薔薇色へ溺れぬ僕は独り
評価: +40+x
blank.png

「耽美な死に方といえばなんだろう」

彼は言葉を切り出す。ゆるやかな、鼻歌を口遊むような波長が反響した。突然何を言い出すのか。少し考えて、一番正解に近そうなものを返答する。

「西洋の絵画で、埋もれるほどの薔薇の花で窒息させたというのは聞いたことがあるよ」

「随分と夢幻的だな」

非現実すぎたのか、丸眼鏡のレンズ越しに目が猫のように細まるのが見える。いつもは達観したような笑みばかり掲げている彼の唯一といえる癖。謂わば不服の象徴だった。

「じゃあどんなのがいいのさ」

「別に? なんでもいいよ」

頬杖をつきながら無愛想に答える。耽美な死に方など知ってどうするのか。まさか実行するのでもあるまいし。そもそも、僕らはそう簡単には死ねないはずだった。

「人の死に美しさを求める時点で、あんたは碌な死に方をしないんだろうね」

そう皮肉ってみる。ふと、死という言葉が頭の中で反復された。

死。命ある者が辿り着く終着点。太古から逃れられない宿命。或いは、救済。花が最後にはその身を地に落とすように、人は必ず死ぬ。

ただ、今やその形状は緩やかなものだった。恐れられてきた死の本質は紅色の流動体で、気づいたら病死や事故死も既に過去のもの。死因といえば老衰かタナトーマの注入か、或いは不死を手にした人だっていた。そのためか、本来死の持っていたはずの劇的な悲愴や恐怖は徐々に薄れていった。

ありふれていた死の形はタナトーマによって管理され遠ざけられて、それを僕らが直接認識することは遂に無くなっただろう。

先程と同じように目が伏せられ、彼の顔が俯く。はあ、と演技めいた溜め息を吐くと、呆れが含まれた声色でわざとらしく彼が言った。

「酷いことを言ってくれるじゃないか」

失笑が溢れる。心底くだらないといった様子で。ずれ落ちた細いフレームを、人差し指で鼻筋に押し上げる。あんたの性格の方がずっと酷いよと吐きかけて、寸前で飲み込む。

「ま、今はタナトーマがあるし、俺も君も老衰で死ぬんだろうよ」

「その割にはいつも見舞いに来るよね」

意表を突いたのか、彼が唇を結ぶ。言葉が一瞬途切れ、空間に不気味な沈黙が流れた。一拍置いてから、それを切り裂くようにして返答する。

「まあ」

彼は目線を逸らし、落ち着かない様子で腕を組む。軽妙でありながらどこか気まずそうな、不釣り合いな声色で彼は言った。

「心配なんだよ。先に死なれたら困るし」

「あんたにしては妙に素直だ」

「素直で悪かったな」

触れたら柔らかそうな髪をくしゃくしゃと掻く。実際、彼がそんなことを言うのは珍しかった。いつも突拍子もない妄言や世界への皮肉ばかりを謳っているばかりで、そんな人間らしい感性を持っていたんだなと思わず感心する。

「死なないから安心してろ。病死は抜いてるからな」

「ああそう」

再び空間に沈黙が流れる。曇天は病室を一段としめやかなものに仕立て上げていた。部屋に充満した白は、優しい陽光の匂いではなく清潔な消毒液の匂いがするような白だった。

初めて知り合ったのは高校に入ってすぐだったと思う。教室の隅。右手に持った文庫本を目で追いながら、左手では数式を刻み続ける姿が明らかに異質で興味を引いた。

偶然知っていた本を読んでいたから、それを指摘すると彼は大きな瞳を丸くして見せていた。気づいた時には親友とも理解者とも形容できないような、変な関係が出来上がってしまっていた。その年の夏に僕が身体を壊してからもずっと、彼は週にきっかり3回病室を訪ねてくる。

2年間に渡る逢瀬は、この空間に於ける彼の存在を違和感のないものにしていた。空間に馴染んだ彼の姿はうっすらと漂白されていて、詰襟が褪せた写真のように灰掛かって見える。

ふと何か冷たいものが僕の左頬に触れられる。凍ったように冷たい、悴んだ掌。彼の手だった。

何か言葉を吐こうとしたが、僕は何を言えばいいのか分からない。沈黙の立てる寝息が聞こえそうなくらい静かで、時が止まったようだった。顔を上げると、目線が合う。黒いはずの光彩が灰がかった青色に見える。視線を外そうとしても逸らすことができない。吸い寄せられるような、全く真意の汲み取れない瞳。

