幸福の味
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やめろ。

手を繋ぐな。あだ名で呼び合うな。頭をこすり合わせるな。早朝から1人で働いてる僕が惨めに見えるだろ。僕がこいつらを妬んでいるのは、なにもこいつらがカップルだからじゃない。僕より幸せそうだからだ。

自動ドアのそばでたむろしているアホそうな半グレ共。カバンを傘代わりにしながら友人と駆けていく学生。駄々をこねる息子の願いを渋々、半ば嬉しそうにきいてやる親。僕より幸せそうな人間は、すべて僕にとっての害である。

そんな奴らに店員である僕がしてやれることは。袋詰めの際、おにぎりと菓子パンを下に詰め、その上に重い飲み物を載せてやる。これで帰る頃には2つともちょっと潰れてしまっているだろう。ざまあみろ。愚弄の意を込めた社交辞令を放つ。


コンビニは朝の5時から働いて、帰るのは昼頃だ。この時間だと帰りしなを主婦たちに見られ、井戸端会議のネタにされることも珍しくない。この団地に住んでいるというなら収入もそこまで変わらないのに。自分より下の僕がいて、さぞラッキーでしたね。そう心の中で悪態をつきながら昇降口へ向かう足を少し速めた。

だがそれよりも今の家は嫌いだ。近づくごとに無気力感が募る。扉を開けると玄関にはサイズも色も多種多様な靴が散らばっていた。今日は土曜日。父親以外はみんな家にいる。てことはその分昼飯にかけなきゃいけない費用も手間も増えるってことだ。積もりに積もった無気力感は更に倍プッシュされていた。

僕の家は10人兄弟。貧乏も貧乏、ド貧乏だ。父の収入と補助金だけではまともに暮らせないので、唯一働ける年齢の僕がバイトマンとして繰り出されている。

「今日ももやし炒めでいい?」

母は古い型のテレビを見ながらコクコクと首を縦に振った。僕たち母子のコミュニケーションはいつもこうだ。僕が何かを問いかけ、母は首を上下か左右に振る。そのたび僕は口があるのに使わない母を見て苛立つ。自分の行いが息子にストレスを与えていることに気づかないのだろうか。手伝おうか、という弟の声を無視して支度を始める。

母のことは嫌いだ。それで父も嫌い。どちらも“私可哀そうでしょ?”って態度が滲み出ていて不快だ。そもそもなんでこんなに子を産んだんだ。単に一瞬の快楽を何度も求めた無計画の馬鹿なのか。それとも出産に興奮する変態なのか。どちらにせよ子供からしたらとんだ迷惑だ。こんな親の元に生まれてしまったら、その時点で敗北が決まっているようなものだろう。


だとしても幸せにはなりたいものだ。


記憶はおぼろげだが、まだ1人っ子だった頃。レストランやキャンプに連れて行ってもらった思い出。あの頃はまだ親も2人とも笑っていた。3歳の時に弟ができてから家に澱みが生まれていったが、少なくともその時の僕は確かに幸せだったのだ。僕は未だにあの頃の幸せを求めている。

普通に米と肉が食べれて、普通に給食費が払えて、普通にたまにどっか遠出ができて、普通に皆で笑いあえる。
それが僕の幸せのイメージ。正常で一般的な、幸せのイメージ。

幸せに必要なのは家族だ。どんなに嫌いでも、どんなにウザくても。僕がイメージする幸せには父も母も必要なのだ。弟妹たちだってそうだ。9人はちょっと多すぎかもしれないが、賑やかに越したことはない。全員にちゃんとした青春を送ってほしい。家族全員が普通の幸せを獲得したとき、晴れて僕は自分が幸せであると認識できる。

そのために僕は必死で金を貯めている。ウサギとカメのカメのように少しずつ。あの昔話を知った時は心が震えたものだ。最終的に勝者となったカメは、まさしく僕のようだったからだ。どんな弱者でも地道にやっていけば勝機はある。カメが山の頂上で飛び跳ね、ウサギが慌てるページは何度も反芻した。そしてその度に未来の自分を想像して口角を上げた。

幸せになれないなら、それは人生ではない。

それが僕の人生哲学。必ず人生を歩んでやる。



両親が死んだと報告を受けたのは夕勤を終えた直後だった。

どうも事故だったらしい。信号を無視して、そのまま轢かれて。相手方の弁護士が諸々説明しに来てくれたが、ほとんど頭に入ってこなかった。金はもらえるのか、それともこちらが払うのか。そんなことが頭にちらついていたがそれはもうどうでもいい。

崩れたのだ。僕の幸せのイメージが。

ああ。駄目だ、駄目だよ。両親がいない家庭なんて全然普通じゃない。僕が思い描いてる、普通の幸せにはもうどうやってもたどり着くことはないんだ。ずっとずっとその理想を夢見てなんとか頑張ってこれたのに。コツコツ努力するカメの願いを神様はどうして聞いてくれないのか。

