日時計


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あなたはデスクから立ち上がる。ここに座ってからどれほど時間が経ったのだろうか?

身体の痛みがその答えを教えてくれた。

あなたはオフィスを見渡す。いつもと何ら変わりない。蛍光灯と、白い壁と、灰色のカーペットに一人きり。目移りするものは一つもないが、どうせ目移りすることは何もない。

退屈だ。とても退屈だった。そろそろ休憩の時間かもしれない。



サイトの廊下をうろついていると、両脚に感覚が戻ってきた。サイトの番号の記憶はない。この殺風景な壁と、ブーンという音を立てる照明器具に囲われたこの場所に、どれほどの時間いるのだろう? あなたは最後に太陽を見た時を思い返す。

しばらく見てないんじゃないか?

ここは何もかもが同じに見える。あなたは廊下の奥で何か分からない会話をしている2人の研究員を見て、最寄りの出口がどこにあるのか尋ねようかと考えた。しかし会話に割り込むのは失礼だ。だからあなたはやめておいた。あの様子では見向きもしてくれないはずだ、そうだろう?

あなたは探索を続けた。



あなたは道に迷っていた。これは必ずしも自分のせいだとは限らないと、どうにかして自分に言い聞かせる。もうここしばらくは他のスタッフを見ていない。澱んできた空気の中で、あなたは床の埃に足跡を残していく。もしかしたら遠くまで行き過ぎたのかもしれない。一度戻ってみようか —

日の光が漏れているのが見える。紛れもない一筋の柔らかな光が、規則正しく並んだ天井照明が占める領域の間を不法に通り抜け、サイトという迷路の分岐点のすぐ先から差し込んでいる。その中で小さな塵が舞っている。誘っているようだった。

あなたは角を曲がり、光の中へと足を踏み入れた。



頭がくらくらとする感覚が、訪れた途端に消える。心の目から霧が晴れていく。あなたは前にも同じ感覚を覚えていた。かつては恐怖と混乱をもたらす要因だったのだが、今となっては軽く迷惑でしかなかった。新たに手にした明瞭さで、自分が立たされた窮状の真実を確かめる。

あなたはもうサイトの中にはいない。

これが当初の予定だった、つまりは外に出たのだが、一方でこの景色は全く見慣れないものだった。あなたが全く違う場所にいるのは明らかだ。

足元には土しかなく、舗装された道路は、遠方に見えるくすんだグレースケールの建物が聳え立つ町へと続いている。その向こうでは、薄暗い空の下で陰った木が壁のごとく並んでいた。もうすぐ雨が降りそうだった。

前方に木製看板がある。




グリーンラウスへようこそ

人口: -1




あなたは本当に道に迷っていた。




行方不明になるのはこれが初めてではない。あなたは財団にとっても遠く離れた碧落の地に出現することが多かった。いつからか、この事態にはもう慣れていた。所持品のどこかにGPS追跡機が付いている。誰かがあなたの不在に気付き、迎えに来てくれるのを願った。それまでの間は?

あなたは時間を持て余していた。




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田舎道を歩いていると、主だった最初の建物にたどり着いた。玄関ポーチから旗が垂れ下がった、古風な趣のある白い家だ。英語で書かれた看板がいくつもあるが、どういう意味なのかは全く分からない。あなたはここがアメリカ合衆国のどこかであると割り出した。良い感じだ。それに地元民は英語が分かるはずだという推論も立つし、そうだとすれば色々とかなり楽になる。

あなたはドアに接近し、拳を握ってノックをしようとした。しかし次はどうする? 電話を貸してくれないか尋ねて、財団に連絡を取るのか? 匿ってもらうよう家主にお願いでもするのか? 何と言えばいい? どうして入れてくれると思っているんだ?

踏みとどまる前に、拳が木板とぶつかった。拳を引っ込めると、白いペンキの薄片が落下した。

やってしまった。遅すぎたんだ。あなたはさらに2回、震える拳でノックをやり通す。それから "こんにちは?" と、聞き取れるかも分からない声量で言った。

あなたは注意深く家の周囲を回り、暗い窓から中を覗いた。家には誰もいないようだ。道沿いの他の家にも目を向ける — 期待は漠然としており、意図はまだ十分に練られていない。

ここには誰も住んでいない。空気は静かで、照明はどれも消されていて、道のどこにも車はなく、先ほど見た看板があなたの脳裏に浮かぶ。ここには誰もいない。

ならどうして-1だったのだろうか?


