雨の降る中、同僚二人の訃報に直面する。二人ともオブジェクトに呑まれ、死んだ。
だが、未だに彼らの言葉が録音されているということを桜庭は知っていた。
入団当時からなんとなく気が合い、共に嘆きの水曜日を乗り越えたこともあってか、戦友じみた距離感の、いや、誤魔化す必要はない。親友と呼んでよかった二人を、ほぼ同時に失った。失う少し前から、桜庭はなんとなくその予感じみたものを感じていた。一人は要注意団体のスパイだった同僚を自らの手で殺し、一人はとあるオブジェクトの回収に身命を注ぎ始めたその頃から。
軽く、何も入っていない骨壺。アイツらの死は、ああ、どのように隠されているのだろうか。それをつるりと撫で、泣いている彼ら後輩や家族を残し、斎場を後にする。桜庭は雨の中を傘もささずに駆け出した。叫びそうになる喉を締め付けるように抑える。ああ、ダメだダメだ、シリアスになりすぎるな。シリアスになりすぎた奴から死んでいく。
財団は、世界は、そういうものだ。人は死ぬ、俺たちだっていつか終わる。なら、俺は。
そう笑う彼の顔を伝うのは、何だったのだろうか。
雨の降る都内、桜庭茂武は一人ビニール傘の下でため息を吐く。伊集院勇太。写真を見た限りは若手実業家といったような風貌。オーダーメイドらしいスーツを着て、髪は淡い茶色、針のように細い目を微笑みに曲げている。
「まったく、こんな雨の中やらなくったっていいと思うんだよなあ、俺。対象が女性、…そうだなあ、夫を早くに亡くし、一児を抱えながらパートタイマーの仕事に励む熟れた色香を放つ未亡人とかならいいのになあ」
そう言いつつ、桜庭はもう一枚の資料を記憶から引きずり出す。写真の男ともう一度目が合ったような気がした。
「…にしても、いまいちヲタクってイメージはないんですよねえ」
PAMWAC。アニメキャラクターと結婚するための研究計画局(research Projects Agency for the Marriage With Anime Characters)、サブカルチャーファンを基盤に勢力を持つ要注意団体。桜庭には伊集院の姿がどうにもそれらと繋がらない印象を受けていた。もちろん、それは見た目云々の問題ではない。桜庭は本質的な部分で、何か違うといったものを感じていた。
「…何というか、気持ち悪いんだよなあ」
確証はない、桜庭の感覚のみだ。事実、ここのところ行われている内部捜査においても、伊集院の周辺に怪しい動きは見られなかった。PAMWACに資金、技術、情報の提供を行い、他の要注意団体と繋がる気配すら見えない。もちろん、此方の動きもある程度把握しているだろうが。
そんな桜庭の前を黄色い軽自動車が走り抜ける。…何かの指令が来たのだろう。
桜庭は革靴を湿らす雨をビニール越しに見上げ、ぬへら、と気の抜けた笑いを浮かべた。
郊外に勢力を持つ中規模ホームセンターの駐車場。張り込んでいた場所から遠くもなく、近くもない位置にあるそこで桜庭は指定された位置へと向かう。彼の直属の上司、黒髪の撫子にして堕天使アイスヴァインこと立花育子がそこでは待っているはずだった。だが、桜庭がそこで見つけたのは意外な相手。
「お久しぶりです、桜庭さん」
「あれ? 戸神じゃん。立花さんは?」
「立花さんは別件で動きがあったとかで、あと雛倉はさらに別件で今出て行っちゃいまして、代わりに俺が」
戸神司、高校生と言われればそうかもしれんと頷けるような童顔の青年。無論財団の構成員であり桜庭にとっては後輩、そして同時に少々気まずい相手でもある。戸神はそんな桜庭の気持ちには気づかないのか、桜庭に数枚の資料を手渡した。
「これが諜報部によって確認された小鳥遊邸への搬入物です、確認お願いしますね」
「ああ、うんうん、ありがと、じゃ、ゆっくり帰りたまえ」
此処から先はこっちの話、そもそも、あまり接触しているのもよくないだろう。そう思いながら桜庭は手を振る。しかし、戸神は動かず。
「? どうした?」
「いえ、それが…、戎博士からの辞令で、今日、対象への突入に同行せよ、と」
