夏に溺れる
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夏は好きだ。
自分の名前に夏の字が入っているから、とかそういう理由ではない。
夏は、彼女に会えたから。

昔は夏休みになると家族で帰省したものだ。
田舎の裏山に、その古寺はあった。その寺は寺として機能しておらず、専ら彼女の夏季の私邸として使われていた。

彼女は古風な遊びを色々と知っていて、私の遊び相手を務めてくれた。訪ねると必ず飴をくれた。お店で売ってるようなくっきりした甘さの飴ではなかったけど、その淡い感じが好きだった。
彼女は太陽のように笑っていた。その雰囲気がとてもとても好きだった。彼女が笑っていると私も楽しくなって、上機嫌な私を見て彼女はますます笑みを深めた。
彼女になんで優しくしてくれるのかと聞くと、滅多にお客さんは来ないもの、話し相手になってくれるだけで嬉しいのよと答えて私の頭を優しく撫でた。彼女は陽だまりのように暖かだった。
だから、私もそうする。

彼女を訪ねる人は皆無と言っても過言ではないようだったが、厳格な祖父が苦手だった私は田舎で暮らす間毎日のように寺に通っていた。ある年、受験があるから来年は来れなさそうだと伝えると、とても寂しそうにしながらも激励の言葉をくれた。もう何年も前のことだ。
私は進学しても忙しいからとここに来なかった。過去の思い出として、田舎に置き去りにしていた。数年ぶりに山寺を訪れたのは、ちょうど今日みたいなそろそろ秋になろうかという季節だった。

記憶の何倍も皺が増えた祖父母に挨拶を済ませ山に入った私を出迎えた懐かしの寺に、私は驚かされた。こんなにこの建物は小さかっただろうか。まさに時の流れを突きつけられた気分だった。寺の様相は記憶と何も違わないのに、高校時代に背が一気に伸びた私にはまったく違うものにも見えた。
彼女は布団の中で私を迎えた。私のどたばたとした足音は、彼女を起こしてしまったらしい。しかし彼女は嫌な顔一つもせずに、私を視認すると嬉しそうに笑った。
あらまぁ、あらまぁ。大きくなって。それに美人さんに育ったねぇ。ごめんね、おばあちゃんちょっと具合が悪くって。なっちゃんが好きなアメちゃん、いつもの棚に入ってるからね。好きなだけお食べ。
彼女は祖父母と同じで記憶の彼女よりずっと老いていて。その声も、その微笑みも、記憶よりずっと弱々しかった。私は布団から起き上がろうとする彼女を見て、つい泣いてしまった。彼女は困ったように笑い、血管の浮き出た皺々の手でそんな私を撫でた。
その日は彼女に会った最後の日で、私は彼女を看病して過ごした。粥とは言え、私の手料理を最後に食べられてよかったと彼女は微笑んだ。そして、彼女は私に一つのお願いを遺して去った。翌日、彼女が居なくなった山寺で、私は泣いた。

今日は山風が心地よい。陽の光も強すぎず弱すぎず好い塩梅である。まるで秋の一日のようだ。私は夏が好きだが、こういう日も偶にはいいだろう。
私は夏以外にここを訪れない。だけど、それでいいのだ。私が寺にいる時は、必ず夏ということだから。
梅雨が明けたら、私はこの山寺を訪れる。そして秋になるまでここで暮らすのだ。彼女はそうしていたし、私もそうしている。

私は夏が好きだ。
もう彼女に会うことはできないけれど、私は夏が好きだ。
あの日、彼女から受け取った鍵を手の中で転がす。
私にとって彼女は夏だった。
この寺は常に夏だったのだ。
彼女は夏の寺を私に任せた。
だから、私が夏になろう。
それが彼女のお願いなのだから。

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