何か良いことないかい子猫ちゃん?
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「今、なんと仰いました?」
「故郷に帰る」

 朝一で煎れて貰ったアメリカンコーヒーを飲み干して、俺は傍らのフェルドンに話しかけた。彼の煎れる、コールタールのように濃いコーヒーは絶品だ。こういう立場でなければ、執事としても十分に優秀な働きをしただろう。

 俺の言葉を受けたフェルドンは、わざとらしく腕時計とカレンダーを見比べて、『私は貴方に懇願しています』とでも言いたげな目をこちらへ向けた。

「失礼ですが……明日が何日か覚えておいでですか、委員長」
「まだ『委員長』ではないだろう。明日までは」

 フェルドンは禿頭にハンカチを当てて、額の汗を拭った。分厚い眼鏡は、吐息で僅かに曇り気味だ。懐からスマートフォンを取り出して、何やら計算をする。小さめのAndroid、彼の太い指では何かと不自由なようだ。もう少し痩せればいい男なんだがね。俺のような独り身と違って、愛妻料理を普段からたらふく食べているせいかも知らないが。

「ここからご実家……のあった場所までは直線距離で200マイルほど離れております」
「うん。有料道路を使えば日帰りできる距離だよな」
「車で行かれるおつもりですか?」
「他にどうする? 飛行機には些か短すぎる距離だ。近くに空港もない」
「ざ、財団機動部隊のヘリを手配致しますので、そちらにお乗りいただければと」
「実家に帰るのに社用ヘリを使うなんて、ジェフ・ベゾスでもやらない愚挙だな。ましてや就任式の前日にやれと? O5連中にお誂え向きの笑い話を提供するのはご免だ」
「……どうしても今日でなくてはならないのですか?」
「一年前から言ってあったはずだが? 今日は彼女の命日だ。何のために休暇を取ったと思う」

 俺がきっぱりと言い放つと、フェルドンは観念した様子で車の手配に向かった。やれやれだ。俺が何の理由も無く彼に特別手当を与えるわけもないのにな。

 デスクの端に目をやると、彼女のポートレイトが目に入る。朝日に照らされた瞳が、少しだけ生前の輝きを取り戻したような気がした。当時、俺が出したデジタルカメラに驚いて、興味深げに覗きこんだエメラルドの輝き。昔はカメラも結構な高級品だった。世界中がスマホだらけの今では考えられないが、彼女の写真を沢山残した当時の自分を褒めてやりたいところだ。
 
「久々にそっちに行くよ。少し時間は掛りそうだが。待っていてくれ」

 向こう側の彼女へそう呟いて、俺は出かける支度を始めた。時刻は午前7時。どれほど時間が掛っても、夕方頃には拝めるはずだ。俺の生家にある、彼女の墓標を。





「ビッグマックを久々に食ったが、胃もたれするな。年は取りたくないものだ」
「丸々二個平らげた方の言葉とは思えませんな」
「ポテトもな。君は意外と小食だよ、フェルドン」

 隣の座席で顔色を悪くしているフェルドンへ軽口を飛ばす。車は順調に俺の故郷へと向かっていた。運転を頼んだのは地元の地理に明るいエージェント二人。二人とも屈強な元機動部隊員だ。

 ボディガードを借りた都合上、部下のシンクレアには事情を説明して外出することになった。『我々二人が死んだら君が委員長だ!』と言ったら『呆れてものが言えない』と眼で訴えていたが、彼女はとても優秀だし、実際に任せたとしても何とかやっていけるだろう。

 いくら褒めそやされようと、俺もフェルドンも所詮は巨大な組織ファウンデーションの歯車に過ぎない。死んだところで、俺よりも優秀で若い人材など掃いて捨てるほどいるはずなのだ。

