運命の輪から出られずとも
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バタン、と扉が閉まる音が今日はいやに大きく響いた。目の前にはいつもと同じテーブル、いつもと同じ椅子、いつもと同じ間仕切り。同じ場所に置き、同じ位置で開いたノートパソコン、電卓、雰囲気だけはある分厚いファイル。いつもと同じ事務所の中の、いつもと大して変わらない応接スペース。今朝と比べれば缶コーヒー1本分だけ広くなった空間を見てハバキリは深く溜息を吐いた。それがこの頃彼の日課になっていた。

今日の客はきっともう来ないだろうという事がハバキリにははっきりと分かっていた。彼が帰り際に見せた笑みの名をハバキリは実によく知っていたからだ。客が浮かべた愛想笑いは拒絶の意思を微塵も隠せてはおらず、全身からこれ以上関わり合いになりたくないという主張を前にしてなおエレベーターのドアが閉まるまで顔色を変えずにいられたのは、ハバキリにとってはまさに奇跡と言う他なかった。

何がいけなかったのか。応接スペースの荷物を片付けながらハバキリは理由を考え始めた。必要な説明の数は2つ。いつも結論は2つ出るし、そして2つでなければならない。0は論外、1つでは説得力に欠け、3つ以上は手に余る。故に2つ。2つだけ理由を定めて対処する。それが彼にとって物事をスムーズに改善する最良の手段だった。急ぎすぎず、しかし悠長すぎもしないこのバランスがハバキリの性には合っていた。

「コースターが無かったな」

テーブルに残る結露の跡を拭き取りながら、ハバキリはそう口にした。月々の出費を考え、人生のイベントを設定し、生涯賃金を仮に決め、問題に対処するプランを練り、必要な保険を提示する。ファイナンシャルプランナーとの面談とはそういったものだ。考える事は多く、客にとって1時間の面談はあっと言う間だったはずだが、その間に汗をかいた缶コーヒーと濡れたテーブルを彼は気にしていなかっただろうか。ハバキリはそれを理由の1つとした。

「少し説明のテンポが早すぎたかもしれない」

また、持ち上げようとして落としてしまったファイルから渡せなかったライフプランがまろび出たのを見て、ハバキリはそう独り言ちた。いくらファイナンシャルプランナーが人生設計のプロといえども、素人に対してたった数度の面談でプロレベルの知識を与える事などできはしない。その前提にどこか甘えてはいなかったか。かの客はこれから下調べする気はあったのだろうか。興味無さげな生返事をしていなかったか。その観察が十分にできていなかったのかもしれない。

ハバキリはこうして2つの理由を見つけ出し、そしてほぼ同時に片づけを終えた。最後に布巾で応接テーブルを乾拭きして彼は軽く息を吐いた。

「よし、次からはコースターを用意し、そして客の様子をもっとよく見る」

そう言って勢いよく息を吐き、ハバキリは何か見ようとテレビのリモコンに手を伸ばしたが、横合いから現れた手が一足早くリモコンを攫っていった。

『───トライク・スプラッシュだァァ!』

『少し回転がかかりましたね。本来なら無回転で着地し───』

金色の硬貨から上半身を出して下品に笑う男の顔が映った瞬間、チャンネルが切り替わる。何度かザッピングが繰り返され、最終的に当たり障りのないニュース番組が流れ始めた。

どこか不満げにリモコンを置いた後輩のハムラは、空いたその手に2本の缶コーヒーを持ち直した。

「毎度毎度よく嫌にならないもんすね」

「ああ。まあ、慣れだよ」

お疲れ様です、と渡されたそれを受け取って、一口で飲み干してからハバキリは言った。

「ありがとう」

「もう1本要ります?」

そう言ってハムラはもう片方の手に持った分まで差し出した。

「いいのか?お前のだろ」

「先輩が飲むかと思って持ってただけっす」

「じゃあありがたく」

2本目を受け取って自分の席でちびちびと飲むハバキリをしばし眺め、ハムラはぽつりと問いかけた。

「どうして契約取らなかったんですか」

「何が」

「あんな煙に巻くようなやり方、先輩らしくない。あれじゃ逃げられて当然じゃないっすか。なんであんな事するんすか」

「巡り合わせが悪かったんだよ」

「それでも契約を取るのがファイナンシャルプランナーの仕事だって教えてくれたじゃないっすか。こっちもあっちもそこそこ得すればそれでいいんだって。今日のは真逆っす。客は望んだプランを諦めて帰るし、契約も取れてない。誰も得をしなかった」

