回る寿司か、回す寿司か。
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 暗い店内。木製の掛時計はまだ21時を指している。いつもならば光が店内を満たし、家族連れの笑い声と軽やかなポップミュージックで賑わう時間帯だ。今は代わりに、雨が壁を打ち暴風が扉を揺らす音だけが響いている。寿司もなく、停電で回りさえしないレーンに囲まれて、西行は独り夜が明けるのを待っていた。
 本部から連絡があったのは4時間前、夜の仕込みが終盤を迎えるころだった。風がやや強く、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。
「台風、かなり強いらしいので、店を締めてください。店員もすぐに全員帰宅させてください」
 淡々と伝えられた指示に、西行は言葉をつまらせた。
 ——休業? 突然、そんな簡単に言われても。
 既に仕込みはほぼ終わってしまっている。もし休業になるならば、仕込んだネタはすべて廃棄しなければならない。鮮度が落ちてしまうからだ。そうなれば大損失は免れない。今月の本部へのロイヤリティは一日分減額するということだったが、そんなことでは損失のカバーにはならない。台風が来るということは既に前日からわかっていたことだ。朝の時点で本部に営業可否の確認もした。それがここにきて、突然の方針転換だ。
 ふざけないでくれ、という言葉が喉元まで上がってきたが、それを怒りに任せて叫ぶことはできなかった。彼は回転ずしチェーンの一店長に過ぎない。しかもフランチャイズチェーンだ。本部に反抗すればどうなるかわかったものではない。わずかしかないチューブわさびのように絞り出された声は、弱々しい懇願でしかなかった。
「ど、どうにか休業だけは勘弁しちゃくれないでしょうか。従業員も希望次第で退勤を認めますんで……」
「ダメです。コンプライアンスです」
 コンプライアンス――西行はもはや何も言えなかった。彼はコンプライアンスについて詳しくなかったが、それがフグ毒よりも扱いに気を付けるべきものであることは店長研修で教え込まれていた。
 彼は力なく受話器を置いた。従業員たちに休業を告げて先に帰し、彼は一人で片づけを始める。いつも複数人で行う作業だ。そう簡単には終わらない。そうこうしているうちに風と雨はどんどん強くなり、とうとう西行は店を出るに出られなくなってしまっていた。
 損失と今後の計画の狂いが西行の頭の中で不安を育てる。台風ということは明日も休業になるかもしれない。そうだとしても家賃は変わらずに払わなければいけないし、もし備品が壊れたら修理だってしなくてはいけない。金は出ていくばかりで、一向に増えはしない。これでは死んだ父親に会わせる顔がない――
「寿司を、握っていただけないかね?」
 突然聞こえた声に西行は飛び上がる。気付くとカウンター席に一人、目深に黒いフードをかぶった男が座っていた。
「へぇ…… ああいやお客さん、申し訳ないですけど今日は店仕舞いでしてね。台風も大変なんで、どうやって来られたかわからないですけど、酷くなる前に帰ったほうがいいですよ」
 西行の声に反応はない。男はしばらくしてもう一度言った。「寿司を、握っていただけないかね?」
 西行は警戒した。明らかに普通の客ではない。下手に刺激するのは危険だ。それに男を見ていると、腹のあたりをぐっと抑えられるような重圧を感じる。西行は額から滲む脂汗をウエットティッシュで拭って、ビニール手袋を着用した。
「……承知しやした。少々お待ちください」
 厨房からすでにネタの形になっているマグロと酢飯、それと調味料を運んで、寿司を握る用意をする。どうせ廃棄予定のものだ。出し惜しみする必要もなかった。
 左手にネタを持ち、ワサビを塗る。ネタにシャリを乗せ、形を整えながら握っていく。西行は、男がフードの奥からその一挙一動をじっと観察しているように感じたが、何も問題はないと心を落ち着けた。西行の握りはマニュアル通りの握りだった。西行の店が所属するのは中流向けの寿司チェーンだ。ネタも飯も冷凍のものや成型済みの格安物は使わない。しかし人件費を抑えるために、従業員はアルバイトに頼らざるを得ない。そのためバイトでも美味しく作れるように、ネタの切り方から握りの手順まで、事細かなマニュアルが定められていた。これに従えば安定して美味しい寿司が握れるし、仮に美味しくなかったとしても西行に責任はない。