 そんなことを考えながら懐かしい風景を眺めていると、車のスピードがやや減速した。助手席のエージェントがこちらへ振り向く。
 
「申し訳ございません、委員長殿。よろしいでしょうか」
「そうかしこまらなくても、名前で呼んでくれて良いよ。それに、まだ副委員長だ」
「し、失礼致しました。それでは、キューザック副委員長。燃料補給のため、一時ガソリンスタンドに寄らせていただきます」
「了解~」
「副委員長!」
 フェルドンが出し抜けに発言する。
「ふ、付近は例の運動の影響で、ここ数年で急激に治安が悪化しているとのことですが」
「それは朝にも聞いたよ。BLMブラック・ライブズ・マターだろ? 差別の解消は公民権運動から続く我が国の悲願だ。良い事じゃないか」
「しかし、先ほどの通報によりますと、運動反対派のマフィアどもが、市民の混乱に乗じて覚醒剤のルートを牛耳っているようでして」
「悪党どもが何をしようと関係ないさ。にとっては今も変わらぬ田舎町だよ」

 車はほどなくして、最寄りのスタンドに着いた。

 車窓から景色を眺めていたが、馴染み深い個人商店や、老舗のバーは多くが潰れて無くなっているようだった。失業者と思しき老人が、昼間から外で酒を飲んでいるのも見た。昨年よりも随分酷い状況だ。当時も治安が良いとは言えなかったが、一年以上続いた疫病の蔓延は、すっかりこの街の経済システムを破壊してしまったようだ。

 防弾ガラス張りのリムジンを、慣れた操作で駐車するエージェント。しかし、係員が出てくる気配は無かった。
 
「営業中の看板は立っていましたが」
「係員を呼んで参ります。申し訳ございませんが、少々お待ちくださいませ」

 助手席のエージェントが、そう言ってドアを開けようとする。

 後部座席から、スタンド事務所の中に鈍い光が見えた。

「出るな!」

 言うが早いか、後方からサブマシンガンの銃撃音。咄嗟に扉を閉めるエージェント。鉛が雨のようにリアを叩く音。自分の頭を押さえて伏せる。フェルドンの悲鳴。転がった椅子からは、新品の革の匂いがした。エンジンを再始動する音。
 しかし、逃げ出す前に、俺の傍らの窓ガラスが、轟音とともに叩き割られた。

「ひ、うひゃあ!」
「動くな。おっさんや運転手の下っ端黒人共に用はねえんだ。あんたがお偉いだろ? 爺さん」

 俺の腰へリボルバーを突きつける、長身の白人男が眼に入る。
 銃を持たない左手には、競技用と見られる鉄球へ、雑に釘や鉄や鎖を溶接した、モーニングスターに似た武器が握られていた。財団自慢の防弾ガラスを一撃のうちに粉砕したのは、おそらくこいつの仕業だろう。手慣れたプロの手口だが、態々お手製の武器を使っている辺り、いかにも田舎のチンピラという感じがした。
 
「ご指名ありがとう。だが、尻じゃあ君と話しにくい。とりあえず腰を上げても良いか?」
「駄目だ。ケツ穴を増やされたくなかったらそのまま質問に答えな」

 割れた窓がさらに砕かれると、別の腕がぬるりと出てくる。手には拳銃。俺から顔は見えないが、大方彼の仲間だろう。なるほど、俺を人質に取れば、全員の動きを制限しながら、向こうはいつでも俺の仲間を殺せるというわけだ。マフィアにとって、人質の価値がありそうなのは、俺一人と見ているのだろうから。
 
「いいか、爺さんよ。どうせ現金の持ち合わせなんかないんだろう? こんな片田舎に何の用か知らねえが、運が無かったな。丁度俺たちも給油中でね。目立ち過ぎなんだよ。この真っ黒なリムジンはな。付き合って貰うぜ。車から降りろ。妙な動きをしたら、順番に殺す。そこの黒人野郎からな」

 仲間の手が、銃口を助手席のエージェントに向ける。彼は両手を挙げて、微動だにできない。どうせ差別主義者の集まりだ。俺が少しでもおかしな真似をすれば、平気で彼の命を奪うだろう。その機会を伺っているようでもある。
 隣のフェルドンに、眼でサインを送る。伝わったものと信じたい。最早、殺るしか選択肢はないのだ。俺とフェルドンで。

