ウィスコンシン州、スロースピットの町は長閑な朝の光に包まれ、その異常さとはかけ離れた心地よい静寂の中にあった。地表の下から湧き出てくるどこか奇妙なオーラを、ある者は踏みつけるように、またある者は舞い上がらせるように、緩やかにカーブした道路を歩いていく。ひそひそ話、歯の生えた鳥の歪なさえずり、かさかさ音を立てる木の葉、それら全てをつんざくかのように、不協和音が響き渡った。
「何ですって!?」
女の甲高い声が家々の壁を揺らし、道行く人々だけでなく、小さな翼の生えた犬、川を悠々と泳いでいたリオプレウロドン…とにかく全てを飛び上がらせた。
「え、せっ、世界が終わる……!?そんなはず…」
「シーーーッ、おいウィング、しっかりしろ!町のど真ん中でそんな大声出すんじゃない!」
男は顔を顰め、人差し指を口の前で立てた。直後、どこからともなく青々とした一房のバナナが上空に現れた。バナナは勢いよく落下し、口を閉じかけた女ことエージェント・ウィングの頭に直撃した。
「痛ぁっ!フン、ちょっと年上だからって偉そうにしないでよファラン……はあ、ここじゃあご法度だったわね、罰金どうしよう。」
頭を押さえるウィングを横目に、男ことエージェント・ファランは話を続けた。
「まだ確定事項とは限らない。いつもの通り、あいつらの予言さ。さっき森でアンディ達から聞いたんだ。」
「アンディって、ユタラプトル・ジャクソンスローシのアンディ?」
「他にどのアンディがいるんだよ。まあそれは置いといて…」
ファランは辺りを見回し、ウィングを建物の陰に誘導した。
「ともかく、アンディだけじゃない。スロースピット中の未来予知が出来る存在全てが、一斉にそう言った……いや、正確に言えばそう感じたらしい。」
薄い埃のヴェールを被った壁に2人のエージェントはもたれかかった。ウィングが怪訝な顔をしながら遠慮がちに話し始める。
「……それ、博士達に報告すべきじゃない?そんな大規模なものは初めてよ。パイク博士なら耳を傾けてくれるはず。可能ならウェイス管理官にも。」
「ああ、後で報告するつもりだ。ただその前にお前に相談したいことがあってな。」
「何よそんなに改まって。でもどうして私なんかに?」
「同じとこの担当だから、だけじゃ理由にはならないか?」
「……オーケー、それで、何?」
「妙に予言が的確なんだ。だから確定事項じゃないと言い切れるかどうか……」
つい先程までファランが纏っていたどこかへらへらとした雰囲気は、彼が俯くと同時にどこかへ消え去った。同僚の急な変化にウィングは少しばかりの不安を覚えた。
「的確、ねぇ。確かに今までの予言は種類は違えどどこかあやふやだったわ。いつ起こるかもバラバラだし。」
「64日後。」
「え?」
不安は的中してしまった。今、彼は何と言った?聞き捨てならない数値に彼女は耳を疑った。
「64日後に、世界が終わる。」
64日、2ヶ月と数日。
「……それを私に相談して、どうして欲しいの?」
驚きのあまり、そんな腑抜けた質問を投げかけることしかウィングには出来なかった。案の定ファランは困惑していた。
「あ……いや、その…ううん、仕方ないよな。」
「ごめんなさい。気を悪くしないで、私もまだよく理解できてなくて。64日って…」
「とにかく、ここで悩んでても仕方ない。博士達に報告しに行こう。」
「あっ、ちょっと…!」
急に訪れた会話の終わりと歩き出したファランのスピードについていけず、ウィングは縁石に躓いてしまう。先程までの会話が無かったかのように、何食わぬ顔で遠ざかっていく同僚の姿を見て、彼女は悪態をつかずにはいられなかった。
「何よアイツ……。」
立ち直りが早すぎる。さっきまで相談に乗ろうとしていた自分が馬鹿らしい。何をして欲しいのだろう。
ぶつぶつと文句を零しながらも、彼女はファランの後を追いかけ、気づけば目的の建物の真ん前までたどり着いていた。控えめな音を立てて開いたドアを通り、彼は中へと入っていく。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ファランは足を止め、振り返ってウィングを見た。唇を動かし音を発そうとするものの、目線を泳がせて言い淀む様からは、彼の迷いと後悔がはっきりと見て取れた。
「…すまない、やっぱり俺はお前を巻き込みたくないんだ。さっきのことは俺がなんとかするから、忘れてくれ。」
意見をころころと変えるファランに、ウィングの怒りは頂点に達していた。
「忘れるなんて出来る訳無いじゃない!そんな、64日だなんて、ねえ!もしその予言が本当だとしたら、私達は64日後に…」
「大丈夫だ、きっと博士達がなんとかしてくれる。俺だって最初聞いた時は驚いたし怖かった。64日後に滅ぶなんて、不気味なくらい的確だ。でもよく考えてみろよ?」
ファランは目の前に聳え立つ建物を仰いだ。
