天上天下之廻物
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 えぇ、金は天下の廻りものと申しますが、これは天下のみならず、天上の世にも同じと云うそうでございます。これまた不思議なるお話、何卒御一席お付き合いの程お願いを申し上げますが。
 江戸の白壁町の、ある貧乏長屋に次郎吉と云う独り身の男が住んでおりました。この次郎吉と云う人は、まあ所謂ところの江戸っ子でございまして、常々「宵越しの銭は持たねぇ」などと風を吹かせておりましたが、これが江戸っ子と云いましてもあまり宜しくない江戸っ子というわけでございまして。
 と申しますのもこの男、博打はしませんし着る物も裂けたり穴がなければ良いと云うものでございましたが、何が好きものと云って酒と廓通いでございます。その上あんまり心持ちもできた方ではございませんで、酒を喰らってへべれけになるなんてのはこれはしょっちゅうの事。廓へ行きまして女郎やなんかに「ねェ、おとっつぁんが病でもう幾らもないのよ。わちきはあんただけが頼りなのよ」などと云われて、良い気になって懐の一両二両のなけなしの金もくれてやってしまうと云うわけ。
 そんなものですから、いくら職が有っても金に困らない日はないと云う。酒屋大家は当たり前、表の八百屋に反物屋、果ては近所の子供からも一文二文の銭を借りようとする始末。近所のものはみんな、「あの次郎吉に金を貸しちゃあなんねえよ」と話し合っていたそうで。
 さて、お話は師走の頃。次郎吉にとりましてはこれほど嫌な時節もありません。と云いますのは、今はもう違っておりますが昔はツケ払いというのが普通でございました。ツケにしておいてくれと云いまして、年末にまとめて溜まった金を払うという。
 方々に金を借りてる次郎吉にとっては、師走というのは皆一斉にこれを取り立てに来るから宜しくない。金は返さなくてはならないが、返して仕舞えば素寒貧でもって、酒の一杯も正月に飲めない、元より借りてる金を全部返すだけの蓄えなんぞも無い。ですからなんとかしてこれを切り抜けなばならぬわけでございまして。
 さてさて、いかにこの瀬を超えるかと次郎吉思案をしておりますと…。
 「おうい、おうい。次郎吉さんや」
「…何だい大家かい…。こらうるさくて敵わんねぇ、居留守使うかね」
「おうい、おうい。次郎吉さんや。あたしゃ大家の十兵衛だよ。ん?おらんかえ」
「………」
「次郎吉さんやあ、居らんなら居らんと返事をしておくれな」
「へい、おらんですよ!」
「莫迦だねあんた。居らんものがそう返事なんかする訳ないだろう。居るんだね、入らしてもらうよ」
「あぁ辞めてくれ。外は風が強くって敵わねえ。蝋燭の火が消えちまうでないの」
「何を云ってんだい。煮炊きの薪にも困るような奴が蝋燭だのなんだの持ってるわけがあるかい。おおこりゃひどいねぇ、一体いつから竈門の灰を掃除してないんだい。最近パッタリと煮炊きの煙を見なかったのはそういう訳かい。ん?」
「ええからとっとと戸を閉めとくれ。風が吹き込むから寒くって寒くって」
「なっさけないねぇまったく。そう蒲団の中に何も蝸牛見たいに引き篭もってないで、はよう出てきな。ほれ、もう戸は閉めたから」
「へいへいこりゃどうも…。しっかしこんな朝早くっからご苦労さんですねぇ大家さん」
「莫迦な事云うんじゃ無いよ。なんだってこんな朝からお前さんみたいなもんのとこに来るかね」
「こっちだって来てくれって頼んだ訳じゃありやせんぜ」
「あのね、お前さんも身に覚えがあるだろう。もう師走も終わりに近いんだよ?なのにお前さんと来たら、借りた金はおろか家賃も碌に入れないじゃないか。これじゃああたしが年を越せないよ」
「いやあ俺ァそんなに金を借りましたかねぇ。他の人のと勘違いしてるんじゃあありゃあせんかね」
「云い訳はもう聞かないよ。いいかい、家賃と貸した金と、しめて五両。年が明ける前にきっちりこれを返してもらわなきゃ」
「うへえ五両。そりゃあ大儀な金ですよ大家さん。今この通り俺ァ碌に金が入らんですよ。見てくださいやこんの薄い財布。一両はおろか一分幾らも入ってやしませんよ」