彼が口を開く。

「はは、莫迦な顔」

「なんだよ」

何事も無かったかのように手を離すと、彼はふにゃりと崩れるように笑った。さぞ満足したような表情で。なんなんだよ、あんたは本当に。

「さあね。そろそろ帰るよ」

学生鞄を肩に掛けて颯爽と踵を返す。左肩だけが上がったアシンメトリーな後ろ姿。病室の出入り口に向かって遠ざかっていく。なんとなく物足りない気分になって咄嗟に言葉が口をつく。

「またね」

斜めに傾いた背に向かってそう放つ。彼は振り返らずに手を上に掲げた。扉を閉じる音がして、病室は僕一人のものになった。

彼の動作を反芻するように、左頬に掌を当ててみる。室温と同じ、仄かに暖かい温度があるだけだった。


海風に乗せられた汐の匂いが鼻をつく。冷気を含んだ空気が緩やかに体温を下げていくように感じられる。気晴らしとして、海岸へ散歩しに行こうと提案したのは彼だった。長い時間は歩けない為に僕は車椅子に乗っていたから、海水に触れることは遂にできなかったけれど。アスファルトの上から遠く見渡す海は、記憶の中のものよりも霧がかったような水色に見えた。

「セイレーンが出るんだって」

彼の妄言にはもうすっかり慣れた筈だったけれど、随分と空想的な単語がなんともないように発せられたので思わず驚く。セイレーン。ギリシア神話の怪物。鳥と魚と人間をツギハギに繋げたような歪な形の。そんなものがこの世界にあるわけがないと言おうとしたが、ごく真面目そうにそんなことを言うものだから彼の話に乗ることにした。

「人魚とかじゃなくて、あのギリシア神話の?」

「そう」

横目で見えた瞳は、レンズの光が反射しているのか鋭く輝いていた。けれども口はしっかりと結ばれていて、やっぱりどこかアンバランスに感じられる。波がさあ、と音を立てて水面を揺るがせた。柔らかく息を吐くようにして、彼は言葉を続ける。

「美しい歌声で人を誘惑して殺してしまうらしいよ」

当然、僕は知っている。書物の中で、歌声に対抗して演奏された琴に聞き惚れる漁師たちを見て、セイレーンは海に身を投げて自殺してしまうのだ。僕は話の続きを促す。

「そんなのがこの海に?」

「まさか、ちょっとした冗談だよ」

彼は笑う。仕掛けた悪戯が成功したような無邪気な笑みが顔に広がっていた。不満足な時は目を猫のごとく細めるくせに、笑うときは無邪気なのが捻くれた子供のように思える。

「でも怖いよな。歌に誘われて気づいた時には海の中なんだろ」

「讃美歌に包まれて死ぬようで美しい気もするけれど」

彼がどうしてそこまで耽美に拘るのかはよく分からなかった。確かにセイレーンの神聖な歌声に導かれて死ぬというのは、光景だけ想像すれば宗教画的な美しさはあるかもしれないけれど、溺死なんてしたら相当苦しいだろうし。形式美と言ったか。それにしても僕には理解できないけれど。

「君は美しく死にたいのか」

彼の煌めきが灯った瞳はいつのまにか、水平線の向こうを見据えているような遠い目に変わっていた。
彼は答える。

「人の手によって管理された死は単調だ。死の排除された結果の老衰も、タナトーマの注入による安楽死も、俺にはどうも気持ち悪く思えてしまう。本来、死は何かの手が加わるようなものではない」

心の奥に潜めていた気持ちを告白するように、彼は言葉を続ける。遠くを見る目には強い意思が宿っているように感じられた。

「だから、自分の死は統制されたものではなく、もっと自然的なものであって欲しい。それが達成された時に、付随してくるのが美しさというだけの話だ」

「そうか」

そうとしか言えなかった。タナトーマによる死の管理をただ漠然と良いものとしか考えていなかったから、彼の主張は僕にとって衝撃的に思えた。そして、その死に向けられた感情は絶望ではなく希望のような気がしたから。

