鮨と米について
山井背仁
Abstract
米は鮨の歴史上常に不可欠な存在であり,これは鮨の聖性を形成する重要な構成要素としての役割が大きかった.中世に鮨が世俗化し近代的な華屋型鮨が出現したのちは鮨の聖性が損なわれたが,米は鮨の基底部として依然重要であった.近年のスシブレード研究は米への注視に欠くが,再度これに着目することは大きな発展を生むものである.
序.鮨における米
抑も鮨ないし鮓とは,魚を塩米に含めて醗酵させたものであった[1].米はあくまで漬物における糠のようなものであって,食されることはなかった.中世後期より米を併せて食す類の鮨が生まれ,今日皿上に米を伴わない鮨はほとんど存在しないと謂ってよい.歴史的に見て米は鮨にとって必ずしもその主たる部分ではなかったが,しかし本初よりこれを欠いては鮨足りえない.米を食さなかった時代にあっても,鮨を鮨たらしめるのは「米に魚を入れ発酵させる」という工程であって,これを抜きにすることはできなかったのである.
すなわち,鮨全体を一つの建造物に喩えた時,米はその土台である.建築とは上物あってこそのものであるが,その上物の設計をするに当たって基礎土台への検討莫くして行うこと能わざるが如く,米への注視莫くして鮨を考えることはできない.是はスシブレードに於いても同じ事である.
然るに今日のスシブレードをみるに,米への検討を全く忘れるばかりか,米も鮓も関わりなきものを,果てには食えさえせぬようなものをもスシブレードであると強弁する輩も数多存在する始末である.
本稿では,米と鮨及びスシブレードの関係について最新の研究を紹介しつつ説明し,スシブレードにおける米の重要性を再度確認することを目的とする.
壱.鮨の聖性
従来スシブレードの起源は,江戸前寿司の祖の1人である華屋与兵衛が商売のため始めたと伝わる鮨相撲に由来するとされてきた[2][3]が,近年幾つかの古文書例えば『神枷文書』古代氏族である神枷氏の名を冠した文書であり,幾つかの史資料にその名が見られる.現在は雪野細雪らによって発見されたものが一般に流布しており,本稿でもこれに典拠する.この「地々寺版神枷文書」については同文書に仮託した偽書であるとする批判も根強いが,今日では一部改竄等が行われた痕跡があるものの多くは元文書の写しとする説が主流である.や『芙蓉亭文庫』近年新たに発見された史資料群であり,徳川家康の設けた「富士見亭文庫」の一部であると見られている.等の発見・研究を切欠として,さらに時代を遡ることが明らかになってきた.多くの史資料は残念ながら災害等によって失伝してしまったと推測されるため依然詳細は不詳であるが,相撲が元来神事であるのと同じように,鮨相撲も神事の一つであったことが分かってきている[4].
古代当時は未だ熟鮓の時分であり,先述の通り米を落として食すのが普通であったが,この神事に際しては米を落とさずに用いられたのみならずこれを食しさえした[5][6].当然この米は酷く発酵してしまっている.今昔物語にも鮓売りが吐瀉物が混じったものを売った話が載っているが,このことが可能であったほどに古代の鮓を入れた米とは酸いものであり1,加えて塩が大量に含まれるために辛く,食し難いものであった.
ではなぜ当時の人はこれを落とさず原初の鮨相撲を行い,あまつさえそれを食したのであろうか?
これには古代の信仰が関係している.古代日本において米,特に吐瀉物にも近しいほど発酵した米は神聖なものととらえられていたのである.
記紀の記述を例とすれば,古事記のオオゲツヒメ,日本書紀のウケモチノカミは何れも穀物ないしは食物の神であるが,これらの神は口などから食物を出してそれぞれスサノオないしツクヨミをもてなした.スサノオとツクヨミはそれぞれこれに怒ってオオゲツ,ウケモチを殺し,その死体から今日の五穀(及びその他の食物)が生じたというのがこの話の大まかな筋である[7]が,いずれにせよ穀物神は口より吐いたものを神(それも非常に階位の高い)に提供したのである.このような伝承から,食物神が高位の神に出した(即ち神話に於いても特に優れていると当然推測される)食事は吐瀉物のようなものであったとみなすことができた.
加えて書紀に於いてウケモチは,陸を向いて米を,海を向いて魚を口より出している2ように,米と魚はそれぞれ農産物と海産物を象徴する存在でもあった[8].
