか刀だとか、人の体を切ることを想定されたものでなく、あくまで普通の刃物だろう」
「模倣犯ではないでしょうか?」
応神の表情が無に戻る。彼は再び死体に向き直った。観察されているような感覚が、またどこからか立ち現れた。かあ、と烏が鳴く。釣られて空を見上げると、ビルと電線に区切られた青空に悠々と円を描いて飛ぶ黒い影があった。ほっと息を吐き、私は再び死体に向き直った。
「谷崎の見解は異なるようだが」
「私は、その見解をこそ疑うべきではと感じていますが」
瞬間、周囲の空気が殺気で満ちた。反射的に息が詰まり、鼓動が高まる。冷や汗。そして視界のちらつき。体が今すぐここから立ち去れと叫ぶ。死体の赤が、際立つ。
「谷崎の決断は常に巡り巡って最善の結果を引いてきた。だからおれはついている。あいつ自身じゃない。あいつの決断に」
「ならば、私を殺せと彼が命じたら」
「お前を殺す」
迷いのなさに身体が強張り、裏腹に心は期待を叫ぶ。緊張は興奮となり、私は確信した、彼の手もまた血で汚れていると。ふと、我々の間に陽光が差し込む。それに照らされ、応神の瞳が金色に輝いたような気がした。
「怖いことをおっしゃいますな、応神さんは」
私は肩をすくめる。口角が歪み切らぬよう、それでいて笑みを崩さぬよう、努めて慎重に表情を組み上げる。傷口を開いたり閉じたりと、手を動かすことだけは止めない。
「自覚はある。しかし甘えてはいられんご時世だからな。今が山場だろう」
視界の端からスタスタと足音が近づいてくる。死体に向き直る風を装い、私はそちらに背を向けた。しかし奴の小柄な体躯は、紙片が棚の隙間に滑り込むかの如く、私の視界に鎮座した。
「どうです、何か分かったことはおありで?」
あいも変わらず不躾な笑顔で、谷崎は言う。私は応神を見やる。
「丁度良い。先生はお前に意見があるようだ。確かめてやってくれ」
思わず大きなため息が出た。何がそんなに愉快なのか、谷崎の半月型の目の奥が、ころころと色を変えるのを感じた。
「意見、と言うほど大それたものではありませんよ。ただ可能性の話でして」
「というと?」
「それはですね……」
囃されるような感覚。眉間に指を当て、負の感情が表に出ていないことを確認する。
「あなたはもちろん、この遺体を先の無貌事件のそれと同質のものとして考えているわけです。けれど応神さん曰く、この傷は今までの遺体の傷とは性質が異なる。無貌事件の噂にかこつけた、模倣犯の仕業ではないでしょうか」
「なるほど、興味深いですね」
続けて、とでも言いたげに、谷崎は小首を傾げる。自身の推理にケチをつけられたのがそれほどお気に召さなかったのだろうか。私は手のひらを彼に向け、視線を外す。数秒の沈黙ののち、ようやく谷崎が口を開く。
「いやいや、さすが半田先生。ぼくはどうにも、頭が硬くなってしまっていけませんな。確かに無貌事件を知る人間も増えてきた。模倣犯、あり得る話ですねえ」
例によって不愉快な声色ではあるが、今に限っては沈黙により沈んだ空気を幾分かマシに彩ったように感じられた。私は踵を返し、路地を去ろうと足を進める。これ以上ここにいる理由もない。
「しかし」
遅れて発された谷崎の一言が、私の背を裏路地の影に縫いとめた。谷崎の班員らが、私の傍を通って死体をそそくさと運び出していく。まるで用済みだとでも言いたげに。赤く冷たいシミが、道路にぽたり、ぽたりと広がる。
「しかし、なんでしょう」
振り向かず、ただ耳だけを傾ける。今度は眼前の狭い路地から、何人かの清掃員とカメラマンが立ち入ってきた。事件が起きたのは裏路地だが、5m先は人通りの多い大通りだ。メインストリートから忘れ去られた小道といえど、また日常に戻らねばならない。
「しかしね、半田さん。こうも考えられんでしょうか。確かにこの傷はそれらしく、今までの遺体のものとは違って見える。でもねぇ、鋭利な刃物を手に入れるのは難しくとも、なまくらを手に入れるのはそれよりよっぽど簡単でしょう。ぼくだって今から五分もあれば、その辺りのスーパーででも、一千円ちょっとの肉切り包丁を持って戻ってくることもできる。御覧に入れますか?」
「いえ、いえ結構。そうですね、確かにこれだけで模倣犯と決めつけるのは迂闊でした。けれどそれを否定する材料もないのでは?」
「いいえ」
その声は、私の鼓膜にいつになく通った。シャッターの音。異様に早く進む現場検証と記録。私は拭いきれない強い違和感を感じた。正体はわからない。しかし迂闊に身動きもとれない。日が陰り、わたしの影の存在を曖昧にさせる。
「それがねえ、模倣犯であることを否定する材料の方が、ぼくにははっきりして見えるんですよ。お分かりですか? この遺体の状態が」
さあ、と発しようとしてつかえた言葉は、咳払いとして吐き出される。つん、とカルキの匂いが鼻につく。びちゃびちゃとあたりに水が撒き散らされ、清掃が滞りなく進んでいることを知る。
「顔の陥没。引き摺り出された内臓。執拗に刺し貫かれた心臓。夜中とみられる犯行時間。ホームレスを狙った殺人」
空気を混ぜる谷崎の指先が、見ずとも脳内に想起される。それはまるで、糸を編む女郎蜘蛛のようで、私の精神を捉えていく。反射的に言葉を組み上げ、それを口に出そうとする。しかし、この男の前でボロを出してはいけないとも知っていた。一呼吸。
「それはもとより無貌事件の遺体に共通する特徴だったでしょう?なら模倣されていても、なんらおかしくは……」
「そう、模倣されていてもおかしくない。この事件の調査に関わっている者にとってはね」
私は谷崎を見た。声色に似つかわしくない、いつも通りの歪な笑顔。正直、かなり気味が悪い。この男はすべてが致命的にずれている。立っている私の隣を、無害そうな女子職員が駆け抜けていった。調子を狂わされる前に、私は質問を投げかける。
