寒空の下、一人の男女が夜の街を行く。薄手のベールで顔を覆った小柄な女は、その豊満な体を男に押し付けるようにしながらふらふらと千鳥足を踏んでいた。明らかに出来上がっている女を支える男は2mはあるだろうかという長身。押せば折れそうな優男ではあるが、どこか折れることのない強靭な針金といった印象を抱かせる。女の方は酔いも含んでいるのだろう。高笑い交じりに男へ尋ねた。
「君はさー、何になりたいん?」
「私ですか? そうですね…、やっぱりこのまま研究職かな、と」
「ああ、そうやったね。よっ、将来のノーベル賞候補」
手を叩きはやし立てながら、さらにしだれかかる女。軟体動物のようになったそれを何とか支えながら、男が困ったように返した。
「はは…、日本の今の環境じゃちょっと難しいかもしれませんけど、頑張ってみますね」
「頑張れ頑張れー、この縁お姉さんが応援したるからなー!」
「酔いすぎですよ、縁さん。それに、私の方が年上です」
「で、君は何をしたいんよ、研究職なんてもうからん商売に就いて」
「何をしたいか…、それはもう、何かを造ってみたいです。人の予想を超える様な、凄い何かを」
男の声は木管楽器を思わせる深く美しいテノール。白い息に隠れてはいたが、その中に篭った男の強さに女はまた手を叩き、ベールを掻き上げた。
「そうかあ…、いやあ、ええねえ!」
と、その瞬間足がもつれ、女はバランスを崩す。その手を男が掴み、不出来な社交ダンスを思わせる体制に。女がまいったまいったと体制を戻そうとすると、男の顔が自分をまじまじと見つめていることに気が付いた。凝視する瞳は、漆の什器を思わせるほど真っ黒で、眸に映る自分の顔が酔い以外の理由で紅くなっていることに女は気が付いた。
「ど、どうしたん、そんなまじまじと」
「いや…」
男はそこでようやく気付いたというように女を引き上げると、白手袋の手を口元に当て、言葉を選ぶように、一言だけ漏らす。
「美しい目だな、と」
その言葉の持つ妙な気恥しさに思い至ったのか、男は弁明するように、それでいて真摯に言葉を続けた。
「私は好きですよ、縁さんのその目。人間っぽくて」
禅問答のような答えと、先程までの頓珍漢なロマンスに女の頭は混乱し、思わず男の背中をバシバシと叩く。
「…んもー! そんなこと言って、その気もないくせにー! 君なんて嫌いや!」
寒い夜、どこか楽し気なその言葉。酔いの覚めた二人は別れ、雪の降る道を一人歩く男と女。
それが、女の知る、男との最後の記憶だった。
幸坂縁は、冷たいという感覚で目を覚ます。
「ひっ…、寒ぃ」
目の覚めたそこは見知らぬ部屋。椅子に深く腰掛けていたようで、全身がわずかに痛む。
「…ここ、何処?」
幸坂は記憶をたどり、どうやら自分が何者かに誘拐されたと悟る。しかし、何故自分を攫ったのだろうか。確かに、幸坂は異常存在を扱う秘密組織、「財団」の一員ではある。だが、幸坂自身は一介の事務員に過ぎず、何ら機密を持ち合わせていない。いや、持ち合わせられるはずがない。仮にも財団の構成員を拉致しようという人間ならば、その程度は理解できそうなものだと幸坂は考える。
とにもかくにも立ち上がろうとするが、手足は拘束されておりろくな動きを取ることができない。何とか脱出しようと試みるが、顔にかかったベールが動くのみだった。試みを何度続けただろうか、突如、部屋に唯一存在している扉が開かれ、中折れ帽を被った長身痩躯の老爺と、幸坂と同じように顔をベールで覆った女が現れる。老爺は、人柄の良さをそのまま記号化したような、一種異様な笑みを幸坂へ向け、和やかに非礼を詫びた。
「やあ、手荒な真似をして申し訳ないですな」
「…だ、誰、ですか」
幸坂の問いに、老爺は胸元から名刺入れを取り出し、そこで幸坂の状況に思い至ったのか、苦笑しながら答える。
「私は如月工務店特殊営業部、部長の大竹、こちらは部下の茨城です」
「き、如月工務店!?」
「まず、奥歯を噛んでも薬剤は出ませんし、GPS信号その他は遮断されています。その上でお話しましょう。幸坂さん」