 男の視線のせいで絶えず緊張があるものの、西行は力加減から回数まで、完璧に決められた通りにやってのける。やがて寿司の形が出来上がり、西行はホッと一息ついた。
 その瞬間、一閃何かが西行の手元を通り過ぎ、皿に載せられたはずの寿司からネタが消えた。
 やや遅れて、ぐわんぐわんとバネが伸縮するような音が聞こえた。西行が振り返ると、壁にプラスチックの箸が突き刺さって揺れていた。そこには先ほどまでシャリの上に載っていたマグロの身が磔になっていた。
「手が滑って箸を片方落としてしまったようだ。新しいのを使うが、いいかね?」
 男はフードを脱いで、低めの穏やかな声で語り掛ける。
「私はチェーン店の寿司を食べにきたわけではないのだよ」
 西行には、男の上物の和包丁のように鋭い目が自分を切り裂こうとしているように思えた。そして穏やかな声とその冷徹な視線は対照的で、西行は自身の背中を鳥肌が駆け上がってくるのを感じた。声を出せずにいる西行に、男は小さくため息をついた。
「まだわからないのかね。私は、君の寿司を食べに来たのだよ。私は君の技量を知っているんだ。それに、君の特別な力のことも。ごまかしはきかんよ」
「どうしてそのことを……」
 西行はかつて高級寿司屋で修業したことがあったが、両親と兄以外にそのことを話したことはなかった。チェーン店の経営に握りのスキルは無用だからだ。自分の作る寿司の味だけ他と違えば、それは品質が不安定であることを意味する。それは客の不満にしかつながらないことを、西行は重々理解していた。
「経緯などどうでもいいのだよ。私は君の寿司をみたいと思っている。もちろん、ただでとは言わない――」
 男が小声で何かを呟くと、男の手の平にどこからか漬けマグロの握りがあらわれた。握りはゆっくりと男の手の上で回転している。「普段はこんな寿司、回さないのだがね」
 西行は息をのんだ。男が突然寿司を取り出したことも驚きだったが、何より寿司のこんな挙動は今までみたことがなかった。
「これは……」
「スシブレード。私が君に与えられる、新しい力だ」
 男の手の上で漬けマグロは徐々に回転数を上げ、ついに手から滑り落ちてレーンにのった。漬けマグロは止まったレーンの上を駆けていく。暗闇の中で、漬けマグロの表面が艶めかしく輝く。マグロはレーンを一周し、西行の前で止まった。美しい回転に、西行は目を奪われる。
「一体、何が起こってやがるんだ……」
「美しいだろう? 私たちの仲間になれば君にも寿司の回し方を教えてあげることができる」
「仲間……?」
「ああ。申し遅れてしまったが、我々は闇寿司。そして私はヤミ・マスターの樫漬カシヅケだ。西行君、君の反魂の術と我々闇寿司の力があれば、なんだってできるのだよ。親愛のしるしにその漬けマグロを君に贈ろう――」
 男は右の口角だけを吊り上げて、不気味に笑う。
「悪い提案ではあるまい。もっとしっかり見てくれ。この高貴な香りを振りまくネタを。完璧に形作られたシャリを――」
 西行は漬けマグロをじっと見つめる。この寿司は危険だと直感が訴える。しかし、回転する美しい表面を眺めているだけで頭の中から不安が消えていき、それが途方もなく心地よいために、どうしても目を逸らすことができない。
「もちろん、金にだって困らない。君の父親だって君が何不自由ない暮らしを送ることを望んでいるだろう? 君はよく頑張った。その頑張りが報われるときが来たのだ」
 樫漬の穏やかな声が西行の脳に染み入っていく。今までずっと抱えてきた責任や貧しさから、闇寿司が救ってくれる気がする。西行の節くれだった職人の手が、ゆっくりと漬けマグロへと伸ばされていく。
「ああ、素晴らしいだろう。シャリの強度も申し分ない。忌々しい光の連中にも、決して負けない強さがその漬けマグロにはあるのだ…… 君はそれを手に入れて、何もかもを成し遂げることができる!」
 西行の目はもはや漬けマグロ以外映していなかった。樫漬の声が夢の中のささやきのように頭の中で反響する。指先が漬けマグロに近づき、近づき――触れた。
