「はぁ……」
湯に浸かる転眼 式見の目の前に広がるのは、大海原とも見紛う広さの湯船と、そこから蜃気楼のように立ち上り漂う湯気であった。時刻は朝である。皆が業務を始めている中を抜けだし、このサイト-8181の大浴場を使用している奇特な者など、そうは居ない。
「湯加減はいかがですか、室長代理」
この葉高 道然というふざけた男を除けば。
壁を隔てた男湯から聞こえてくる声に、転眼は再びはぁとため息をついた。
「……問題ありません」
「それはよかった」
そもそもの発端は、葉高が衛生工学専門の収容スペシャリスト 本人は"入浴"スペシャリストなどと名乗っているが として、全ての人型オブジェクト収容セルにジェットバスやサウナを併設しようなどと馬鹿げた提案を始めたことだった。サイト管理委員として転眼は当然その提案に待ったを掛ける。
"既に収容セルには簡易的な洗身設備が存在する。それらを必要以上の機能を求め改修することはコストの無駄であり、意義があるとは思えない"……そのような意見を今朝、葉高を呼び出した転眼は丁寧に述べた。
その結果がこの、今のありさまだ。
「まさか、『ならば、風呂のすばらしさを存分に思い知らせてさしあげよう』とここへ連れてこられるとは……」
「何事も実践あるのみです」
「そんなことはわかっていますよ」転眼は苛立たしげに言った。
「でしたら良いではありませんか」
「良くないですよ! それに私はまだ仕事中なんです!」
「その通りです。だから私がこうしてあなたをお運びしたのです」
「なんでそうなる!?」
思わず叫んだ大声は、遮るものの無い浴場に響き渡る。転眼は慌てて口をつぐんだ。
「失礼しました」と葉高は返す。
「い、いえ、こちらこそ取り乱して申し訳ありませんでした」
「何を仰います。むしろ私は嬉しいんですよ?」
「えっ……何故です?」
嬉しい。予想外な言葉に転眼は戸惑うが、葉高が次に発した問いはそれ以上に意表を付くものだった。
「これは勝手な憶測なのですが、室長代理。貴女はかなり疲れていらっしゃるのではないですか?」
思い当たる節は、あった。
「今朝会った際すぐに分かりました。目の下の濃い隈……言うまでも無く睡眠不足の証です。それに肌も少し荒れていらっしゃいましたね。加えて、応接間に出涸らしたティーバッグがありましたが、あれも眠気覚ましのため何度もお茶を飲んでいた痕跡だろうと思います」
転眼は何も言い返せなかった。確かに彼の指摘するとおりだったからだ。最近になって急に増えた業務量。それに伴い、連日続く徹夜作業。いくら目を背けていても、それらが自身の肉体を痛めつけているという自覚はあった。
「貴女が今浸かっているお湯には、ラベンダー精油と海塩が配合された入浴剤を入れておきました。ラベンダーの香りは心を落ち着ける作用があり、海塩のミネラルは肌の保湿に効果があります」
ちなみに浴用香料としてのラベンダーは古代ローマから使われていて、などと葉高が語り出すのを聞き流しながら、転眼は今一度湯船に眼を向ける。わずかに色づいた湯は、そう言われてみると海水のような独特のぬめりを帯びているように感じた。今浸かっているお湯は葉高の用意したもの……そう意識すると、まるで彼が直接自分の身体に触れているような気さえしてきて、急に転眼は言いようのない恥ずかしさを覚える。
「そ、それが一体なんだと言うのですか」
「つまりですね」葉高は続ける。「貴女の身体は今まさにリラックスしている状態だということです」
「リラックス……?」
「そうです。そして私はここに来たときからずっと言っているはずですよ。『湯加減はいかがですか?』と。大声が出せるくらいには回復していただけたようで嬉しい限りです」
「……まさか、最初からそのつもりで」
「ご名答」
葉高の声は満足げなものになった。
「貴女は強い人だ。そしてその強さは、いろいろな無駄を削ぎ落としてできたものでしょう。他人にも自分にも厳しいストイックな貴女の生き方は、針のように硬く、鋭い。端から見れば折れてしまいそうなほどに」
ひとつ、息を吐く音が聞こえた。
「私は、それを少しでも緩めて欲しいと思いました」
沈黙が残る。転眼はこうした時、何と返せば良いか知らなかった。
「……てっきり、あの改善提案を通したいがための根回しかと思っていましたよ」
ようやく絞り出した言葉は、そんな意地の悪い当てこすりだけだった。しかし、照れるかのように葉高は「はは」とだけ笑って答える。
「それもあります」
「あるんですか……」