「…はあ?」
桜庭は目を丸める。同行? 突入? 何を言ってるんだコイツは、といった言葉を飲み込みながら桜庭は即座に本部指揮室へ連絡を取る。
『こちら桜庭、コードは3968415』
『少々お待ちください…、確認取れました。エージェント・桜庭ですね? 現在、要注意団体PAMWACに対する特命行動中。何か問題が発生しましたか?』
『えっと、今日の件なんですが…、戸神の同行、あと、突入ってのは』
『はい、戎博士及び管理局からの臨時辞令として発動されています。詳細はエージェント・戸神に持たせた資料を確認してください』
機械的な応答の後、連絡は一方的に切断され。桜庭は何ともいえない表情に。…戎子規博士、西日本サイト統括管理者。エージェント・カナヘビがあの事件で死亡した後その後釜に座った男とも女ともつかない謎の人物。これまでその存在は財団内でも秘匿されており、カナヘビ以上に秘密主義なその方針から彼、…便宜的にそう呼ぶが、彼こそがカナヘビを罠に嵌め、あの窮地へ追い込んだのではないかという説もまことしやかに囁かれる。その為か付いた綽名は蜥蜴喰い。自分たちに特命を下した相手である能面のような顔を思い出し、桜庭は首を捻る。
戸神は恐らく手が空いていた職員を回しただけだろうが、自分たち三人が分離されたことは何か意味があるように思えてならない。そして、急に突入を命じられた訳も。
「…何だってこう、急に」
「俺にも分かりませんよ、桜庭さんの件だっての俺も今日初めて知ったくらいなんですから」
「…っかー、何か猛烈に嫌な予感がするなあ。あの人、表情変わらないし怖いし、男か女かも分からないからセクハラもし辛いしさ」
「桜庭さん、…問題発言ですよ」
「…あー、…やべえ。ろ、録音は…、されてない。…戸神、言わないでくれよ? こないだ前原博士に絞られたばっかりで」
苦笑いしながら諫める戸神に、桜庭はおどけながら手を合わせ。はいはいといなす戸神の車に乗り込むと、渡された資料を捲り始めた。
車内で戸神から渡された資料にざっと目を通す。桜庭が監視していた一軒家。伊集院と関係があると指定されたそこに配達された物品のリストだ。もっとも、真正面からの搬入物、目を引くようなものは無い。
「…一般的な食料に事務用品、あとは医療器具? まあ、目立って異常なもんはないってとこか。借金があるんだっけ?」
「はい、結構な金額みたいですね。それもおそらくは要注意団体としての活動費らしいですが」
「推測だよな。この物品、出所が分かればいいんだけども」
「そうですね、隠し通路みたいなものがあれば別ですけど」
「そんなもんがあれば俺らがとっくに抑えてる。マトモな手は使ってないだろうけどさ」
家は三階建て地下二階。中々高いんじゃないだろうか。所有者は小鳥遊亘一、PAMWACの関係者であると推定されており以前から準監視対象に指定されてもいた。今回監視命令が下ったのはそれに加え、伊集院と何らかの交渉を行っていたという情報が流れてきたためだ。
桜庭は頭髪の薄くなった男の写真に目を通す。眼だけが異様に光り、写真越しにこちらをねめつける様なその表情は昔読んだSF小説の怪物を思い出させた。粘性とでも言えるようなものを纏った表情で桜庭は気づく。伊集院の違和感に。
「…成程、何か妙だと思ったら執着が見えないんだ」
「何ですって? 執着?」
PAMWACはいわばヲタクの集団。そして、ヲタクというものは良かれ悪しかれ何かに執着を抱いている人間だと桜庭は考えている。事実、隣の戸神は魔術や儀礼などの分野においてその傾向がある。だが、伊集院からはそれを感じなかった。全てにおいてどこか希薄であり、どこか達観しているような。それが違和感として残ったのだろう。
(と、なればやっぱりPAMWACは何かの隠れ蓑に使われている可能性もあるか)
あくまで直感に過ぎないとしたうえで、桜庭は心の隅にその考えを残す。直感に頼りすぎても痛い目を見るが、無視しすぎると身を亡ぼす。それなりに経験を積んだエージェント人生で培った結論の一つだ。
