木刷りの曼荼羅
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えぇ、三大美人と申します、世界にあってはクレオパトラ、楊貴妃、小野小町。寛政年間で申しますと、難波屋のおきた、高島屋のおひさ、富本豊雛と言うわけ。喜多川歌麿が美人画を描いております。まあ明和の鍵屋お仙というのも、美人で大変に名が高いお人。
さてさて、世に花は尽きまじと申しませども、やはり咲き誇るのは吉原の廓でございます。
大門潜りましたらば、夜にあっても昼が如し、見世の格子窓から覗きますと、ああこれは、言葉で表すのも難しい。
大勢の傾城が皆々こちらに艶っぽい視線を向けております、全く男ならばたまらない…失礼を致しまして、お話を続けます。
その華の吉原、その中でも一握りの最上の美人之を花魁と申します。御女郎なんてそう侮っちゃあなりませんよ、花魁となりますと一晩の揚代なんて恐ろしくって云えた物でもございません。幾千両と云う大分限の跡取りが、たった一人の花魁に入れ込んだと云うだけで、これが身代を持ち崩すと云うのが大変に多うございました。
このお話もまたまたそうしたお話でございます。
岡目八目側から見れば大莫迦ですが、当人にはこれがどうにもわからない。
さてお客様、お話と申しましたが、実のところ私はこのお話初めてでございまして、大変に緊張をしております。
それではどうぞ宜しく。

文化二年の頃。吉原の花魁の一人に、珠風1と申しますお方が有りまして、江戸随一のお名前が立っておりました。
その後評判に相応しく、このお方正に傾城いやさ傾国と申すにふさわしき風情でございます。
一笑にして百媚生じ、助け起こすも嬌として力なし。六宮の粉黛眼色無し2もさもありなんと云うわけで。しかも容色だけでなく、教養もまた古今に通じ、当意即妙の答えもまた巧い。あしらいも上手いものですから、宛ら子猫か或いはそう見えて猫又か…。これは失礼。
当然ここまで優れたお方ですから、幾人幾十人もお客がつきます。落語の演目に五人廻しと云うのがございます。遊女が一人でもって五人の客を一晩に取ったので、店の手代やらが酷く苦労をする噺。
珠風と来たら五人じゃ到底これは利きません。艶書恋文が日に何十も来ます。今でしたらさっさと捨てておしまいになる方もあるでしょうが、やはり手紙には念が籠ると云いますし、仮に間違えてお大尽様のを捨ててしまっては一大事。一通一通之をとっておいて、また返書を書くと云う。
「ねエ、弥之助さんや」
「何でございましょうか、花魁」
「ここのところ、艶書が引きも切らないわねぇ。ほらご覧なさいな。これは御旗本の誰某何々守、此方は何処其処屋の若旦那。皆千両二千両出してもお身請けしたいですって」
「それは花魁で御座いましょうからやはり」
「アラアラ、酷くお世辞が御上手だこと!」
この様に致しまして過ごしておりましたら、これが文化二年の秋。
「弥之助さん、弥之助さんや」
「はい花魁」
「此処のところ、酷く身体が痛む様になってネエ。それにほらご覧、所々に腫れ物が出来ているよ」
「アア、これは一大事。すぐにお医者様を呼んで参ります」
さて、これは今ではわかる事でございますが、吉原に限らずこうした色街では梅毒、まあその頃は瘡毒と申しますがこれが大変に流行る。
梅毒は一度罹りますと、最近できました薬を打たねば必ず死んでしまう。で、罹ってから暫くすると何年か病が退いて、四、五年経って今度は尚酷くなって遂に死ぬと云う。吉原では罹って病みが引いたものを「鳥屋についた」と申しまして皆持て囃したそうですがこれは実の所病みが隠れているだけでじき死ぬのは免れぬと云う訳。
珠風も幾年か前に鳥屋についておりましたが、やはりこう云う事。
「お医者様、よもや瘡毒ではありますまいな」
「これは何とも申せませぬが、やはり瘡毒に御座りましょうかと」
「オオ、これでわちきも鼻欠けで、夜鷹の如き舟往生となるのですなぁ」
この頃の川柳に、「鷹の名に お花お千代は きついこと」と云うのがございます。夜鷹、つまりは最底辺の遊女には、こうした梅毒病みが多くございまして、みな鼻が欠けている。「お花お千代」は「お鼻落ちよ」というまたきつい洒落と云う訳で。
さて、瘡毒となればもう見世には無論、それはおろか馴染みの者にも逢えはしません。後は病みが増して死ぬ限りというつらき定め。
この時珠風一つ思い立ったことがこざいます。近くのお付きを側へ呼び、ヒソヒソとやる。そしてお付きが出て行きまして、暫くすると包みを持った羽織の男を連れてきた。
さてこの男、腕は江戸随一の浮世絵師でありまして名前を宇多川戯中3と申します。酷く頬がこけて墓から這い出しました幽霊が如しですが、画才は随一。役者絵美人画風景画、何でもござれのお人でございます。
「花魁珠風がお呼びと伺いまして参りました」
「宇多川先生のお出で、誠に嬉しゅう存じます。瘡毒にてもはや手足もままなりませぬ故、御容赦を」
「この折に医者や薬師でなく、絵描きをお呼びとは、如何なる所存でありましょうか」
「折り入って、頼みとうござんす。わちきの玉の緒もまた、近き内に絶えぬは必定。けれど、それよりなおも恐ろしきは、瘡毒病みで鼻が落ち、二目と見られぬ有様で、『あれが珠風が末路よ』と謗られる事でありんす。ですので何卒お願いしんす。今の、まだ人とも見えるわちきの様を、先生の筆にて絵に残してくだしゃんせ。それを見て、お馴染みの方々が『ああ美しかったものだ』と偲んで下されば、思い残す事もありはしませぬ」
たとえ死すとも、花魁の誇り忘れがたし。かつて四代目の伯玄、つまり我々の大師匠がこう評しております。
「散り行かむ春の桜はなほ猛きなり」
花魁の自らにかける誇りは、武士のそれと幾分も変わらぬ、散る花が如き儚さでもと云う。
この気概を聞いて断るとあらば、江戸っ子宇多川名が廃る。美しい内にその様を残さんと、わずか数日のうちに下絵を作り、色を仕上げまして早くも次の週には最初の版木ができる。
この版木も、今ではどうして作ったかも伝わらぬ、細やかにして真の姿写したりと云う特別なものとなりましたございます。
そうして一枚刷って、珠風の処に持って参ります。
「アア、これよ。これぞ、わちきの有り様そのままでありんす。先生よくぞやってくれんした。あとはこれを刷らせて、馴染みの御方々へお願い…ゴホゴホ…」
「承知を致しました。必ずや、そう致します」
「頼みましたよ、お金は必ず払います…」
こうしてその絵が馴染みの客数十名に密かに刷られて渡ります。
そしてそれから一月経たず、珠風は身罷りました。まだ三十の歳を過ぎず、今では酷く若すぎる死で御座います。
文化二年の末、正月を目前にしての凶事でありました。
こうして葬列が組まれまして、江戸中の人々がそれを見に参ります。
「ああ珠風も遂に逝ったか」
「何とも良き女ぶりであったのう」
葬列に従う馴染みの者達は、皆こそこそとそう囁き合いましてございます。