 頭の中に一気に何かが流れ込んでくる。それと同時に不安や恐怖が消えていく。寿司、寿司……もはや寿司のことしか考えられない。本部の憎たらしい正社員、クレーマーの客、全てを壊してしまいたい。寿司があれば、それができる。
「ああ、いいぞ。そのままソレを掴みとれ!」
 樫漬の言葉のままに、西行は漬けマグロを力強く握った。
 ――その瞬間、西行の脳内に甲高い悲鳴が響いた。
 寿司が泣いている。寿司に飲まれていく意識の中で、西行は確かにそれを聞いた。
「ここで、ここでバカなこと考えてる場合じゃねえ……」
 悲鳴が切り開いた混濁する意識の裂け目から、徐々に西行の想いがあふれ出してくる。西行は漬けマグロを置いて、両手で自身の頬を強く打った。先ほどまで笑みを浮かべていた樫漬の表情が凍り付く。
「なあお客さん、一つ聞いていいですかい?」
「……なんだ」
「この漬けマグロ、どんな味がするんです?」
 樫漬はひるんだ。西行はそれを見逃さなかった。
「お客さん、さっきまでこの寿司の魅力について色々語ってくれましたよね。形とか、色とか。だけどですよ……」
 西行は漬けマグロを手に取り、一思いに口に運んだ。先ほどと同じように黒く濡れた邪な想いが脳に濁流のように押しかけてきたが、西行の「食べる」という確固たる意志がそれを防いだ。西行は口の中で漬けマグロをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
「味については、何も言っちゃいませんでしたね。こんなに旨いってのに……」
 樫漬は席から立ち上がり、一歩退く。
「何が言いたい?」
「お客さんの寿司は泣いてやしたよ。なんてったって、いつまでも食ってもらえないんですから。こんなくだらないことに使われてばかりで……」
「寿司が泣いていた? くだらんな。私たちと組めば、金にも困らない。好きなことができるんだぞ!」
「好きなことならもうしてやすよ。あたしが回転ずし屋を目指したのは別に妥協や挫折のせいじゃねえんですよ。回らない寿司にはできねえ、回転ずしにしかできねえことってのがあるんです」
「そんなもの、あるわけない。回転ずしは所詮、高級寿司が食えない愚か者どものための低級寿司だろう!」
 西行は壁に刺さった箸を抜いて、マグロをぺろりと口の中に放り込む。そうして、樫漬の方を向いて、にかりと笑った。
「家族の笑顔です。子供たちの笑顔ですよ、お客さん。寿司ってのは選ばれたもんだけじゃなくて、みんなが美味しく食べて、幸せになれるものなんですよ。高い銀座の寿司じゃあ、みんなに食べてもらうことはできねえんです」
 西行はどかどかと大股で樫漬に近づいていく。樫漬に先ほどまでの余裕はない。彼はキッと西行を睨みつけたが、もはや樫漬の視線は錆びついた鈍ら包丁にも及ばない。
「さあお客さん、本日は店仕舞いです。あたしはお客さんの仲間にはなれません。お引き取り願いますよ!」
 樫漬は西行に気圧されて、出口へ向かって少しずつ後退する。外は暴風雨、ここまできた樫漬ならばここから逃げることもできるだろう。西行は内心、樫漬がおとなしく引き下がってくれることを祈っていた。しかし、樫漬は出口前のドアで立ち止まった。
「このまま引き下がれるか…… こちら側に来ないというならば、ここで消すまでだ!」
 樫漬が黒い外套を脱ぎ去ると、赤黒い染みがいくつもついた調理服があらわになる。西行はその禍々しい姿に目を細めた。
「お客さん。あんたも料理人のようですけど、調理場に血はご法度ですよ」
「くだらん、くだらん。黄色ブドウ球菌がどうした! 寿司は食い物ではない、力だ! 食中毒はむしろ望むところよ。殴っても倒せる、万が一食われても倒せる。この力でお前も消し炭にしてやるわ!」
 暗い店内が一層暗くなり、樫漬の周りに闇がとぐろを巻くように集まっていく。樫漬は歪に笑って見せると、手を天に掲げ叫んだ。
「調理場に集う闇よ、我が力に呼応せよ! 次元間スシ・フィールド展開!」