「それはお前さんが酒に女にも使ったからじゃないか。あたしの知ったことじゃないよ。とにかくほら起きな。そうして寝てるんじゃあ、一文も金はなんとかならないよ」
「こりゃ仕方ない。なんとかして金を工面するしかないですなぁ…」
 とまあこんな風情で、大家十兵衛に追い立てられた次郎吉。長屋の外に出まして裏の方から表に出ようと歩き出します。するとそこに大きな声で、
「お前!次郎吉か、次郎吉じゃな!」
と呼びかけるものがある。
「なんだいあの大声は…誰かと思えば酒屋の甚五郎旦那じゃないか。まあた厄介な奴に捕まっちまったねぇ」
「待て、待て次郎吉。まるで人を妖怪みたいにして見た途端逃げ出しおってからに」
「いやあ甚五郎の旦那。こりゃどうもご無沙汰で」
「ふざけるんじゃあないよ全く。次郎吉、お前幾らツケを溜めてるか分かってるんだろうね?」
「へい、三両一分で」
「莫迦。それっぽっちじゃとても効かないよ。お前さんね、お前さんのツケがもう二十両も溜まってるんだよ?」
「二十両!?冗談じゃありやせんよ旦那。そんな金何処にも無いでさあね」
「そっちこそ冗談をお云いでないよ。お前さんの振る舞いを今まで堪忍してきてやったがねぇ、流石にもう駄目だよ。もし年明けまでに金が返せないと来たら、もうお前さんに酒は売ってやらんからな」
「ひゃあ!それは困ります旦那。なんとか堪忍してつかあさいな。俺から酒を取り上げるなんて、地獄の鬼でもしませんぜ」
「嫌だと云うならとっとと金を拵える事だね。ああそうだ、向こうで質屋の幸助さんがお前さんを探してたよ。お前さんに貸した十両が一向戻らないから、いい加減にしてくれと」
「いやあ…全く、本年も越せますかなぁ」
 などと云いまして街へ出たはいいものの。当人に金のアテなど全くございませんで。寧ろ皆顔を見たら「金を返せ」と追いかけてくる始末。このままではどうにもし難いと歩き回っているうちに、気がつけば夜になっております。
 はてここは何処じゃと辺りを見回して見ますと次郎吉がおりましたのは本所の亀沢町。白壁町からここまで歩いてきていたかと見直して、そろそろ帰って飯でも食おうかと思いましたその矢先。
「おい!いたぞう、次郎吉じゃ!」
「ありゃあ質屋の幸助どん!しかも手代の奴らを連れてやがらあ。全く捕まっちまったらこりゃ敵わんのう!」
ここで捕まりゃ一巻の終わりと次郎吉、さっとあたりの路地に逃げ込みまして、幸助達もそれを追います。
「はぁはぁ、畜生めあいつら存外にしつこいわい。おい幸助どん、お前さんが吉原の花魁に入れ込んでること、女将さんに教えてもいいんだぜ!」
「喧しい!それで延々強請りおってからに!全く、その恐ろしい妻に云われてお前を追いかけているんじゃ!」
そうして逃げ追い逃げ追いしておりますと次郎吉、ふとあたりを見回しますとそこにありましたのは、当時江戸市中に数多ございました火の見の半鐘櫓。そして何を思ったが次郎吉、そこの梯子にさっと取り付きまして、身軽にも櫓へ登って参ります。これを見ました幸助、皆と顔を合わせて大笑いしまして曰く、
「おお次郎吉は全くの大莫迦者よな。櫓なんぞに登っては、何処まで上がっても必ず捕まるわいのう」
えぇ、これはまあ分かりきった事でございますが、櫓というのは下から上への云うなれば一本道でございまして、何も登らないでも下にいればすぐに捕まる。折しも師走の寒い時期。次郎吉は羽織の様な良いものもそう持ってはおりませんで、寒さに耐えかねてそう長くは上に居られません。
「おい元坊。お前身が軽いから、ちょいと櫓に登っておくれや」
「はいさぁ。あんの次郎吉の野郎を尻からふん捕まえてやりまさあ」
「いけねぇ!もっと登らにゃあ!もうこうなったら女将さんに必ず云ってやるからな」
「待てい次郎吉!」
などと登り登りゆきますと次郎吉の前が急に真っ白になります。
「うわぁ!なんじゃあこりゃあ!櫓の上に霧が出ておるわ!畜生、上が見らんねえ!」
とはいえ止まるわけには行きませんから、必死でよじ登っていきます。
 えいさえいさと登り登って、愈々ここらで櫓の天辺、遂に我が身も此処までかと覚悟しました次郎吉。最後の一段をええいっと足をかけて登ります!
