Mr.アンドルース。名前をそういうらしい。アンドルースというその男は、来客として、だが不遜な態度で応接室に訪れる。
広い部屋の中央に、オーク材の机が置かれ、部屋の四方の飾り棚にはファラオの遺物や古代ギリシャの神の像、その他諸々黄金やら大理石やらの古い財宝が飾られている。
「これはこれはどうも!Mr.アンドルース、今回の財宝も楽しみにしてましたよ……!
……で、どういったお宝をお売り頂けるんで?」
……そう手を擦りながら言ったのは、背の低い小太りの男だ。……なんて弱々しい奴だ。だがコイツの部屋のコレクションには、いくらか "超常" や "呪い" 、"錬金術" に関わるものも置いてある。かつてスペインが仕入れて俺に使おうとした、ブードゥーの人形までありやがる。
「フロリダ沖で、海賊船から引き上げられた財宝ですよ。Mr.ライリー、興味はおありで?」
「えぇそりゃあもう!それにMr.アンドルースが持ってくるなら、超常社会に関連した品でしょう?
最近は、南北戦争の特需でにわか金持ちのライバルも増えた。彼らに持ってかれたら惜しいですからね……。」
成る程このアンドルースという男、これまでもこの "ライリー" とやらに財宝を売り捌いて来たのか。そして俺のお宝も……
「ぬぅ!?」
……アンドルースがライリーの眼前に突然殴るように指輪を着けた拳を突き出し、ライリーの間抜けな声が上がる。
「Mr.ライリー、"デリック・リード" という海賊はご存じで?」
ライリーとやらのにやけ顔が少し固まり、徐々に口角が下がっていく。指輪と顔面の距離は3インチ程しかなく、そのせいで、指輪の緑の石の中にいる俺はソイツの間抜け面を良く良く観察することができた。
「し、知らない……」
「そうですか。それなら貴方の超常社会の知識もまだまだだ。」
アンドルースは握った拳を少し傾ける。
「"デリック・リード" は、サメを殴り続けた海賊ですよ。」
……そうだ。俺は「サメ殴り、サメ殺しのデリック」と呼ばれた男だ……
その日、海賊船「ホエールズ・ロアー」は、海水を湛えた広大な洞窟の中を進んでいた。洞窟の深部でありながら、"薄暗い"と言える程度の明かりは保たれている。
カリブ海メキシコ湾の南側。この場所を示した海図は正しかった訳だ。
「船長、牢でスペインの輩が騒いでますぜ。」
"裂けた頬のジョージ" が、甲板に上がってきてそう言った。大方、連中はこの洞窟を恐れているんだろう。そうだ、もう奴等を生かしておく必要もない。ジョージにもそう告げると、俺は階段を1段、1段と下へ降りていった。
船体階下の牢に降りた俺を見るや、先の襲撃で2人だけ、命の残ったスペイン水兵たちが格子にしがみつくようにして情けなく吠える。
「……本当に、本当に進む気なのか?」
「正気じゃない……」
全く、豪胆さの欠片もない奴等だ。
そもそも、この俺が正気だったことがあるか。15で親父の片眼を潰し、16の時に殴り殺した。そしてホエールズ・ロアーの一員となり、殺しと "殴り" に明け暮れた。そんな男が進める船だ。狂った進路をとって当然だ。
だが……
「スペイン海軍超常調査隊。お前らの役目もこの海図、この場所に来る事じゃなかったのか?」
連中から奪った海図を手に、俺は連中に詰問を吐く。返された連中からの答えは「任務は入り口の確認をするだけのものだった」というクソみたいな解答だった。
俺は少し思案して、連中に1つ提案をする。
「そうか、ならお前らはこれ以上奥には進まなくていい。」
尤も提案と言っても、奴等の答えなど聞いてないが……
「ジョージ、こいつらを甲板に上げろ。」
「しかしMr.アンドルース、本当に人間が、サメを素手で殺せるもんですかね?」
「おや、 "超常" を軽くでも知っている貴方がそんな発言をするとは。ええ、それなら良い証拠があります。」
アンドルースは、持ち込んだ荷物の中でも一際大きな箱を開いて見せた。その中に入っていたものは……
「おおぉ……、お?これはまた随分と大きなサメの顎ですね……。骨飾りとして申し分無い。ただ、右上の方が大きく損壊しておりますが……」