ハバキリは口を歪めて言った。

「理由は2つある」

「客がタナトーマ抽出希望で来たからっすか?」

「そしてもう1つは」

「客がそれ以外を希望しなかったからっすか」

黙ってコーヒーに口許に運ぶハバキリに、ハムラは低い声で言った。

「本気で言ってんすか。時代は今まさに変わってるんす。人が死ななくなって、司法も業界も変わりつつあるっす。客の人生が変わってくのに僕らが変わらなくてどうするんすか」

ハバキリはとっくに空だった缶をテーブルに置き、椅子の背もたれに体を預けた。

「なあ、タナトーマってのは確かに便利だよ。危険地帯の出入りとか、有害物質の管理とか、命の危険が大きな仕事ってのはいくらでもある。そうでなくたって誰かの不注意で身内が死ぬのを防げるって言えばそりゃ魅力的さ。だけどタナトーマを抜いてそれで生活が良くなるかって言ったらそうじゃないんだ。法で定められた安全基準を守らなくて良くなる訳でもなけりゃ、立ち入り禁止区域が出入り自由に変わる訳でもない。当然道路交通法を無視して車を走らせていい訳でもない。普段と同じように生きてて、たまたま出くわしたとびっきりの不運が大したもんじゃなくなるってだけの事さ。それに死ななくなったから何だってんだよ。ああ抜いといて良かったなあなんて、死ぬような目に遭ってみないと思いやしない。本当は死んでいたはずなんだって気が付かないと死ななくなった利点なんて何も無い。だからタナトーマは医者じゃなく、俺たち保険屋の領分なんだ。そして俺は、こうも思う」

ハバキリは息を吐き、ハムラに向き直って言った。

「タナトーマ抽出ほど客を後悔させる保険は存在しない。保険屋としてこれを勧めるのは誠実ではないってな」

「ハバキリさんだって抜いてんのにすか?」

「抜いて手取りに倍率がかかるバカの資格手当がな。だがまあ、ふとその時の事を思い出しもするし、そもそも客とは事情が違うだろ。それで?お前はどう思う」

ハムラは目を逸らした。

「……言ってる事は分かるっすよ。死を防ぐと言いつつ全部が全部は防げないし、効果の程度を確かめるわけにもいかないし。そのくせ買い切りでたっかい金がかかりますしね。いくら唯一無二の商品でも慎重になって然るべきなのに、僕の客もみんな一も二も無くタナトーマを抜きたいって言ってきます。だけどそんなの今更じゃないっすか。最善ではなく次善を選ばせ、客と保険会社と僕ら、みんながWIN-WINだと思えるようにするのが僕らの仕事っすよ。それを教えてくれたのもハバキリさんっす。抜きたきゃ抜かせりゃいいじゃないすか。そんな事で悩むなんてハバキリさんらしくないっすよ」

「やめろよ。もうちょっと言い方ってもんがあるだろ。そんなに保険屋が嫌いか?転職先は決めてあるのか?」

「茶化さないでください。しばらくはやるっす……実際その辺りどうなんすか」

「そうだな……」

ハバキリは腕を組んでたっぷり10秒天井を眺めた。

「老衰ってどんなもんだったか覚えてるか」

「はい?いや、よくは知らないっすけど」

ハムラは目を瞬いた。タナトーマ抽出技術が発表された当時まだ高校生だった彼にとって、それは馴染みの無い死のひとつだった。ハバキリはその様子を見てしばし考え、例えばだが、と確かめるように呟いた。

