駐日大使であるユーリィ・ラメンにとってみれば、それは唐突な出来事だった。いつものように執務机の書類達を見やると、そこに押印されているはずの祖国の印章が何処にも存在しない。いやよく見れば、内容も全て見慣れぬものになってしまっていた。確認のため内線電話を何度鳴らしても誰も出ない。大使館員の姿も見えない。何かがおかしい、とユーリィは焦りを覚える。見慣れたはずの大使館の中に、祖国の面影だけがどこにもなかったのだ。
ひとまず気分を落ち着かせようと窓の外に視線をやって、ユーリィは愕然とした。大使館の周囲にあるのはただ、かつて見たことのないほど巨大な それこそこの世界に存在するありとあらゆる建造物を合わせたよりもなお大きな 底の見えない大穴だけだった。それに気づいた時、全てが落下を始める。大使館全体が大きく傾ぎ、外壁が崩壊し、作りの良い調度品の数々が、執務机が、書類が、大穴の暗闇へこぼれ落ちてゆく。ユーリィは数瞬、重力に抗おうともがき、掴まることができるもの全てが崩落していくのを見て、逃れようと絶叫する
ばっと身を起こす。ユーリィの手に、ひやりとした床の温度が伝わってきた。ゆっくりと訝しむように辺りを見回せば、見慣れない作りの部屋ではあるものの、少なくともここは暗闇の穴底ではない……どこかの建物の中であるようだということが分かった。 先ほどのことは夢だったのだろうか?そう思う暇も無く、ドアから現れた黒服の男達がユーリィを取り抑え、後ろ手に腕を捻りあげた。
ユーリィは予想外の痛みにうめきながら、どうやら自分は何らかの理由により妙なところに迷い込んでしまったらしいということを理解すると同時に、ユーリィは彼の回りを取り囲む黒服たちに対し釈明を行う。自分が一国の駐日大使であり、悪意により侵入したわけでは無いと言うこと、そして大使館を襲った異変について。日本語で、次に英語で、ロシア語で、母国語で……。しかし誰からも返事は無かった。彼らは無言のまま、ユーリィを部屋の外へ引きずり出していこうとする。とうとうこの不条理に対し冷静さを欠いたユーリィは、悲鳴を上げるように叫ぶ。
「私はシガスタン共和国の公式な特命全権大使であるユーリィ・ラメンだ!これは権利の侵害だ!どうか大使館へ連絡をさせて欲しい!」
黒服たちは一瞬困惑するように顔を見合わせ、口を揃えてこう言った。
「シガスタン共和国などという国は存在しない」
Anomalousアイテム記録
説明: 自身を存在しない国家"シガスタン共和国"から派遣された駐日特命全権大使であると主張する男性。その経歴・出自の一切が不明であることを除けば異常性は存在しない。
回収日: 20██/██/██
回収場所: 東京都、港区、在日カザフスタン大使館
現状: サイト-8100にて拘留。
目隠しを外されると、そこは薄暗い部屋だった。まだぼやけているユーリィの視界の中で、1人の男が机を挟んだ目の前に腰掛けるのが見えた。スーツ姿のその男 グレアム・マクリーンと名乗った はユーリィが十分落ち着くのを待ってから、話を始める。
「端的に言えば、君の故郷はこの世界から消滅した。これはソビエト連邦が崩壊したといったレベルの話では無い。"シガスタン"という存在自体が過去に遡ってかき消えた。文字通りの消滅だ」
マクリーンはそこまで言うと、ユーリィが再びの動揺から回復するまで、しばらくの時間を沈黙にのみ費やした。次にマクリーンが口を開いたのは、それまでユーリィによってぶつけられた疑問や怒号、嘆願に一言で返すためだった。
「質問に答えることは出来ない。『なぜ』それが起こったかや『何が』起こったかについては機密事項となっている」
ただ、とマクリーンは続ける。
「我々財団の一員となることで、君の希望は叶えられる可能性があるだろう」