「引き挙げの際に壊れた訳じゃありませんよ。その証拠に、海水による風化の痕跡が、折れた骨の断面にも及んでるでしょう。それにこれは沈没時に壊れたという訳でもない。
……デリック・リードが殴り壊したんですよ。まだこのサメが生きていた時にね。これは……、デリックの勝利の顎骨デリックス・トロフィージョーと呼ばれています。」
「ほぅ……?」
俺はその後スペイン水兵1人の、頭の砕けた死体を洞窟の海に投げ棄てた。俺は昔はこうする度に、歯向かってくる輩を己の拳で叩き潰す、無上の快楽を享受していた。だが今はどうだ?俺に歯向かえる、俺よりも強い奴は居ないのか。こんなものに拳を振るった所で、海草を撃ち据えるように何も感じない。だが伝説が正しければ、この洞窟の奥には "奴等" がいる。俺が唯一、"強者を撃ち据えている" という魂の笑いを感じられるアイツらが。
思えば、俺も最初は何故この船の海賊が皆サメを殴るのか分からなかった。俺が船長になる遥か前、まだ新入りだった時代の話だ。そして当時、殴打の定まった意味を理解していないのは他の乗員たちも同じで、ある者は腕試し、またある者は度胸試しの為だと言った。だが俺が「強者を撃ち据える悦びの為」という自分の中での結論を固めかけた頃、俺は先代の船長から "アヴァイキの悪魔" の話を聞いた。
―曰く、サメを殴打するという行為は遥か遠い伝説の時代に、アヴァイキという地で始まった。そして今では語り継ぐ者の無いその真の理由を、何処かの洞窟に住み着いている "アヴァイキの悪魔" が知っているのだと。
正直言って、それ自体が雲を掴むような伝説だった。だが俺は、何故かその伝説に強く惹かれた。そしてまた同じ頃、サメを殴る海賊がこのホエールズ・ロアーの俺達だけではない事も知った。やがて船長となった俺はポート・ロイヤルやその他数多の港で他のサメ殴りの海賊と接触し、彼らが別々に語り継いできた伝説の断片を繋ぎ合わせた。アヴァイキの悪魔、ハヴァイキの悪魔、アヴァーキの老人、ハヴァイイの魔人。呼び名はそれぞれ違ったが、それらは皆同じものを指していた。
「……船長、やはり伝説に狂いは無かった様ですぜ。」
"裂けた頬のジョージ" が言う。洞窟の奥、進路の先、岩肌の下の水面で何かが動いた。
「ジョージ、ここからは俺だけが行く。船はここで待機させておけ。」
俺は斜め後ろのジョージにそう言うと、1人残っていたスペイン水兵を水底に殴り落とし ―拳に、肋骨の折れるどうでもいい感覚があった― 、俺の叩き潰すべき連中の元を目掛けて水面に飛び込んだ。
―――コイツらが、アヴァイキの悪魔の前に立ち塞がる最後の関門であり……、そして、俺の悦びだ。
水中。我先にと突進してくる2頭のサメは、目測15、6フィートといった所か。
(俺の期待を満たしてくれよ……?)
脇腹の下で拳を握り、「コイツは喰える」と確信しただろうサメの鼻先にゼロ距離で殴打を叩き込む。鼻孔から血を噴出させ、暴れながら沈んでいく1頭目。続けてもう1頭の鼻を右手で手掴みにして逃げ場を奪い、左の拳を繰り返し、その目鼻に深くネジ込むように撃ち据える。そして腹を水面に向けて動かなくなった2頭目を蹴って足場にし、水面へと顔を出すと、
……そこには巨大な開かれた口があった。
……「ぐ、……!」肩の皮を少し持っていかれた。あの野郎、水面から飛び出して俺の場所目掛けて再突入してきやがったか。右手で肩を抑えて向き直ると、20フィートはあろうという一際大きな奴が、俺の肩の皮を持っていった奴が再び海面に飛び上がろうとする所だった。
(……そうだよ、この感覚だよ……。)
口角が上がっていくのを感じる。ここ数日で超常調査隊以外にも、幾度となく海軍や商船を潰してきたが……
……俺は今ここで、初めて "闘って" いる……
再び斜め上から迫り来る牙を身を屈める形でかわし、喉元に拳を叩き込む。足元の水底が浅い岩場に陣取り、踏みしめる足場を確保する。20フィートのソイツは体勢を捻るようにして俺に牙を叩きつけるが、かすった牙に割かれる右の手の甲を無視して側頭部に殴打を入れる。それでも20フィートは耐えきったが、姿勢が揺らいだところにもう1発を喰らわせると、その上体は洞窟壁面に倒れ自重で叩きつけられた。血を流し、水中へと消えていく……