「老衰死ってのは、加齢に伴う細胞の分裂速度の低下やら何やらで臓器の機能が衰えて……つまり飯を食えなくなったり消化できなくなったりして死ぬ事だ。この例で言えば全部の食べ物や水や空気がセロリみたいな、消化して得られるエネルギーより消化に使うエネルギーの方が多い物になる訳だ。自分で栄養を取り込めなけりゃ死ぬしかねえよな」

「そっすね?」

「ところが胃ろうっていうもんがある。口から飯が食えなくなった奴の胃に直通の穴を開けて、そこから栄養剤を入れて生かす医療措置だ。これを使えば老衰で顎が動かなくなろうが、固形物を消化できなくなろうが、果ては意識が無くなろうが栄養剤で生き続ける事ができる。そうやって生きてる老人の中にはもう家族と会話ができず、目も見えず、傍から見てりゃ生きてるかどうかも分からん方もいるそうだ。そこまで行くと命の終わらせ方をご家族が考えてやらなきゃならん。でもよ、そうやってとっくに老衰を通り過ぎてる老人を、老衰で安らかに死なせてあげたいって涙ながらに言うご家族がいるんだそうだ。それで、老衰はもう通りすぎて今はその先にいますって伝えると何言ってんだって顔をするらしい。話が違うって喚く奴らもいたんだと」

「嫌な話っす」

「全くだ。タナトーマ抽出も同じだよ。極端な話、死ななくなるなら死にたい時には自分で死のうとするしかない。自分でやれなきゃ誰かに殺してもらわにゃならん。そう気付いた時に客はこんなはずじゃなかったって思うんじゃないか?騙されたって思うんじゃないか?騙されたなら人は自分以外に責任を求めようとするもんだ。俺らの方に追及が来るとは限らない。でも客が誰かに責任を負わせようなんて思った時点でそいつはWIN-WINじゃねえんだよ。そしてお前が言ったように、俺らの仕事は客と保険会社と俺ら、みんなでWIN-WINする事だ。タナトーマ抽出を俺が売らないのはそういう事」

ハムラは口を開き、しかし喉まで出かかった言葉を反芻するように口を閉じた。それを何度か繰り返し、最後にゆっくりと頷いた。

「分かったっすよ。ナマ言ってすんませんした」

ちょっとトイレっす、と事務所を出ようとするハムラの少しだけしょぼくれた背中にハバキリは声をかけた。

「ハムラ、ありがとな」

「何がっすか」

「心配してくれたんだろ。最近俺の成績悪いから」

ハムラはちらりと振り返った。

「違いますけど今度飯奢ってくださいっす」

「おい鬼かよ!月給落ちてんだって!」

バタン、と防火扉が閉じる音を聞き、ハバキリは思わず浮いていた腰を下ろした。再び静けさに包まれた事務所の中にはエアコンが吐き出す風の音と、壁掛け時計が立てる秒針の音だけが響いていた。

『客の人生が変わってくのに僕らが変わらなくてどうするんすか』

ハムラの言葉が耳に残っていた。発破でもなく、激でもなく、詰問でもない、恐らくはそこまで深い意味を込めた訳でもない言葉。だが、直情的なハムラが感情を押し殺して注意深く口に出した限りなく本音に近いそれは、ハバキリ自身焦りと共に胸の奥に封じ込めていた言葉でもあった。

「分かってんだ。そんな事はよ」

思わず漏れた呟きはエアコンが吹かせる無機質な風にただ溶けていき、いつもと同じ午前11時だけがそこに残った。



「実を言うと私はアメノではないんですよ」

「なんですって?」

事務所の応接テーブルに着いて、目の前の男から開口一番発されたその言葉に、ハバキリは耳を疑った。1度目の顔合わせを兼ねた面談を経て事務所に招いたその男は、確かに前回はアメノと名乗っていたのだ。予想外の事に面食らいながらもハバキリは平静を保つよう努めた。