「どういう意味でしょう」
「だって、そうでしょう?これは明らかに無貌事件を意識した犯行だ。誰の目にもそれを確信させられるほどに。けれどその実、事件の通称は知っていても、遺体の状態をここまで詳細に知る者は多くない。外部に伝わる情報は制限しています。それが我々、公益財団法人犯罪心理学協会の仕事でもあるのです」
一転、太陽の光が私のうなじに向けて差し込んできた。無性に暑さを感じ、少しだけ襟を緩める。冬の冷たい空気が服と体の間に吹き込み、すこし身震いをした。
「ま、外部のよほどの情報通が間に噛んでることは否定できませんがね? けれどそこまでして殺しを行おうなんて人間、ご時世柄そうそう残っていない」
「……勉強になりました」
どれほど喋っても、谷崎の口角は吊り上げられたように固定されている。それでも私は、その表情に勝ち誇ったような色を感じ取った。
「いやいや、長話を失礼……そう、半田先生。あなたと個人的に話したい事があるのです。どこかでお時間いただけませんか?」
拒否をする理由はない。私は内心嫌々ながらも小さく首肯する。
「かまいませんよ。いつならご都合よろしいですか?」
「今日、今から……なんていかがでしょう」
如何なる手品によってか、この男は私の一日の予定を細部まで把握している様子だった。部屋の片付けがあるからと、谷崎の襲来を一時間後に設定する。
短く礼を言った谷崎は、下から私のことを覗き込むようにして現場を後にした。死体がない今、私がここにいても意味はない。私も彼に続こうとする。
ふと、応神の声が投げかけられた。後ろから。
「お天道様が見ているともいう。この事件の犯人もいずれ……」
棚を開くと、そこには整然と並んでいるファイルがあった。私はそれを意味もなく開き、年代順に整理されているかどうか確かめる。いくつかがバラバラになっており、私はそれらを取り出した。しかしその瞬間、紙束は重力に従って落下し、床に散らばる。
どうにかしてそれを片付けたあと、視線を上に向ければ、机の上の埃が嫌に目につく。私は棚からエタノールを取り出し、ティッシュにそれを染み込ませて拭いた。ツンとした香りが広がる。私はそれがどうも我慢ならず、窓を開けた。勢い余って肘が薬瓶に衝突し、エタノールが床に広がった。
こんなものは放っておけば勝手に乾く。換気も良い。いっそこのまま寝てしまおうか? いや、あと少ししたら谷崎が私の部屋にやってくる。無様な姿は晒せない、晒してはならない。私はひとまず湯を沸かそうと、電気ケトルを片手に蛇口を捻った。水は無惨にもケトルの蓋に勢いよく注がれ、私の服にぶちまけられた。
三箱程度ボックスティッシュを消費したのちなんとか原状に復帰した部屋を眺めていると、そこに扉がノックされる音が響く。谷崎に違いない。私はゆっくりとドアノブを回す。
「半田先生、この度は貴重なお時間どうも」
相変わらず慇懃な態度の小男は、それでも多少は申し訳ないといった面持ちで扉の前に佇んでいた。
「いえ構いませんよ、どうぞ中へ」
来客用の椅子を指せば、谷崎は軽く頭を下げた姿勢でそのまま腰掛ける。彼の目の前のテーブルには、透明なグラスが二つ伏せてある。一つは特別な客人のためのもの、もう一つは気遣いを気取らせないための自分用だ。
対面に腰掛けて、私は口を開く。
「それで、お話というのはなんでしょう」
谷崎は、さも愉快そうに後頭部に手を当て、眉を下げた。
「実はですね、以前こちらに伺ったことがあったでしょ? ほら、無貌事件のお話をはじめてお伝えしたときのあれです。いやあ相変わらずこのお部屋は整ってますね、急にお伺いしたというのに」
相変わらずよく回る口だ。私は小休憩だとでも思って、吐き出される雑音すべてを黙って聞き流すことにした。
「と、忘れるところでした。これ用件です。お返しします」
はたと我に返った谷崎の懐から取り出されたのは、量産品のボールペンだった。
「以前借りっぱなしになってたでしょう?何度もお返しする機会はあったのにねえ、いかんせんこれが半田先生のものと気づいたのもついさっきのことでして。お恥ずかしい限りです」
私は差し出されたペンを受け取る。確かに、この姿には見覚えがある。それが長い付き合いであるからなのか、コンビニに事務所の机に患者たちの忘れ物に見ない日はない安物だからなのかまでは知りようもないが。
腕を伸ばしペン立てにそれを収めてから、私は再び谷崎の口元を注視した。結ばれたままのそれは、薄く乾燥した唇に縁どられ、珍しく行儀よく弧を描くばかりだ。一秒、二秒、三秒と、急かすように秒針が鳴る。
「それで?」
先に口を開いたのは私だった。谷崎はきょとんと首をかしげる。子どもじみたしぐさは、他者の油断を誘うための戦略だろうか。
「お忙しいあなたのことですから、安物のボールペン一つのために時間を作ったわけじゃないんでしょう?」
谷崎はなお目を丸くしたままだ。私は深く息をつく。
「……てっきり大事なお話があるものかと思っていましたが」
そこまで言ってようやく、谷崎はうなづいた。
「いやいやこれは失礼しました! そりゃあ急でしたからね、変に思われたって仕方がない。用事らしい用事は本当にこれだけですよ。とはいえそれなら急な呼び出しなんて不要だったとお思いでしょう?白状しますとね、先生のこのお部屋のことが、ぼくは少しばかり気になってまして」
「片付けの方法のことですか?」
谷崎は、ああと声を上げ頭を掻いた。
「そこに関しても聞きたいことは山ほどあるんですが、こればっかりは聞いても聞いてもきりがありませんから。ぼくの私室なんてひどいもんでね、この部屋くらいきれいにするには数年がかりの発掘調査が必要ってほどですよ。冗談でなくね」