……どうやら、岩で眼をやったらしい。
(パン、パン、パン。)
どこかで、拍手の音がした。何者かと視線を上げると、洞窟壁面の奥まったところに、焦げ茶色の石の扉があった。
……俺はそれを見て更にニヤリと笑う。
「つまり、サメを殴ることにはそれなりの意味があると?……いう訳ですか?Mr.アンドルース……」
ライリーは、顔の前で組んだ手の指を落ち着かない様子で動かしながら問いかける。
「"それなり" なんてもんじゃない。Mr.ライリー、その拳は……余りにも強大な存在に向けられたものなんですよ。」
……この先に、俺の求めた真理がある。この先に、 "アヴァイキの悪魔" が存在する。
俺は扉の表面を撫ぜると、ゆっくりとそれを押し開けた。
「待っていたよ。サメ殴りのデリック。」
俺の視線の先にいたのは、深く皺の刻まれた額の老人だった。擦り切れたコートを纏い、小高くなった岩に腰かけて複雑な色を浮かべた表情で笑っている。コイツが……
「お前が……アヴァイキの悪魔か。」
老人の眼光は鋭い。それは強者サメを殴り続ける者の眼だった。その眼で俺を見据えたまま、老人は口を開き応じる。
「間違いない……。呼び方は色々だがね。ハヴァイキ、ハヴァイイ、ハワイキ、アヴァイキ。……だが、私自身はこれを "サヴァイイ" と呼ぶ。 "私はサヴァイイの悪魔だ" 、とね。」
「ほう。」
老人の棲む部屋を見渡す。いや洞窟と言うべきか?……その空間は、"部屋"と"洞窟"の中間の様相を呈していた。洞窟の岩肌の上に平らで四角い"壁"が貼り付けるように5、6枚設置され、いくらかの荷物を置くための机と"床らしきもの"が部分的には存在する。だが足元の大部分には海水を湛えた洞窟があり、壁面近くの浅い部分が足場として機能している状態だ。
「サメ殴りのデリック、あんたが求めるものは何だい?生憎のこと、ここには財宝の類いは無いよ。」
そう言って笑い、老人が差し出したその手の指には、ただ1つ、緑の石が嵌まった指輪が輝いていた……
「……俺が求めるもんだ?」
俺は拳を固く握り絞めて老人の元へ歩み寄り、ゆっくりと、だが確実に殴るような動きでその拳を眼前に突き出した。
「俺が求めるのは、この行為の持つ意味だ。」
俺はニタリと笑い、老人は「くはは」、と笑いを溢す。
「良いだろう。私は2千何百年、この指輪の力で長い時を生きてきた。あんたの知りたい事ぐらい、大体語り尽くせるよ。」
「だろうな……。はっ、伝説を追いかける中で聞いたぜ。指輪に自分の魂を入れ、何人もの人間の身体を乗り継いできた。……違うか?」
老人は、面白い奴が来たもんだ、とでも言うかのように首と肩を鳴らした。
「よく知ってるもんじゃないか。まぁ尤も、近頃どこぞの錬金術師が似たようなもんの理論を作ったようだが……。
……だが、この指輪の本当の力をあんたは知らない。指輪を次の誰かが着けたとき、身体と知識双方を支配するのは必ずしも私じゃあない。2人の意識、その強い方が支配者となり、もう片方は消えていくのさ。」
つまり……俺がコイツに打ち勝てば、その知識の全てを手にできるということか……。
尤も、もしそれが本当ならばの話だが……
「……成る程あんた、この指輪が欲しいかね。でもその一方では、まだ私の事を疑っている部分もあるね。良いだろう、あんたが納得できるよう、歴史と真理を話してやろうじゃないか……。」
……コイツ、乗り継ぎの指輪の力以外にも、別の力も身に付けていると見える。
……
……ん?
…………
……(ダンッ!)
背後の水面の下、そこからの襲撃者があった。先の20フィートよりは小柄なソイツに拳を叩き込みながら、ここの海水も先の洞窟と水面続きであったことを知る。
……(ダンッ! ダンッ!ダンッ!)
腹に1発、頭に2発。続け様にねじ込みながら、
(この老人がコイツを俺にけしかけたのか?)