「サイト-87には俺なんかより優秀な奴らが沢山いる!俺が担当しているアノマリー達よりもずっと危険で恐ろしい代物を担当している奴がそこかしこにいるんだ!きっとこの予言のことを知っても、俺たちみたいに慌てず、冷静に対処してくれるさ。」
それとこれとは訳が違う、とウィングは反論しようとしたが、ぐっと唇を噛み我慢した。サイトの前で言い合っているところを他の職員に見られでもしたら厄介なことになるからだ。しかもここはスロースピットだ。何が引き金となり、物語力ナラティブフォースによって何が起こるかは誰にも分からない。彼女は深く息を吸い、気持ちを落ち着けた。
「確かにそうね。あなたの言う通りだわ、ファラン。でも一つだけ言わせて、信頼しすぎるのは—」
「信頼するしかないんだ。」
レベル2のセキュリティクリアランスじゃ大して何も出来ないじゃないか。そう吐き捨てると、ファランはサイト-87の中へ消えていった。
日が西へ沈む頃、一仕事終えたエージェント・ウィングはサイト内のカフェテリアで束の間の休憩時間を過ごしていた。時間帯もあってかカフェテリアには人が多く、耳を澄まさなくともそこかしこから会話が聞こえてくる。
「今日のサイト-87はやけに騒がしいね、一体何があったんだい?」
「そうね、昨日シンクレア博士とレイノルズ博士がハイ・ブラジルに向かったらしいけど、それと関係あるのかしら?」
「魔術に詳しい人間が必要だと聞いたよ。あそこはあそこで最近大変らしいからなあ。研究にも向いてそうだしね。」
「そうそう、僕が休憩中に川で釣りをしていたら急にでっかい恐竜みたいなのが出てきて、釣り竿ごと餌が食べられちゃったんだ。」
「それより聞いた?またヘンドリクス博士が虫の幻覚を見たらしいよ。」
「またあ?可哀想な人……」
「シッ!すぐ近くに本人がいるぞ!」
幾らか気は紛れたものの、朝の一連の出来事を完全に心から追いやることは出来なかった。ホイップクリームが乗ったココアをちびちびと飲みながら、ウィングは窓の外を眺めていた。すると、メッセージの受信を知らせる音が彼女の耳に飛び込んできた。ウィングははっとして携帯を手に取り、半ば反射的に画面を指で叩いていた。
新着メッセージがあります
今日 17:50
今朝はすまなかった
今どこにいる?
直接会って話し合いたいことがあって
数秒考え込んだ後、ウィングは返事を打ち込み、送信した。
カフェテリア
大丈夫、こっちこそごめん
OK、すぐ行く
ふぅ、と息を吐き、画面から顔を上げると、視界の端に見慣れた顔が飛び込んできた。
「あっ、ファラン…。」
ウィングが名前を呼ぶより前にファランは彼女の姿に気づき、駆け寄ってきた。何故か彼のズボンの裾はびしょ濡れだった。
「ズボンどうしたの?びしょ濡れじゃない!」
「神学部門の奴らがまた試験室を水浸しにしたんだよ。それにちょっと巻き込まれてな。」
向かいに座った彼を見て、ウィングは少しばかりの気まずさを感じた。彼、ちょっと疲れてる?私のせいだろうか。何の用があって会いに来たのだろう。俯いて考え込んでいると、その思考を遮るかのようにファランが口を開いた。
「それで、話なんだけど。」
背筋を伸ばし、ウィングは聞く姿勢を作った。
「あの件が早速噂になってる。信じる素振りを見せてる人が少ないのが救いだ。皆アノマリーの戯言だと思ってるからな。」
「それなら安心…ね?」
「管理官に報告したら上に持っていってくれた。これに関する協議は流石に極秘事項だから俺達が知る由もないけど。」
「私達、記憶処理の対象にはなるのかしら?」
「特例で免除だ。俺達はあのアノマリー達の担当だし、忘れちまったら職務に支障が出るからな。ただ誰にも言うなよ、仲の良い親友にもな。」
「分かってるわよ。いつも通り、明日も明後日も担当のフィールド任務に集中すれば良いのよね。」
「そういうことだ。」
ファランはコーヒーを1口啜り、話を続けた。
「きっと博士達は忙しくなるだろうな、スロースピットの管理に手が回らなくなるだろうし。俺も手伝いたいのに。」
彼は首にかかった職員証を見やり、そこに目立つように刻まれた数字の小ささに溜息を漏らした。あと1でも大きければ直接的な手伝いも夢ではないだろう。
「…何もクリアランスレベルが低いからって、役に立てない訳じゃないわ。」
「え?」
ココアを飲み干し、立ち上がったウィングは呆気に取られるファランを見据えた。
「私達には私達の仕事があるわ。確かにあの件に関われないことはもどかしいけど、だからといって何もせず羨んでるだけじゃダメよ。私達の仕事はスロースピットの人々を守ってアノマリーの様子を見ることで、これは私達にしか出来ないこと。それぞれ出来ることをして、サイトを成り立たせていくのが財団職員たるものの使命なんじゃないの?」
翌朝、日が昇らぬうちにエージェント・ファランとエージェント・ウィングは共にブラスト・ウッズに向かっていた。予言通りに終わりを迎えるかもしれない世界で、他でもない自らの職務を全うする為に。最早2人の目には迷いは無かった。