「なんでもない。…とりあえず、何を急いでるのかは知らないが、俺たち末端の職員は上から言われた仕事をこなすだけさ」
「そう、ですね」
桜庭は強張った戸神の顔に気が付いた。そういえば、戸神はあまり荒事が関わる職種ではなかったことを思い出す。
仕方ないな、と顔に笑みを落とし、戸神の肩を軽く小突く。
「ま、気軽に行こう」
「…は、はい。あの、そんな肩触らなくても大丈夫です」
「力抜けって、高校生が告白するんじゃないんだからさ」
「いやあの、運転中なんで、事故したら」
「…確かにそうだ。雨だしね」
雨が降っている。偽装用にジャケットを羽織り、チャイムを鳴らす。
「…すいませーん、市役所の職員ですが、小鳥遊さーん?」
返事は無い。雨の音だけが静かに響いていた。
「…留守、ってことはないですかね」
「開いてるな。…戸神、準備頼む」
鍵のかかっていないドアを開け、内部に侵入する。
「…小鳥遊さーん? 入りますよー?」
返事は無い。暗い廊下にはまとめられ結ばれた雑誌の山やゴミ袋が転がっていた。
深く一回息を吸う。戸神に銃を構えるよう目で指示を出した。
「…行くぞ、要領は分かってるな? 五秒後だ」
「はい。──こちらエージェント・戸神 エージェント・桜庭。1730時を以て初期収容任務を開始します」
背中を合わせ、擦り足で進んでいく。桜庭が数を数え、戸神が続ける。
フィールドエージェントに広まっている確認法。正式採用はされていないが認識災害相手には有効だと嗤ったコールマンの顔を桜庭は思い出した。
「1」「1」
「2」「2」
「3」「3」
それぞれが死角を補い、全ての部屋を確認していく。人の気配は無い。
「10 終了」「10 終了」
続けて二階、だがそこにも人の気配は無く、あるとすれば小鳥遊の趣味であろう模型やプラモデルの数々。
PAMWACに関する資料等も発見には至らず、桜庭は戸神と顔を突き合わせた。
「一階、二階は見たよな」
「…はい、ここには何もない。ってことは」
「あそこ、ですよね」
「だな」
戸神が指す先には地下への階段があると思わしきハッチ。その無機質な存在感へ桜庭は直感的に嫌な感覚を覚えた。だが、おそらく小鳥遊はこの先にいる。
「──こちらエージェント・戸神 エージェント・桜庭。1750時、地下へ侵入する。無線遮断の可能性アリ。この連絡後、通信遮断が一時間以上続いた段階で後続部隊を送られたし」
事前に頭に叩き込んだ図面では、地下には地上階よりも空間が広がっている。
分かる限り巨大な一室に過ぎない階が二つ。明らかに異様なその空間。
おそらくは何らかの会合に使うのだろうと桜庭は推測する。おそらくは、あまり人目に触れるべきではないものに。
「もしかしたら緊急時の逃走経路や避難路なんかがあるのかもしれないが…」
もうそこまでは考えても無駄だと桜庭は息を吐いた。そして、心なし強めに言う。
「開けるぞ」
「…はい」
地階は予想通り上階よりもはるかに広いスペースだった。そして、矢張りというべきか侵入したとたんに無線が遮断される。
つまり、ここはそういうと場所。重要であり、下手に踏み入るべきではない。しかし、自分達はそんなことには関係ない。
地下階、そこは桜庭の予想した巨大な一室ではなく、巨大で堅牢なパーテンションにより仕切られ、通路や部屋ができていた。調度や棚が並べられたその構造は複雑で、一目ではその全貌を見通すことすらできない。桜庭はこの異様な空間に言葉をこぼした。
「まるで」
「迷路みたいですね」
テーマパークにあるような即席の巨大迷路と化した地下空間。だがしかし、それだけの場所と気づくに時間はかからなかった。特筆すべきものは無く、目立つものもない。設置され、飾られているものは上階と大差なく。
少々手間取りはしたが、さらに階段を発見し地階へと向かう。奇妙なことに、これだけ複雑な空間にも拘らず、扉や鍵といったものは存在していない。いや、部屋なども無く、あくまで壁によって仕切られた広大な空間でしかないようだ。何処か稚気じみた異様な空間、警戒しつつ最後に行き当たった空間へ。