と思案する。しかし、
(ごきゅっ。)
老人の方向で何かが潰れる音が鳴り、俺がサメを岩壁に叩き付けながらそちらを向くと、老人もまた1頭のサメの頭から拳を抜くところだった。
「お見事だデリック。ここではまぁ、時たま邪魔が入るよ。」
そして俺は、 "サヴァイイの悪魔" の語る歴史を聞く事となった。
「そうだまず、あんたはコイツを知ってるかい?」
老人はそう言うと、"部屋"の奥の荷物の中から、石を彫って作られた彫像を1つ取り出した。机の上に置かれたそれは、魚と蜥蜴の特徴を合わせた、竜のような形をしていた……
(……コイツは……、シーサーペントか?インド洋辺りで1度見たことがあるが……)
「いや、違うよ。」
老人が歯を剥き出すようにして「ひひひ」と笑う。
そして身を乗り出して眼を剥くようにしてこう言った。
「コイツは神だよ。 "タンガロア" だ。」
「えぇ。このタンガロアというのは、ポリネシア一帯の神話に伝わる神格存在の名前です。」
アンドルースは目を丸くするライリーに、1つ1つ解説を進める。
「タンガロアは海の神であり、世界の創造神でもあるとされます。」
「うーむ、成る程……?」
ライリーはアンドルースに見せられた彫像の写真を眺めつつ、これが世界の創造神か、と息をつく。
「この "魚ドラゴン" みたいな神が……。あ、しかしこちらでは、人間に近い姿で彫られてますね。」
「えぇ。タンガロアの姿としてはその2つ、もしくはその2つの混合の形で描かれるのが主流です。または頭足類の姿で描く地域もある。
……ですが、それらはただ "主流である" というだけの話です。どれも本当の姿ではない。」
「なんですって……?」
アンドルースは新たに1枚の写真を差し出し……
ライリーは、そこで更に目を丸くした。
「あぁそうだよ、神タンガロアは魚龍じゃない。この姿は、神タンガロアを恐れた奴等が本当の姿で描く事を避けた結果として作られたものだ。」
老人は、その "タンガロア" とやらが最も偉大で強力な神なのだと語る。
「成る程……。熱心に神ゴッドに祈るような連中に聞かせたら面白い話だな。」
俺は、下らん神ゴッドに毎日のように祈っていたお袋バカを思い出し口を歪めて笑う。足元の浅瀬では、瀕死の小柄なサメがバタン、バタン、と水を叩く。
「そうさね。そのゴッドに熱心でおられる連中は、 "神は自分に似せて人を創り給うた" と言うらしいが……、
……その実、ゴッドなんてもんは哀れな人間が作り出した幻、神タンガロアの真似事にしか過ぎんのさ。」
老人は顔の前で手を振って、その後後ろの物を手に取るために腰を上げる。
「これが本当の神タンガロアだよ。」
老人は机の上に、先のものより大きな彫像を置く。
「サメだ……」
ライリーは、新たに提示された写真1枚、それを穴の空くほどに見つめる。
「Mr.アンドルース、つまりその "タンガロア" という神格は……」
「 "自らに似せてサメを創り給うた" 。そういう事だな?」
「お見事だデリック。察しが良くて助かるよ。」
老人は左右の手指を、こきゃり、こきゃり、と鳴らし動かしながら眼を見開いて笑う。
「熱心なゴッドの信徒に言わせりゃ、 "神は人を愛しておられる" 。だがそんなことは無いんだよ。人は神の子サメの為の脇役、そんな脇役が神タンガロアの真の寵愛なんて受けられる義理が無いじゃないか。」
そうだな。俺は自分の拳をふっと見つめる。幾つもの細かい傷痕が刻まれ、先程の20フィートにやられた新鮮な傷がパックリと口を開けている。やはり頼れるものなんぞ、己の拳ちから以外には無い訳だ。
「……面白い話だな。続けてくれ。」
「……なぁデリック、神の寵愛を受けられない存在が、ただの脇役ではない特別な何かになるにはどうすれば良いと思う?」
ゴッドの信徒の国の出ならば、それは分かる筈だろう?、と、老人は俺の顔を覗き込む。
「答えは1つだ。神の子に歯向かい、神を敵に回して盾を突く……悪魔になる他ないだろう。」
その答えは俺の口から間髪入れずにするりと出た。それは奇しくも俺がこれまで、辿ってきた生き方でもあった。
「そうだ!その通りだよデリック。それが私が自分を "サヴァイイの悪魔" と呼ぶ由縁さ!」
俺が真理への期待に口を開けて笑みを浮かべる中、老人は先の殴ったサメの欠片を喰らいつつ、1つずつ話を続けていった。