浜辺に打ち上げられた魚の死骸が目につく。すっかり影の薄れた死の姿がすぐそこに自然に、無造作に存在していた。僕にはそれがやけに印象的に思えて、つい見入ってしまう。胃を満たす食料の魚よりもずっと生々しく、自然的な死の形だった。


病棟に戻った。立ち込めた空気は静かに夜の質量を持ち始めている。僕はベッドに身を委ね直すと、彼はおもむろに学生鞄から何かを取り出した。僕に向かってそれが差し出される。

「あげるよ、これ」

透明なフィルム包まれた一輪の薔薇だった。フリルのように重なった深紅の花弁が咲き香っている。以前美しい死因について聞かれた時に、薔薇の花で窒息死と答えたのをなんとなく思い出す。

「これで殺してくれってか?」

「なわけ。見舞いだよ」

ぶっきらぼうにそう言って手を引っ込める。不機嫌ではなく、どこか照れくさそうな表情で。彼が見舞品として花を持ってきたのは初めてだった。気晴らしで海へ行こうと誘われた時に、車椅子がないと歩けないと伝えたからだろうか。相も変わらず心配性なものだ。

「そんなに心配しなくたって死なないって」

「別に、そういう意味で渡してない」

「まあ、ありがとう。花瓶に挿しておいてくれ」

彼は水道水を注いで、硝子の花瓶の空洞を満たした。それを確認すると、巻かれた白いリボンを解き、丁寧にフィルムを剥がして薔薇を挿した。潔白の中に浮かんだ薔薇のコントラストは、殺風景な病室を幾らか華やかにしているように見える。

「これでいいな」

視界の端に飾られた花は、自分の気持ちをも花めかせているように感じられた。心なしか彼も満足そうな表情をしているように思える。彼は剥がしたリボンやフィルムを鞄に収めると、それを肩に掛けていつものように言った。

「じゃ、花も渡せたし俺は帰るよ」

「またな。ありがとう」

手を振る。単純に、花を貰ったという事実が嬉しかったから。心がほんのりと温かくなるよう気がした。出入り口に向かって歩いていた彼がくるりと振り向く。

「ああ。また」

そう言って、微笑んで手を振り返した。それから何の予兆もなく、彼の来訪はぱたりと止んだ。


雪が降っている。切れ端のような白銀の雪が暗闇に舞い落ちている。病室は暖房が効いていて暖かかったけれど、窓越しに冷気が貫通しているようで、部屋の空気はどことなく冴え渡っていて透明だ。冬の夜はどこへ行っても空気がしんと静かに冷たく停滞していて、僕は冬が他のどの季節よりも好きだった。

彼の姿を最後に見てから2か月弱が経った。

メッセージを送っても既読は付かないし、一切音沙汰がない。流石に心配になって他の友人に訊ねてみると学校には来ているようだったけれど、それでも曇った思考が晴れ渡ることはなかった。彼の癪に触れるようなことを知らない内に言ってしまっていたのか。それとも、彼自身に何かあったのか。そんな確証のない不安が募るばかりだった。

視界の端に置かれた花瓶に挿された薔薇は、彼が来ない間に枯れてしまっていた。くしゃくしゃになった花弁を抱えてうなだれるような姿をしていて、なんとなく自分まで悲しい気持ちになった。

今日も僕は彼の来訪を待つ。正直諦念の気持ちが大きかったけれど、それでも今日は来るんじゃないかと密かに期待している自分もいた。もうすっかり辺りは暗くて、雪さえ降っているというのに。自分でも莫迦だと思った。

がらりと乱雑に引き戸が開く音がする。反射的に目を遣ると彼が扉の前に立っていた。いつものような飄々とした顔ではなく、ひどく疲弊したような表情で。

「ごめん。来れてなくて」

申し訳なさそうに言った。白く凍った息が彼の口から溢れている。何があったのか聞こうとして、変に詮索するべきではないともう一人の自分が制止する。彼は自分自身のことについて聞かれると、とても嫌がることを知っていた。

「気にしないでいいよ」

そう言葉を掛けてみたが、表情に滲んだ苦悶のようなものは拭われなかった。瞳の中には淀んだ影が蠢いていたままだ。彼はベッドの横の椅子に腰掛ける。今日ばかりは二人の間に張り詰めた沈黙が刃物のように感じられた。そうして少しすると落ち着いたようで口を開く。