「この錦絵にて、わちきを偲んでくだしゃんせ」
そう云われて手紙と共に絵を受け取った者の一人に、江戸の大商家の若旦那で賢之助という人がありました。
「おお、珠風や。身罷ってしまったとは云え、この様な粋な応え方。やはり尚も惜しい、万両出しても身請けをすべきであった」
などと泣き暮らし、絵を神棚か何かに飾るように、部屋の壁にかけて日々拝む様な有様でおります。
返されました艶書の類も開いては泣き開いては泣き、しほたれたると申しますのも生ぬるい風情。
さて、年明けまして文化三年丙寅の三月。年明けてもなお思い断ち切り難く、今日もまた珠風の絵を拝む日々。さて、ある夜。拝みながらありがたいお経でも読む様に、艶書を開き見直そうと、昔に自分が珠風に送ったそれを開きます。
「ああそう云えば、珠風の為と、幾度も頭を捻って和歌を作ったものだ」
そうして開くと艶書の文句がびっしり書いてある。しかし、ふと裏を見ると…。
『われがゆき 思ひ絶えなむ いへどなほ 積もりゆかなば 根をぬけてしがな 珠風』
「『われがゆき、思ひ絶えなむいへどなほ…積もりゆかなば、根を抜けてしがな…』おお、珠風…」
愛しい女の和歌を泣きながらうたう賢之助、しかしその折でございます。
「おや、まるでわちきの歌のようでありんす」
女の声だ。どこからだ、とそう辺りを見回すがそれらしき人は居ない様子。
「誰だ、誰が俺を呼んだか」
「聞き忘れとは、寂しい事でありんすな。こちらを向きなんし」
声の方を向くと、そこには珠風の絵が掛けてある。見れば、元より美しかったのが、今日は更になお美しい。
「おお、そうか。愛しさのあまり幻を聞いてしもうたか。しかし、幾度見てもこれは良く出来ておる絵だなあ…」
そうして、絵に見惚れておりますと、何処か違和感が出てくる。
煙管を持った手が、いつの間にやら上に出て、唇の方へと近づいている様な…。
賢之助が、絵の方へ吸い込まれる様に段々と近づいて参ります。
「珠風、珠風…」
「あい、ようやっとお呼びですか」
「うわぁああ!」
間違いない、間違いなく今の声は絵から響いた。賢之助が泡を食って尻餅をつく。すると絵の中の珠風が、煙管を口に咥えつつ、
「あら、驚かれなくとも…。それよりも、つい先程の歌、何処の傾城からのものでありんすか?あれだけ愛してくだすったのに、悲しさ胸も張り裂けそうでありんす」
「が、が、あうわあああ!」
「若旦那様、若旦那様どうなさいましたか?」
手代の者が訊くのも押しのけて、賢之助は戸口から出て方角も分からずとにかく夜の江戸の街を走ります。
さて、そうこうしておりますと目の前からも酷く慌てた様子の男が走ってくる。寝衣姿のまま、脇にはかろうじて脇差が一つ。
「ひえーっ!」
「あいたあっ!」
二人して頭をごつんとやってしまう。
「一体何処に目を付けておるか!」
「ひえ、大変に申し訳ございませんで、へい」
などと謝っていると、お互い多少冷静になってきて、段々変に思えて参ります。
「それにしてもお武家様、寝衣のままでお出かけですか」
「いや、お主こそ。あれ程に焦っておるとは、何か訳があるに違いない」
「ああと、…実は、家に一つ錦絵がございまして、へい。そいつがつい先程喋り出したんで…」
「ム…もしや其方、その錦絵、先だって身罷った花魁珠風のものではあるまいか」
「へ、どうしてお分かりに?」
「…恥ずかしながら、拙者珠風の馴染みでござってな…」
何と何との驚きで御座います。賢之助がぶつかりましたのは御旗本でその頃知行六百石をお取りになりました深路重右衛門と云う御方。
「はぁやはり、珠風は他に馴染みがあったので御座いましたなぁ」
「やはり、あれだけの女子。さもありなんと思えるのう」
重右衛門曰く、壁に掛けてあった珠風の顔が、なんと笑い顔から憂い顔に変わったとの事。真かと顔を近づけて調べてみれば、
「恥かしゅう御座ります」
「それで飛び出していらっしゃったと」
「武士の面目が立たぬがな…」
「実はあっしも似た様なもので…」
「何と?」
「いや、昔あっしが珠風に贈りました艶書を開げておりましたらな、裏に何やら書いてありまして」
「ふむ?」
「『われがゆき 思ひ絶えなむ いへどなほ 積もりゆかなば 根をぬけてしがな』とこの様に歌が」
「ウーム」
「それで誰がこの様な悪戯書きをしたのかと、手代共を問い詰めようとしたら…」
「珠風の声を聞いたのだな」
「へい」
「ム、其方。見直してみよ、和歌の隣に何やら書いてあるぞ」
「は?何々…『わちきは珠風、御前様こそ、何処の傾城でありんすか…』。こ、こんなものは、つ、ついさっきにはありませなんだのに…」
手紙にまたジワリと浮き出た文字、賢之助恐ろしくってガタガタとまた震え始めて参ります。
さて、二人して話をしておりますと、向こうの方からまた幾人か走ってくる。
これがまた面白く、でっぷり太った商人もあれば浮世渡世の極道もある。しかし皆一様に酷く恐ろしげなものを見たとばかりに走って参ります。
「ありゃま、また走ってくる者がありますな」
「まさか、あれもまた珠風の馴染みであるのか」
そうして呼び止めて話を聞けばやはりそれは珠風の馴染み。そして皆一様に申します、
「絵の珠風が喋った」のだと…。