 すると目の前の霧がさーっと晴れまして、目の前に浮かぶ景色は江戸の夜景…ではございませんで、なんとも見慣れた裏店の木塀でございます。そして自分が手をかけていますのは、裏店周りに並べてある木桶の一つ。他方足はいまだに梯子の上にある感触。
「はてな…これが所謂天人の国と云うものか。にしちゃあこりゃ随分と汚い…いや、風情のある風景よの」
木桶から出ました次郎吉、裏店から表の方に出て参りますと、風景は自分が住んでおりました白壁町の通りそのものでございます。
「こいつぁ驚いたね。まさか天上にもこうして江戸があるのかえ」
そんな風に辺りを物珍しげに見回しておりますと…
「あの、そこの人。ちょいと…」
「へい…大家さん!」
「おお!何ですか全く!人を妖怪みたいに!」
何と此処で会いましたのは大家十兵衛と瓜二つの男でございまして、下界の十兵衛と同じ着物に同じ羽織を着てるという。
「いや、大変あいすみません。まだ金ができかねまして…いやほんとに、家賃と貸していただきました金、あともう少しだけ待ってくれ、いやくださいや…」
「まあまあまあ、そう跪かずに。何しろ私は、お前さんの名前もよく知らんのですからな」
「へ?大家さん、俺の顔と名前をお忘れになりましたんで?」
「うーん…おや、その顔。お前、うちの長屋に住んでる次郎吉じゃないかえ!その憎らしいツラをよく覚えてら!」
「そうでさそうでさ。俺は白壁町の十兵衛様の長屋に間借りしてます次郎吉でさ」
「は?白壁町?聞かぬ町名だな。確かに私は十兵衛、お前さんは私の長屋の次郎吉によく似ておる」
「へい?此処は白壁町じゃございませんので?」
「何を云うかと思えば。此処は黒壁町ですよ」
「黒壁町!」
「黒壁町ですとも。やはりお前さん、他の大家と勘違いしてんだよ」
「へぇ…いやぁ…」
「にしてもねぇ次郎吉さん。もう師走じゃねえか」
「へぇ、大変に申し訳ないと思っております。へえ」
「幾ら返さなきゃいけないんです?」
「はい?幾ら?」
「幾ら返さなきゃいけないんだ?こう云う時は助け合いだからね。お前さんとその大家のことはどうにも他人とは思えん」
「(こりゃ驚いたねぇ…あの貸す時は質草がどうの返せるのかがどうの幾らの利息がどうのと口喧しいあの大家がねぇ…天上の大家は全く逆じゃあ無いの)」
「いいかい!勘違いしちゃなんねえが、これはお前さんにしてやるんじゃあない。お前さんに金を借りられて困っているその大家にしてやるんだ。いずれお前さんのとこに取り立てに行くからね!」
「ああいえ、そうですなぁ…(やっぱし根っこは変わらんのう。まあこの際だから吹っかけてやろうかえ)」
元より十兵衛から借りておりますのは五両でございますが、こうして金をやるぞと云われますとこれはふてえ野郎の次郎吉でございますから、欲が出ましてしたたかに吹っかけやろうと思うわけ。
「(大家の事だから随分と金があるだろうて、此処でふっかけてやっても年は越せようて)…しめて三十五両と云うとこですかな」
「三十五両!莫迦云っちゃいけない!そんな大金を借りっぱなしにするなんざふてえ男だね!」
「へぇ、誠に申し訳ありません…」
「いい!そこで待っとけ!」
そうして十兵衛は自分の家に入って何やらガタガタやっておりましたが、程なくして布包みを持ってこちらへやってまいります。
「ほれ、こいつをとっとと受け取れ!」
「こりゃ一体なんでごぜえましょうか」
「ここにね、お前さんがしている借金三十五両に、もう一つお前さんが大家に払う迷惑料五両を添えて四十両ばかし包んだからね。こいつを必ず返すんだ。白壁町の次郎吉、名前も顔もきっちり覚えたからね!」