 ふう、とわざとらしく溜息をついて、俺は慎重に言葉を絞り出す。静かに、彼の注意を引く程度に静かに。

極道ゴクドーという言葉を……知っているかな?」
「は?」

 手前座席で銃声。マフィアの仲間が、フロントガラスに車内から一発打ち込んだようだ。妙なことを言うと撃つという、再度の脅しだろう。

「日本では、君らマフィアのことをそう呼ぶそうだ。『道を極めた者』という意味で、元々は仏教の高僧へ向けた尊称だったらしい。しかし、やがてマフィアのことを『極道者』と呼ぶようになり、本来の意味は喪われた」
「待て。撃つな」

 マフィアが仲間を止めた。よし、上手いこと興味を持ってもらえたようだ。

「爺さん。ひょっとして俺に媚びてるのか? 極道ゴクドー様、お助けください命だけはと? ハア。心配しなくても、あんたをここで殺す気はねえよ。身代金を取れなくなるのは御免だ」
「そうじゃないよ、マフィア君。昔の日本人がマフィアを『極道』と呼んだのは、彼らが弱い者を助け、強い者を挫くことを理想としていたからだ」

 身を捩って、俺は彼の眼を見た。赤く血走った、疲れた男の眼だった。何の希望もない場所で、誰にも頼らず生きてきた、そんな男の眼。すまない。心の奥でそう呟いた。

「こんな爺を攫って、おまけに若い彼の命を奪う、そう君は言う。肌の色が違うという理由でか? 同じアメリカ人なのに? 君みたいな、誇りのない貧乏人を普通は『極道』と言わないね。君はただの『外道』だ」

 クッ、と乾いた唇から笑いが漏れる。嘲笑混じりの、歪んだ笑みだった。

「なるほど。心に染みるお説教だったぜ。おい、一人殺せ」
「いや、それは無理だ。それと、さっきのは説教じゃない」
「何?」
「『弱い君の命を奪って申し訳ない』という、の懺悔だよ」

 言い終わるが早いか、火花と破裂音。マフィア二人の肉体が、一緒に後方へ吹き飛んだ。リムジン側面に仕込まれた、対SCiP用スタンガンが炸裂したのだ。象程度の生物なら、一撃で殺す威力がある。作動したのはフェルドンだ。二人が俺に注目したお陰で、気付かれずに足下のスイッチを押すことが出来た。
 すかさず、運転席のエージェントが車を発進する。アクセル全開。前方に居た部下と思しき二名を、数十キロに加速した車体が、風船の如く天高くへ吹き飛ばした。
 ややあって、後ろを振り返ると、倒れて動かない四人の男。一応救急車を呼ぶべきだろうが、たぶん助からないだろう。周囲にはもう仲間は居ないようだった。

「ふう、上手くいったな。君、リチャード君だっけ? 警察と救急車を呼んでくれ。多分、事務所の中にスタンドの従業員がいる。さっき手錠が光るのを見たんだ」
「あ、あんたって人は! 私に伝わってなかったらどうするつもりだったんだ!?」

 珍しく、青筋立てた禿頭が抗議する。目に涙。俺と違ってエリート街道を歩いてきた彼には、この手の殺しは初めての経験かもしれない。

は信じていたよ、フェルドン君。そろそろ付き合いも長いだろう?」

 早耳で通報を聞きつけたのか、既にパトカーのサイレン音がする。幸いなことに、治安機構は死んでいないようだ。財団への言い訳は後で考えるとして、心配なのは、このまま実家に行くことを許可して貰えるかどうかだが。




「悪いね。事件多発で忙しいだろうに」
「いえいえ。ずっと尻尾を掴めなかったマフィアの若頭を、側近ごとブチのめしてくれたんですから、我々警察一同頭が上がらないですよ。しかし驚きました。まさか財団の方々とは」
「こちらこそ、警察に我々の話が通じる方が居て助かった。対外的には怪しげな大学教授で通してるんでね」
「副委員長、この件、財団には隠さず報告しますからね」
「いいとも。がクビになったら君が委員長をやってくれ、フェルドン君」
「ふん。既に帰りのヘリは手配しました。機動部隊への申請書は貴方が書くことですな」

