蜘蛛ノ糸
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「愈々旅順、戦火激しく、我も撃ち出す大山砲。難攻不落の大要塞、露西亜の立てし大坂城を、撃ち貫かむと気炎上ぐ…彼もさる者我が軍を、幾度退く高地の砦。二〇三の真田丸、死累を持って舗装せむ…斯くの如くにあろうとも、陣営にある凍霧博士、尚も頭脳は冷静に、千手の仏と紛うばかりの神技繰り出し傷痍兵、忽ちの内に立上がる。博士の高き大発明、皇国科學の白眉なる、かの縫合糸を用ゆれば、例え離れし腕と体、繋がりてすぐに生き返す。華佗扁鵲をもひれ伏さす、釈迦牟尼尊の蜘蛛ノ糸、是あるかなと見たり…」

一人、男が立っていた。寄席の前には、幾つもの鮮やかな大幟が翻り、芸人の名をどこまでも響しめんとしている。
「七代目神林伯玄」
そう染め抜かれた幟の下で、彼は黙然と寄席の戸を見つめていた。
「七代目神林伯玄 『凍霧男爵博士 旅順仁術物語』」
大きな赤字と、白衣を着た男性、そして釈台で大きく振りかぶった初老の講釈師が描かれたポスター。
彼は、ポスターの中で大いに語る自分自身を、ただ見つめていた。
昭和十六年の春。七代目神林伯玄は、一人ため息をついて、街の奥へと歩き出した。

伯玄は、東京東南八丁堀に当時構えられていた神林派の寄席である「伯楽亭」から西の青山をさして歩いていた。
道筋をまばらな電燈が照らしていたが、昨今の節約か、或いは物不足かでその殆どがチリチリと明滅を繰り返す。その度に、群がった蛾が寄る辺を求めて、戸惑う様に空を彷徨った。彼にとっては単なる停電よりも、この不規則な明滅の方が、より帝都を覆う暗さを際立たせているように思えてならなかった。

昭和十六年に至り、大日本帝国を愈々戦争が飲み込もうとしていた。大陸の戦火は収まることは無く、「国民政府の膺懲」とやらは永遠に終わらないかに見える。
銃後である筈の本土も無縁では居られない。国家総動員の名の下に、寺の鐘や銅像は無論の事、家の鍋釜さえも供出された。米や砂糖を店で買う事などとてもできず、必要な物は全て決して足りることのない僅かな配給と、実際量に比して多過ぎる切符が唯一の供給源となった。
とはいえ伯玄にとって、物資不足だけならば単に愚痴をこぼすだけの事であったろう。彼を真に暗澹たる思考の中に落としたのは、彼らの生業とする文化精神の世界にまで、無粋な闖入者が併呑を試みようとした事である。
昭和十五年の日本芸能文化連盟創設によって完全に、彼らの世界から自由は消失した。孤高を貫いてきた神林派でさえ抗えぬ濁流に、全ては沈み込んでしまった。
「曽根崎心中」は姿を消して、代わりに「国性爺合戦」が幾度も上演され、世話物や怪談の代わりに「太平記」や「赤穂義士伝」が幅を利かせた。
楠正成は日に十度も朝敵を打ち破り、百度も七生報国を誓って息絶えた。
神林も同じだ。かの四代目や六代目が手がけた真の名作は悉く黴の生えた書庫に仕舞い込まれ、代わりに彼らが歯牙にも掛けないような、雑多な筋立ての演目を幾度も高座にかけた。
「凍霧男爵博士 旅順仁術物語」は伯玄にとってその筆頭だった。