聞きながら私は、谷崎の視線とボディランゲージを目で追い続ける。ここが診察室であったなら、私は谷崎を取るに足らない間抜けな患者と判断したことだろう。それとも案外、彼は本当にただの間抜けであるのかもしれない。
一区切りとでもいわんばかりに大きな呼吸音が響いたと思えば、音の主の視線がついと、備え付けの棚に吸い込まれた。
「あの薬品棚」
谷崎が立てた指の示した先を目で追う。天井に届くほどの薬品棚は、見慣れた形の影を私たちの間に投げかけている。
「所狭しと薬品が並んでいてきっちり整頓されてるように見えますね、いえ事実きれいなんですが……背板の嵌め込まれている位置と、棚そのものの奥行きに、瓶一本分程度の余裕がある。ほかの棚はそうなっていませんから、そういうデザインってわけでもないでしょう?」
私は立ち上がり、指示された棚の前に立つ。戸を開け、並ぶ薬品たちをひとつひとつ机に並べ直す。
「確かに、この棚だけせり出して見えますね」
「そうでしょう。そしてここはあなたの部屋だ。家具調度に込められた意図は、そのままあなたの意図ということになる」
露になった背板に触れ、せり上げる。黒々とした瓶の中で揺れる液体が姿を現した。私はそれを手に取る。
「それはどういう意味でしょう」
「半田先生……あなたは何を隠してらっしゃるんで?」
私は自身の口角が釣り上がるのを確かに感じた。高揚感を隠しもせず、私は振り返る。
「隠し事はね、隠していると知られた時点でその中身まで悟られたも同然なんですよ」
瓶をしっかりと握り込み、光に晒す。
「これは……」
谷崎の視線がしっかりとそのラベルを捉えたことを確認し、栓を抜く。強烈な芳香がたちまち部屋を支配した。
「 そういうことでしたか」
「あなたがバーボン党じゃないってことだけは、確信をもって言えます」
言いながら、私は二つのグラスを表にする。相変わらずの笑顔を良いように解釈し、ボトルを二度傾けてグラスに飴色の液体を少量注いだ。
「こう見えて苦労の多い仕事ですから、ここでひっかけることもあるんですよ。もちろん一日の仕事終わりにではありますが……私のことを清廉潔白だと思い込んでいる同僚たちに示しがつきませんから、このことはどうぞご内密に」
私はそのまま、ごく微量を舐めるようにして飲む。確かな甘さが舌先に触れる。口の中で液体を転がすと、海の煙をそのまま液体にしたような刺激が全身を駆け巡った。
「これは参った。飲めば共犯って訳ですか。飲まないという選択肢も、このご様子じゃお許しいただけないんでしょうね。先生、ずるいお人だとはよく言われませんか?」
「それを言うならあなたでしょう? 愛嬌のある笑顔で他人の懐に入り込んで、相手の心を開いてしまう。誰もあなたの心は覗けないのに。そうでしょ?」
「そんなふうに見えますか、ぼくは」
「誰しもがあなたのようになりたいと思っている。けれど実現は容易くない。あなたのそれが無意識だろうとそうでなかろうと、あなた以外の人間はみんなそうです」
谷崎は萎縮してか、未だ水位の変わらないグラスの縁を指の腹でくるくると撫でる。促せども、互いの視線を遮るように顔の前で手を振るばかりだ。
「飲みたいのは山々なんですがね、見たところお高いんでしょう? そんな良いもの滅多に味わえませんから、緊張しちゃって」
「葉巻をおやめになったらよろしい。あれは何かと高くつくでしょう。言わずもがな身体にも障る」
「おや、分かりますか?」
「ああ、私の前で吸ってらしたことはないですね。それでも鼻で分かります」
「こいつは失敬! これでも気をつけているんですが」
谷崎がパーカーを持ち上げ鼻を覆う。私は微笑む。
「何も非難しているわけじゃありません、非喫煙者の性ですよ。ただ指摘されて気まずく思うなら、すっぱり止めるのも手でしょうね」
「実は薙くんにも叱られてましてね、いい加減喉を悪くするって。そのときは、半田先生に診てもらうから当分は良いと言ったんですが」
「はは、今の私はオフですよ」
私はグラスを掲げる。もう一口。見せつけるように唇を濡らす。飲め。飲んでしまえ。
「それにしても、応神さんも難しい人ですね。あなたと長年組んでいるというのも俄には信じ難い」
「固いのは顔だけです。付き合ってみれば親切で感受性も豊か。可愛いところもある、気の良い人間ですよ」
私はグラスと共に首を傾ける。
「私にも、早く打ち解けてくれれば良いのですが。どうも嫌われてしまっているようだ」
「先生がですか? とんでもない! あの年で人見知りですかね、ぼくと二人のときは先生のことよく褒めてるのに」
「それはまた、到底想像がつきませんね」
随分と、見えすいた嘘をついたものだ。そうまでして私の機嫌を取りたいか? 飲め。ただ一口、簡単なことなのに。
「やはりお飲みにはならないおつもりで?」
今の一口で、私のグラスは空になった。私は、再度ボトルの栓を抜く。芳香はすでに部屋と調和し、この場の異質は酩酊を拒むただ一人を残すのみとなっていた。
液体を注ぐ軽やかな音が鼓膜を揺らす。谷崎ははにかみながら、ようやくグラスを手に取る
飲め。飲め! 一口飲めばグラスに塗られた薬物によってお前はたちまち意識を手放すことになる。だが死にはしない、あくまでひととき眠るだけだ。そして次に目覚めて目にするものは、白い白い手術室の天井となる。手足を縛られ管に繋がれ、そこでようやくお前は気づく。この事件の犯人に、自分が今まで重ねた迂闊に。さあ、飲め。欲望に流されて、海の煙で口を湿らせて、手術台で眠り、引き攣った笑顔を晒したまま、私のこの手で、死んでしまえ!
