出囃子の裏で
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 明治四十年二月。
 日露戦争を制したのは、余りに小さい東洋の帝国であった。しかし、無傷ではなかった。
「師匠、如何ですか。懐具合の方は?」
「伯道。お前も偉くなったもんだな。俺の弟子の中で一番真打になるのが遅かったってェのに、今じゃ師匠の懐の心配か?」
「まさかまさか。最近の恐慌でもって、どこもかしこも懐寂しい時節ですから。我々神林派も、中々苦しい舵取りをしてるじゃありませんか」
そう云って四代目神林伯道は、釈台の上の張り扇を持ってまた座布団を引いて座った。
「伯道。お前は余計な事考えずに、手前の弟子を食わせる事だけ考えな。全員真打になるまで、お前は講釈師をやめちゃなんねえぞ」
「勿論です、師匠。今年、前座から一人二ツ目になりましたが、本当に才能のある子です。真打までしてやらなきゃ、私が地獄に落ちますよ」
「いい心がけだ…。伯秀が結核で逝って、伯隼が乃木将軍の下で死んじまったから、俺以外の神林の真打は伯太郎とお前だけになっちまった。頼むぞ伯道。俺の懐具合なんか心配するんじゃねえ、手前と、手前の弟子のことだけを心配するんだ」
「承知していますよ…。全く、やっぱり師匠はどこまで行っても良い師匠です…。冗談のつもりだったのが、すっかり諭されちまいましたよ」
「はっはっは。若造が爺をからかおうとしちゃなんねえよ。しっぺ返しが来るぞ。ほれ、もう出番じゃねえか。出囃子が鳴る前に、袖に行ってこい」
「はい、師匠」
 伯道が立ち上がり、袖に出ていくのを彼は黙然と見つめていた。髪はすっかり白くなり、顎髭も伸びている。
伯道の姿が見えなくなると、彼は傍の写真を手に取った。手塩にかけて育てた弟子たちの写真である。それを見つめて、小さく溜息をついた。
「師匠?伯玄師匠?」
「おう、どうしたい」
楽屋に入ってきた若い弟子の声で、ふと我に帰る。
「師匠にお会いしたい、と云う方が」
「なんてェ名前だい?」
「えと…こ、凍るに霧って書く人で…」
「!直ぐにここへ通してくれ。それからお前、通したらしばらくここへ帰ってきちゃいかん。誰かここへ来ようとしても通しちゃならんぞ」
「え、何故でございますか?」
「良いから。ほれ、ここに五十銭ある。これで頼むぞ」
「は、はい。承知しました」
弟子は急いで楽屋から出て行く。そして、若者特有のせかせかした足音と、律動的で落ち着いた足音が聞こえて来た。そして、楽屋の戸が開く。
「お久しぶりでございます。伯玄師匠」
「こちらこそ。…凍霧博士」
 六代目神林伯玄と凍霧天は、互いに頭を下げる。その中には、単なる儀礼ではない、当人達にしか分からない多くの感情が込められていた。
 