「この身は遥か四〇〇里、旅順の営にあろうとも、絶えず思うは故郷の地、遠き陛下のおわします、帝都のありし大八洲。御国の光輝を知らしめん、我こそ科學の将なりや、我こそ医道の帥たらん…」
思わず口を継いで出た言葉に、伯玄は苦笑した。一昨日も、昨日も今日も、そして明日もまた口にする言葉である。かの物語の大序、あまりにもかけ離れた一片の機智もない始まりであった。
物語の起源は、明治期における講談の名人の一人とされる、六代目伯玄がその最晩年である大正元年、日露戦争に題をとった新作長篇「旅順英傑伝」の中で演じられる「凍霧博士の奮戦」だ。
当時六代目がこの作品を発表した時の世間のとんでもない反響は、まだ二つ目だった伯玄もありありと覚えている。同業の講談や落語漫談の芸人連中は無論の事、帝国陸軍や文壇の小説家さえも賛辞を贈ったものだった。
中でも「凍霧博士の奮戦」は「六代目畢生の傑作」と讃えられ、かつての軍医総監が寄席を訪れて曰く
「軍医が如き光の当らぬ英雄を、斯くも華々しく描き出し、世にその功を知らしめた」
と直接六代目に述べた事はなおも語種となっている。
この作品によって、長きに渡って知る人ぞ知るの扱いであった神林派は、全国にとは言わずとも、東京では名の知れた流派に成り上がったのであった。
伯玄によって独立した演目として書き直された後は、現代の時局も相まって再び注目が集まり、今となっては神林派の演目の中では最も頻繁に演じられるものとなった。
「『大日本帝国科學の第一人者』、『生ける帆村荘六』、『千年の大偉才』…。きっとこれを見たら、男爵閣下も苦笑いするだろうなあ。いつの間にか、当人も師匠も離れて独り歩きしてしまって…」
凍霧博士について、伯玄は特段思い入れを持ってはいなかった。初めてあったのは、今から三十年以上も前の、まだ六代目が現役だった頃。
寄席の楽屋を訪ねてきた彼を、師匠の下まで案内した。長い黒髪を綺麗に後ろへ撫で付け、若々しい顔つきの紳士だった。自身と同年か、歳上でも十には及ぶまいと思っていた。瞳は同じ日本人であるのに、全く違う人種のように見えて、口許はギリシアの彫像のように、絶えず薄い笑みを浮かべていた…。
それ以降も伯玄は、襲名の折や年始の挨拶などで彼に会う機会があったが、その印象は変わることがなかった。

実際のところ、凍霧博士、或いは六代目の意図を知る者は、世人にあっては伯玄の考える限り一人もいなかった。博士についてはおそらくこの世の誰一人として心を測れないだろうし、六代目については故意に目を背けているのだろう。
六代目が付けた題の意味を世間が知れば、恐らくは神林派ごと演目は葬り去られる事は疑いなかった。

気がつけば伯玄は、銀座を過ぎ、宮城の濠端を歩いて目的地まで着こうとしていた。
青山の一角を占める、森に囲まれたその場所。青山霊園に、伯玄はゆっくりと足を踏み入れた。

夜の暗闇の中に、幾つもの影が屹立しているのが見える。あれは誰の墓だろう、あああれこそ犬養総理の墓だ、あちらにあるのは市川團十郎の…。
などと考えつつも、伯玄は影を横切りながら進み続ける。目指しているのは、兄の墓だった。
伯玄にとって、兄とは二人いて、一人だった。
一高では俊英の誉高く、弟には愛情深かった血縁の兄、高宮孝一。
芸道にあっては、絶えず厳しくも見捨てる事なく、その真髄を伝えた兄弟子、神林伯隼。
伯玄にとって兄は愛すべき肉親であり、憧れの人物でもあった。もしも、兄があの旅順で死んでいなければ、伯玄の名は自分のものではない筈だった。
風の吹き貫く墓地の中で、伯玄は一人兄の思い出に打ち沈んだ。

幼少期。兄はその時から優れていた。近在で兄を悪く言う子供など一人もいなかったし、大人でさえもそうだった。
頭を撫で乍ら、いつも心からの笑みを浮かべている人だった。
中学校を経て、一高に合格した時は、家を挙げての祝いをした…。
そして、親の断乎たる反対を押し切ってまで兄は神林の門を叩いた。真打になるまでに、十年とかからなかった。気がつけば兄は、五代目神林伯隼として不動の名声を築き上げていた。
明治三十七年。全てが変わった。あの日も、兄は変わらずに笑っていた。笑って自分の頭を撫でながら、必ず帰ると約束した筈だった。

結局のところ、兄は白木の箱で凱旋した。
その報せを、自分は二つ目披露の終わりに聞いた。慌てて家に戻り、弔問客の相手をする両親を押し退けて、仏間で兄に会った。
兄は仏壇の前に座って、無言で自分を出迎えた。
きっと自分は泣いていた事だろう。兄の姿は滲んで、今でも思い出せないのだから。
自分は徐に、箱の蓋に触れた。せめて最期に、一眼でも顔を合わせたかった。例え遺骨とも言えぬ灰だけでも、或いは肌守りか軍帽だけでも。兎に角兄が生きた証拠を見たかった。
そして自分は、箱の蓋を開けた…。

そこで伯玄はふと我に帰った。丁度そこは兄が葬られている墓の前だ。
彼は墓石の前に向き直り、そっと側面に触れる。御影石のひんやりとした感触と、刻まれた名前の形が手を通して伝わってくる。
「高宮孝一 享年二十九」
「高宮孝一 最終階級 少尉」
「五代目神林伯隼」
兄の名が刻まれた様々な物が、伯玄の中に蘇って来る。