翌日日が登りまして、賢之助、重右衛門、ほかにも馴染みの衆が集まりまして皆額をつけて話し合います。
「先ずは、絵を描いた宇多川の師匠のところへ行ってみようか」
一応それは決しましたので、皆そちらへ出向きます。賢之助も行きますが、流石に恐ろしくなったのかあの絵は伏せて包みにして見えない様にしてあります。
さて、いざ宇多川の家へと出向きますと…。
「先生、先生、いらっしゃるんでしょ。先生、先生」
「あい、どなたです?」
「先生、あっしを憶えておいででしょう。水戸路屋の賢之助です。少し前に珠風さんの絵を頂きましたな」
「ええ!その話はよしてくれ!、どうか頼むよ!」
「そりゃ一体どう云うわけで?」
「あたしの家にはね、あの絵の下絵の版があるんだがね、あれが夜毎に喋るのだ。『ああ先生、まこと恩は深くして忘れ難き事にござんす』などと申して…」
「一つ、それを見せてくれませんかね」
「いっそくれてやってもいいくらいだが、仏の祟りが恐ろしゅうてな、手放せぬのよ」
そうして下絵の版木を受け取ってみれば、何と元の有様からは大きくかけ離れて、珠風、煙管も持たずに頬に手を添えて、しなを作ってこちらを見ているではありませんか。
「おお、これはやはり仏の、珠風の迷い出た事の所為だのう!」
これには馴染みの皆も恐怖してしまい、ガタガタと震え出す者も御座います。
しかし重右衛門、何とか勇気を奮い立たせまして、
「珠風は、あの様に良き女子であったが、女郎という罪深き生業を持ったが故に、今この様に迷いでおったのじゃ。こうなれば、寺へと錦絵艶書、版木まで一切を運び燃やして供養をしようではないか」
皆そうしよう、と云うお話に纏まりましたので次の日三月の四日。各々錦絵と艶書を纏めて正装をして芝の増上寺へと運びます。
絵の珠風にばれてはこれは一大事ですから、皆悟られぬ様慎重に絵やら艶書やらを包み、寺へと持って参りました。