谷崎がグラスを持ち上げる。私はそれを見ている。
谷崎がグラスを掲げる。私もそれに応える。
谷崎がグラスを口に運ぶ。私もグラスに口をつける。
谷崎が、飴色を、飲み下す
同時刻。コートの上から体を包み込むようなマントを着込んだ応神薙は、ひとり半田の勤める病院を訪れていた。外の冷気と比べて、いささかなまくらな暖気。空調機器の機械音が聞こえる。待合室では、患者も看護師も一様にここが終末医療の病棟かと思えるほどの愛想の良い笑顔を浮かべていた。受付カウンターまで歩みを進める。
「番号札を取ってお待ち下さい」
看護師がにこやかに言う。機械的。しかし有無を言わせない圧力があるように思えた。応神は懐から警察手帳を取り出し、ちらりとだけ見せる。
「こういう者だが」
「番号札を」
融通が利かない。応神は顔をしかめ、看護師の言葉に従うことにした。番号は755。合皮のソファに腰掛け、暫く待つ。
番号がディスプレイに表示される。応神は迷いのない足取りで受付カウンターへと歩みを進めた。
「この病院は初めてですか?」
「あいにく病院にかかったことがなくてな。勝手がわからん」
看護師の表情は変わらない。けだるげな温かい空気の中、応神は捨てきれないやりにくさを感じた。
「病気じゃない。聞きたいことがあってここに来た」
「聞き込みというやつでございましょうか?」
「そうだ。半田医師について、何か最近変わったことは?」
看護師は目を瞬かせた。予想外の名前だったのだろうか。聞くところによると、半田は院内でも名の通った医者らしい。アンダーカバーであるが、警察の身分を使っている応神からこの名前が出たことに対して驚きを見せているようだ。しかし、表情は変わらない。
「変わったこと、ですか。前はよく笑って家族の話とかもしていました。でも最近は残業も多くなって、少し頑なになった感じがします」
「ありがたい。半田医師の部屋はどちらだ?」
「四階の北端です。電話でお取次ぎしましょうか?」
応神は慇懃に断った後、眉の間をもみほぐした。看護師に軽く一礼し、階段の方へと歩みを進める。ちょっとした人の流れに紛れ込み、彼の姿は煙のように消え去った。
卓上のスマートフォンが鳴る。
すかさず手に取り電話に出れば、人の声に整形されたくぐもった電子音が私の耳まで届いた。
「ああ、どうしたんだい急に。何何? ……はは、もちろん喜んで」
谷崎が画面を手で覆う一瞬前、表示された「薙くん」の文字を私は見逃さなかった。電話を終えた谷崎は、さも申し訳なさそうな顔で私に向き直る。
「半田先生、失礼ですが……」
「急用、ですね。相棒からの呼び出しであれば仕方がない。」
「いえいえそれがね。彼が用があるのはぼくじゃなくて」
あなたです。
その言葉と同時に、外からドアが乱暴に開かれた。珍しく慌てた様子の応神が、そこに立っていた。膨れ上がった殺意は彼の登場によって萎み、私は誰にも悟られない程度のため息をついた。
「先生、薙くんはあなたと二人で話がしたいと」
「……構いませんよ」
谷崎は応神の肩に触れて何かを囁き、そして部屋から出ていった。谷崎が先程まで座っていたパイプ椅子に、大きいマントに包まれた応神がどしりと座り込む。私は結局一滴も減ることのなかった谷崎の酒を傍に寄せ、新しいグラスに再び飴色の酒を注いだ。
「まあ、お飲みになってください」
応神はそれを手に持って数度液体を回して香りを嗅ぎ、そして顔を顰める。洋酒には慣れていないのだろうか。彼が来るとわかっていたなら好みに合わせてそれなりのものを用意できたのにと思えども、後悔は先に立たないからこそ後悔なのである。案の定、応神は役目を果たせぬままのグラスを卓上に帰した。
「……遠慮しておく。ところで半田先生、今回の犯人はどんなやつだと思う?」
「そうですね。私は専門外なので詳しいことはわかりかねますが、物証がないということは 」
少しだけ考え込むふりをする。自分のグラスに再び口をつける。中の液体がもう少ない。さらに継ぎ足して、私は言葉を続ける。
「ということは、それを隠すだけの知能を、犯人は持っているという線が強まってくるでしょう」
「そのうえ、よく教育されている。あの殺し方はそうじゃなきゃできない」
応神が言う。外で烏がカアと鳴いた気がした。窓の外に生命の気配はない。
「……認めましょう。あなたは相当切れ者なようだ」
「社会的地位も高い。これは過去の事件からの傾向だ。このような犯人は自分が捕まらぬと絶対的な自信を持ち、のうのうと何食わぬ顔で日常を過ごしている……。半田先生、あなたならどうやって捕まえる?」
私はわざと口角を吊り上げた。嘲笑とも取れる表情を目にした応神は、しかし表情を一切動かさない。彼を笑わせるために苦心しているという谷崎の言葉が頭の片隅で再生される。私の知ったことではないが。