「ここが最後か」
「はい、突入しますか?」
「…するしかないよなあ」
緊張を解くことなく、戸神と息を合わせ内部へ銃口を向ける。
白く大きなその空間の中央。机の上に男が一人突っ伏していた。薄い頭髪、襟元が伸びたTシャツ。
だが、その男は桜庭らの侵入に一切の反応を見せず。戸神が警戒しながら接近する。桜庭は机の下に視線が向かうのを感じた。
「…?」
そこには赤黒い何かが。赤黒い何かの水溜りが。桜庭の脳がそれの結果をはじき出す。
戸神も思い至ったのだろう。顔を青くしながら叫ぶ。
「小鳥遊!」
小鳥遊は無残にもその体を破られていた。
まるで獣にでも食い荒らされたように臓物ははみ出、不格好な残酷人形のような表情で息絶えている。
桜庭の視線は、その手に向かう。小鳥遊の手に嵌められた青いそれはこの残酷な場面にはどうにも不釣り合いなもので。
「…血圧測定器?」
桜庭はその情報と小鳥遊の無残な死体を思い浮かべる。そして小鳥遊の借金に思考が行き渡ると同時に戸神へ叫び、その背へ貼りついた。
「戸神、下がれッ!」
ここには何かがいる。桜庭がそう確信すると同時。電気が消える。周囲は漆黒に包まれ自分の鼻ですら分からない。慌てる戸神の声。
「桜庭さん、これっ」
「おい、暗視用装備は」
「そんなもの持ってませんよ!」
「だろうな。…こちら、桜庭! …やっぱダメか」
無線は通じない。漆黒の闇の中、桜庭は自分の状況がシリアスに傾きかけていると感じていた。
マズい、マズい、マズい。このままでは。戸神の悲痛な声が思考を妨げる。
「桜庭さん、これは」
「SCP-360-JPだと思う、少なくとも俺が記憶している限りはそれくらいだな」
SCP-360-JP、通称、借金変換器。借金を帳消しにする代わりに怪物を生み出す危険なオブジェクト。小鳥遊の腕に巻き付いていたのはほぼ間違いなくそれだろう。搬入された医療器具とはおそらくこれの事だろう。
戸神もその名前に思い至ったのか唾を飲む音が聞こえる。
「…つまり」
「ここにはこの小鳥遊を食い殺した何かがいる。…俺たちが侵入すること見越したトラップだ、完全にやられた」
とにかくその場を離れ、しばらく進んだところで桜庭は息を吐いた。これ以上無暗に動くのは危険だ。怪物だけならまだしも下手な空間異常まで発生していれば命はない。
「…さて、どうしたもんか、あと三十分も待てば俺達からの通信が途絶えた事に気づいて行動してくれるだろうけど」
「相手が夜行性でないことを信じたいですね」
残念ながら持っているだろうと桜庭は推測する。そうでなければ照明を遮断する必要が無い。それを見越したうえで…?
そこで桜庭は首をかしげる。SCP-360-JPに、任意の怪物を呼び出す手段があったか? いや、確かそれはないはずだ。
それ以外にも、今回の調査には疑問点が多い。
「…分かんないなあ」
「何がですか?」
戸神の言葉に桜庭は胡乱な目を向ける。その左目は閉じられていた。
「此処にトラップを仕掛ける意味が、だよ。小鳥遊が何か情報を掴んでたってんなら殺したことで用は済んだ、その後来る人間にわざわざこんなことを仕掛ける必要はない」
「…確かに」
「なら、何で俺達はってことなんだけど…、戸神、この後此処に誰か来る予定があったとか分かるか?」
「流石にそれは、通信も傍受できる限りはしたみたいですけど、多分桜庭さんの方が分かるんじゃないですか?」
確かにそうだ。一連の出来事を探っているのは結局のところ自分達三人。
「それもそうだ。…とりあえず帰れたら、改めて小鳥遊の周辺人物を当たった方がよさそうだな。それも特に親密にしている人物を」
「…帰れ、ますよね」
エージェントにあるまじき心細げな戸神の言葉、桜庭はにやりとおどけて応える。
「何ビビってんだ、ホラー映画だと思えば俺みたいなイケメンが死ぬわけないだろうに。お前は知らん」
ぎこちなく笑みを返す戸神。そのとき、桜庭の耳はその音を聞いた。