 その声に反応するように、レーンがのたうち、柱はねじ曲がり、店内の空間が渦を描くように歪んでいく。天井は消えたが、雨は降っていない。黒々として星さえない、死んだ空がすべてを飲み込まんと広がっていた。西行と樫漬が立つ床はせり上がり、二人の間には直径30 mはあろうかという円形のスタジアムが形成された。
漬けマグロ精神酢飯漬け用携帯兵器を突破されたときは冷や汗をかいたが、おおよそ鮮度が落ちていただけだろう。魚介類にも米にも頼らない、闇寿司の真の力でお前を沈めてやる……」
 樫漬はどこからともなく皿を取り出した。その上には香ばしい匂いを漂わせる茶色い塊がのっていた。
「ハンバーグですって!?」
「お前の脳みそは素人が握ったシャリみたいにスカスカのようだな! 私を凡百の闇寿司ブレーダ―どもと一緒にしないでいただきたい。この芳醇な香りがわからんか!」
「このどこか気品を感じるワインの香り、まさか……」
「ああ。バルサミコ酢だ! そう、イタリアン……米も海産物も捨て、そして和も捨てた先に、本当の寿司が、本当の力があるんだよ!」
「――お客さん、さすがにやりすぎじゃあありゃしませんか? 確かにうちの店もハンバーグは出してます。だけど、さすがに寿司メニューには載せてませんよ」
「ええい、うるさい。西行、お前もさっさと寿司を握れ! 一度漬けマグロに触れたお前なら、スシブレードの作法はわかるだろう!」
 確かに、西行はどうすれば寿司を回せるのか直感で理解していた。今寿司を握って回せと言われれば、すぐに回すことができるだろう。しかし彼はその場から軽く跳躍して、スタジアムの中心に降り立った。
「戦いはしたくないもんです。しかしお客さん、どうしても戦うのなら、あたしが直接相手になりやしょう」
 樫漬はしばらくポカンとしたあと、大きな笑い声をあげた。
「あー、お前はやはり間抜けのようだ。寿司を握ればいいものを、どうしてそんなわけのわからないことをする?」
「そりゃあ、寿司は戦うためのものではないからですよ」
「では、なんのためのものだというのだ!」
「寿司は食べ物でしょうが!」
「何度も何度も寿司は力だといっているだろう! この愚か者が! その口今すぐ封じてやる!」
 樫漬の周りに闇のオーラが集まっていく。彼は大きく息を吸い込んで、地が震えるほどの叫び声をあげた。
「3,2,1、―― へいらっしゃい!」
 手の平サイズのハンバーグが、しかし圧倒的質量をもって西行に襲い掛かる。西行はハンバーグをすんでのところでかわし、ハンバーグを避けるようにスタジアムを駆けまわる。
「お客さん、あんたには聞こえないんですか! このハンバーグの悲鳴が!」
「そんなもの聞こえるか! おおかたスタジアムがこすれる音だろうよ! 無駄口をたたいている暇があるならば、もうすこし楽しい遊びを始めようじゃないか!」
 樫漬の手から射出された闇がハンバーグを取り囲み、ハンバーグの軌道が変わる。飛び跳ねながら不規則に波打つように動くハンバーグが、ついに西行の頬をかすめた。
「バルサミコ酢は単なる飾りつけではない! 25年ものの芳醇な甘みを持つバルサミコ酢を使用することでソースの糖度と粘度が上昇し、予測不可能な軌道の攻撃を可能にするのだ!」
 西行に返答の余裕はない。徐々に体力が削られ、動きが鈍くなる。何とかスタジアムの端まで逃げるものの、ハンバーグはその先に回り込み、そのたびに西行の鼓動は早くなる。ハンバーグは西行をスタジアム中心へ容赦なく追い詰めていく。
 西行の足はやがて止まった。もはやかわすことはできない。非情な突撃から身を守ることで精いっぱいだ。ハンバーグは回転しながらスタジアムを駆け、西行の直前で跳ねあがる。西行はそれを左手で逸らすが、ハンバーグの猛烈な回転数と弾丸のように飛び散るバルサミコ酢によって、疲労とダメージが蓄積されていく。
「やめてください、それ以上やると、戻れなくなりやすよ!」
「命乞いならもっとマシな言葉を選ぶんだったな! その生意気な口を閉じろ、低級寿司職人が!」
 樫漬の声に呼応するようにハンバーグが一気に加速する。西行は残った力を振り絞って回避を試みた――
「うっ」
 しかし、床に散らばるバルサミコ酢がそれを許さなかった。粘土の高い液体に足を取られ、西行は転倒する。彼は左腕で急所を守ったが、ハンバーグはそれも意に介さず西行を跳ね飛ばし、彼はスタジアムの壁に激突した。