「まずはこちらを…。お納め下さいませ」
「いつも、ありがとうございます。お陰様で、弟子にも腹一杯食わしてやることができます」
凍霧が伯玄に幾らか資金を渡すのは、半ば常態化している事であった。最後の江戸っ子を自負する伯玄にとって、弟子を食わせるのに他人の金の世話になる事は耐えがたいものであっただろうが、元より町人の伯玄。武家の高楊枝とは無縁である。
「如何ですか?男爵と云うのは…」
「華族と云った処で、変わった事は何も。万事今迄通りです」
「左様でございますか」
何でもない世間話。しかし、その裏では互いに真意を探り合っている…訳ではない。正確に云えば、伯玄の方が凍霧の真意を測ろうとしていた。凍霧にとって、他人の意思を慮る必要など無い。凡ゆる人間に対し凍霧は、無関心であり、その全ての会話はたといそれが国を揺るがすものであっても、彼は世間話と同じように云ってのけるだろう。伯玄は凍霧をそう見ていた。
「ところで、伯玄師匠」
「何か?」
「今日は一つ、お願いを申し上げたく参りました」
「他ならぬ貴方様のお願いでございましたら」
「今迄私は貴方がた神林派の皆様に、寡少とは云え御支援をして参りました」
「今迄の多大なご厚意、心より感謝申し上げます」
「その借りを返せ、と云う訳ではございませんが…」
凍霧は伯玄に近付いて云った。
「貴方がたの演目を、私に教えて頂きたい」
 意味が分からず、言葉を返せない伯玄に構わず凍霧は話を続ける。
「神林派とは、不思議な流派です。伯龍1や貞山2と並ぶ歴史があり、六代目の師匠は一昨年亡くなられた二代目伯圓3にも及ぶかと云う名人です」
「おやめになって下さい。伯圓先生の様なお方と一緒になさっては、あのお方に失礼でございます」
「ご謙遜なされる事は有りませんよ。事実、神林派は伯玄師匠の腕前で成り立っている。話を戻しましょう。貴方がた神林派の講釈師達は、著名な講釈師だと云うのに『赤穂義士伝』の様な著名な演目を殆ど演じられる事はない。皆様が演じられるのは、全て『一門で創作された物』ばかりです。歴代伯玄、またはその高弟が作者となった誰も知らない様な演目…」
「それが、神林の流儀でございます故」
「ええ、それ自体に奇妙な事は何一つございません。独創的な、神林派しか持たない演目を見事に演じられている。素晴らしい事です。しかし、むしろ私が興味を持っているのは、その内容です。神林の演目には、ほぼ例外なく『人智を超えた何か』が現れます。滑稽噺、忠孝もの、怪談まで」
「それは特段変わったものではありますまい。四谷怪談や真景累ヶ淵も、同じ様なものでございましょう」
凍霧は首を振る。そして、小さく笑いながら云った。
「ご存知ですか?神林派の演目で描かれる変事や奇怪な存在は、皆『実在しているもの』なのですよ」
 伯玄は凍霧を改めて見返す。その灰色の瞳は、僅かな動揺と何処か納得した様な理解の色があった。
「師匠はご存知無いでしょうが、この国には古来より人智を超えた存在、文明開化によって流入した最新の科学によっても説明の付かない異常存在、そう云ったモノを研究し、人々の目から覆い隠す使命を帯びた組織があります。そして神林派の演目は、そう云った組織が持つ多くの文献の記述と符合しているのです」
「…つまり、貴方は…」
「ええ。私は、そう云った存在を研究する事を生業としています。貴方がたに支援をしましたのも…」
「準備が整うまで、神林派を存続させ演目の散逸を防ぐ為、と」
「流石は『妖怪伯玄』。全てお見通しですか」
「…我々は、お客様以外凡ゆる同業者から爪弾きにされて来た集団です。寄席をやればお客様は来て下さる。しかし、同業者から嫌われているが故に演芸場は中々使えない。そんな我々に、貴方の様な方が手を差し伸べて下さるのです。私の様なボンクラでも多少は疑念を抱くでしょう」
「成程成程…。まあ構いません。先程も申し上げた通り、もう準備は整いました。貴方がたの演目とその情報を、私は最大限に活かせる様になったのです。そして、今神林派は危機に陥りつつある。利害は一致していると思われますが?」
 伯玄は黙り込む。やはり凍霧にとって、講談などさしたる価値を持つものではなかったのだ。神林に近づいたのも、その「演目」が欲しかっただけだったのだ。
 しかし、彼にとって選択の余地など存在しない。神林一門の為には、受け入れざるを得ない。その筈であった。そして伯玄はゆっくりと口を開く。
「凍霧博士…。貴方は一つ、失念なさっていることがございます。それは私達が『講釈師』だと云う事です」
「?そんな事、わかり切っているではありませんか」
「いいえ。貴方は、講釈師にとって最も大切な事を理解しておられない。貴方は『演目への感謝』を知らないのです。私達にとって、『演目』は単なる金稼ぎの道具ではありません。お客様に喜んでいただく為の大切な財産であり、講釈師という生業を伝えてくれる生き証人です。落語家にしろ、歌舞伎役者にしろ、昔から連綿と受け継がれて来た演芸の人々の中に、演目への感謝をしないものは一人たりともありません」
「……」
「確かに貴方は、弟子の不始末で爪弾きにされ、多くの真打を失い、風前の灯となった神林を救って下さった。それには心より感謝しております。もし貴方が講談に興味がおありなら、私が何十席でも申し上げましょう。しかし、私は貴方に『講談を読む』事はできてもお教えする事はできません。それは、講釈師としての矜持の問題です。演目への感謝のない人間に、お教えする演目はございません」
「…やはり、伯玄師匠はそう云うお方ですね。根っからの講釈師です。かの四代目最後の直弟子にして、五代目から直々に伯玄の名を譲られただけの事はある」
「……」
「貴方が真打になって初めて口演した自作演目。貴方の師匠の演目でしたね。あれは実に傑作でした。本当に面白かった」
「……」
「しかし、些かやり過ぎましたね。本当にあった事とは云え、大っぴらにあんな話を振り撒くのではなかった。師匠の噺の巧さは、師匠の弟子の方々まで命を危うくさせたのですよ」
「……!」
「先程申し上げた通り、この国には怪異を普通の人の目から覆い隠す為に活動している者達が居ます。そんな人達にとって、神林派は邪魔な存在でしかありません。非力な講釈師の師匠方が、話の通じないあの連中からどうやって身を守るおつもりですか?」
「…つまり、貴方は」
「私は何もしません。しかし、『彼ら』は違います。それだけは心に留めておかれる様お願いします」
敗北である。伯玄にとって、自分が死ぬ事など恐れる程のものではない。しかし、彼にとって弟子は何より大切であった。これで、勝敗は決したのである。
「ありがとうございます。師匠。お約束は守りますよ」
「ああ…。但し、これはあくまで貴方と私個人の契約です。私は『六代目伯玄』ではなく『木部伸太郎』として貴方と契約したのです」
「よく心得ていますよ…。では、肝心の演目なのですが、お教え願いたいのは一つだけです」
「一つだけ?」
「ええ。お教え願いたいのは…」

  あの、「緋色の鳥」の演目です

六代目 神林伯玄
本名: 木部伸太郎
生没: 1844年-1913年
神林派中興の祖、四代目伯玄が生前最後にとった直弟子。四代目の死後は五代目に師事。明治に入り活動を本格化させ、明治二十年に伯玄襲名。以降指折りの名人として名を馳せる。怪談噺を得意とした事と、その腕前から「妖怪伯玄」と渾名された。大正二年死去。その葬儀には、かの凍霧天男爵も参列し大きな話題となった。

(平成二十八年刊 近代日本演芸史より)

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