深く、湿った生物の呻き。全身が総毛立つ。
「…戸神、そろそろ目も慣れただろ。警戒しとけ、武器は」
「特殊警棒とスタンガン、あとは拳銃…、えっと、十字架とか塩も」
「それはいらん。パニクるなよ、拳銃だけで十分だ」
桜庭は深く息を吸う。思考をクリアに、周囲の音を拾い先程から閉じていた左目を開いた。
暗闇に慣れた目。それはパーテンションに僅かに残ったその跡を見た。滑り、伸びる一筋の路。
その線は。
「上だ!」
桜庭の声と共に戸神が頭の上に拳銃を放つ。くぐもった呻きと共に何かが湿った音を立て落ちた。
…仕留め切れていない。呻きは羽ばたく音を残し遠ざかる。
「見えたか?」
「はい」
桜庭が見上げた天井に僅かに残った影。それは既知の生物を歪に合成したキメラの残像。
「ナメクジの皮膚、蝙蝠の羽を持ったライオン、ってとこか? 聴覚とか嗅覚でこっちを捉えてるんだろうが、いや、ホントに趣味悪い…、部隊が来るまでだいたい十五分から二十分と考えて…、俺達は持つか? あー、こんなときに前原博士でもいてくれれば、霧甲水博士でもいいんだけどな」
「桜庭さん、そんなこと言ってる暇」
「無いのは分かってるさ。…そうか、…この造りもトラップなんだな、意図的に閉鎖した環境ができないようにしてるってことか」
何故、どうして。ワイダニットが桜庭の脳をゆする。だが、今はそれを考えている時間はない。
一回息を吐き、ふ、と蘇りそうになった幻想を脳の奥へ押しやる。
「仕方がない、やるか」
「やるって…、倒すってことですか?」
「もちろんこっちから仕掛けるなんて馬鹿なことはしないぞ、流石に俺もそこまで馬鹿じゃない。あっちが仕掛けてくるならやる、それだけだ」
呻きがまた聞こえた気がする。目が慣れたとはいえ、この状況下では相手の方が圧倒的に有利だろう。
「幸い相手はライオンだ、全身が筋肉や脂肪に覆われた熊や、狩りの得意な豹やジャガーなんかよりはまだマシだろ」
それでも不利か。…ダメだダメだ、落ち着け落ち着け、落ち着けない奴から死んでいく。
敢えてその思考を押し留め、桜庭は自分達が生き残るビジョンのみを考える。
「とりあえず出てきたら銃を全弾ぶち込め、心臓を狙おうとか考える必要はない、とりあえず体のどっかに当てるくらいのつもりでやれ」
「…桜庭さん、何だか普通にスゴいエージェントみたいですね、正直馬鹿にしてました」
「…スゴいエージェントなの!」
小さく叫んだその時、耳がその声を捉えた。呻く声。そして羽ばたきと湿った音。背を預けた戸神が震えている。
「桜庭さん。来たみたいです、来た、来たみたいです」
パニックに陥りかけた戸神の背に自らの背を押し当てる。鼓動が早鐘を打つ。身体の中に熱が篭る。
「桜庭さん」
「戸神、シリアスになりすぎるな」
「はい。…え?」
戸神の混乱が一瞬途切れた。呻き声、湿った息遣い。近い。
「蒼井みたいになるな」
「え」
「構えろ」
戸神の方向に何かが飛ぶのが見えた。身体を反転し、叫ぶ。
「撃てッ!」
銃弾が怪物に叩き込まれる。幸い気づくのが早かった、まだ距離があるうちに次弾も叩きこむ。そのまま、ただひたすらに、当たればいいという思いで引き金を引く。何発目だろうか、怪物が動きを止め、暗闇へどうと倒れこんだ。
戸神が恐る恐る近寄る。その怪物は桜庭の見立て通り、ナメクジのような肉に覆われた青い獅子の姿。グロテスクなそれは体液を撒き散らし息絶えている。桜庭は動悸を抑え、身体の中の熱を冷やす。
「死んだ、んですよね?」
「多分死んでるんじゃないか? もう怖いからなるべく近寄らないようにしようぜ、それに、…ちょっとキモい」
「キモいって」
暗闇の中、しばらく互いの息遣いだけが聞こえた。そして沈黙。探るような戸神を桜庭は促す。
「とりあえず、何とか倒せたみたいだし少し電源装置探してみるか。こんな辛気臭いところからはおさらばだ」
「…そうですね」
戸神の背を押して動こうとしたその時、息遣いを感じた。深く、湿って、おおよそ人の物では無いそれを。