「雪だね」

「もうすっかり冬だよ」

言葉を交わす。彼の髪には星屑のような雪の破片が散らばっている。傘を差さないで来たのだろうか。雨が降っている日は、彼は必ずきれいなプリーツに畳まれた傘を持っていたから、意図的に差さないなんてことは考えられなかった。疑念に満ちた思考を取っ払う。考えたって仕方がなかった。

「今夜は少し長くいるよ。このまま外に出たら凍えてしまいそうだ」

頷く。伸びやかな低音の声は確かに僕を安心させる。このまま帰してしまったら、また暫く彼と会えなくなってしまうような気がしたから。だから僕は頷くことしかできなかった。

実質的には僕に一番近いのは彼だった。家族は僕に興味なんてなかったし、他に友人もいたけれどわざわざ見舞いに来るような奴はいなかった。だとしたら彼は相当な物好きだ。いつもきっかり週に3回来るし、今日だって雪さえ降っているのに病室を訪ねてくるなんて。


空間の隔たりが外の冷たい空気から病室を隔離している。こんな日の夜に君が隣にいるというのはなんだか不思議で特別な感じがした。沈黙が続く。暖房の心地よい暖かさが僕を微睡みへ誘おうとしている。ふあ、と欠伸をすると涙が出た。沈黙すらも優しく僕を包んでいくようで、現実と夢の境界にいるような幸せで曖昧な心地だった。

「眠いなら俺のこと気にせずに寝な」

彼は微笑む。彼の声がより一層眠気を助長させる。はっと影が脳裏に差す。このまま寝てしまったら、彼が永遠に病室に来なくなってしまうような気がした。恐怖が睡魔に呑まれようとしている意識に抵抗する中、呂律の回らない舌で言葉を紡いだ。

「死ぬなよ、君」

彼の目が一瞬見開くと、困ったような笑顔に変化する。それを搔き消すようにして彼は声を上げて笑った。瞳の中は愁いのような帯びていて、目が笑うことはなかった。

「俺は此処にいるよ」

あまりに意識が朦朧としていたものだから、僕は返答することも儘ならずただ頷く。溺れるようにマットレスに身体を沈める。彼が電気を消すと、瞼の裏側に濃厚な闇が広がった。意識がだんだんと薄れていって、思考が鈍っていく。

頭に手が触れられる。彼の手。それが頬を撫でるようにして首筋まで滑り落ちる感覚があった。手は雪に濡れたのか僅かに湿っていて相変わらず凍ったように冷たかった。

闇に吸い込まれていく意識の中。手の温度だけが鮮明に感じられた。手が離され、途切れるように言葉が吐かれる。

「ごめん」


浅はかだった。何もかもが。

最後に邂逅した夜、僕が眠りに落ちた後の真夜中のことだった。彼は恋人と冷たい海面の底に沈んで死んだ。活字でしか見たことがないような心中。死因が溺死だったのか、それとも凍死だったのかは僕は知らなかった。雪の降るような寒い日の海。仮に窒息死のタナトーマが抜かれていたとしても、凍死で死ぬことができたのだろう。

『どっちも親がヤバかったらしいぜ。過干渉がエスカレートしすぎてもはや軟禁みたいになったっぽい』

僕は何も知らなかった。親のことなんて一切話してこなかったし、そんな素振りも見せなかったから。ましてや恋人がいたことなんて何も。友人が教えてくれた彼女の名に聞き覚えはなかった。

『まあ俺もあいつらがデキてるなんて知らなかったけどさ。にしてもヤバいって』

全てに裏切られたような気分だった。自分の中に潜在していた独占欲のようなものが蕩けて溢れ出す。不機嫌に目を細める動作も、時折見せる子供らしい柔和な笑顔も、すべては僕だけのものではなかったのだ。きっと、恋人は僕の知らない彼の顔を知っている。抱き合って飛び込んだのだろうか、それとも水平線に向かって手を繋ぎながら? 僕は彼の手に触れたことすらないのに。

腕に爪を突き立てる。中途半端な痛みが走った。

彼はどこまでも耽美に、美しく死んだ。寿命か、死を象る深緋の液体を注入することばかりが死因のこの時代に。雪の降る海で恋人と最期を共に、なんて随分文学的じゃないか。

何が美しく死ぬだ。それがどんなに君が望んだ死に方だったとしても、結局死んでしまったら意味がないじゃないか。

こんなことになってしまうのなら、本当にあの時貰った薔薇の花で殺してしまった方が良かったのかもしれない。そんなことを考えたって、たったの花一輪で人は死なない。何もかもが遠すぎたのだ。