幸坂の心臓が高鳴る。如月工務店、日本における要注意団体の一つ。幸坂の知る範囲ではそれといった情報は思い浮かばなかったが、その名前から建築に関わる要注意団体であることは察せられる。これでこの一件が財団がらみであることは確信できた。幸坂は奥歯に仕込まれていたはずの仮死剤を思い出しつつ、慌てたように拘束されていた部屋を見回した。そんな幸坂の意図を読んだかのように大竹はその笑みを深め。
「ご安心を、この部屋には我々の力は関わっておりませんので。いやはや、私どもとしてはクライアントの要望にお応えして、真摯に望むものを造っているはずなのですが、どうも我々と皆さんの間には諸々の差異があるようで…、ご満足いただけないことが多いんですな。悲しい事です」
「っ…、そ、そんなことは、い、いいです、何故私にこんなことを? わ、私は一介の事務員ですよ? 私を攫ったところで」
「ああ、そうでした。どうも齢を取ると話の本質に踏み込めなくていけない。ええ、此処に貴女をお連れした理由は」
大竹の言葉に、幸坂は生唾を飲む。
「貴女を、スカウトしようかと思いましてね」
「…スカウト?」
「ええ」
スカウト? 幸坂は頭の中でもう一度その言葉を反復する。あまりにも場面にそぐわない異様な言葉。プロポーションは悪くないと自負するが、まさかアイドルやモデルでもあるまい。となればその意図するところは何だ。ごまかしか、もしくは何かもっと深い意図があるのか。目まぐるしく回る思考を抑えながら努めて冷静な声で、それは震え、弱弱しい声ではあったけれども、幸坂は問い返す。
「…ああ、そうですか。で、本当の理由は?」
「本当の理由も何も、それだけですよ」
「…だから、な、何故」
スカウト、それがそのままの意味だとしたら。
「…まさか、わ、私にそちらへ移れ、と?」
「そういうことです」
鷹揚に頷く大竹。まさか、と幸坂は表情だけで返す。だが、大竹はそれにも笑みだけで返した。
「では、逆にお尋ねしましょう」
その瞬間、何か細工がしてあったのか、幸坂のベールが落ちる。
「貴女は、その顔で、何故人だと名乗れるのですか?」
幸坂はその目を、顔の真ん中に一つだけある巨大なその単眼を見開いた。幸坂縁は先天的な単眼症である。単眼症、母体のビタミン不足等で発生するといわれる、いわゆる奇形児。だが、幸坂のそれは一般的に想像するような一つ目小僧やそういったものとは一線を画す。そもそも、単眼症は発生の不全であり、脳髄や消化器もその影響を受け生後間もなくには死亡する。また、多くの場合、鼻梁が目の上に位置する。つまりはおおよそ人の形を留めない、生まれる時点で死が確定してしまった異形。しかし、幸坂に至っては均整を保った単眼症、とでも呼ぶべきであろうか、その容貌は人としての造形を残し、いわばフィクションの登場人物といった印象を受ける。その異常性を指し、大竹は問う。
「先天的な単眼症、ヤギやサメならばともかく、それは多くの場合、生後間もなくには死亡する。だというのに、何故貴女は一切の問題を抱えず生きているのでしょうか?」
「そ、それは…」
「明確な理由を答えられますか? 貴女が人であると、貴女は胸を張って言えるのですか?」
確かにおかしいのだ。そもそも彼女が生きているということ自体が。幸坂は今まで幾度も感じた、足元がぐらつくような感覚に耐えながらそれでも頭を回す。
「…まるで、貴方方が人ではないとでも言うようですね」
「その通り」
居合いの如き言葉の斬り返し。大竹が茨城へ何らかの指示を出す。茨城は頷き、そのベールを掻き上げた。
「我々もまた、貴女と同じ、鬼なのですよ」
その下には幸坂と同じく、まるで童話の一つ目小僧を思わせる単眼の女が微笑んでいた。初めて見る自分と同じ存在に幸坂は絶句する。その様子を見、満足げに大竹は滔々と幸坂へ。
「一つ目の怪物は柳田翁の言葉を借りるならば凋落した山神であるとされます。あるいは、鍛冶の神とも。また、鬼とは本来隠れるもの、追いやられるもの。我々が習合するのもまた一つ。そして我らは同時に虐げられ、迫害されるものでもある」
言葉が、幸坂の標を揺らしていく。自らが異常だとしても人間である、人間の側に立つモノである、その支柱が揺れている。
「我らはそもそもが人ではない。そして、貴女も。…何故、貴女がここまで迫害されなかったか、見世物にされなかったかは興味のあるところですが、まあ、そこは問題ではありません」