「それはつまりアメノさんの代わりに来ているとか、勝手にアメノさんを保険に入れようとしている、というような意味ですか?」

「違います。いや、そうなのかもしれませんけど、少なくとも今言ったのはそういう意味ではありません」

「と仰いますとどういう事でしょう」

ハバキリの声が固くなったのを感じ取ったか、アメノは一度目を伏せた。そして大きく息を吐き、ハバキリを真っ直ぐに見つめて言った。

「別人なんです。私は、アメノという体の中にいる、全く別の人間なんですよ」

アメノの意図を掴めず、ハバキリはしばし考えた。アメノの目は真剣そのものだ。何か切羽詰まっているかのように震え、テーブルの上で拳が固く握られている。少なくともアメノ本人にこちらを騙す意図は無さそうだった。

「もう少し詳しく聞かせてもらう事はできますか?」

アメノは首肯し、テーブルに肘をついて手を組んだ。

「私にはアメノではない、別の人間として生きた記憶があります。そしてその逆にアメノとして生きてきた記憶は無いんです。より正確に言えば、アメノとしての記憶はある時点から始まっています」

確かにアメノは最初にファミレスで待ち合わせた時の第一印象からして、何かおかしな男だった。身なりは整っていた。スーツはよく手入れされ、体にぴったりと合っているオーダーメイド。ワイシャツの代わりに着るタートルネックのセーターもすらりとした印象を与える、カジュアルにキマった長身によく似合う男性的な服装だった。にも拘わらず実際にはまるで似合っていなかったのだ。ヘアスタイルはいまいちスーツ向きとは言えず、短い髪で長髪向けの整え方をしているようにも見えた。腕時計も高価そうだったがこのスーツに合わせるには派手すぎた。さらに言うなら、やましい事があるはずもないのに周りをやけに気にするその姿は服に着られているような印象を強く与えた。

もしも彼の言う通りならばその違和感には説明がつく。つくが、2つの疑問が残る。どうやって彼がアメノになったのか、そしてなぜ保険に入ろうと相談してきたのか。それを確かめるべくハバキリは問うた。

「そのある時点というのは」

アメノ、あるいはアメノではない男は今日も着ていたタートルネックに指をかけ、前かがみになって首元を開けた。

「この男、アメノが首を吊った日ですよ」

彼が見せつけた首元は、トラロープがきつく縛られて食い込んだまま紫色に鬱血していた。息を呑むハバキリにアメノは笑った。

「調べていく中で、アメノはタナトーマ抽出を過去に受けていた事が分かりました。窒息死、溺死、轢死、失血死……他にも金に任せて色々と」

「窒息死を抽出したのに首吊りで自殺を?」

「そこです」

アメノは椅子に座り直し、首元を直しながら言った。

「アメノは自分にタナトーマを注入したようなんです。状況からして恐らく窒息死のタナトーマを」

「なら余計に首を吊った理由が分からない。タナトーマを注入した時点で死ぬか、死に損ねてもそこそこ重篤な症状が出ているはずなのに」

「推測にはなりますが、死ななかったのだと思います。私も窒息死というラベルの張られた小瓶と、割れたシリンジを見つけただけです。記録も領収書も無かったので違法に入手したものなのでしょう。粗悪品を掴まされてパニックを起こしたのかもしれません。ともかく重要なのは、いいですか、アメノに窒息死のタナトーマが注入され、その後アメノが首吊り自殺を試みたという事です。私は体が落下した衝撃で目を覚ましました。気が付いた時にはロープが食い込んだままのアメノの体で見知らぬ部屋に倒れていたという訳です」

話し終えたアメノはハバキリの用意した缶コーヒーに手を伸ばした。

「気になる事はまだありますが……どうお呼びすれば?元の名前は何と言うんですか?」

「そうですね。トツカと呼んでください」

「ではトツカさん、失礼ですが貴方は何をしにここへ?聞く限りでは、これは警察やタナトーマの取り扱い会社の領分ではないかと思うのです。私のようなファイナンシャルプランナーに何を求めているのですか?私にできる事と言えば保険の紹介と仲介程度しかありませんが……」