彼が2か月間病室に来なかったのも、彼が追い詰められるような素振りをしていたのも気づいていたのに、考えても仕方ないのだと自分で自分を誤魔化して何もできなかった。もしもあの時、どんなに蔑んだ目で見られようとも、大喧嘩に発展しようとも、引き止めていたら彼は死んでいなかったのかもしれない。


それとも、気づいた時には既に何もかもが遅かったのだろうか。引き止めた所で意志が揺らぐ確証などないし、そもそも彼はひとりで死んだ訳ではなかったのだから。

どうしようもない激情たちが脳内を混沌と埋め尽くす。結局の所、僕は彼の死を後悔という名目に美化して、都合よく嚙み砕こうとしているのだ。この感情も結局は自分以外の人間と死なないで欲しかったという、独占欲に塗れた独りよがりで身勝手な願望だというのに。

自分の名前が書かれた封筒を手に取る。限りなく灰色に近い水色の封筒は、車椅子の上で見た海の記憶をフラッシュバックさせる。

突如、それが濃紺に塗りつぶされる。ひどく静かな夜、海岸沿い。男女の影が月の光に照らされて揺れている。此処まで来ればもう何も怖くないねと、涙ぬぐんで笑う女をただ静かに抱きしめる男。その男は曲がった背を詰襟の制服で覆っていて、丸眼鏡の細淵は光で僅かに反射していて。嗚呼、厭だ。何も考えたくなどないのに。

全てが厭だった。彼に僕以上に大切な人がいたことも、何も言わずに死んでしまったことも、それを許したくないと思ってしまう自分も、全部。

喉に冷たいものがこみ上げそうになるのをぐっと我慢した。封筒を開き、便箋を取り出す。半分以上空いた空白が僕を覗き込む。


君がこれを読んでいるということは俺はもうこの世に居ないのだろう。

らしくない定型句が紅色と化した彼の筆跡となってそこに綴られている。彼が死んだという事実が彼自身によって協調させられるようで苦しかった。下唇を噛む。


見舞いに行ってやれなくてごめん。心配を掛けてしまってすまなかった。

そんなの、言われなくたって分かっている。あの夜の君はこちらが哀しくなるほど申し訳なさそうな顔を見せていたから。寧ろ、君の窮地に気づいて止められなかったのは自分の方だった。僕は何もすることができなかったのだ。涙の粒が文字の上に落ちて滲んだインクの染みを作った。


正直言うと、限界だったんだ。図書館で勉強すると言って病室に来ていたけれど、花束のラッピングが入っていた鞄を漁られたみたいで。もう遅かった。それからは監視がないと外に出られなくて、本当に死にたかったんだ、俺。彼女も同じような境遇だったから、もう他に選択肢がなかった。

語られていなかった境遇が糸が解かれるように、彼自身によって曝け出される。何気ない表情の裏側にあった、決して露呈されることのなかった感情が胸を突き刺して、もうこれ以上読み進めたくなかった。今では何もかもが遅いというのに。


俺はこの選択を選んだことを後悔していない。紛れもなく自分の意志だから。ただ、君のことがどうにも気掛かりで仕方ないんだ。だから、どうか俺のことは忘れて生き続けて欲しい。君は何も悪くないのだから。身勝手かもしれないけれど、自分の存在が枷のようになってしまったら嫌なんだ。

達筆な文字のひとつひとつを咀嚼するたびに新しい涙が視界を濡らす。忘れられるわけがないだろう。僕より先に、何も言わないで女と心中したくせに。藻掻いて苦しんだ末の結末だったのだろうけど、僕はそれを許したくなんてない。君はもう十分僕の呪いだ。


今までありがとう。そして本当にごめんなさい。

締め括りに書かれた言葉が記憶と重なった。ごめん、と言葉が反芻する。そんな陳腐な別れの言葉を彼の口から聞きたくなかった。彼が病室から出ていくたびに僕の心には寂寞が塞いでいて、それが永遠に続くだなんて猶更。俺は此処にいるよと言ったじゃないか。嘘つき。