違うと言いたかった、私は違うと幸坂は叫びたかった。だが、何処かで幸坂は納得していた。私のようなバケモノは、偶然にも今まで上手く行っていただけのバケモノは、本当に、上手く行っていただけではないのか? その考えに一瞬でも至ってしまうと、今まで覆い隠していた不安が堰を切ったように流れ出す。混乱を見て取ったのか、大竹が畳みかけるように言葉を重ねていく。
「違うと言いたそうな顔をしていますね。まあよろしい、そこは追々分かっていくでしょう。我々は貴女をスカウトしたと言いましたね? 正確には違う。我々は貴女を迎えに来た」
「迎えに」
「はい、我々は酩酊より出で、新たな世界を造る者、その為にも、同朋は多いほうがいい」
「そんなことは」
断る言葉が出てこない。喉の奥で何かが凝っている。大竹の笑みが深みを増し、それはもはや原初の生物が浮かべていた威嚇の表情に、すなわち、口が耳まで裂けた鬼の表情に。
「断る理由があるのですか? 人の中で生き、自分とは異なる種族の中で生きることが、貴女にとって幸せなのですか? 貴女は、鬼なのに。貴女は、異常なのに」
私は鬼なのか。私はそちら側に行くべきなのか。幸坂の手を引くように、繰り言を囁くように、大竹の言葉は蠱惑する。
「貴女がいくら人のふりをしたとて、それは貴女が何かしらの方法で騙しているというだけ。化けの皮が剥がれれば、貴女はいずれ隠に追いやられましょう。貴女が光の中を望むのならば、酩酊から抜け出そうというのならば。我らと、共に」
共に。
一歩、踏み出そうとしたその時。幸坂の脳裏へ漆の什器を思わせるほどの黒に写る、自分の巨大な単眼が過った。そしてその記憶は、彼女をあの夜の路上へと。
幸坂は踏み止まった。
「…違う」
「何が違うと」
大竹の声に困惑が滲む。その表情を、鬼の表情を、幸坂は毅然と睨みつけた。その巨大な単眼に力が篭る。
「違う、わ、私は、…異常だとしても、収容の対象だとしても」
幸坂はけして強い人間ではない。弱く、卑小な小市民だ。だからこそ、この一歩は踏み出すべきではないと、そう、叫ぶ。
「…人間だ!」
直後、アラートが鳴り響いた。
鳴り響くアラート、大竹の眉間に皺が寄る。
「…何が起こった、茨城」
「施設が何者かに襲撃を受けているようです。…このロゴは」
大竹の問いに茨城がカメラの映像を確認する。そこには武装集団、そしてそれに守られるように侵入する異質な集団。その背に染められたロゴは二重螺旋と糸車。
「日創にっそ…!? 何故、日本生類創研が今、我々に襲撃をかける!?」
「理由をお伝えしましょう」
澄んだテノール。大竹が振り向いたそこには、扉を開け侵入した一人の男。黒檀のように黒いダークスーツと機械染みた動き、無機質な機械を思わせる声。そして何よりも目を引くのはその頭部を覆う立方体の存在だろう。漆塗りと思わしきそれは、針の穴ほどの覗き穴以外一切の隙間が存在しない。異形は折り目正しく礼をする。
「始めまして、如月工務店のお二方。私、日本生類創研-外来連絡調整担当室から派遣されてきました。…名刺は必要ないでしょう」
「…見世物屋、何の用だ」
大竹の言葉が幸坂に掛けていたものから豹変する。その表情こそ穏やかだが、滲んだ敵意は隠そうともしていない。だが、その敵意を受けてなお、男は表情を変えずにカタログを読み上げるセールスマンのごとく言葉を並べる。いや、そもそも箱が表情を見せるわけがないのだが。
「理由を問われるならば、先程貴方の仰った通りでしょう。古来、当邦における見世物屋においては魚と獣、あるいは人と獣を接ぎ、人魚を、鬼を造ったといいます」
「…さっき見世物屋といったのは訂正しよう。あんなモノよりもっと悍ましい何か、贋作者にして墓泥棒だよ、お前さんらは」
大竹の言葉を聞き流すように、あるいは機械的に発されるアナウンスのように、男の声は淀みなく続く。
「私共、日本生類創研は常に新たな技術、素材の模索を行っています。私共の目的を達するためにも。しかし、私共にはどうにも人間、ホモ・サピエンスに対する技術が不足している。阿頼耶識を飛ぶ凶鳥を造れたとて、人というものにはまだ一切、ゲノムの一本程も弄ることができない。できたとして不格好なキメラのみ。私共の糸車はまだ完成していないということです」