「それほどの人間が捕まったら、さぞご家族が悲しむでしょうね。だから早々捕まりませんよ」
私はわざとらしく机の上の家族写真に目を向ける。妻と子と私が、明るい笑みを浮かべて映っている写真だ。応神はそれには釣られず、私の方をまっすぐ見つめている。
「大概の殺人犯は初犯で捕まるが、おれたちにとって殺人とは日常であり、仕事だ。膨大なデータもある。お天道様も、見ている」
「あなた方のほうが上であると?」
私はグラスの中の液体を回した。顔は下に向けながら、視線だけを応神にやる。彼は何も変わっていない。最初椅子に腰掛けた姿勢のまま、静止画の如く眼前に鎮座するばかりだ。
相変わらず寒々しい。しかし決断的な声だ。私はこみ上げる笑いに従い、グラスを掲げる。その瞬間、応神は卓上のグラスを掴み、一気に飲み干した。応神のために用意したものでなく、谷崎が残して行った酒を。
「おい、それは 」
「毒だな。すぐ死ぬものではないが、訓練されていなければすぐにでも眠りにつく」
応神が言う。湧き出る冷や汗。失敗したか? いや、逆に考えろ。ここで正直に認め、彼の手当をする。そして彼を私の側に勧誘する。そううまくいくか? いかせてみせる。私は深呼吸をした。
「たしかに、それは毒です。でも大丈夫、数時間も寝れば分解される毒だ、医者として保証します」
「おれが倒れるか、試してみるか? おれは応神。応神、薙だ」
応神は竹を割ったような声で言った。そして、彼は口を閉ざす。私の出方を待っているのか。いまは余計なことを話すリスクを取るよりも、彼に話させたほうがいい。私はひとまず、彼のサングラスを覗き込むように目を合わせた。
「応神の人間はこんなものでは倒れない。……半田先生、この世の暗部についての知識は? その様子だとないようだな。でなければ、おれの言葉の意味が分かるはずだ」
「暗部……なにをおっしゃるのか、私にはわかりかねます」
「ならいい。おれは説明をくれてやる役目でもない。では、ここからおれの聞き込みを始める」
射抜くような視線。私の頭には漠然と、磔にされる蝶の姿が想起された。
「なぜ、谷崎に毒を盛った?」
聞き込み、という平和的語彙からはかけ離れた重圧。私はのしかかるような視線を浴びながら、努めて冷静に言葉を編む。
「それは、この世を正すためです。この偽りの喜劇に一滴のシミを残す。やがてそれは地に染み出し、川となり、川は流れて海へと至る。世界はもとの有り様を思い出すでしょう」
「目的は共通しているわけだな。無貌事件もそのための布石か」
応神は確信めいた声で問いを発した。もはや言い逃れはできない、彼に偽りは通じない。私は立ち上がり、手を伸ばす。
「そうです。あれは私がやった。聡明なあなたには全ておわかりのようで! あなたなら私の気持ちも 」
私が先程まで座っていたはずの彼の肩に触れることはなかった。代わりに感じたのは、顔と腹部への激烈な痛み。粘膜を直接刺激されたような不快感に、私はえづき、止められない涙を垂れ流す。バサリ、と空っぽのマントがその場に落ちた。
地面にうずくまった私は、かろうじて応神が居るであろう方角に顔を向ける。この部屋は北向きで、日照はほぼ無いに等しい。しかし、如何なるからくりか、窓からは燦々と日光が差し込み、応神の背に後光が如く降り注いでいた。思ってもない眩しさに眩惑される。逆光に陰る応神の顔には、一筋の虹色が走っていた。
「この世には邪魔な光が多すぎる……」
「何、を」
視界が戻る。応神の相貌は遮光器と黒い面頬で覆われていた。遮光器のスリット部分は虹色に輝いている。異様だ。
「人々は偽りの光にかどわかされ、真に導きに足る光を見失っている」
「お天道、様……応神……そういう、ことか」
応神は喪服のようなスーツに身を包んでいた。背中には棒。左腰には長短二本の刀。脇の下にはポリマー製の拳銃。法律をダース単位で破っていそうな格好だが、今の私にはそれを指摘できるほどの余力はない。

「おれこそが太陽の代理人だ。では、聞き込みを続ける」
同時刻、海を望むカフェ。
「それで、いつから気づいていたんですか」
ケーキスタンドと二対のティーセットにより優美な点対象を描くテーブルを挟み、二人の男が付き合っていた。
一方は空の底のような青い目を持ち、その色に合わせたネイビーのスーツを纏った若き紳士だった。カップを口に運ぶたび、彼の胸元のワインレッドのネクタイは、自身にあしらわれたペイズリー柄をさりげなく主張すべく、遠く夕焼けの微かな光を全身で受け止めた。組んだ足、力の抜けた目元、カップから立ち上るキャラメルの香りの湯気一筋から椅子にかけられた黒のトレンチコートに至るまで、全てが彼の絵画じみた存在感を補償している。ただ一点、目元にはっきりと刻まれた隈を除いては。
「最初から。 なんて言ったら怒るんだろうね、あなたは」