…… "サヴァイイ" の地に棲む人間は、自分達が「脇役の動物」から「神の子に歯向かう悪魔」へと昇格するため、神の子サメを殴り始めたのだと。
「己の拳を神タンガロアの眷族達に叩き込み、その牙に向けて拳を振るう悪魔の力を神タンガロアへと見せつけるのさ。」
老人は握った拳をゴキゴキと言わせ、その腕を体の横へと伸ばす。―その真下の水中に、海面へと出ようとする向きから踵を返し、深く水底に逃げ去っていくサメの姿が見えた……―
「そしてサヴァイイの地で、悪魔の拳は200年に渡って振るわれたのだよ。」
「じゃ、じゃあデリック・リードのサメ殴りは、ただの力の誇示ではなかった、って事ですか……?」
「えぇ。海賊がサメを殴る行為の起源は古く、その目的は格上の神の子とぶつかる事で自分達に淘汰圧をかけ、強者になることにあった。……つまりはそういう事なんですよ。」
アンドルースの言葉を受けて、ライリーは暫く固まった後、
「いや、あまりに無茶な話だ、サメを殴って進化するなんて……。正直、これを言ってきたのがMr.アンドルースでなければ "バカバカしい" と一蹴してたとこですよ……。」
そう言ったライリーは、少々上目遣いになってアンドルースの様子を伺う。
「えぇ。確かに無茶な話です。だが、それは決して馬鹿の所業ではなかった。」
アンドルースが腰を上げ、次に荷物の中から取り出した箱には、ある生物のミイラ化した頭部が納められている……
「認めたんですよ。 "タンガロア" はその "悪魔" の強さを。」
「200年。」
俺は老人の言葉を繰り返し、そして老人に質問を投げる。
「何故200年で止めてしまった?悪魔の拳を振るう行為を……」
老人は、酷く苦々しげな顔をした。そして歯を剥いて憎々しげに言葉を吐き出す。
「"カモホアリイ" だよ。神タンガロアは、悪魔の力を取り込んだんだ。」
老人は立ち上がり、岩壁の上の "壁" の1枚にズドン、と拳を叩き付けた。するとそこには、 ―それまでには無かった筈だ、あれば気付いていた筈だろう― ……1体の干からびた、首と胸の間に打たれた杭で磔にされた骸があった。
その突然の光景と余りに奇妙な骸の形に呆気にとられる。
「サメと人間の中間か……。」
その骸は人の形をしていたが、頭の形は鰭を備えたサメの体の前部に近く、脇腹にはエラ孔と思わしきものがあり、更には腰の後ろからサメの尻尾が垂れ下がっていた。
老人が、また憎々しげに口を開く。
「そうだ。コイツは "サミオマリエ" 、或いは "カモホアリイ" という存在だ……。
……神タンガロアはやがて力をつけた悪魔の強大さを知るようになり、それを我が物とするために、神の子サメと悪魔の間に子を成したのだよ。」
「ほう。それで…… "悪魔" はコイツに殴られたのか?」
悪魔にんげんと混血コイツとの殴り合い。俺はそれを想像した。
だがしかし、老人の答えは違っていた。
「それまで200年間、悪魔であり続けた者達が……」
老人の額の皺が深くなり、眉間を強く歪めて忌々しげに言葉を繋ぐ。
「その殆どが腑抜けてしまったのだよ。この新たな種族 "カモホアリイ" の誕生を見て、 "もう我々は神に認められたのだ" とね。」
「サメ人間、サミオマリエ、ですか……。」
ライリーは、その "サミオマリエ人" の頭部のミイラを見つめ呟く。
「えぇ。デリックは主に "カモホアリイ" という呼称を多用した様ですがね。この "カモホアリイ" という言葉は、ポリネシアの東の神話に於いては "サメの王" たる神の名として登場します。」
ライリーは尚も頭部のミイラに目をやっているが、アンドルースは構わず続ける。
「神話では、カモホアリイは人間の女性との間に子を成したと言われます。まぁ多少、サミオマリエ人の出自を反映しているとも言えますね。」
ライリーが、今更の様に顔を上げる。
「その後、 "サメ殴り" は……」
「それで?その後 "サメ殴り" はどうなった。」
俺の問いかけに、老人は暫し口をつぐむ。ぴちょん、と水音があり、老人はその音源を座ったままの足で強く踏み蹴る。
―怒った様に水上に飛び出した小サメは、老人の腹立たしげな拳の餌食となった―