また近代科学以前の社会において,吐瀉や発酵は神の領域に属していた.吐瀉物とは普通ケガレを伴うものとみなされる.事実吐瀉物は病の時に多く生じてこれを媒介するし,先述の二神が食物神を切ったのもこの意識ゆえである.その一方で,カナヤマビコらはイザナミの吐瀉物から発生しているし,先述の穀物誕生説話のような例も存在する.悪阻が妊娠・出産の予兆であるように,嘔吐はケガレとしての性格を持つと共に,吉事の前兆としての性格をも有していた.発酵と腐敗は科学的に見れば同類の変化であるが,古代においては腐敗物・発酵物と吐瀉物の区別は特に付けられなかった.いずれにせよ食物等が大きく姿を変え,匂いを生じるものとして認識されていた.日本は発酵食品の利用が進んだ地域であるが,発酵や腐敗自体が当時の人々にとっては不可思議な変化であり,信仰の対象となっていた.その代表が鮓と同じく米を用いて作る酒である.神饌等としての利用も多い日本酒は,口嚼ノ酒に由来するといわれる.生米を口内で噛んで吐き出し,時間を置くことで完成するのがこの口嚼ノ酒であるが,これは擬似的な嘔吐である.この行為が,後代食物神の模倣と見なされ嘔吐物・発酵物の神聖視に繋がったとの指摘もある[9].
これらを理由として,魚と米を主要素とし甚だ発酵している鮓は,天地とその実りの象徴とみなされた.そのため古代の人は鮓を用いて五穀豊穣と大漁を願い,これを神饌として用いた.鮓・鮨の存在については非常に古くから記録があり,多く都へ運ばれたとする記録が残っているが,それだけ鮓・鮨は古くから重要な存在であった.
鮓が儀式に使用されたこれらの理由を鑑みれば,初期の鮨相撲において米を落とさずに用いたのは当然といえよう.日常では食すことがないけれども,神事としてはあえて天地豊穣の象徴たるこれを食すのである.
なおこの論を補強するものとして米自体の聖性に関する話がある.例えば米の仏舎利の形代としての性格,稲妻との関連性における自然信仰,神の依り代としての米粒などがその一例であるが,これについては多数の先行研究が存在するのに加えひろく一般に知られているため,ここでは割愛する.米津の『日本における稲・米に対する信仰』[11]やMayの『Holyness of Rice in Japan』[12]に詳しい.
弐.鮨相撲の成立と変化
当初ただ神に供えるだけであった鮓・鮨は,奈良時代末から平安初期にかけて鮨相撲へと変化してゆく.『神枷文書』に収録された神事記録によれば,最初期の鮨相撲は「相撲」ではなく,単に鮨を回してその散乱具合から吉凶を占うものであったとみられる[5].しかし平安後期には,鮓同士をぶつけることで吉凶を占うものへと変化した[6].異なる材料を用いた鮓同士をぶつけることで占うものへ複雑化し,鎌倉末から室町中期までには鮓同士の衝突と回転停止までを争う今日の形へと変化して行ったものと考えられている[13].
中世までの「鮨相撲」における鮨は捧げたのち儀式参加者で分け合うことによって,形式上食物神自身による食事を頂くという形式を取っていた.保存性などの問題から,使用した鮨は勝敗の仕組みが生じたのちも全て食されていた.ただし一部には最後まで勝ち残った鮨を翌年までの一年間奉じ続けるような風習も見られ,これが「敗者が自らのスシブレードを食す」というルールへと繋がったとみられている.
鮨を用いた神事が大きく変化していく一方で,中世を通じて鮨自体の構造に大きな変化は見られなかった.依然として塩と米の中で魚を発酵させるという加工形式が保存されていた.一方で,室町期ごろから周囲の米を日常でも食するようになったとする研究も存在する.例えば廻らないスシ協会の日吉田親成は「15世紀には「生成」という発酵の程度が低い鮨が食されるようになったが,これは鮨周辺にある米飯をも同時に食すものである」[14]と主張しているし,神事としての鮨相撲を最初に指摘したとして今日再評価されている神風亭上加世明治26(1893)年~昭和20(1940)年.昭和初期の文人だが無名であり,当時の学会においてその論に注目・支持するものはいなかった.は「神事鮓相撲は当代の社会にも広がり,足利時代よりは儀式中のみならず一般の食事にも米を供にする例が現れたのである」[15]と言っている.
中世末から近世初頭にかけて鮨制作時の酒や酢の使用が盛んになるなど,鮨の米を食しやすくするような要因があったことは事実[1]であるが,特に後者の指摘は鮓相撲の世俗化とも深く関係している.
この変化は保存技術の進歩や社会構造の変革に影響を受け,鎌倉初期ごろから鮨相撲を対象とした賭けが発生した.とりわけ南北朝末以降には『寧大寺雑記』に「応永年間,駿河国許斐彼を中心に魚を米で覆ったものを用いて争うことが流行り,賭けの対象となって財を失うものが多く出た」とある[16]ように,これが東海地方の一部を中心に流行して世俗化・競技化の端緒となった[15].