増上寺は将軍家の菩提寺にして関東十八檀林筆頭の由緒あるお寺でございます。
此処で供養されれば、珠風とて成仏するであろうと皆集まりまして、それぞれ幾らか金を出し合って住職に頼みます。
住職も、此処まで迷い出でたかと憐れまれまして、異例も異例ながら御弔いをして下さることと相成りました。
そして皆が包みをほどき、絵やら何やらをくべて、住職が火をつけますと、
「ああああ、あつい、あつい、あつい」
絵からこの世のものとも思えぬ女の叫び。
「なにゆえに、なにゆえにこの様なひどい仕打ちをなされます、どなたか助けてくだしゃんせ。重右衛門様、賢之助様、喜十郎様、おおあついあつい」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。どうか往生しておくれ」
皆一心に経文を唱え、声には耳を塞いで弔いを続けます。そうして弔いを続けておりますと、ばさり。
突然風が吹き上がりまして、焼いていた絵の一枚がびゅうと吹き飛ばされます。
「ああ、飛ばされた!」
「しまった、あちらの方は!」
その絵が飛ばされていきましたのは、芝車町材木座…乾いた材木の中に小さな絵の紙が挟まる。
これが火元となりました。
忽ちの間に火はごおっと燃え上がり、辺りは赤一色に染まります。
うわあうわあと逃げ惑う人々、そしてその中にこだまする、
「あつい、あつい、あつい」
「お恨み申します、お恨み申します」
焔は増上寺にも迫り、遂には五重塔に燃え移ります。
「珠風!珠風!頼む、頼む、怒りを鎮めておくれ!」
がらがらがら!
「うわぁぁぁぁぁ!」
願い虚しく伽藍は火の海と化し、集まっていた馴染みの衆は悉くその中に呑まれる事となりました。
さて、この大火事。この後も西南の強風に煽られて木挽町、数寄屋橋、そして日本橋京橋を焼き尽くし一千人の庶民が焼かれ死に致しました。
家屋十二万六千戸、五百三十町が灰となったこの大火事、江戸三大大火が一つ『文化の大火』と申します。
ハテ、恐ろしき執念でござりましたな。今日はこれにて、続きはまたいずれ。読み終わりでございます。

原案:四代目神林伯玄
作:五代目神林伯玄
演:五代目神林伯道

昭和四十二年 伯楽亭寄席にて
令和三年五月三十一日 左坂勘四郎 記

編者補記
安政年間に四代目神林伯玄によって原案が形作られ、明治維新後に五代目になって完成を見た演目。江戸後期の文化の大火について、四代目が調査した結果を踏まえた実話半分の話と思われる。
この演目は、演者によってサゲや結末が極端に異なり、大体の場合は収録版の様に話をハネる。これについて神林派関係者は、『四代目・五代目による演目に関する記述の大部分が判読不能になった為』と説明していた。
四代目による本演目のモデルとなった人物達に関する記述は、先述の通り大部分が墨による以下の内容を記述の上に重ねた事により判読不能となっている。
もう お話はやめておくんなまし
令和三年六月一日 編者

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