「こっこれは、これは本当にありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます!」
 さて次郎吉、気がかわらんうちにと裏の方へ行って包みを開けると確かにこれが四十両金がきちんと入ってる。こいつをほくほく顔で包み直して懐に入れるとずしりと思い。
「いやはや人生重荷はごめんだが、中々どうして金の重みとは素晴らしいねぇ」
などもいい気なものでございますが、自分が出てきた木桶を覗いてみるとこれが普通の木桶の底でございまして、今一度此処に入れば帰れるのかと不安になります。試しに子供が風呂でも入るようにおっかなびっくり縁を掴んでそこの方に足をつけますと、これが何と足がつかない。そのままするりと底を抜けて、足が引っかかる感触がします。慎重に少しずつ下の方へ降りていきますと、次郎吉が出たのはあの櫓の梯子でございました。
「これまた不可思議な…。あの木桶の底が透けてこうして櫓に繋がってるたあ…」
そうして櫓からするする降りていきますと、下の方から
「おい、次郎吉があの雲の中から出てきおったぞ!」
「げっ!幸助ども、まだ下にいおったか!…いや待てよ、俺は懐にこうして金を持ってる。あいつらを怖がる必要なんてねぇじゃあねぇか」
「おう、ようやく覚悟を決めたか。さて次郎吉、云いたいことは…」
「金か。金なら此処にあるでな」
「何!?幾らだ、幾ら持ってる?」
「聞いて見て驚くんじゃあねえぞ。おめえに借りた十両きちんと揃えてここにあらぁ!ほれこいつを受け取れ!」
「次郎吉!こんな金何処で作ったんだ!?まさか人様から盗んだんじゃあねえだろうな」
「そう思うんなら受け取らずに帰ってもいいんだぜ?そうすりゃ俺はこの十両でうまい酒を飲んでいい正月を迎えられらあ」
「いや、受け取るがよ…。しっかし金を持ってるんならああして逃げるこたねえじゃねえか」
「誰だって追い回されりゃあ逃げるに決まってら。それから、明日あたり覚悟しとくこったな」
「げっ…!次郎吉、すまんがそれだけは黙ってくれ…」
「けっ、嫌だねぇ!」

 さてさて、こうして金をすっかり返し終えて、余った五両でもって酒やら肴やらを買い込んで無事に年を越した次郎吉でございますが、金はまあ使えば無くなりますから、程なくしてまた金に困るようになります。
「さてさて、こうして金がまたなくなっちまったが…だがまた大家に借りるのも面倒じゃあねえか。またああして質草がどうのいつまでに返すの云われるのはもう御免だね…そうだ、またあの櫓の上の江戸に行きゃあいい。あっちの大家なら、また幾らかくれんじゃねえかな。そうだな、またあの櫓から行くとするかね」
思い立ちました次郎吉、またいそいそ長屋を出まして、亀沢町まで行きます。そしてまた櫓をえっちらおっちら登り、また雲の中へと入って参りました。
 さて、雲の中から出まして見れば、また例によって裏店の木桶の中。併し今度は勝手が違う。
「なんだァ此処は…。黒壁町じゃあねえのかい?ええと此処は…げぇ!八丁堀の界隈じゃあねえか。うへえ、俺ァ犬とお侍が何より嫌えなんだがなぁ…」
などとぶつぶつこぼしながら木桶から出まして通りに出ます。やはり通りは江戸と変わりませんで、色んな人が歩いております。
「確かあっちの方に奉行所が…ってなんだいこりゃ。『西町奉行所』?いつから此処は大坂になったんでぇ。江戸は北町南町に決まってらァ全く。おっと、こんなとこにいる暇じゃあなかった。亀沢町の方まで行かなきゃならねぇな。おい、ちょいと旦那。亀沢町にゃあどっちに行きゃ良いんだい?」
「亀沢町?そんな町聞いたこたねぇな。鶴沢町ってんならあっちだぜ旦那」
「鶴沢町、鶴沢町ね…。ありがとよ」
どうやらこちらの江戸は、街や建物の名前が下界と少しズレているようでございまして…。