「ああ、そうだろうとも、それは神の領域だ。我々が本来持つ権能であり、国造りの御業よ、お前らがごとき贋作者には到底及ばんわい」
「そこで私共、あくまでもこれは言葉の綾であり、あくまで我々の一派ではありますが。私共は素材に着目することにしたのですね。すなわち」
男の言わんとしていることを理解したのだろう。大竹の表情は変わっていないが、言葉の端々には今にも口から炎を吐き出さんばかりの憤怒が感じ取られた。
「ワシたちの、鬼の体を求めるか、墓泥棒」
「そういうことになるというわけですね。では、此方に契約書があるのですがお二方、サンプルになっていただいても」
「生憎だがな、若造、ワシらの年の功をなめん方がいい。茨城、逃げい!」
大竹の言葉と同時、茨城が一枚の黒い布をどこからともなく翻した。その布が茨城を覆うと同時に姿が消える。大竹もその手に布を握り、男を睨みつける。
「…東弊あずまの方にも言っておけ、日創。我々は同朋と共に仕事をしたいだけだ、光の中で生きたいだけだ。それを傍観する分には構わん、だが、もしそれを邪魔するなら」
大竹の気炎を受けたのか、男の頭部を覆う箱が一回転する。
「鬼に横道はない、正道を通り、因果応報が待っとるぞ」
「それで貴方方の商売が成り立つのであれば」
慇懃であり、一切の感情が感じられない言葉。大竹は舌を鳴らすと、一瞬だけ幸坂に振り向いた。その表情は穏やかで、しかし幸坂はそこに失望と落胆を読み取る。だが、もはや幸坂は揺るがない。そちら側には立てないのだとその目を見開いた。大竹が首を振る。
「貴女の事は、本当に残念ですよ、幸坂さん」
そして、大竹もまた姿を消し、室内には男と幸坂が取り残された。
二人はしばしの間沈黙に包まれる。表情を浮かべず微動だにしない男に、幸坂がおずおずと口火を切った。
「…わ、わたしは連れて行かないんですか?」
箱がくるりと回る。その視線が何処へ向いているのかは分からない。
「貴女は人間です」
しかし、その箱から発せられたのは僅かに感情を感じさせる強い断定。大竹にかけられたものとは僅かに違ったその言葉に、幸坂は何かを思い出す。どこか、遠いどこかの記憶を。男は一瞬、手を組み合わせ、失言だとでも言わんばかりに淡々と事務的な言葉を並べ立てる。
「今回の目標は鬼の遺伝情報、あるいはその塩基式その他のみ。現状において、財団と必要以上に敵対する事は避けるべきですし、そもそもこれ以上の敵対感情を持たれると面倒です。貴女は下部構成員のようですから捕縛する意味もなし。加えて、私共にとって下部の荒事連中にこれ以上の借りは作りたくありません」
「…」
「それでは、失礼しましょう。追っても無駄ではあるとだけお伝えしておきます。おそらく、すぐに貴女側の助けも来るでしょうが」
男は踵を返し、拘束された幸坂を残し部屋から出ようとする。その背に幸坂は思わず声をかけた。あの夜と同じ声を。
「…結局、研究職には就かんかったんやね、鳥越くん」
男の足が止まる。その行動に、幸坂は確信を得た。突くだけで折れてしまいそうな、それでいて決して折れることはないだろう、針金のようなひたすらに純粋だった男の名を。
「君やろ?」
応えはない。だが、幸坂は頷いた。
「応えんでもええ、けど、お礼は言っておこう思ってな。君があのとき、私の目を綺麗やって、人間やって言ってくれたから、今日、私はあっちに行かんですんだ」
大竹によって引き込まれそうになったその一瞬。彼女が見たものはあの瞳。暗く、それでいて美しい、一人の男の眸。そして、それが映した自分の姿。幸坂は躊躇うように、あるいは、睦言のように、言葉を続ける。
「…その、何や、ありがとう。そして」
「さようなら、幸坂縁女史。そして、二度と会うことはないでしょう」
男は機械的に、事務的にそれだけを告げ姿を消した。幸坂の単眼に何かがこみ上げる。彼は変わってしまった。彼は我々の敵になってしまった。もう会えないのだろう、もう会うことはないのだろう、もう会うべきではないのだろう。だからこそ、あの寒空の夜を、さっきの一瞬を。自分を人であると留めたあの言葉を、あの黒々とした瞳を、幸坂は忘れないように胸に留める。
「君のこと、嫌いやなかったんやで」
その単眼ひとみは、水面のように揺らぎ、表面から滴り落ちる。ああ、大丈夫。私は人間だ。