死なないで欲しかった、本当に。

封筒に仕舞おうと便箋を畳もうとすると、ちくりと痛みが走る。指先、愛と憎が交わり流れる血が小さな傷口に紅く滲む。生の象徴。僕は死にたかった。もう生きたくない。でも、僕が病室から出ることはできないし、自殺することもできなければ病で死ぬことすらできない。きっと死神は僕の方を振り返っちゃくれないのだ。便箋を封筒に仕舞い直し、清潔なシーツに体を預けた。

夜が暗幕のようにして病室を塞いでいく。初めて夜が恐ろしく思えた。取り零した全てが終わってしまう気がしてしまうから。マットレスの冷たさは心までを凍らせて、微睡みに沈むことすら許してくれない。濃密な空間とは裏腹に、心はひたすらに空虚だ。胸に空いた空洞を彼と探した日々で満たそうとして、辞める。そうやって埋められたものは結局のところ無念であって、決して慰めにはならないのだから。

目を瞑る。ゆるやかな澱みと、永遠。僕はその始点に立っている。それは決して癒えることのない傷の始まりであり、ある種の呪いのようにも思えた。胸に空いた空洞が完全に埋められることは永久にない。ありふれた要素を彼がいる記憶で代替しようとしてしまって、その度に自分は苦悩するのだ。

閉じた瞼の裏に浮かぶ光の残像が星のように瞬く。自分が夜に溶けてしまったようだった。

ただ、彼の死を噛み締めている。


皓々と月の光が水面を揺らしている。夜の海岸というのは僕が思っていた以上に静かで冷たいものだった。君が死んだ冬。謂わば一回忌だった。

頭は死を希求しているというのに、それとは裏腹に身体はすっかり良くなってしまって、いつの間にか普通に生活を送れるほどになっていた。それでも自分の中に空いた死という名の空洞は、幾ら日々を消費しようとも満たされることはない。日常に紛れる事柄が彼と過ごした記憶を追想させて、そのたびにどうしようもない感情が心を穿った。

でも、そんな日々も今日で終わらせる。

僕は今、海岸沿いのコンクリートを自分の足で踏みしめている。彼と見た海、彼が死んだ海。あの時と同じ、真夜中の凍った海に飛び込んで僕は死ぬ。これできっとすべてが終わるから。苦悩も、悲嘆も何もかも。深く息を吸う。アスファルトの堤防を蹴った。

浮遊感が身体を纏うのも束の間。重力に従ってそのまま海に沈んでいく。溺れるというのはこんな感覚なのだなと冷静に思う。塗りつぶしたような宵闇の黒が広がるだけだ。静かに息を吐き出して、海底へと沈んでいく。そうしているうちに、次第に酸素が足りなくなる。それでも、意識が途切れるような感覚はない。

嗚呼、きっと僕は彼のようには死ねない。

心の奥底では分かっていた。僕は溺死のタナトーマも凍死のタナトーマも抜いていたから、こんなことをしたところで死ねるわけがない。着実に体温が下がっていく感覚があっても、身体は麻痺したように漠然と冷たいだけで。肺にある酸素をすべて吐ききっても、そこに求めていた死の輪郭はなかった。

苦しい。否、彼はもっと苦しかったのだろう。こんな彼を真似ただけの自殺ごっこじゃ敵わないくらいに。きっと君は僕のセイレーンだ。知らぬ間に君はあの歌うような声で僕を誘惑していたのだろう? その癖、僕は海に飛び込んだところで死ねないし、君は僕を置き去りにして死んでしまうのに。

どれだけ彼を模倣しても、交わるどころかきっと一センチも近づくことはできない。君の望んだ死の形は僕の掌中に存在していなかった。死の欠落した僕は、生を象徴する血の赤にもタナトーマの淀んだ赤にも薔薇の花の高貴な赤色にも溺れられない。ただ独り、すべてに置いて行かれたまま海中を揺蕩うだけだ。


でも。

それでも、僕は生きていかなければならない。彼が死んでしまった傷が癒えることは永久にないし、何度だって君の影が僕に纏わり続けて爪を突き立てるのだろう。どんなに苦しんでも僕は君が望んだように死ぬことはできない。

それでもいい。罰でも呪いでもなんでもなく、それだけが僕に残された道であり宿命なのだから。そして、彼の最後の祈りだったのだから。だから、本当の死にたどり着くまでまでこの地獄を藻掻いてやろう。例え終点に用意されたものが単調で莫迦げたものだったとしても。

まだ見ぬ死を見据えて、僕は水中を蹴り上げた。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。