「馬鹿なやつめ。寿司を握ることに未練でもあったのか。両腕を使えばまだマシだったものを……」
 パラパラとスタジアムの壁が崩れる。西行は崩れた壁にめり込み、項垂れている。ハンバーグはスタジアムの中心で、まるで西行の生死を確認するかのように佇んでいる。
 西行の手がピクリと動いた。ハンバーグは唸りをあげてスタジアムを駆け巡り、最高速度まで加速していく。
「くっ、しぶとい奴だな……」
 樫漬はスタジアムに唾を吐いて、手を前方に突き出す。
「お客さん、あたしは何も無策に逃げ回っていたわけじゃあありませんよ」
「死人の戯言に付き合っている暇はない!」
 樫漬の手の周囲に濃い闇が集まり始める。西行は立ち上がり、調理服をはたいた。その目はまだ光を失っていない。
「お客さんの攻撃を受けたとき、ちょいとばかし仕込みをさせてもらいやした」
「うるさい、だまっていろ、耳障りだ!」
 樫漬の手から闇が極太のレーザーとなってハンバーグに放出され、ハンバーグがさらに加速していく。もはやその身は崩れかけているが、闇の力が無理やりそれをつなぎ込めている。あたりに甲高い音が響き、ついにハンバーグが西行を正面に捉えた。
「そして今、すべての準備が整ったってわけです」
 西行は自身の調理服に隠し持っていた小袋をスタジアムに捨てる。「特製トラフグワサビ練り」と書かれたそれはすでに空だった。さらに彼は今までずっと使ってこなかった右手を開いた。――そこにはボルドーに染まったシャリがあった。
「貴様、それは最初に作ったマグロの……」
「スタジアムにこいつが巻き込まれていて幸運でした。最初は冷え切っていやがりましたが、今はちょうどいい温度ですよ」
 それはすでにただの酢飯ではなかった。バルサミコ酢をたっぷりと吸った、バルサミコ酢飯であった。西行は戦いの中でバルサミコ酢の甘さと酸味が酢飯に応用できること、そしてそうして作られた酢飯は、この戦いを終わらせる最後の握りにふさわしいことを確信していた。
「だからどうだというのだ! 貴様は今ここで死ぬ。圧倒的な寿司の力によってな! さあ、死ねえ! 西行!」
 ハンバーグが西行に向かって迫る。まともに受ければ次こそ絶命は必至だろう。西行は大きく息を吸い込んで、激しく、しかし最大限の誇りと優しさを込めて声をあげる。
「今まで辛かっただろう。お前は食べ物なのに、こんな風に扱われちまって!」
 西行は右手のシャリを通常の握りより広めに伸ばし、右手を下に、左手を上に構えてハンバーグを迎え撃つ。もはや躱そう、逃げようという気は微塵も感じられない。ここですべてを決めるという覚悟が、西行の周囲に闇を寄せ付けない。
「だけど、大丈夫だ。お前はまだ美味しく食べてもらえる。食べてもらわなくちゃいけない!」
 ハンバーグは加速を続けるが、その軌道が若干揺らいだ。スタジアムにこだまする甲高い音が――ハンバーグの悲鳴が、大きくなっていく。
「普通は加熱されてちゃあできない芸当だが、お前の意思があればきっと成功する。そんな薄汚い力は捨てて、お前自身の力でぶつかってこい!」
 一層大きな悲鳴がスタジアムを揺らした。ハンバーグはぐんぐん加速する。しかし、ハンバーグにまとわりついていた闇は徐々に薄れていく。ハンバーグ自身の力が、闇を上回ったのだ。
 今、ハンバーグは西行の目の前にある。限界を超えた加速によってハンバーグはまばゆい光を放ち、西行に向けて飛び上がった。
「ああ、ありがとう。お前は正真正銘最高の食い物だ。今こそお前の本当の力をみせてやろうじゃねえか」
 西行はそれを上下に挟み込む形で捉える。西行は壁に強く押し付けられるが、決してハンバーグから目を逸らさない。行き場のないハンバーグの運動エネルギーは、西行の巧みな握りテクニックによって回転エネルギーへと変換され、その輝きは弱まるどころかどんどん強くなっていく。
「何!? 私のハンバーグを素手で…… ありえない!」
「確かにこれが戦いなら、あり得ないかもしれんですね。でもこれは戦いじゃあないんですよ。料理なんです。ここはスタジアムでもありやせん。デカいだけの厨房なんですよ。 少なくともあたしとハンバーグにとってはね!」