「それです。私に保険を仲介してください。タナトーマ注入防止保険を」



トツカを見送った後、ハバキリは事務所の扉の前でへたり込んだ。具体的な話をするには時間が足りないとどうにか話を切り上げたものの、今更になって頭が痛くなってきていた。

『私の、元の私としての記憶は窒息死のタナトーマ抽出を受けた時点で終わっています。思うに、窒息死のタナトーマに保存された私の一部が裏に横流しされ、粗雑な精製と注入によってアメノに宿ったのでしょう』

『元の私は何事も無く生活しています。この目で見ました。私はアメノではなく、しかしアメノ以外の誰とも言えない存在なんです』

『私はこのアメノという人間に人生を返さなければならないと思うんです。彼の人生を奪ってまで私が存在している事を正しいとは思えない。きっと逆をやればいい。窒息死のタナトーマを抽出すればそれは叶うはずです』

『だから、ハバキリさん。アメノの手に二度とタナトーマが渡らないようにしたいんです。アメノの部屋は薬や酒で溢れていました。きっと気を病んでいただけなんです。だから、生きていて良かったとアメノが思える日が来るまで彼が死なないようにしたいんですよ。調べたんです。タナトーマ注入防止保険ならそれが適う。保険契約が法的効力を以てあらゆる機関に永続的に作用する手段は他に無い。その契約が終わったら、落下死とか焼死とか、まだ抜いてないタナトーマと一緒に窒息死の抽出を受けるつもりです』

『ダメなら、まあこのまま死ぬだけです。結局これって義務とか責任より自己満足って面が強いですし。そういう運命だったって事で』

「何だってんだよ……なんか悪い事したっけか」

端的に言えば狂人だった。アメノ───本人の言を鵜呑みにするならトツカ───の言葉は一見筋が通っているように見えて、その実ほぼすべてが推測と憶測と状況証拠でできていた。しかも、本人の言が100%正しいという前提に立った上で。ハバキリは経験則として知っていた。そういう手合いの言う事には逆らわず、速やかに受け流すに限る。

やっと人心地ついて座り込んでいると、ガチャリと事務所のドアが開いてハバキリは背中から倒れこんだ。

「うおっ先輩何してんすか!?」

「あー……ちょっと疲れた」

「なんでもいいけど立って!とりあえず出てってください!僕の客が半から予約を入れてるんすよ!」

「マジか。すまん、すぐどけるよ」

気付けば時刻は午後5時を回っていた。応接スペースから荷物を片付け、ハバキリはハムラの客が来る前に急いで事務所を後にした。



「1つは狂人を見抜けなかった事、もう1つは次の予約を取り忘れた事か。アメノさんには明日にでも電話しておかなきゃな」

ぶつぶつと反省点を呟きながらハバキリは廃ビルの横を通り過ぎた。

ハバキリが務める保険代理店は繁華街からほど近く、電車通勤のハバキリは毎朝毎晩駅へと向かうために、その繁華街の隅を掠めるルートで10分ほどの距離を歩いている。老若男女問わず人々で賑わう中心部とは違って外縁はところどころに廃墟が残り、どちらかと言えば閑散としている側の地域だ。

ハバキリが目指す方向にある廃ビルからは時折悲鳴と歓声が聞こえてくる。タナトーマ抽出者の間で最近トレンドの落下スポーツだ。正式名称をハバキリは覚えていなかった。ただ、高さ50m以上の地点からコインの山に飛び降りて着地の綺麗さを競う、水泳の飛び込みの地上版のようなものだと曖昧に理解しているのみだ。観客も参加者もそれなりに気が大きく、近くを通るとたまに割れた酒瓶やら釘の抜けた釘バットやら、武器らしきものを持ってふざけて笑う奴を見る。