 次郎吉が亀沢町もとい鶴沢町に向けてのんびり歩いておりますと、そろそろ町の木戸が見えてくると云うところで、見慣れた店屋の暖簾が見える。
「ありゃあ幸助旦那の質屋じゃねえか。こっちでも商売してたわけだねぇ。…ちょいと顔出してみようじゃねえか。金も借りれりゃ御の字だ。おうい、旦那ァ!」
「なんだい朝から…お前さん次郎吉かえ!?黒壁町の?」
「え、あ俺ァ…」
「いつまでも金を返さねえと遊びまわって。一体いつになったら十両返してくれるんだ全く!」
「えぇ?俺がかい?ほんとに?」
「本当になんつったって手前の事じゃあねえか。まあそんなことはどうだってもいい。こうして会ったが百年目、ここでチャアンと金を返してもらおうか!」
「ちょいと待ちねえ、旦那。俺ァ次郎吉じゃねえんだ」
「何?次郎吉じゃあないだと。じゃあお前さん一体誰だってんだ」
「俺ァ次郎吉の双子の弟で三吉てんだ」
「三吉ぃ?…まあ確かに、そのツラはどっか次郎吉とは違うな」
「そうでさそうでさ。俺ァ次郎吉とは違いますんで、へぇ」
「そんで、一体今日は何しに来やがったんだ」
「いやあちょいとばかし、金を貸してもらいたいんで…」
「えぇ?嫌だよお前さん。次郎吉の面に似たやつなんかに金なんか貸したら今年一年厄年になるよ全く」
「へぇそうですかあ旦那。…まああっしはそれでよろしいんですがね、女将さんはどうでげしょうね」
「な、何?うちのカミさんがどうしたってえんだ」
「いやねぇ、なんと云ったか、旦那が吉原で入れ上げてる花魁の名前。お初さんだったか、お染さんだったか…」
「待て待て待て!お前さんどうしてその名前を…!」
「いやあね、この前兄貴と飲みに行ったときに、聞いたんでさァ」
「なっ…!チキショウ次郎吉…!」
「いやあっしは別に困りはしませんがね、女将さんが心穏やかじゃあいられないと思いやして、へい」
「幾らだ。幾らむしり取ろうってんだ、お前さんは」
「そうですなぁ…百両なんてどうです?」
「百両!」
これは次郎吉なんともふっかけたもんでございまして、いや幾らかかあ天下だと云っても百両とは酷いものでございます。元はと言えば入れ込んだ幸助が悪いんでございましょうが…。
「うっ…むむ…分かった。百両持ってきやがれこの野郎!そんかし、質草と書付置いてけ!期日が来たらこの世の果てまで追っかけて取り立ててやるからな」
「へいへい、こりゃどうも。ええと江戸鶴沢町大工三吉と。こんなんでええんですかいの」
「おう!チキショウ、持ってけや!」
なんてな次第で、出鱈目の嘘書き散らして、大家のとこに行く前から早くも百両タダ同然で貰ってしまったわけで。
 ところが次郎吉、この百両貰ったはいいがいかんせん使う気が起きない。
「うーん、百両も金がありゃしばしは遊んで暮らせるってもんだが、いや、いくらなんでも百両本当にくれるなんて思っちゃいなかったから…。どうにも使いにくいねこりゃ。まあ、ありゃあ幾らも困るこたぁねえからな。じっくり考えるとするかね」
一応次郎吉には割れ物を継ぎ接ぎして直すと云う生業がありまして、そこそこ腕も立ちます。金を貰っても使う肚が起きない、こっちの大家にあらためて借りる気も起きないてんですから、次郎吉としては酒を買うためにゃ働くしか無いと云うわけで。元から腕はいいんですから、一月二月真面目に働きゃ五両ばかりの金は貯まる、その金で酒を飲むんですから昔みたいに誰も咎めるものはおりませんでした。

 えぇ、お話少し変わりましてその頃江戸では大変に奇妙な出来事がお上から下々まで噂をされておりました。と云いますのは、ある日突然自分の家に奇妙極まる文が届くと云うもので、内容を砕いて申し上げますと、「何年何月何日に何々町の何々兵衛の目を盗んだによって其方の目をこれにて取るものとする 東町奉行 遠山左衛門少尉」なんてな事が書いてある。しかもこの何々兵衛と云うのは送り付けられた者と全く同じ名前というわけ。
