さよならだけが人生だ、なんて
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「ごめん彩ちゃん、今日帰れなくなった……」
電話口から聞こえてくる申し訳なさそうな声に、誰かの怒号やお互いを労う声、慌ただしい靴音のノイズが混じる。気にしてないよ、という声に含んだ棘に気づかずに、また連絡するねと言って私の恋人は電話を切った。画面に浮かんだ通話時間の00:30の数字が、私がどう思われているかを示しているようで、直視したくなくてそのままスマホの電源も切る。
恋人は刑事らしい。日本の平和を守るために、日常のすぐそばで働いている。らしい、というのは全然仕事の内容を教えてくれないから。普段は守秘義務ってやつね、と気にしないでいられるけれど、こういう時はどうしてもその無機質さを恨んでしまう。急な予定が入った回数なんて、一緒に住み始めてからもはや数えるのもやめた。
しゅんしゅんと音がして、つけっぱなしのカセットコンロを振り返る。二人用のかわいらしい土鍋から、白い泡が吹きこぼれている。
「あー、もう……」
スマホをソファーに放り投げて、ねじ切る勢いでつまみを回す。土鍋の右側で描かれた赤い花が濡れてつやつやと光っている。
何だかもうどうでもよくなって、鍋を拭きもせずに立ち尽くす。今日は鍋なのに。こんなことなら、苦手だって言ってた春菊をもっと入れればよかった。春の味とパッケージに書かれたビールを飲みながら、これって冬と味変わってるのかな、なんて話す予定だったのに。
何で今日に限って、二人の予定がちょうど合って次の日も休みって完璧な日に限って、帰ってこないんだろう。
こんな日にとんでもなく面倒くさい犯罪に手を染めた馬鹿がいるのか、あまりに穏やかだから怒るのさえ何かに咎められているみたいで苦しくなる春の夜に。凶悪殺人犯じゃないよね、そうだったとしてあいつだけはどうか無事で、いやいや何であんな奴の心配なんか、そもそもどうして帰れなかったのか聞いてないし聞く気もないし……。
考えるのが嫌になってきて、空腹のままソファーに身を投げ出す。スマホに手を伸ばして、電源切ったから再起動してちょっとだけ重いブラウザの検索エンジンに近くで起きた事件って入れようとして、かわりにいつものプレイリストをそこそこの音量で流す。
女性歌手多め、失恋ってほどじゃないけどあたしあなたに飽きてるの、もうちょっとこっち向いてっていかにも女々しいのにそのくせ最低限のプライドは保ったそんな歌ばっかり流れてくる。飽きるほど聴いた歌詞を口ずさんでみると、自分の中に溜まっていた何かがちょっとだけ溶けて流れていく気がした。
たぶん、どこかが壊れかけているんだろうなと思う。ヒビの入った関係を見るのが嫌で、苦しくて、私が見ないふりをしているだけで。本当はもっと若くてかわいい子に会いにいっているのかもしれない、って想像しては自己嫌悪に陥っているだけ。
いっそ浮気ならどれだけいいか。恋人にも言えない危ない職業って、いつからこの国の刑事はスパイ映画みたいな任務につくようになったんだろう。
ベッドの淡い光の中で見た生傷を、これ以上増やさないでほしいと腕に縋った日のことを考える。私の頭を軽く撫でて、大丈夫って根拠のない笑顔を見せてくれたことも。
どうか無事でいて、ここに帰ってきて、ってちっぽけな願いがどうして言えないんだろう。当たり前すぎて他の人達は改めて形にすることもないような願いに、どうして私だけこんなに振り回されているんだろう。いっそ怪我でもしてしまえばいいと思った直後に、そんなの現実になんてなるな、と思いっきり打ち消す。どうして、心から恋人の無事を願えないんだろう。
すっかりぬるくなったビールを手に取って、うじうじした歌を止める。プレイリストから抜け出して、曲名なんて思いつかないから適当にそれっぽい言葉を並べ立てる。サムネイルの髪を振り乱したギタリストは音楽に疎い私も知ってるくらいの人で、だったらこれでと再生ボタンを押す。
今はうるさいくらいのロックが聞きたかった。