「……その後、 "サヴァイイ" のサメ殴りは廃れた。そして一部の者達だけが "悪魔" であり続ける道を取り、 "サヴァイイ" の地を離れ方々の海に散っていった。」
老人は強い語気で言い切り、
……その後少し語気を緩めて続けた。
「一時期は、完全に絶えてしまったとそう思ったよ。私1人を残してね。
……だがそうではなかった。悪魔の拳は長い時を経て海賊の一部に継承された。そう、あんた達にね。」
老人はニタリとした笑みを浮かべて、指輪をした手を俺の方へと伸ばす。
「……それで全てか?」
その俺の言葉に対し、「あはははぁ!」と声を上げる老人……。
「あぁ、概ねこんなところだよ。……或いはサメを殴る行為は本当に1度絶えたのかもねぇ。人間の中に悪魔の血が流れていて、それがまた人を悪魔の拳に駆り立てるのだと、そうも考えられるんだよ。」
歴史が語り終えられた後、短い時間……、何秒か、何十秒か、俺と老人の間に沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、老人の発した一言だった。
「……それで?指輪を受け取るかい?」
待ちに待ったその言葉、俺は左の口角を極限まで上げて笑い、答える。
「当然だ。」
俺は老人の指輪を右手で掴み、 "サヴァイイの悪魔" はその指輪から自ら指を引き抜き、倒れた。海水を浅く湛えた岩場に倒れ伏すその体には、もう命の痕跡は無い。
俺は暫くその緑の石の指輪を眺め、……それを20フィートに甲を割かれた右手の、中指に嵌めることにした。傷口の赤と指輪の緑が並んで輝き……
……俺は、 "サヴァイイの悪魔" に勝利した。奴はその2千何百年の命を終える時を迎えて、その真理は俺へと継承された。
そうだ。1つ記念品を持って帰ろう。俺は
"カモホアリイ" だか "サミオマリエ" の骸に歩み寄ると、その頭を右手でもぎ取った。
直前まで悪魔が住んでいた "部屋" を後にし、洞窟の中をデリックという1人の新たな悪魔が歩いていく。
「……来い。」
俺には、ソイツの気配が分かった。片目を潰され怒り狂う20フィートが、俺の目の前の深い水面から躍り出た。 "カモホアリイ" の頭を頭上に高く投げ、空いた右手で拳を作り、迫り来る牙に真っ正面から叩き込む。
……20フィートの、上顎の右が砕け散った。
「神話周りの事をより詳しく知りたいならばポリネシア、それもサモア周辺を調べられるといいでしょう。」
アンドルースは "サミオマリエ人" の頭のミイラ、そして "タンガロア" の像の写真とにらめっこを続けるライリーに向けてそう言った。
「サモア周辺を……?えぇと、何故サモアなんです?」
ライリーはまた顔を上げ、不思議そうに聞き返す。
「サモアにこそ伝説の島、"ハワイキ" が存在するからですよ。」
(分からない)という顔をしているライリーに、アンドルースは1枚の地図を広げながら言葉を続ける。
「ポリネシア一帯の伝承には広く、 "先祖の出身地たる神の島" の存在が語られている。その島の名はハワイキと呼ばれ、もしくはアヴァイキ、ハヴァイキ等とも呼ばれますが全ての語源は同じです。そしてサモアでは "サヴァイイ" という語が該当し……
……この地点こそがそれら全ての原点という訳ですよ。」
アンドルースが指差した、サモア周辺を表す地図にはSavai’iという島の名があった。
「いやしかしサメをねぇ。……それも神の子なんでしょう?それを殴り続けようだなんて、昔は凄い輩が居たもんですな。」
軽く言い放つ "ライリー" とやらを俺は強く睨み付ける。
……だが、今の俺には睨み付けるための形を持った眼が存在しない。
「昔は、ですか?」
アンドルースが含みありげに言葉を返す。
「現れ始めているんですよ。今の時代にもサメを殴打する者達が。」
「え、えぇ……え!?」
ライリーが素っ頓狂に驚く。
「……今のところは小規模に、レクリエーションの延長で、ね。だが本当に人間の中に "悪魔の血" が流れているなら、これからどうなるでしょうねぇ……?」
俺の意識は薄れ始めた。
俺に打ち勝ったこの男、Mr.アンドルースというらしい。
俺は結局、コイツが何者なのかは知らない。
だが、恐らく神の子を殴打する儀式は、また新たに俺よりも遥かに強い悪魔を生み出していくのだろう……。
それが俺の、最後の思考だった。