 例えば本所割下水に住んでおります反物屋の西川屋重三郎の処には「享保九年文月七日、末所付上火の反物屋西川屋重三郎の小指を盗んだによってこれを当人に返すものとする 東町奉行 遠山左衛門少尉1」などと届きまして、その三日後に重三郎は犬に襲われて小指を取られると云う惨事にあいます。
 このくらいならまあ何とかと思えぬではありませんが、これが眼だの鼻だの耳だの、或いは心の臓やら胃の腑やらを取られてしまいますとたちまちのうちに死んでしまいます。遂には最近直参のお旗本が右の腕を分捕られたとの話も出まして、ついに御公儀がこれの御調べ乗り出すと云うことになりました。
 他方次郎吉はこんな事があったなどとは露程も知らず、日々働きに精を出し、時折貯めた金で酒を飲むなどして暮らしておりまして、未だあの百両には手をつけておりませんでした。そうした夏の暑い盛り。次郎吉が朝目を覚ましますと、戸口の前で誰か騒いでるものがある。そうして出て見ますとぎゃあぎゃあ騒いでいるのは大家の十兵衛、しかも昨日迄はしっかり髷を結っていたのが何と坊さんみたいにつるんと禿げ上がっておりまして。
「どうしたんでぇ大家さん?遂に積悪を恥じて出家でもなさるんで?」
「莫迦な事云うんじゃないよ次郎吉!誰かがあたしが寝てる間に髪の毛全部剃っちまったんだ!こんな忌々しい手紙なんざ残しおって!」
「へえへえどれどれ…『黒壁町十兵衛の髪を盗んだによってお前の髪の毛を当人に返すものとする 東町奉行 遠山左衛門少尉』黒壁町…黒壁町…」
「お奉行様の名前を使って酷い狼藉じゃないか!必ず訴えてお白洲でお裁きを下してもらうぞ!」
「いやいや十兵衛旦那、そういきりたっちゃアいけませんよ。元から残り少ない髪の毛だったんでしょうし、そう嘆くこともありませんて」
「黙れ!残り少なの髪を奪われた気持ちが次郎吉には分かるまい!」
などと十兵衛は酷い剣幕。他方次郎吉はと云いますと、手紙に書いてある黒壁町という町名に聞き覚えがありまして、ふと思い出す。
「黒壁町…そういえば、あの櫓の上の江戸の町の名前じゃねえか。て事はこの手紙は、あすこから届いたってのか?さっすが天人、やる事がでっけえや全く。夜寝てる間にあの銭ジジイの髪の毛みーんな剃っちまうなんざなぁ。あっはっは」

 などと次郎吉笑っておりましたが、その次の日。次郎吉の部屋の戸口に手紙が挟んである。
「なんだいこりゃあ…ええと、『黒壁町次郎吉の首を盗んだによって、お前の首を取り当人に返すものとする』…首だってェ!なんてこったい全く!俺ァ首なんざ盗んじゃあ居ねえぞ!」
昨日まで大家の不幸を笑っていたのに都合の良い事でございますが、何れにしても首を取られちゃとても生きていけない。さてどうするか。
「こりゃ仕方ねぇな。あの櫓登って、直接向こうの俺に話付けに行くしかねぇ。久々だが行くとしようかね」
そう思い立った次郎吉、亀沢町の櫓まで歩いて見上げますと、また櫓の上は濃い雲に覆われております。
「ようし、行くとするかね。えっしょ、えっしょ…」
さてさて次郎吉、櫓を登りまして再び雲の中。そうして雲が晴れた先には…。

 「どこだい此処は…って此処は奉行所のお白洲じゃねえか!何だって筵の上に出るんだ!」
「五月蝿いぞ!罪人!」
次郎吉が出てきましたのはよりにもよってお白洲の真ん中。正面にはお奉行様の御出座になる座敷がありましてそこから吟味方目安方の与力衆、さらに下には突這の同心衆。壁には刺又に突棒袖搦が並べてあります。裁かれる罪人でなくともゾーッとするような風情でございます。