繁華街の巨大テレビが流すコマーシャルの騒音と自らの安全を天秤にかけ、ハバキリは騒音を避ける事を選んでいた。それほどまでにコマーシャルは煩く不快だ。そしてもう1つ、ハバキリがタナトーマに否定的なのもそれを不快に思う理由だった。

『人類の叡智!タナトーマ!辛い事故、後遺症、全ておさらば!人類はもはや死の運命では縛れない!詳しくはお近くの保険代理店まで!』

そうまでしても耳に入る騒音にハバキリは顔を顰めた。社会を回す歯車がどこか狂ってしまったような感覚がどこに行ってもついて回った。タナトーマが人の根底に根差すものを塗り替え、人々の意識を塗り替え、そして世界は様変わりしていく。基準がズレるのではなく狂い、乱れ、てんでんばらばらに整っていくような未来がハバキリの頭の中には居座っていた。

人類は死を克服したのだと嘯く者は多い。タナトーマという名前がそもそもギリシャ神話のタナトスから来ているくらいだ。それを体から取り去る事で死の運命から逃れたと考えるのは分からなくもない。だがそれが喜ばしい事であるとハバキリは思ってはいない。ギリシャ神話において死を司るタナトスに対し、生を司る神はいない。誕生や再生を司る神はいる。だが、生命そのものは司らない。神々ですら死を恐れ、タナトスを恐れ、遠ざけ、そして死んでいった。

神々でさえ支配できない生を、死を遠ざけた程度でどうして手にできたと言えるだろう。タナトーマを抽出した後でその意味を理解する者は少なくない。永遠の生を恐れ、逃れようと死を選ぶ者、選ぶ事すらできずただ道端に転がる者、そして精神に異常を来す者……アメノ───トツカもきっとそうだったのだろう。永遠を生きる悲惨さに気付いてしまい、心を守るために都合の良い妄想を作り出したのだ。

そうこう考えている内にハバキリはスポーツ会場のビルのすぐ傍まで歩いてきていた。何の気なしに見上げると、今まさに選手が飛び降りたところだった。金網の破られた屋上から雄たけびを上げながら落ちていく男が歓声と共にビル前に積まれたコインに突入し、黄金色の飛沫をまき散らす様子がスクリーンの大画面に映されていた。

『ワオ!カタギリ選手の得点は~!8!7!7!22点!クロイ選手を2点上回り暫定1位に着けましたァ!』

『スピニングコインスプラッシュが上手く決まりましたね。得意技を今回もしっかりと決めてきました。縦回転が合わず着地地点のレフトコインが少し乱れたのが悔しいですね』

『オオヌマさァん!今のジャァンプ、まだ改善の余地があるって事ですかァ!』

『一般に高度二段落下コインパイルクラッシュとは違い、高高度落下コインパイルクラッシュという競技においてコイン乱反射の完全制御はコインで隠された地面状況によるところが大きく、ほぼ不可能と言われています。寧ろカタギリ選手は運の要素が非常に大きいレフトコインをよくこの程度の乱れに抑えたものです。あの縦回転も最後まで軌道修正を続けており、非常に素晴らしいジャンプでした』

『なァるほどォ!さァ残る選手は5人!だがここからは小手先では通用しない領域のようですねェ!この先どんな大技が飛び出すか目が離せなァい!』

趣味の悪さに思わず呻き声を上げ、ハバキリは廃ビルを映すスクリーンを見上げた。抽出の質が良くないのか、それとも繰り返し過ぎて妙な癖がついたのか、血と臓物をまき散らしながら飛び散った選手の体が逆再生のように元に戻り、何事も無かったかのように立ち上がって歩き去った。入れ替わるようにして散らばったコインを集め始めたスタッフからカメラが離れ、選手が登る非常階段にフォーカスした。次の選手、その次の選手、階段の下で待っている選手を含めればおよそ10人はいるだろうか。その中ほどにハバキリはトツカの姿を見て取った。昼間と同じ服が良く目立っていた。