あなたは町の外れにある小さな墓地を歩いて回り、風化した石を途中でじっくり眺めつつ、はっきりとは定まっていない泥道を慎重にたどっていく。死者の邪魔をしたくはないだろう?

墓地を訪れたのは久々だ。あなたは葬儀にすら行かなかった。前に訪れたのはずいぶん昔のことだ。あなたが今立っている墓地はあれよりずっと狭い。墓石はその10倍以上はくすんでおり、装飾は皆無に等しい。呆れるほど長い間眺めていると、あなたはあることに気付いた。

墓石に何も彫られていないのだ。

恐ろしい。もしかしたら、下には何も埋まっていないのかもしれない。町の人々が死体を掘り起こし、ここから持ち去っていったのかもしれない。どこか別の場所で腐敗させるために。もしかしたらここは墓地の跡で、かつてグリーンラウスに生き、そして死んでいった人々の憩いの場であったことを記念したものかもしれない。

この踵の下にはもう誰も永眠してはいないのだと、あなたは確信する。そして、この墓地について熟考するには十分すぎる時間を過ごしたのだとも確信した。

あなたはこの墓地の全てを理解したのだと自己満足に浸り、その場を去る。そうするもう一つの理由は、実際に何かを確かめるにはあなたがあまりにも臆病だからだ。現に今、中にショベルでもあるかもしれない整備小屋の前を、あなたは何も考えず通り過ぎて行った。

何でもいいから幽霊が見つめ返さないか半ば期待して、もう一度墓地に振り返ったのだが、墓地には何も存在しなかった。


町の中心をうろつきながら、あなたは風と雨とぼうぼうの草の気まぐれに任された町を観光する。ここはかつてはかなり広い町だったのかもしれない。元々はベーカリーだった店の埃っぽいショーウィンドウを通り過ぎる時、あなたはカチカチに硬くなりきったパン同士の間に映る自分の反射像を捉えた。


どうしてお前はここにいる?


"不随意転移"。昔読んだ本で使われていた用語で、しかしどこで使われていたかは覚えていないが、あなたのそれにはたいていの場合何らかの目的がある。「そこ」がどこであろうと、決まって最後には、あなたはそこで何かをすることになっている。そうでなければ、あなたが「そこ」に、より適切に言えばここにいるもっともらしい理由は他にない。そうだろう?


ならどうしてお前はここにいる?


あなたはベーカリーのパンがどうしてまだ食用に適しているように見えたのか不思議に思った。

それだけなのか?

アレックス・ソーリーと幽霊都市の謎?

アレックス・ソーリーと疑わしい無カビのパン?

アレックス・ソーリー…… 調査員ザ・インベスティゲーター

そもそもこの町に調査を必要とするものが存在するのかも疑問だ。仮に存在するとしても、何をすればいい? 近代科学では知られていない放射線やエネルギーを検出するためのファンシーな機器は何一つとして持っていない。突くべき死体も、インタビューすべき人々も見当たらない。

ここにいるのはあなただけ、そして何もない幽霊都市だけだ。




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役所と思しき建物を通り過ぎるところで、あなたは官僚主義的な疑問に頭を巡らせる。どこぞのオフィスのどこぞの国勢調査員が、単に町の人口を誤った値で記載しただけだと推論した。

それで合っているように思えるだろうか?


違う。


役所の窓は閉め切られていた。壁には落書きがされている。一体何を伝えたいのかは分からない。正面玄関は2枚の大きなマホガニー材の扉が守っているが、もう長い間役目に背き、中の暗いロビーを明け透けにしている。窓を板が覆っていて光こそ遮られてはいたが、それでも中は風雨にさらされていた。

ここは地図からも忘れ去られた辺境の村などではない。ここはかなり広い町だった。それはつまり、看板を変えるためだけでも誰かがわざわざこの役所まで足を運ばなければならなかったということだ。負の数はとても異様に映る。


0だってそうじゃないか。


かすかに差し込む光から、ファイリングキャビネットがいくつかと、多分デスクが一つ、そして物影へと続く擦り切れたカーテンが判別できる。中は寒そうだ。

そもそも看板を変える意味があるのだろうか?