 不服を隠そうともせず、フェルドンは足組をして座席にもたれ掛った。フェルドンのこういうわかりやすいところが俺は好きだ。『素直で正直』は信頼に足る部下の最低条件。少なくとも、陰でぶつくさ不満を言う輩より万倍マシだ。

 簡易護送車と化した重武装のパトカーが、俺の生家に向けてのろのろと動く。後方には、夏場涼しそうな見た目になったリムジンが追走していた。警官の彼女曰く、チンピラ程度の相手ならビビって近づいてこないので、かえって無傷の時よりも安全そうということだった。前後をパトカーに挟まれてりゃ、まあそうだろう。銃撃戦の末に捕まったマフィアにしか見えん。

 パトカーの車窓から、懐かしい光景が見える。没落中産白人達の、古ぼけた住宅街。今はどこも売りに出されたり、廃屋になったり。あの時、絶望した俺が身を投げようとした橋。ゆらゆらと揺らめく、冷たい川の水面。あの時、彼女と歩いた場所。あの時、彼女が死んだ場所。

「そろそろご実家が見えてくる頃ですね。我々はお待ちしておりますので、どうぞごゆっくり」
「ありがとう。ご心配せずとも、10分くらいで済ませて戻るよ。フェルドン君、ここまで付き合わせて悪かったな」
「ええ、全く。ボーナスを上げて貰わないと割に合いませんな」

 諧謔を湛えた笑み。どうやらご機嫌を直してくれたようだ。やれやれ。心の中で呟きながら、降りる支度を始めた、その時だった。

≪こちら11H01、中央通りL21番地、銃撃を受けている≫
「こちら11H05、どうしたの!?」
≪レイチェルか? デイブが撃たれた! ヤク中の女だ。頼む、近くに居るなら応援に来てくれ! 妙な獣を連れてるんだ。猫……に見えなくもねえが、眼が三つもあるバケモノだ!≫

 車内無線が響く。おそらく、後方のもう一台にも伝わっているのだろう。私は運転席の警官を見た。顔が青ざめている。話しぶりからして、相手は同僚だろう。

「すみません、キューザックさん。後ろの奴を向かわせます」
「まさか。全員で行こう。仮に相手が異常存在なら、これは財団の仕事だ」
「副委員長! わ、私は付き合いませんよ!」
「助かるよ。君には車で待機して欲しかったんだ。最悪、とエージェント二人が殺られたら、逃げて増援を呼んでくれ」
「いい加減にしろ! あんたも私と車で待つんだよ!」
「場合によってはそうするさ。だが、君も知ってるだろ。動物に好かれるのは得意技なんだ」

 パトカーはサイレン音とともに速度を速め、俺の実家を通過して、その先にある大通りへと直行する。連絡を入れたエージェント二人も、後方からついてきている。俺にとってはよく知った風景だ。昔はこの辺にも、それなりの小金持ちが住んでいた。今は見る影もない。ヤク中の女が何者か知らないが、恐らくは空き家に勝手に住み着いていたのだろう。

 数分で、我々は現場にたどり着いた。
 一人の若い警官―多分さっきの無線の主が、倒れた警官を必死に介抱している。腹のあたりから血が流れていて、まだ完全に止血されていないようだ。

「てめえら! 動くんじゃねえ、少しでも近づいたら、そこの死にかけにもう一発ブチ込むぞ!」

 ぞろぞろと降りてきた我々に対し、よく通る金切り声で叫ぶ。声の主は、まだ年端もいかない少女だった。顔立ちは一見アジア系に見えるが、どうやらヒスパニックの血も入っているようだ。腕には幾つかの注射痕。肘の先、震える手で握りしめているのは、6発入りのベレッタ・ナノ。なるほど、小柄な少女にも扱える銃だが、どこからそんなものを手に入れたのか。大方、さっきのマフィア連中だろう。ヤクや売春だけでなく、銃器の販売もするというわけだ。流石『外道』はやることが手広い。