意外に思いつつも、そういえば色々抜いてるんだっけと納得し、帰路に戻ろうとしたハバキリは、記憶の隅に引っかかる違和感に足を止めた。嫌な感じだ。ハバキリは疲れた頭から相談時に受け取った受信記録やら健康診断結果票やらを探し出す。

『人類の叡智!タナトーマ!辛い事故、後遺症、全ておさらば!人類はもはや死の運命では縛れない!詳しくはお近くの保険代理店まで!』

───その契約が終わったら、落下死とか焼死とか、まだ抜いてないタナトーマと一緒に窒息死の抽出を受けるつもりです。

弾かれたようにスマホを取り出したハバキリはトツカの電話番号が分からない事に気付いた。今持っているのは番号を交換した社用スマホではなく私物の方だ。会社の人間の電話番号すら入っていない。

舌打ちをしてハバキリはスクリーンを振り返った。そこには階段を上るトツカがまだ映っている。その顔をカメラがアップで映す。ぎらついた目だ。

トツカはこのまま死ぬつもりだ。気づいたハバキリの脳内に咄嗟にいくつもの問いが浮かんだ。なぜ?次の予約を取らなかったから見捨てられたと思ったのか?気まぐれか?何かの発作か?あるいは元からそのつもりだった?自分に責任はあるか?止めてどうなる?そこまですべきなのか?

狂人に肩入れすべきではないと理性は言っていた。無数の理由でハバキリを引き留めようとした。だが、走り出す理由は2つだった。それが何なのか具体的に思い浮かべ、吟味する時間すら惜しかった。2つあると直感したというその事実こそが今この瞬間において真実だった。

ハバキリは駆け出した。入場口には誰もいなかった。すれ違いざまに口笛を吹いたコイン回収スタッフは乱入を歓迎しているような節すらあった。

ボロい階段が酷く軋む。上を登っていたトツカがハバキリに気付き、逃げ出すかのように走り出した。

「トツカさん!」

アメノは前を行く選手を押しのけながら上へ上へと登っていく。突き落とされた選手たちを避けながらハバキリは追った。距離は遅々として縮まらず、飛び込み台が近づいてくる。

「来ないでくれよ!なんでだよ!」

『おっとォ!?何かトラブルですかァ?』

『選手が順番争いをしているようですね』

『楽しみなのは分かるが興奮しすぎだァ!だが高高度落下コインパイルクラッシュは寛容だぞ!』

『イレギュラーにも対応していますのでご自由にどうぞ』

無責任な事を宣うアナウンスを聞き流し、ハバキリはトツカを引き留めようと駆け上って腕を掴むが、その手をトツカは必死になって振り払った。

『人類の叡智!タナトーマ!辛い事故、後遺症、全ておさらば!人類はもはや死の運命では縛れない!詳しくはお近くの保険代理店まで!』

「運命なんだよ!俺みたいなのに居場所なんか無い!アメノだって死にたいんだ!いいだろ!あんたのせいとかじゃない!ここしか行きつく先が無いだけだ!」

ハバキリは一瞬怯んだ。伸ばした手が勢いを失って空を切った。歓声がビリビリと階段を震わせる。トツカは何度も後ろを振り返り、もつれながらも最後の段を駆け上った。そのままトツカはすぐそこ、飛び込み台の横に吸い込まれていく。

「トツカさん!」

ハバキリはトツカを追い、ビルの壁面を蹴って飛び込んだ。

『跳んだァァァァァ!』

追いついた。手首を掴んだ。壁蹴りの分ハバキリの方が速かった。暴れるトツカを抑え込み、ハバキリはどうにか回転しながら落下軌道を修正する。

『ダブルジャンプ・パイルクラッシュ!レギュレーション違いですが熱いですよこれは!』

『人類の叡智!タナトーマ!辛い事故、後遺症、全ておさらば!人類はもはや死の運命では縛れない!詳しくはお近くの保険代理店まで!』

2人してコインの山へと突っ込んでいく。コインが飛び散る。激しい衝撃を受けぼやけていく意識の中で、万雷の喝采だけが最後まで鼓膜を揺らしていた。



『ワウオォォォ!今の得点は~!10!10!10!スゲェ!文句なしの30点だァーッ!』

『時間差落下からのスパイラルロール・ブレイカー。セカンドジャンパーがファーストジャンパーを軌道修正しながら不足する回転数を見事に補いました。飛散コインが描く真円も美しい。これを参考記録としなければならないのが残念です』