財団。ノーベルでもロックフェラーでも無く、マクリーンはその組織の名をただ"財団"とだけ言った。そのようにのみ呼ばれる者たちについて、ユーリィには1つしか心当たりが無い。国内でも国外でも、政府内文書の一文から偶然立ち寄った街角のピザ屋に至るまで、彼らの影を見ない場所は無かった。ユーリィの緊張を見て取ったか、マクリーンは「君には2つの選択肢がある」と切り出した。
「1つは我々の保護下に入ること。実験と拘留により飼い殺しにされる代わりに、全てを失った君にも衣食住と身の安全が保証される」
研究価値がある間のみではあるが。と嫌な一言を付け足してから、マクリーンはもう1つの選択肢をユーリィに提示する。
「2つ目はこの書類にサインし、私の部下として新たな生を始めること。命の安全は全く保証されないが、君が望む『真実』にもっとも近づける立場だ」
真実……祖国、シガスタン共和国の破滅に起きた真相。それはユーリィが今最も求めていることであり、座して待つだけの安寧とは比べるまでも無かった。ユーリィはマクリーンを睨め付ける。嘘でこそ無いもののマクリーンの言葉に曖昧な欺瞞が混じっていることを、彼はもう勘づいていた。きっと財団の一員となっただけでは全てを知ることは出来ない。更に言えば、財団ですらこの現象の全容を知っているとは限らない。ユーリィは直感した。
ああ、こいつは私を、体の良い駒として使い潰そうとしている。
だが、それでもなおユーリィの目線はマクリーンが持つ書類へと向かっていった。利用する?ならばそれでも構わない。駒を演じてやろうでは無いか……乱暴に、大袈裟すぎるほどに。こちらもマクリーンを利用する。財団という舞台で全てを踏み台にして、我が祖国に再びスポットライトを浴びせて見せよう。
そんなユーリィの心中を知ってか知らずか、マクリーンはにやりと口角を上げた。
真実に辿り着くにはこの財団という場所が最も近い……皮肉にもその点のみにおいては、彼らの見解は合意を見たのである。
例えるなら蜂がその本能に従って甘い蜜を探すように、気づけばユーリィの手は、マクリーンが掲げる地獄への片道切符へと魅き寄せられていた。
「これで良かったんでしょうか」と、ユーリィが記入した書類をぼんやり眺めながらジョシュア・アイランズは呟く。その傍らには、彼の上司たるマクリーンが立っていた。
「何か問題でも?アイランズ調停官」
「いえ、財団外からのリクルートにおける常套手段とは言え、少し良心が咎めませんか……超常現象に遭遇して茫然自失となっているところにああいった提案を持ちかけられたんじゃ、正常な判断なんてまず出来やしませんよ」
なじるようなアイランズの言葉を、マクリーンは表情一つ変えず受け止めた。
「単純な資質として彼は我々のような仕事に向いている。まずは本職の外交官であること。語学力に社交性、そして"演じる"スキル。これらは折り紙付きだ」
そしてなにより、とマクリーンは続ける。
財団という秘密組織における人材発掘には、いつもジレンマがつきものだった。いつも優秀な人材ほど既に著名な業績を上げており、それだけ世間からの注目を隠すことが難しい。加えて個人情報の問題もあった。第二の人生とは言うものの、情報漏洩に繋がりかねない過去の足跡を消すのにはいつだって骨が折れる。
だが、ユーリィは違った。
「ユーリィにはあらゆる過去が存在しない。シガスタンの消失はあの男を、記憶も記録も存在しない白紙の人間へと仕立て上げた」
「仕立て上げたって……」
「彼はきっと良いエージェントになるだろう。そう私は見込んでいる」
そう、それはまるで、決して過去あしあとを残さない幽霊のように。
「そういうことが聞きたかったわけじゃ無いんですけどね」
アイランズはぼやきながら、別の資料へと眼を移す。それはユーリィが行った尋問の映像記録であった。映像内で対象に恭しく一礼する彼の姿を見て、アイランズは、厄介な後輩が入ってきたものだなとこめかみを抑えた。
エージェント・ユーリィ: お会いできて光栄です、ご婦人。