「……ねぇ、何で怒ってるか分かる?」
声に出すとつまらないドラマの台本そのままで、あまりにも面倒くさい女のそれでどうしようもなくなってため息をつく。早朝に帰ってきてドアを閉めたばかりの彼氏が戸惑った顔をしているのも、何だか気に入らなくてまたわざとみたいに息を吐く。
おかえりって笑顔で言おうと思ってたのに。その顔を見たら、何だか心にブレーキが効かなくなってしまった。
「約束が守れなかったから……じゃ、ない?」「違う」
「本当に悪かったって、もう終わったと思ってたのに急に……とにかく、緊急だったんだよ」「違うってば」
こんなに察しが悪くて、よく刑事なんかが務まるものだ。だいたい昔から優しいくせにどこか抜けてて、そのくせこちらに真意を悟らせない飄々とした態度で、お人好しででも実は独占欲強くて、だから本当は刑事に向いてないっていつも思ってる。
そんなので、よく大丈夫ってあんないい笑顔で言えたよね。
「じゃあ、何?だって記念日じゃないし……」
「なんでまた怪我して帰ってきてるの!?」
私は気づいてしまったのに。右手の甲を、さっきから大きな体に隠すように頑なに見せてくれないのを。
「あー……その、後始末でちょっとごたごたしてて……今は平気だから」「じゃあ、見せてよ」
そう言うと目をそらす。そんな目立つところを隠せると思ったのか。私、やっぱりこの人に舐められてるのかな。
「見せられないんじゃん……」
ねぇ、どうして、と感情がめちゃくちゃなままぼろぼろ零れていく。疲れて帰ってきた恋人を困らせたくないのに、よりもう知らない、全部全部どうでもいい、ここで別れたっていい、が勝って、
「なんで、なんで隆太だけこんな目に遭わなきゃいけないの……」
それが溢れるように私のお腹のあたりを刺して、うずくまってしまう。これじゃ泣いてるみたいで嫌だ、この人のために泣きたくない、心配かけたくない、が制御できないままお腹の奥でぐるんぐるんと暴れて気持ち悪い。
そんな私を見て恋人は、佐貫隆太は、さっきまでおろおろしていたのが嘘みたいにすっとしゃがんで、
「心配してくれたのに、ごめん」
そう言って私を包み込んだ。勝手に震える背中に手を伸ばされて、丸ごと抱きしめられているって分かって、暴れていた気持ちが口から漏れる。押し込めていた言葉が、堰を切ったように漏れてくる。
いかないで。「うん」ずっと一緒にいてよ。「そうだね」
ちゃんと無事に、帰ってきてよ。「……ごめんね」
何で謝るの、ってその優しい声でとうとう決壊して泣きわめいている間ずっと、隆太は私の背を撫でていた。その体温があまりにも久しぶりに思えて、私は体の中の水分を全部絞るような勢いで泣きじゃくった。

「これからも怪我はするし、絶対に予定に間に合うなんてことはないし、たぶん何度も彩ちゃんに心配をかけると思う」
それでも辞めるなんて考えられない、と隆太は言った。私は隆太の淹れたお茶をゆっくり飲んで、それからず、と鼻をすすった。
「大事な仕事なんだ。俺にとって働くのは誰かを守るってことで、それは彩ちゃんの日常も守るってことだから」
まぁ給料もいいし、と格好つけたのが照れくさくなったみたいに付け足す隆太の表情はそれでも誇らしげで、それが何だか悔しくて。
「私は……その日常の中に、隆太にもいてほしいな」
でも、嬉しくて。何でかは、よく分からないけど。
「そうあれるように、頑張るよ」
隆太はそう言って笑った。優しい笑顔のまま、それでも瞳は真剣だった。
「そうだ、まだビール残ってる?」「あるけど……朝から飲むの?」
帰ってきたのは朝の6時くらいだったはずで、今はそんなに時間は経っていないだろう。まだカーテンの外には朝もやがかかっているし、部屋の中も薄暗い。
「飲むのは昼から外で。彩ちゃん、今日は花見でも行かない?」「え、うん」
何だか急な提案だったので反応の薄い私に、隆太は目を丸くする。
「あれ、行きたいって前言ってなかったっけ」
そういえば少し前、桜の花が蕾だった頃にそんなようなことを話したような気がする。電話越しだったかこんな風に直接言ったのかすら私は忘れているっていうのに、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
胸に湧いてきた暖かな気持ちがやっぱり悔しくて、でもくすぐったい喜びもあって。私の唇は自然と笑顔の形になる。
「いいよ、行こう」

私たちが住んでいるマンションの近くには、そこそこ大きな公園がある。植えられた桜は風にあおられて、はらはらと惜しげもなく淡い色の花びらを散らしていた。並んだベンチの一つに座って、持ってきたお弁当とビールを並べる。ビールの缶に描かれた桜も、陽気にあてられてきらきらと水滴を弾いていた。
ふとベンチの下に目をやると、アスファルトのヒビの中で、小さな緑が空に向かって伸びていた。名前も知らない雑草を、慈しむように桜が降ってくる。午前10時の青い空はどこまでも澄んで青くて、周りは平和な一日を描いた絵みたいだった。
「花に嵐のたとえもあるぞ、ってなんかあったよね」
平和すぎて何だか現実味がないな、と考えてしまった私のカーディガンを風がくすぐる。お前はこんなに幸せなのにこれ以上何を考えることがあるんだ、と言うように。
「ああ、さよならだけが人生だ、ってやつ?」
「あの『花に嵐』って、どういう意味なんだろう」
隆太の右手がスマートフォンに触れる。カジュアルな長袖のシャツの袖口から、今朝巻いた包帯が見え隠れしていた。
「物事には邪魔が入りやすいもののたとえ、だってさ」「なんかそれ、隆太みたい」
その教訓めいた言葉は恋人と過ごしてきた日々そのものみたいで、私は何故だか笑ってしまう。
こんな日々はいつか修復不可能なくらい壊れてしまうかもしれない。どんな形で、終わりが訪れるかは分からないけれど。私か隆太のどちらかが相手と過ごすのに耐えられなくなってしまうのか、あるいはもっと唐突で無慈悲な幕引きがあるのか。
いずれにせよ私たちは未来をまだ知らないし、きっとまだ知らなくたっていい。
さよならだけが人生だ、なんて悲しいことは、その時言えばいいのだから。
不意に強い風が吹いて、地面から桜の花びらが巻き上げられる。座った私の目線の高さまで、くるくると踏まれて傷ついた薄桃色が舞い上がる。小さな嵐のようなその光景が、何だか無性に愛おしかった。

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