対面に座す男は一転、黒い髪に、黒いパーカー、唯一纏う彩は榛色の虹彩のみであり、海の蒼と空の青の狭間たるこの場において、場違いなほどに凡庸であった。
背中を丸めてバラ香るフレーバーティーを啜り、その熱が口腔から消え去る前にスコーンを齧ろうとする一瞬の動きの間に見えた口元は、縫いとめられたように釣り上げられている。笑顔溢れるこの世界においても、一種異様にも見える表情である。
「自覚があるのなら構いませんよ。当該人物を犯人と知りながら捜査班に引き入れたことも、新たな犠牲者が出ると知りつつも彼を泳がせていたことも、あなたの振る舞いで私が報告書に書くべき弁明が倍は増えたことももちろん、理解した上での行動だというのなら私が嗜めるべき問題点など一つとして存在しない」
アイランズからの静かな叱責を受け、谷崎は肩をすくめる。
事件の解決が確実になったとき、谷崎は犯人逮捕を祝して、アイランズはひとときばかり落ち着くことが約束された雑務から離れ休息を取るために、この場所でアフタヌーンティーを楽しむというのがルーチンとなっていた。かちり、とソーサーがティースプーンを受け止める音が、あたりに響き渡る。
同時刻、半田の自室。応神はうずくまった半田を左腕のみで吊り上げ、空いている右手で背中の棒を緩く掴む。黒く、素材が判然としない棒だ。両端には応神の家紋が金彫りされている。
半田のメガネはひしゃげ、レンズは割れてしまっていた。部屋は台風が通過した後のごとく乱れている。モニターは倒れ、酒も床に広がっている。そこらの棚からまろび出た薬品や書類は、諸行無常をあらわしていた。
「こんなことをして私の声が 」
その言葉を待たずして、応神は半田の胴体を打擲した。くぐもった悲鳴とともに、湿った音があたりに響く。しかしそれは不思議と反響することはなく、すぐに消えてしまった。
「人払いと部屋の封印は済ませてある。おまえに用がある者すらも二時間かそこらは来ないだろう。最初からもう一度聞き込みを始める。無貌事件はおまえがやったんだな?」
「この状態で言って証拠に 」
再び応神は言葉を遮り、半田の胴体を打擲した。それは肋骨にまっすぐ吸い込まれ、応神の手に何かが砕けたような感触を返した。半田は苦悶の表情を浮かべる。曲がりなりにも、半田は優秀な医者である。だからこそ彼は気づいてしまった。自分が希望の光として見ていたこの応神薙という男は、正しく希望の光であることを。そして、自分の肋骨が折れたことも。
「もう一度聞く。おまえがやったんだな?」
「そ 」
三度応神は半田の腹を打擲する。半田の内臓に着実に損害を蓄積させていることを応神は理解した。彼は狂っていた。半田を掴んでいる左手から、何かが体の中を登ってきていると感じる。応神が左手を離すと、半田は地面に落ち、そして赤色の混じった液体を吐き出した。それを見つめる応神の顔は、尚も無感情だった。
「先程のやり取りは録音したし、録画もした。確かにこれ以上ここで聴いても証拠にはならん。おまえの言うとおりだ。しかし罪には適切な裁きが必要となる。国のそれがうまく機能していない以上、おれがその役割を担う。安心しろ。おれもプロだ。人体を壊さずして苦痛を与える方法は心得ている。おまえが死に逃げることは許さない」
応神は無慈悲に告げた。長い午後が始まる。半田は強く覚悟した。
「それに、応神を犯人と二人きりにしたことも」
アイランズは困り顔で言った。彼はゆったりと足を組み替え、着慣れた様子のスーツを楽にすべく、ネクタイを緩めた。
「通過儀礼みたいなものさ。アフリカのとある部族では成人するときに蔓でバンジージャンプをする。それで、少年は男になる」
何がおかしいのか、はたまた狂人としての一般的な情動故にか、声を上げ笑う谷崎の手元から、カップに注がれた琥珀色の紅茶が溢れる。マナー違反を逐一咎めるほど、谷崎を前にしたアイランズは親切な人間ではなかった。
同時刻、半田の自室。応神は失神した半田を椅子に座らせ、頬を軽く叩いた。彼は飛び退くように目覚め、自分が生きていることに安心するとともに、目の前の応神の存在を確認した。半田は小さく悲鳴を上げた。応神は短い方の刀を抜く。その表面は常に濡れているかのように、魅惑的な輝きを放っていた。
「これは家伝の短刀だ。不思議なもので、斬らずとも痛みのみを与えることができる代物だ」
応神は訥々と説明をした。その声は面頬に遮られて半田の耳に届かない。応神は刃を半田によく見せるようにして、彼の脇の下まで持っていき、ゆっくりと刺した。半田の呼吸は乱れ、気管からは泡立ちの音が聞こえる。にもかかわらず、一滴たりとも血が流れ出ることはない。
「痛かろう。急所だ。おまえが被害者に与えた痛みだ。おれもかつて経験した痛みだ。死にはせん。安心するがいい」