『すげェダイブだったぜ!』

鳴り響く歓声の中、ハバキリは白昼夢から復帰した。目の前ではトツカが必死になってハバキリの肩を揺すっている。手を退けて立ち上がるとトツカは驚愕に裏返った叫び声を上げた。

「は、ハバキリさん、なんで!」

大げさに声を荒げるトツカにハバキリはなんだか気が抜けてしまった。

「いやあ、ほら、俺は落下死のタナトマはゼーバッハで抜いてるから……俺が下だったからあんたに行く衝撃も無になったんでしょう」

「違う!なんでそこまで!」

トツカは叫んだ。続く言葉は歓声にかき消され、ハバキリの耳には届かなかった。観衆がめいめいに投げつけてくるチップから頭を守りながらハバキリはおざなりに辺りを見回して、スーツの袖が無くなった左手を振った。一層大きくなった歓声に顔を顰め、ハバキリはトツカの手を引いてバックヤードへと足を進めた。そしてすれ違うコイン回収スタッフの姿が消えた頃、振り返ってトツカへと告げた。

「理由は2つありますけど、あなた、死にたいって言わなかったじゃないですか。妥協なんでしょう。アメノを乗っ取って生きてるのはダメで、乗っ取ったまま死ぬのはいいって?そんな馬鹿な話があるもんか」

『人類の叡智!タナトーマ!辛い事故、後遺症、全ておさらば!人類はもはや死の運命では縛れない!詳しくはお近くの保険代理店まで!』

聞き慣れた騒音はメイン会場を離れてもなお響く群衆の歓声に呑まれ、どうにか聞ける程度になっていた。口を閉ざしたままのトツカに見せつけるようにハバキリはこの場所からでも目に入るディスプレイに目をやり、鼻を鳴らした。

「あんな事言っちゃいますがね、誰がどんなに逃げたって運命ってやつからは逃れられやしない。だからこそギリシャの神々はタナトスを恐れ、遠ざけた。逃げられないと分かっていても。死をちょっとばかし遠くにやってみたところで、依然として俺たちは運命の中にいるままです。アメノを乗っ取っちまったあんたは最初からずっと、いずれ死ぬという運命に囚われている」

トツカはハバキリの手を振り払った。トツカは拳を握り締め、振り向いたハバキリを睨めつけて叫んだ。

「だから私は!」

それきりトツカは口を閉ざした。迷いを孕んだ目だった。迷いながらも最善ではなく次善を選ぼうと決め、そうする事自体に更に悩む、そんな目だった。ハバキリはそこに己の姿を幻視した。回る社会に抗うのではなく現状維持へ逃げる事を選んだ己に向けて彼は言った。

「だったらそこに辿り着くまでは変えられたっていいでしょう。いずれ、どのみち必ず死ぬ。そこが変わらないまま、運命に縛られたままであっても、きっと。そして」

ハバキリは胸元から手帳を取り出した。幸いにもシャーペンは軸が曲がらないままそこにあった。

「2つ目の理由は、貴方の人生について話すためです。次の予約、来週の土曜は時間あります?」

「え、あ、基本全部空いてます、けど」

ノッカーが駄目になったシャーペンに舌打ちをして芯を先端から入れ直し、ハバキリはその日に丸を付けた。

「じゃあそこにしましょう。来週の土曜日、午前10時。今日と同じ事務所で待ってます」

手帳を閉じたハバキリは返事を待たずにその場を去った。襤褸のようになったスーツを思い出したように脱ぎ捨ててから。

いつもと同じ午後6時、いつも通りの帰り道に吹く風をハバキリは初めて知った気がした。

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