「西町奉行鳥居甲斐守2様、御出座!」
与力が大声を張り上げると共に皆座敷に向かって頭を下げる。
「皆面を上げい」
そう厳かな声が告げまして次郎吉も頭を上げます。そうして見てみますと、
「(ウヘェなんとも小悪党な顔してやがらあ。やっぱり妖怪だねえ全く)」
鳥居甲斐守耀蔵と申しますれば、かの遠山金四郎こと遠山景元の敵役として今日大変に有名でございます。また、当時のお江戸でも「妖怪」なんぞと云われまして大変な不人気でございました。特にまあ寄席を廃止しようというとんでもない事をしようとしていたそうで。そんな事されたら我々は飯が食えませんでほんとに…。
なんてな事を思っておりますと、
「ふむ、こうして下界の者が白洲に現れるのは初めてであるな」
「へ?俺が下界のもんだって知って…」
「口を慎めい!」
「へい!」
「さて、此度の訴えの趣であるが早速吟味致す。訴人黒壁町次郎吉を此れへ!」
「次郎吉だァ?一体誰が…って俺じゃあねえか!」
此処に入ってきましたのは何と驚く事に次郎吉と瓜二つの男。顔つきは側から見れば全く同じ、違いは着ている着物ばかり。着物も色こそ違えど汚いさして変わりがないものというわけ。
「さて次郎吉。其方の首を盗んだ者はそこの者に相違ないか」
「相違ございませんお奉行様」
「やいやい!ふざけた事抜かしてんじゃねェ!卑しくも俺ァ江戸っ子でぇ!借金で首が回らなくたって、人様のもんに手つけるこたぁねぇや!それにおめえさん首がちゃあんとついてるじゃねえか!その上盗まれたなんてふざけた事云ってるない!」
「宜しい。裁きを申し渡す」
「何だって!まだ俺の話だって…」
「口を慎めと申したであろう!」
「(こりゃ酷えや。天人なんてのはやっぱり話が通じねえんだ。まるで人形浄瑠璃の芝居でも見てるようだ。どいつもこいつも、俺の話なんか聞きやがらねえ)」
「裁き申し渡す。白壁町次郎吉は、黒壁町次郎吉より盗み出したる首一つ、即刻同心の者共に引き渡すべし。引っ立てい!」
「おいおい!なんて事しやがる!お前…やっぱり下とおんなじ様にろくでなしじゃねえか…」
たちまちのうちに縄をかけられ、高手小手に縛られてしまう。このままでは殺される、次郎吉覚悟を決めて、遂に諦めたかと思われた。その時…
「お奉行様。一言、一言最後に申し上げたき儀が御座います」
「申してみよ」
「今、どうぞこの俺に、己が罪を償う機会をお与えくださいまし。さすれば、償いと致しまして、百両をお納め致します」
「何、首の料として百両差し出すと申すか」
「はい、百両お納め致しまする。誓ってお納め致します」
「……この者の縄を解け!先程の裁きは取り消す!」
「ありがとう存じますお奉行様」
「よいか、百両は此処に控える次郎吉に代わり、この甲斐守が預かりおく。一度金を取りに行かば、この白洲にて甲斐守に手渡せ」
「承知致しましてございます」
「うむ。ではこれにて裁きを終える!一同立ちませい!」
「…へへっ、やったね。あんなろくでなしの真似するからいけねぇのさ。ざまあみやがれ」
かくして次郎吉は、家に置いてありました百両をお納め致しまして難を逃れる事となりました。金を納めて櫓から江戸に戻った時、櫓を覆っていた雲はすっかり晴れ、もう二度と次郎吉の下にあの手紙が来る事はなかったそうでございます。
「如何にせんとも回らぬ首を、くるり回せし廻りもの哉」と云った次第で、本日の一席、読み終わりでございます。

金と云ふものは、理知らぬ天のうへ人にも、よくよくとほるもの也と覚へ

神林伯玄英寅 安政六年 記

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