そうだ。自分は蓋を開けて…

 ーー『兄達』と対面したのだ。

箱の中には、一際目立つしゃれこうべに、未だ形を留めていた幾つもの骨と…輸送する最中に崩れて余ったのだろうが…粉になった骨と灰が混ざり合った物が下に積もっていた。
嗚呼、本当に兄は死んだのだと。自分は更に泣いた。涙の粒が、幾つも灰の中に落ちた。そして諦めて、蓋を閉めようとした時だ。
それは顔を出したのだ。蜘蛛の糸だ。箱の隅に、幾本かの白い蜘蛛の糸が固まっていた。だが、それは程なくして動き始めた。
蜘蛛の糸は兄の骨の上を這い回り、しゃれこうべの目から脳髄へと入り込み、灰の山に坑道を掘った。
驚く暇などなかった。這い回る糸はなおもその数を増やして、兄を貪るようにその上を埋め尽くしていった。
右目から顔を出したかと思えば、白い灰の中に紛れ込む。最早、何匹いるのかなど数えるのも馬鹿らしかった。うぞうぞと滑りながら、骨に穴を開け、兄を段々と溶かし去って…兄でない何かに作り替えようとしていた。
自分は蓋を閉じて、箱から離れた。兄と蜘蛛の糸が共に籠居するその箱から。
葬る時も、自分は決してその箱に触れようとは思わなかった。父が箱を運ぶのを、強ばった表情で見つめるだけだった…。

からん、ころん。
場違いな下駄の音が、彼を現実に引き戻す。
からん、ころん。
自分の方に向かってくる下駄の音。伯玄は、墓石から視線を外した。
音の主は、ゆっくりとした歩みで近づいてくる。
黒の長羽織に緑の上衣。白い袴に下駄を履いた、長身の男。彼は夜から滲み出るようにして、伯玄の前に姿を表した。
「ああ孝次、弟よ。僕の弟よ」
「その声、いいや、そんな筈はない。兄さん、兄さんのわけがない」
短く揃えた髪に、薄い眉。瞳の大きな眼は愛情ぶかげに細められ、口許は笑みに満ちている。
「悲しいことを言うんじゃない。僕はお前の兄じゃないか。僕はお前にとっては二人の兄じゃないか」
「違う。私の兄は、旅順で死んだ。こんな所にいる筈が無い」
伯玄は呻きながら後退りした。顔は猜疑と恐怖に満ちて、目の前の誰かを凝視している。
「弟よ。どうか、目の前のものをそのままに信じておくれ。僕は、またお前に会いにきてやったのだ。僕はこうしてここにいるのだよ」
「ああ兄さん。もし兄さんがここに居るのなら、きっとそれは幻影か、さもなくば迷い出た幽霊だ。兄さんは還るべきではなかった。兄さんは、ここに来るべきじゃなかった」
「そうとも孝次や。僕は黄泉からこうして戻ってきたのだ。随分と遅くなってしまったが、お前に祝いを述べようじゃないか。僕を追い越して、お前は伯玄の名前を継いだ。草葉の陰で、僕がどれだけ誇らしく思ったか。どうか、この握手を受けてはくれないか」
そう言って伯隼は手を伸ばす。着物の裾から、白く細い手がのぞく。そして、その手が伯玄のそれと触れようとした時。
手の甲から、何かがぽとりと落ちた。

一本の糸だった。手の甲から落ちた糸は、薄く湿った地面に触れて、もぞりと身を捩らせた。
「蜘蛛の糸だ」
伯玄の口から、言葉が漏れる。正しく、それが合図だった。
ごぼり、という重い液体が動く音がしたかと思うと、兄の手からは幾千本もの蜘蛛の糸が生え出して、地面へと落ち始めた。
伯玄が咄嗟に顔を上げると、ついさっき迄笑っていた兄の顔は苦悶に満ちている。しかし、程なくして其処も、口や眼から、髪から生え出でた蜘蛛の糸に埋め尽くされた。
「ああ弟よ、弟よ。どうか僕を見る勿れ。どうか僕を見る勿れ」
自身を縛り上げ、埋め尽くす糸の中で、伯隼は悶え、のたうち回った。
「ああ、おとうとよ ぼくのおとうとよ ああ みるなかれ みるなかれ」
地の底から聞こえる様な悍しい声が、糸の海から響いた。

  あゝおとうとよ みるなかれ みるなかれ
  かくもあさましき あにを みるなかれ

…程なくして伯玄は我に帰った。
線香はすでに燃え尽きて、辺りには雨が降りつつある。
「幻だったのか」
誰に問いかけるともなく、伯玄は呟いた。
蛇の目傘をさして、霊園を出ようと彼は向きを変えた。

雨は更に降り募り、霧の中に彼の姿を覆い隠す。
蜘蛛の糸は、地上から伸びようとしていた。

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