農業技術の発展と作付面積の増加に伴って米の入手がより容易になるとともに稲に対する信仰が一層栄え,これに戦乱等を避け各地に散った陰陽師や修験者らが関与することで初期の携帯スシブレードが成立した.当初はおむすびのように取った鮨を竹の皮に包み,これに祈念することで長期間の携帯を可能とするするものだったが,次第にこれは多様となり,戦国期の修験者や所謂忍びがこれを非常食と護符を兼ねたものとして携行するようになる[17].これがスシ・アサシンの端緒であり,スシ・アサシン同士が出会って鮨を用い闘うことも度々発生したが,これが正式に整えられた場と異なる遭遇戦としての鮨相撲しいてはスシブレードの道を開いた.戦国後期は第一の鮨相撲黄金期であり,多様なネタ使用の文化が花開くこととなる.
江戸に入って鮨相撲は賭博としても暗器としても一度廃れたが,東海地域が徳川氏の根源地であったことも影響してか,関東に移住したものによって連綿と継承されていった.またその他の地域や集団においてもごく僅かにこの系譜を今日に伝えるものがある.
関東で継承されていった鮨相撲の一つを「発見」したのが華屋与兵衛であり,彼によってスシブレードの基礎は形作られた.華屋型鮨相撲,ひいては今日の江戸前型スシブレードはおおよそ「酢を混ぜた炊き飯を握り,これに切り身の生魚を乗せたもの」と定義される.流れを継承しているものの,華屋型鮨は中世型鮨とは大きく異なっている.特に鮨を発酵食品から即席食品に変え完全な通俗化・競技化が為されたことで,鮨の聖性と鮨相撲の神事性は大きく損なわれた.ただし,華屋型鮨においても依然としてその天地象徴性は保存されている。また米自体の聖性については,江戸時代が米生産の一層盛んとなった時代であったことも影響してより一層大きな影響を持った.
また米について言えば,しっかり握られた酢飯(シャリ部)が底面に配置されるようになったことで,全体をまばらに覆う中世末期型鮨に比較して直接的な攻撃・防御的重要性は減じたものの,機動・耐久面における重要性が非常に高まった.華屋型鮨の発生した江戸後期の江戸では白米の食用が益々進展していたこともあってシャリ部も白米化され,これによって鮨相撲は短期決戦・機動戦の傾向を強めることになった.
その後の鮨相撲及びスシブレードの歴史については主計八郎氏らの『寿司史総論』や日本スシブレード協会の『スシブレードの歴史』に詳しいが,およそ周知の事実であって本論の趣旨からも外れるので,ここでは省略する.
参.スシブレードにおける米への再着目
これまで述べてきたように,鮓及びスシブレードにおいて米は重要不可欠な存在である.然し序において述べたように,近年のスシブレードにおいては「ネタ」ばかりが着目されて「シャリ」はしばしば無視されてしまっている.
確かに米に重点を置いた研究は0ではない.例えば「とわひかり米」や「油米」,「米擬米」などがあるが,「とわひかり米」は2016年時点から使用が禁止されているし,後者二つに至っては純粋な米とも言い難くまた今日入手することは不可能に近い.
これらの研究は米そのものに着目したとは言ってもむしろシャリにおける「闇寿司」的手法でしかない.このような飛び道具に手を出そうとする以前にまずは,如何に高質でスシブレードに適したシャリを作るかという基礎的な観点に立った研究を行うべきであるとする.使用する米の品種,産地,生産方法,磨ぎの度合い,炊飯に使用する水の種類,炊き方,酢の種類,攪拌の形式,握り方など考えるべき点は非常に多い.日本生類創研出身の米津元妹氏やスシアカデミアの止手綯衣乃氏などがこの分野の先達であるが,その重要性に反して寄せられている関心は未だに薄い.
一方で本分野の研究についての重要性は,既に指摘されているところである.例えば止手氏の研究によれば,表面部における米粒の空間的な方向とその統一性によってスシブレードの機動性に限定的ながら4割以上の差が生じることが分かっている[18].これは理論的なものであってその実現は非常に難しいであろうが,米ないしシャリに対する研究がスシブレード界の大きな発展を援けることは疑いようがない.今後シャリへの着目は,より一層重要となってくるだろう.
著者情報
山井背仁
スシアカデミア研究所基礎機能研究室長.2003年 畿州大学総合科学部卒,05年 畿州大学大学院総合科学研究科博士後期課程修了(特殊科学博士),05年香橿市立郷土史研究会特別研究員,08年日本特殊科学研究機構研究員,11年日本スシブレード協会特別研究員,12年スシアカデミア研究所基礎機能研究室研究員,18年より現職.
研究内容: 丹波香橿地域における特殊神事の研究,古代から中世初期におけるの鮨相撲の研究,スシブレードの基礎機能研究
出典: スシアカデミア学術紀要,Vol 103 2020 pp.160-167