「戸神ッ!」
「え」
考えるより先に体が動く。腹のあたりを何かが通り過ぎる。熱い。組み伏せられた。獣の唸りが耳元に、生暖かい息が顔に。
ダメだ、ダメだダメだ、ダメだダメだダメだ。シリアスすぎる。戸神の叫び声。
そして桜庭は意識を手放した。
雨の降る中、一人立つ自分を思い出した。喪服は濡れそぼっている。
涙で濡れたのか、雨に降られたからなのか。
蒼井、佐久間、お前たちが死ぬ必要はなかった。
世界は理不尽だ。そしてその理不尽を抱え込み過ぎると死んでいく。
…ああ、だったら俺は。
桜庭の意識は唐突に覚醒する。顔に走る痛み、目を開けるとそこには暗闇。
死後の世界かと一瞬錯覚した桜庭に戸神の声が響く。
「桜庭さん!」
徐々に目が慣れる。悲壮な戸神の顔が見えた。
「…戸神?」
桜庭の覚醒に気が付いたのか、戸神がその口元に水を近づけた。桜庭はおとなしく飲み干しながら周囲の状況を確認する。腹に灼ける様な痛み。おそらくさっき出てきたもう一匹の怪物によるものだろう。しかし、致命傷には至っていない。腹筋を少し削られた程度だ。どうやら止血も行われているらしい。
視線を周囲に送ると、倒れた二匹目の怪物が見えた。急所を的確に撃ち抜かれ絶命している。戸神の射撃評価を上げるよう申請するべきかと桜庭は少し考え、幸運だろうと片付けた。
「…いや、マジで死ぬかと思った」
「大丈夫ですか、桜庭さん」
まだ起き上がれるほどじゃあないが死ぬほどでもない。一瞬見た幻想を振りほどくように頭を揺らし、桜庭は散らばる白い粉末に気が付く。
「…大丈夫じゃない」
「えっ」
指を伸ばし、なぞる。ザラリとした感触で桜庭は合点した。
「ちょっと、漏らしたかも」
「…いい加減にしてくださいよ!」
怒りに顔を赤くしているだろう戸神へ、へらへらと笑い桜庭は力を抜く。
「塩、か。なるほどなあ、気づかなかった。そういやアトムも使ってたな」
おそらく自分がやられた瞬間、戸神は本能的に持っていた塩を投げつけたのだろう。なるほど、戸神ならあり得るしナメクジ相手なら有効だ。
咄嗟の状況判断、あるいはそれを可能にする幸運。理不尽なこの世界で、きっと戸神も自分と同じ経験をしていくのだろうと桜庭は直感した。
「何にせよ助かった、戸神。お前がいなかったら俺はもう立花さんに冗談言う事もできなかった」
「あはは…、もう、嫌ですから」
何が嫌なのか。それに桜庭は気が付いている。だから、ただ一言だけ。
「よくやった、戸神」
戸神が黙り込んだ。暗闇で見えないがその表情は分かる。
「笑っとけよ、シリアスになってるともったいないって」
「いや、なんだか、蒼井先輩を、思い出して」
「冗談言うなよ、俺はただのお調子者で、アイツなんかにはなれないさ」
ああ、お前らにはなれない。人は死ぬ、俺たちだっていつか終わる。
だからもう少し俺は、笑っておく必要がある。
無機質な直線とモノトーンの部屋で戎子規は一人端末に指を走らせる。
「A.桜庭が小鳥遊氏の死体を発見。…SCP-360-JPと見られるオブジェクトを回収、ですか」
その表情は能面のように変わらず、しかしどこか笑んでいるように。
後続部隊に救出された桜庭は一人、病室で報告書を確認する。
「…やっぱりそうか」
SCP-360-JP、その報告書と今回発見したオブジェクトには明確な差異があった。
「この前のSCP-130-JPもおかしかったもんな。本来のそれとは微妙に違った。そして今回のSCP-360-JP。これまでに生物が二匹以上確認されたことはない。それに、どうもあの状況、任意の生物を呼び出した可能性が高い。もちろん、今回が特例、偶然だって可能性もあるが」
桜庭は状況を言葉にしながら現在別動中の二人へ思考を巡らせる。東弊重工、南関東奇譚会、それぞれから齎された情報は、桜庭の時と同様オブジェクトの模造品に伊集院が関わっていたという記録。おそらく、何かが起こりそうな予感を桜庭は感じていた。
「…オブジェクトの偽物、あるいは模造品を伊集院が? どうして、何のために?」