「でもそれ以上にこれは、私の提案の実地実験でもあるのです」
「実験?」
転眼は改善提案の要旨を、今一度思い出す。
"オブジェクトを確保した後、その異常が解明/無力化されるまで専用の施設に収容し続けることが現在の財団の基本ポリシーである。しかし自由を奪われ拘留・収容されていること自体が多くの人型オブジェクトにとってはストレスとなっており、彼らが収容違反を試みる主な要因ともなっている。こうした問題を解決するためには "
「洗身設備の機能向上により、定期的にストレスを発散させることが有効だと思われる……」
「そう、その通りです。こうした機会に、入浴によるストレス軽減効果を身をもって実感して頂くのは、とても実があることだと感じました」
それに、と葉高は言葉を続ける。
「貴女一人でも骨抜きに出来ないようでは、私の提案も立つ瀬が無いというものです」
「……それは、どうでしょうね」
転眼はもう一度提案の内容に考えを向けた。そして再度、頭の中で却下の印を押す。例え転眼が反対しなくとも、葉高の提案を実現するのは険しい道のりになるだろう。
"財団はホテルでは無い"
この標語が定着するほどまでに、財団は人型オブジェクトの扱いについて多くの失敗を繰り返してきた……痛い眼を見過ぎた。だからこそ、人型オブジェクトには甘さを見せるべきではない。下手に出てつけあがらせてはいけない。これが現在の財団における多数派の根強い意見である。それは、現職の収容スペシャリストである葉高が一番分かっているはずのことだった。
だが、それでも
「財団の施設とはいえ、人間らしい生活を送ることができるというのはとても素晴らしいことです。しかもそこに優れた入浴体験が付いてくるとくれば尚更でしょう」
葉高は折れない。
財団には優秀な才能と熱意を、妙なこだわりに向けている人間が数多く居る。それはある者にとってはスピードであったし、ある者にとっては肉体改造、またある者にとっては怪しげな中国拳法であったりするが、葉高のそれは、入浴とそれによって人々を幸福にしたいという一点に向けられていた。
転眼はそんな葉高の信念を、共感せずとも理解してはいた。そして財団という組織で、個人のそうした信念を貫くのがどれだけ難しいことかを知っていた。
「……確かに、貴方の言うことにも一理があります」
「おお、では」
だからこれは、彼女なりの敬意を込めた妥協だった。
「ただ勘違いしないで下さい。私一人を懐柔したところで提案がどうなるわけでもありません」
「おや、懐柔されてくれたんですか」
「いいえ全く」
「それは残念」
ちゃぷりと水音が鳴る。壁で見えなくとも、転眼には葉高が肩をすくめる仕草をしたような気がした。
「問題はあんな穴だらけの提案書が通ると思っていることです。サイト運営委員会には私以上の頑固者がいくらでも居ます。彼らを納得させることができなければ、あの提案は何度でも真っ向から叩きつぶされることでしょう」
「存じています」
葉高は転眼のことを強いと評したが、転眼からすれば、それは逆に言ってやりたい言葉だった。彼の信念は固い。ただしそれは転眼のものよりもずっとしなやかで、柔軟だったが。
「その後で、まだ『それでも』と言い続けられるというのなら、私も全力で付き合いましょう。何度でも」
「根比べというわけですか」
「そういうことになりますね」
ふっと、壁を隔てた2つの浴場に笑い声が漏れる。不意にざぱりと、恐らく葉高が湯船から立ち上がる音が聞こえた。
「さて、場も身体も十分温まったことでしょう。長湯をしてはかえって健康に悪いですし、貴女も仕事のことを気にしていらっしゃいましたから、そろそろ出ませんか」
「そうですか、私はもうしばらく居ることにします」
「ほう、それほど入浴剤がお気に召しましたか」
「勘違いしないで下さい。あなたと同時に浴場から出てきて、変な噂が立つのが困るだけです。それに……」
そう言いながら、転眼はゆっくりと目を閉じた。
「ただ今だけは、もう少し緩んでいたい気分なのです」
「……そうですか」
葉高はそう呟いて、再びざぶんと身体を沈める。
「分かりました。では、私もそうしましょう」
「……ご自由に」
「はい、お構いなく」
それから2人はしばらくの間黙って、広い浴槽に身を預けていた。
結局、2人が大浴場を後にしたのは1時間ほど経ってからのことだった。湯上がりの白い湯気と赤く上気した頬で職場に戻ってきた結果、しばらく葉高と転眼があらぬ噂の対象となるのはまた別の話である。