 だが、俺を含む全員の興味を引いたのは、彼女の足下にいる何かだった。
 
「近づくな! じじい、てめえ、それ以上寄ったら撃つぞ!」

 名指しされてしまったが、職業柄、見ないという選択肢は無かった。体長は二十センチ程度。赤ちゃんというほど小さくはないが、明らかに成体ではない幼猫だった。
 模様は黒ぶち、足は白いソックスになっている。左後足に深い怪我を負っているようで、普通の猫と変わらない赤い血が流れていた。尾のあるべき場所からは、複数の触手が生えていて、傷口を不可思議な発光によって癒しているように見える。額の中央では、無線報告にあった三つ目の眼が、静かにこちらを睨み付けていた。

 泣きべそをかきながら、少女は俺に向けて吠えた。側には、薄汚れたマスクが落ちている。この荒れた街で、アジア系の少女がどんな扱いを受けていたか、想像に難くない。

「いいか、そのポリが悪いんだ。そいつが、そいつがこの子を撃ったりするから」
「成程、それで飼い主の君が飛び出してきた訳か。彼はパトロール中だったのか? 何れにせよ、外で遊ばせるべきでは無かったな」
「黙れ! いつも三ツ目は閉じてるから、大丈夫だと思ったんだよ! きっと何かに驚いたからだ! ずっと家ん中に閉じ込めておけってのか!? クソ野郎ども! 私たちの何がわかる!」
「そうだな。だが生憎、はそれを生業にしている。生粋のクソ野郎なんだ。この子も、人目につかない場所へ閉じ込めなくっちゃあいけない」

 そう言って、その場に膝をつく。少女はいよいよ撃つ体勢だ。後方から、悲鳴に近い警告が飛んできた。

「キューザック! 殺されても私は知らんからな!」
「どうかお下がりください、副委員長! 相手はSCiPです。どのような力を持っているかも分かりません。後は我々が対処致します!」

 フェルドンの奴め、結局車から飛び出してきたようだ。可愛い奴。無茶は人のことをとかく言えまい。気配は四人。フェルドン、警官のレイチェルと、エージェントの二人。警官のもう一人は、救援を呼びに行ったのだろう。

 背中にひりひりと感じる。殺意。怒り。恐れ。焦り。悲しみ。セーフティを解除する音。目の前の少女から感じるそれより、ずっと強く。何しろ大の大人が四人だ。俺は、静かに笑みを浮かべた。

「君ら。見えないのかい、この子猫ちゃん達が。想像しているのは、人殺しの恐ろしいテディベアか? それとも、両目を失った真っ黒な猟犬か? の見る限り、彼女たちはそのどちらでもない。少なくとも、二人が同じ場所にいる限りは。そうでなかったら、警官はもう、とっくに八つ裂きにされていただろう」
「それ以上余計なことを喋んじゃねえ、クソ爺が!」
「キューザック! よしわかった、委員長には私がなってやる! そんなになりたくないんだったらな。だから離れてくれ!」
「余計な口は君だ、フェルドン。黙って座れ。
 はぁ。部下がすまない。若い君よ、聞いてくれ。何も答えなくて良い。同じだったんだ、も。若い頃に、後ろの連中に捕らわれた。そこで、十年くらい過ごしたんだよ。愛する彼女と一緒に、ね」