応神はやさしく半田に語ってみせる。彼は狂っていた。半田はその優秀な頭脳で理解した。自分が殺人を犯そうと決意したあの瞬間の狂気を、応神は生まれてから今に至るまでずっと維持し続けていると。彼は本気でこの世界を正す方法を考え、狂い、そして谷崎とともに行動をしているのだ。
「い、らがみ……あな、たは 」
半田は喉に強烈な違和感を感じ、思わず咳き込んでしまう。口の端から赤い血液が溢れる。半田の鎖骨の間に例の短刀が刺さっていた。刺さるまで、気が付かなかった。半田は慄く。応神が本当に自分を殺しに来るならば、十秒もかけずに誰にも知られず事を成すだろう。仕事人の風格だ。
「喋るのも辛かろう……大丈夫だ。気管を開いても死にはしない……。もうすぐ終わる。それまでの辛抱だ」
今までで最も長い午後だった。
「その口ぶり、当初の計画を本気で実現させる気ですね」
アイランズの手元のポットから注がれた二杯目の紅茶の濃い赤に、ミルクの白が溶け込んでいく。
「なぜ引っ込める理由があるんだい? 彼の振る舞いは概ね予測通りなのに」
谷崎はアイランズの口元に吸い込まれていくその色を、彼の髪色によく似ていると常々思っていた。かつて口に出したことはないし、今後も言うことはないのだろうが。カップとソーサーの触れ合う音がする。
「これを言うのが何度目かももう分かりませんが、今度も言わせていただきます。私の身にもなってください」
感情と共に、手元のシューからクリームが飛び出る。バタークリームにイチゴの果肉を練り込んだ季節の限定品だ。勿体無い、などと笑う谷崎の声音には反省の色など毛ほども見られない。
同時刻、半田の自室。応神は銃を構え、半田に向けていた。引き金に指はかかっていない。半田はその黒いポリマーの塊から弾丸が飛び出すと想像し、青い顔を更に青くした。応神はそんな半田の様子を見かねてか、ブーメランでも握るかのように銃を握ってみせた。手早くスライドを引き、中に弾がないと確かめる。
「大丈夫だ……撃ったりはしない。後処理が面倒だからな。あまり血を流されるとおれが困る」
応神は穏やかに伝え、その拳銃を思いきり振り抜いた。半田の鼻と唇の間に一筋の赤が走る。新歓の寿司屋で山葵を大量に食べたときと同じような痛み。鼻水と涙で視界がなくなった。応神は半田を無感情に見下ろし、黒光りするハンカチで拳銃を拭いた。
応神は半田を左腕のみで空中に放り、耳と顎に両手で容赦ない一撃を加えた。半田の脳は盛大に揺れ、彼は気絶した。部屋は恐ろしいほど静かだ。応神の静かな息遣いだけが響く。
スマートフォンを取り出し、谷崎にチャットを飛ばす。そこにはただ一言「終わった」と記されていた。
「さあて、そろそろ頃合いかな」
谷崎はひとつ伸びをしてから、虚空を眺めながらフロアをうろついていた給仕を呼び止める。店員、谷崎、双方の慇懃な笑顔の間に挟まれた空のケーキスタンドが、裏手に回収されていく。本日の会合も、カップの底に少し残ったミルクティーの香りが途絶えるまでの数分間でお開きだ。名残惜し気に眉を下げる谷崎の表情を、アイランズは黙って眺めた。
随分と本心の読めない男になったものだと、思いはすれども口には出さない。出会った頃は素直だったなどと無邪気に思い込めないほどには、彼は谷崎を知りすぎていた。
谷崎のポケットから、スマートフォンが取り出される。
「もしもし? みんなお疲れ様、今日最後の仕事の時間だ。手筈通り進めてくれよ。ええ、集合場所? いやだなあ忘れちゃったのかい、病院内の半田仁志の私室だよ。あれ、ほんとに言ってなかったっけ」
谷崎は聞こえよがしに電話口の班員に指示を出す。アイランズは当然呆れていた。けれど同時に、目の前の男の奇行を止める有効打を自身が持ち得ないことも理解していた。トレンチコートに袖を通すと、会計のために席を立つ。ベルトからぶら下がっている赤い布がひらりと揺れた。
電話を終え顔を上げた谷崎は、そこでようやく席に取り残されていることに気づき、慌ててパーカーを引っ掴んだ。
意識が、浮上する。私は恐ろしいほどの空腹と疲労を自覚した。体に痛いところはない。よもや、先程の「聞き込み」は夢だったのだろうか。ぼやけた視界が鮮明になっていく。私の部屋だ。そこには七人ほどの人間が所狭しと詰めているようだった。清掃員ふうの小汚い男、事務員ふうの無害そうな女、それに、谷崎と遮光器をつけたままの応神。私は彼の姿を目にして、苛烈な暴力のすべてを思い出した。夢ではない。しかし、傷は一切残っていなかった。
「お目覚めのようで、半田先生」
谷崎が言う。谷崎以外の班員は心なしか応神のことを避けているようだった。彼らの目つきは共通している。すなわち、狂気に侵され、それを維持し続けている者の目だった。
「ここにいる人たちは、みな同じです。みな殺人を犯し、そしてそれをまっさきに見抜いた薙くんによって『聞き込み』を受けた」
谷崎は自信たっぷりに語って見せる。ふと気づく。私の部屋は元通りに整理整頓されており、少しの塩素の香りから、吐瀉物も清掃されたのだと。