「クソ、クソが。ヤミ・マスターたる私が、貴様のような低級寿司職人に敗北することなど、あってはならない!」
 樫漬は両手を天に向かって大きく広げる。樫漬の体は深い闇に包まれていく。西行はハンバーグの発する光を纏い、樫漬をじっと見据えている。
「闇の力、思い知るがいい!」
 樫漬が両手を前に突き出し、体にまとった闇を放出する。闇はスタジアムを抉りながら、西行を飲み込まんと直進していく。西行は迫りくる闇を前に、深呼吸をした。
「ハンバーグ――いや、ハンバーグ寿司。お前はもういっちょまえの料理だ。何も恥じることはねえ! さあ、美味しくいただかれてきやがれえ!」
 西行の手からハンバーグ寿司が射出される。光の矢となったハンバーグ寿司は徐々に加速しながら、樫漬に向かって飛んでいく。そしてスタジアムの中央で、光と闇がぶつかった。
 ――極太の闇の塊に、か細い一閃の輝きはあまりにも無力だった。ハンバーグ寿司は闇に飲み込まれ、そしてスタジアムは光を失った。
「くっ、ふはははは!」
 樫漬の大きな笑い声がスタジアムに響いた。
「ああ、肝を冷やして損をしたよ。ハンバーグ……ああ、ハンバーグ寿司だったか? そんなもの、所詮道具よ。それが意思をもって抗うなど、愚かにもほどがあるわ!」
「愚かなのはどうやらあんたのようですぜ、お客さん」
「ああ? お前、何を言って……」
 直進を続けた闇が、西行の眼前でピタリと止まった。硬いものが崩れるような、ガラスが割れるような音が響き、闇に亀裂が入る。そこから、先ほどにもまして激しい光があふれ出した。
「バルサミコ酢ってのは、暗闇の中で熟成されるんです。何年も闇に耐えてきてるんですよ。そんなものを闇で飲み込んだところで、なにを奪うことができるってんでしょうか。むしろそれは、更なる美味さの糧にさえなりえるんですよ」
 闇は光に内側から砕かれ、姿を現したハンバーグ寿司がさらに加速する。もはや誰にも、西行自身にも、ハンバーグ寿司の覚悟を止めることはできない。そしてついに、ハンバーグ寿司が樫漬の眼前に迫った。樫漬を覆っていた闇はことごとく払われ、ハンバーグ寿司が樫漬の口に飛び込む。
「やめろ、やめろおおおおお! おぐっ」
 樫漬はハンバーグ寿司を頬張りながら、スタジアムに落下する。
「お味の方はいかがですか? 気に入っていただけるとあたしも嬉しいんですが」
 西行は樫漬に歩み寄る。スタジアムが徐々に歪みはじめ、空間が元に戻っていく。
「おぐっ、うぐっ」
 樫漬は懸命にハンバーグ寿司を咀嚼する。西行は目を細めてそれを眺めている。ハンバーグの悲鳴はもう聞こえなかった。樫漬はハンバーグ寿司をすべて飲み込むと、ゆっくりと立ち上がる。
「クソ、クソが。一回勝っただけで調子に乗るなよ。次は必ずぶち殺してやるからな!」
 樫漬の周りに闇が集まり、彼の後ろの空間に亀裂を作る。樫漬はそこに飛び込もうとして――転倒した。
「おっと、お客さん。食べ残しはハンバーグだけじゃあないようですよ」
 樫漬の足元には赤黒いバルサミコ酢の水たまりがあった。それだけではない。スタジアム全体からまき散らされたバルサミコ酢が樫漬を目指して集まってきている。
「お、おい。どうなってるんだ。やめろ、やめてくれ! 飲み込まれる……」
 樫漬の全身を徐々にバルサミコ酢が覆っていく。水分がやや蒸発したバルサミコ酢の強靭な粘性によって、樫漬は動くことができない。樫漬は徐々にバルサミコ酢の沼へと沈んでいく。西行はその場を静かに離れた。どんな形であれ、食事の邪魔は料理人の禁忌だ。
 空間の歪みが急速に戻っていく。瞬きをする間に、西行はいつもの店の、回らないレーンに囲まれて立っていた。調理服は酷く汚れている。
「夢じゃあ、ないみたいだな」
 調理服を脱ぐと、店内の照明がぽつりぽつりと灯り始めた。停電が終わったのだ。
「ハンバーグ寿司か……」
 西行はそう呟くと、煌々と照明がきらめく調理室に消えた。嵐はまだ続くが、明日の朝には太陽が店を照らしてくれるだろう。某回転ずしチェーンでハンバーグ寿司が提供されるようになるのは、これからまた少し先の話である。

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