 少女の吐息が、気持ち程度だが、わずかに落ち着いた様な気がした。先ほどの一喝が功奏したのか、フェルドン達は黙って話を聞いているようだ。

「捕らわれてはいたが、にとっては心地よい日々だったよ。愛する彼女が一緒だったから。それが決して、正常な世界で許されないことだったとしても。だけど、彼女は私の元を去ってしまった。元いた場所に帰ったんだ。そりゃそうさ。彼女はが捕らわれる前に、とっくにこの街で死んでいたからね。今日は墓参りに来たんだ。
 だが、は彼女のことを忘れたくなかった。彼女の起こした奇跡を、死んだ後ものそばに居てくれたことを、どうしても忘れたくなかったんだ。だから、はこいつらの仲間になることにした。彼らにとっては、一種の温情措置だったようだがね。何しろ、碌な経験も学歴も無い男が、エリート軍団の下っ端になっちまうわけだから。
 それで、はここまで来るのに、数え切れないくらい多くの人を間接的に殺してきた。自分のしていることを直視できずに、酷い吐き気と頭痛で眠れなくなって、鬱はぶり返すし、何度も死んでやろうと思ったよ。でも、もしも彼女のような存在が、の助けを必要としているなら、はやるべきだと思ったんだ。それが彼女がに与えてくれた、心の力だったから。
 それで、仕事中はを分離して、ストレスを閉じ込める方法を覚えたんだ。今日だって、のまま過ごしていたなら、君を助けようとはしなかっただろうね。でも、はそうできなかった。何しろ―こんなに荒れ果てちまったが、ここはの故郷なんだ」

 語りかけながら、俺は猫の方を見た。第三の眼が、じっと俺の方を見つめている。品定めされている。そう感じた。だから、努めて優しく語っていたのだ。
 猫の小さな足が、一歩前に歩み出る。怪我をした足は、既に大分治癒されているようだ。

「メイ! 駄目、そっちに行ったら!」

 少女の発した名前を聞いて、思わずクラッと来る。まさか、名前まで『彼女』と同じとは。神め、謀ったな。

「メイ。とても良い名前だ。女の子かな?」
「うるせえ! そんな話でお涙頂戴しようったってそうはいかねえぞ、じじい。私の方が、てめえよりずっと悲惨な人生送ってんだ。ウリやってたら男に騙されてヤクの中毒にされて、どうしようもなくなってたときにメイと出会った。メイは私の中毒を治してくれた。治してくれたんだ! お前らなんかに渡すもんか!」
「治した? ほう。この子は俺が思った以上の力を持っているのか。それとも、治ったのはの何かによるものかな?」

 メイは、さらにこちらへ歩み寄ろうとする。少女は足で妨害しようとするが、止まらない。私は再び、子猫の第三の眼を見た。

「メイ。賢い君に言う。その子を守りたいんだろう? 何が正しいか、君が考えて行動するべきだ。今すぐに。大丈夫。後ろの奴らは撃てない。俺を撃ち殺したら、後で財団に何を言われるか分からんからな」

 立ち上がり、メイを守る肉の壁を作る。少女は、明らかに動揺していた。銃口が定まっていない。

「メイ! お願い、お願いだから―」

 少女の涙を振り切って、メイは駆け出し、私の側に来た。
 ゴロゴロと喉を鳴らし、足に絡みつく。人によく馴れた猫の動きだ。少女の世話が良かったのだろう。俺は腰をかがめ、小さな頭を撫でる。念のため、傷口と触手には触れないようにした。

 どさっ、と膝をつく音。少女は、泣きながら地面に突っ伏した。メイが、心配そうにニャア、と鳴き声を上げる。俺はメイの首元を押さえたまま、少女に言った。

「心配しなくて良い。メイと共に、君も同じ場所に連れて行く。無理に引き離して、暴れられたらたまらんからね。その後どうするかは、優秀なの部下と、君の決断に委ねることにするよ。勿論、メイの生命は我々が全力で守る」

 エージェント達が、素早い動きで少女を拘束する。撃たれた警官も、どうやら意識はあるようだ。救急車のサイレン。夕暮れを告げるメロディ。カラスの鳴き声。メイの澄んだ瞳に、怯えた顔が反射したのを見て、俺は思わず苦笑した。

「キューザック……副委員長。あんたまさか、いつもこんな事してるんじゃあないよな?」
「いつもよりずっと楽しい仕事だったぞ、フェルドン。さあ、この子達はエージェントに任せて、彼女の墓参りに行こうじゃないか。随分と遅くなってしまったからね」

 メイは、俺の腕から少女の腕へと返された。手錠を嵌められたまま、少女は子猫を抱きしめる。泣きじゃくる少女に困惑しつつも、どこか誇らしげな表情のメイ。

 俺の『メイ』も、たまにこんな顔をしていたな。俺を困らせて、得意になっている時の顔だ。




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