もしかしたら、これはただの手の込んだ悪戯だったのかもしれない。それを面白いと感じる人はこの町には誰もいないと悪戯屋が気付いた時に面白味が薄れた、考えの浅いジョークだったのではないか。それかひょっとしたら、最後の住民がここを離れる前に有終の美を飾ったのかも。

あなたは笑うべきか迷った。





あなたは何となく劇場へと入り込んだ。映画ではなく舞台劇のための、昔ながらのものだ。天井のどこか見えない窓から日の光が差し込み、町が浴びていたのと同じ陰鬱な光で劇場を照らしている。だからどうしたというわけでもないかもしれないが、一応そのおかげで剥がれた壁紙や、錆びれた華美な装飾、色褪せた座席やカーペットがはっきりと認識できるほどに中が明るくなっていた。

あなたはかつて最前席だった場所に腰を据える。その天井には華やかなアーチや精巧なフレスコ画が見えるが、あまりに遠すぎて詳しくは分からなかった。ここではどんな劇がよく演じられていたのだろうか。




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-1人というのは何人だ?

文法的に正しい文章だとは思えない。


劇場には100を超える席がある。多分。ここに足を踏み入れた時点で、全部数えるのは絶対に可能な作業ではないと判断した。数えることに何の意味があるというのだろうか? 観客は誰も来ていない。


人間が一人もいないということか?

だったら0人だ。


後ろの座席には大きなシャンデリアが鎮座している。今はもう天井から吊り下げられていないから、どこか萎んでいるようにも見える。この床はきっとシャンデリアにとっての地獄に違いない。権力者によって遥かな高みから追い出される先なのだから。


人間が一人はいるべき場所に誰もいないということか?

違う。だとしても0人だ。


舞台は構造的に堅固だ。多分。色の濃い木材は、存在するかどうかも分からないひび割れや穴を上手く隠すものだ — 埃や漆喰や破片クズが何もかもを覆っていなければの話だが。


幽霊か?

幽霊だって何かではある。


カーテンは歳月の経過とともに色褪せていたが、舞台上に力なく置かれていながらも、その特徴的で複雑な模様は保っていた。あなたは昔のテレビ番組であった発掘調査で黄金の遺物が発掘されていたのを思い出す。そんな小物とは違って、このカーテンは二度と光り輝くことはない。


どうしたら何かの値が負となり得る?

-1は1の逆数だ。


壁紙が所々剥がれ落ちているように見受けられる。カビが見える。別の場所ではレンガ壁が剝き出しになっている。


人間の逆とは何だろうか?



































あなたは劇場を後にする。相変わらずの曇り空だ。ここに来てからどれだけ時間が経ったかよく分からない。劇場の外には、大きな日時計の彫刻があった。

壊れている。影を落とす部分が台座の上にバッタリと倒れていて、町の中央にある通りの一つを指し示しているのだ。これではどのみち活用することはできなかっただろう。

あなたは今しがた隣にあると気付いた建物のレンガ壁を見た。倉庫だろうか、あるいはひょっとしたら工場かもしれない。雲に覆われた空の下でも、辛うじて自分の影が見える。しかし仮に日時計が機能していたとしても、それをどう活用すればいいのかあなたには分からなかっただろう。多分。

もう一周ウィンドウショッピングに繰り出そうとした時、頭の片隅に一つの考えが浮かんだ。ショーウィンドウに並んだスーツやスカートやシャツをじっくり眺めている最中にも、どうして日時計は壊れていたのか尋ねるよう語りかけてくる。この疑問は、あなたの後にここを調査しに来る誰かのために取っておいたほうがいいのかもしれない。

通りを挟んで協会があった。もう少し先には診療所があった。商店、レストラン、バー、その他施設があちこちに点在していた。どれもこの町の他の建築物と同じように、老朽化していて、静かで、無人で空虚だった。

もう見るべきものは全部見てしまった。










あなたは教会まで続く階段の、雑草がさほど生い茂っていないコンクリートの上に座った。根競べはまだまだ続く。














エンジンの音が近付いてくる。財団があなたを迎えに来たのだ。

車両があなたの視界に映り、協会のすぐ手前で停止した。運転手が挨拶してくれないか期待したが、どうやら財団は自動運転車にあなたを迎えに来させたようだった。






グリーンラウスを出発する車の窓から、外をぼんやりと眺める。アスファルトが段々と土に変わっていき、建物が次第に小さく、間隔が開いていくにつれて、あなたの足取りが思い起こされていく。

帰り道の途中で、同じ看板があなたを出迎えた。





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グリーンラウスへようこそ

人口:










グリーンラウスには何も存在しない。















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