「例えば、この清掃員の男は自分で殺した相手を特殊清掃し、殺害現場から一切の証拠を消した。この部屋の掃除を手伝ってもらったよ。そして、この女は無害そうに見えるが、当時の彼氏を寝取られた怒りに燃えて浮気相手とその彼氏を殺した。綿密な計画を立てた上でね」
「知能犯、というわけですね。全員」
私の言葉に、谷崎は感心した。少し前までなら、そのわざとらしい仕草にいくらかの苛だちも覚えたろうが、今は何も感じない。心が麻痺したかのようだった。
「相変わらず理解が早くて助かります。さて、少しばかりの説明をしよう」
変わらない表情のまま、谷崎はゆっくりと話し始めた。
「この世界は、もとからこうだったというわけではありません。もとは喜怒哀楽に 様々な色の感情に満ち溢れていました。それが、ある日突然みな狂ったように笑顔しか浮かべなくなったのです。最初から影響されなかった者やその影響から抜け出した者はいますがね。我々は、それを解決して世界を元通りにするために働いているのです。我々は『財団』だ。この世のありとあらゆる異常物を確保、収容し、それらから人々を保護する。おとぎ話のように聞こえるかもしれませんがね」
「……理解はしましょう、納得はしませんが」
谷崎は満足げに頷いた。
「もちろん、我々の仲間にも幸福に飲まれた人はいます。そのせいで、今は途轍もない人手不足になっているのです。最初にも説明をした通り。だから、ぼくは犯罪者の手すら借りようという提案をしました。つまり、この世界で凶悪な犯罪が起こった場合、その犯人は正常な情動を持つ可能性が高いということです」
「……世界のために、少しばかり人が死ぬのは許容したとでも?」
私の質問に対し、谷崎は表情を動かした。冷笑だ。彼は狂っていた。
「あなたには言われたくないですね。たまに疑われますが、ぼくが手を下して人を直接殺したことはありませんよ。まあいい。それで、この狂った世界でも、一応法曹は機能しています。だいぶ刑罰も甘くなっているので、うまく行けば半年で仮釈放でしょう。あなたが一人幸福の監獄に放り込まれて、正気でいられるかは知りませんが。ともかく、詳しい情報はその時に共有します。皮肉にも刑務所というのは便利なものでね……」
「いつから、お気づきで?」
「最初からですよ。浮浪者に医療を提供しているというところから真っ黒でした。ナメないでいただきたい。あとは適当に薙くんをちらつかせて、彼の前で自白するのを待つだけ。では、ぼくはこのあと会議があるので失礼させてもらう。そこであなたの弁護と雇用の手続きをしなきゃならんのでね……」
谷崎は静かに部屋をあとにした。応神もマントを再び羽織り、彼についていく。残された班員が手早く私を拘束する。私は心の中で、長年付き添った部屋に別れを告げた。
二ヶ月後、応神と谷崎の住処。二人は滑稽なほどに小さな丸テーブルを挟んで、谷崎の淹れた茶を飲んでいた。花のような芳醇な香りが広がり、喉の奥に甘さを残す。春めいてきた陽気とも合わさって、緩みきった時間だった。
「薙くん、今日の予定は?」
「おれは現場仕事だ。あんたは?」
「半田さんのところに行って説明をする」
谷崎はリビングの本棚を見た。遮光器と面頬がなくなった代わりに、半田の部屋にあったものと同じ銘柄のボトルが置いてある。
「いやあ、キミのためにトンチキグッズを買い集めた甲斐があったものだ。あの遮光器はよく似合っていたし、清和源氏の末裔たる応神薙が面頬をつけたとなると、前の所有者も冥府で喜んでいるだろうさ」
谷崎はおもむろに立ち上がり、本棚からボトルを取り出すと、自分の茶にその中身を少しだけ注いだ。その流れで、薙にも勧める。薙は胡乱げな表情を顔に浮かべ、緩やかに拒否をした。
「くすねてきたのさ。正当な報酬だよ。あと、半田さんへの当てつけ」
谷崎は子どものような笑みとともに、酒入りの茶を一息に飲み干した。
「彼、ほんとうにぼくへの嫌悪感を隠さないんだから。まあ初対面からそうだけどね、良い加減お客さんじゃないんだから分かってくれないと」
薙の手元のグラスからは、尚も花の香りが立ち昇っていた。それは窓から入る春風に混じり、長かった冬に悴んだ胸に、確かに触れた。
谷崎翔一という人間の深淵に踏み込もうとするものはそう多くない。周りのものは皆、彼をやたらと遠ざけたがるか、踏み込むほどの興味を持たないかのいずれかであるためだ。他者からの無意味な視線を嫌う薙にとって、相棒のそのような性質は都合の良いものだった。世界全体が幸福に陥る前までは。
「ぼくにも傷つく心があるってことをさ」
深淵の瞳をこちらに向けるためには、誰かがそれを覗き続ける必要がある。誰かが、彼に問い続けなければならないのだ。
「なあ、谷崎。おまえ、幸せか?」
「無論。急にどうしたのさ」
谷崎の表情は、変わらない。