ひょっとして神様はウサギの怨言を漏らすカメは嫌いなのか。だからこんな試練と呼ぶには一方的すぎる暴力を投げかけてくるのだろうか。

一瞬一瞬がしんどい。ぐちゃぐちゃの家から必要な書類を探すのはもううんざりだ。バイトも休む羽目になったし、1日中弟妹の御守をしないといけない。あの甲高い騒ぎ声は僕の心に次々と擦過傷を作っていった。擦り傷は流水で洗うといい、と小学校の先生は言っていたが、患部が心の際はどうしたらいいのだろう。きっとウサギには腹を掻っ捌いて消毒してくれるメディカルトレーナーがいるはずだ。その存在はたいてい親だ。僕は先日両方失ってしまったが。意味のない自虐を少しでも正当化するため無理やり笑った。なるほど、こういうのを乾いた笑いというのか。
後ろで生きた足枷がぐずりだす。それも2個。このまま両方ともベランダから同時に落として、ガリレオが本当に正しかったのか実験したい気分だった。


皺が多い手から受け取った給料袋はいつもより心細く見えた。気づけばそれを持って、サラリーマンの波を掻き分けながら飲み屋街を歩いていた。
幸せになれないならそれは人生ではない。僕は人生を歩めないのだ。生きている意味もない。なら死んでしまおう。そうだ。死んでしまおうじゃないか。勿論、残されて困り果てる弟妹たちの姿も脳裏にちらついた。だがただ生きるために生きている未来の自分の姿のほうがはるかに色濃く映って、それが酷く惨めに思えた。ごめんな。あとはみんなでどうにかしてくれ。お兄ちゃんはもう疲れた。

だがどうせ死ぬならその前になにか美味いものをたべたい。最後の晩餐というやつだ。これまで辛い思いをしてきたのだから、最後くらい文字通り美味しい思いをしてもいいだろう。そう思って飯屋が大量にある場所に来てみたが、早くもこの計画は頓挫しそうであった。充満する汗と酒の匂い。拍手のように鳴り響く笑い声。僕が手に入れることのない幸せが、形を成して群れで襲ってくる。

横の居酒屋の窓から赤ら顔の男が見える。彼はきっと守るものを持っているのだろう。そのために自らの命を、時間を金に換えられるのだろう。僕もそうだった。でもそれはリターンがあったからだ。あの男には家に帰れば愛する妻や子がいる。

僕には?

いつかの幸せというリターンを失った僕に、家で待っているのは。そもそもの不幸の原因が作り残した足枷たち。これじゃあもう頑張れないのも当然ではないか────

そうやってまた艱苦の渦に巻き込まれるところだったが、キャッチの大声ではっと目が覚めた。駄目だ駄目だ。幸せだとか未来だとかもう僕には関係ないのだ。最後の数時間くらい楽しいことを考えて過ごそう。そう考えを切り替えると重かった足取りも次第に軽くなる。スキップでもしよう。鼻歌も歌いながら。


一通り見て回ったがどれも僕の最後を飾るには相応しくないな。せっかくの晩餐が小汚い店で下品な輩に囲まれながらなんて御免だ。かといってチェーン店というのも考え物だ。大衆向きに作られた料理も悪くはない。だがやっぱり最後というならとびきり美味く特別なものが食べたい。例えば個人がやっているような。有名料理店のコック長への道を蹴ってでも、自分の味を堪能してほしい。そんなこだわりが感じられるような店が。今まで地獄のような日々を送り、そしてそのまま死んでいく僕にはそれくらいじゃないと釣り合わない。

あれも違う、これも違うを繰り返していたらとうとう通りを出てしまった。どうしたものか。戻って適当な店に入るのは簡単だ。でもそれは妥協だ。なら駄目だ。さっき、期待してしまったから。妥協は僕の心に不満を残す。死ぬ前、その不満が尾を引いて僕を辛いことしかない浮世に引き留めるかもしれない。

僕の悪い癖だ。勝手に期待して、現実を見て、勝手に傷つく。そんな理想の店があるわけないのに。期待から現実という落とし穴を何度も経験したのに、僕は学ばない。万が一、期待通りを引くかもしれないからだ。

例えば、今日のように。

普段なら気にも留めないような、なんてことない裏路地。そこから光が一筋見えた。僕は虫のようにその光に誘われ、吸い込まれてしまった。

光の主には、路地の入口から1分も満たずにたどり着いた。

レトロな玄関灯がシックな煉瓦造りの壁をぼやぁっと照らす。近くの花壇に植えてあるのはハーブだろうか。
木製の扉からは中の光とクラシックな音楽が漏れ出ていた。月明かりの燐光が店にあたることでようやく全体像が見える。それはまるでディズニーの絵本からそのまま飛び出してきたようだった。扉の傍に佇む看板に目をやる。

「弟の食料品」

看板にはそう書かれていた。飲食店か?こんな裏路地に?さっきなんてゲロにネズミが群がっていたぞ。人だって路地マニアぐらいしか通らないだろう。そんなとこにこんな高級そうな店が?

もしかしたら。この店こそ僕が理想としたものじゃないのか。偶然来れた人だけ来たらいい。広告を打つなんてお断り。
その代わりこの店を見つけたラッキーマンにはとびきり美味い料理を披露してやる。
そんな商売としてはお門違いな思想を持った店主が切り盛りしているのかもしれない。

口コミを調べたいが、あいにくスマホは持っていない。仕方がないので近くのネカフェで調べた。有名なレビューサイトやグルメブログを調べてもなかなか出てこなかったが、根気強く検索すると個人ブログがいくつかヒットした。

信じられない……死んだおふくろがいつも作ってくれたカレーが出てきた。なにからなにまでそっくり。おふくろが厨房にいるのかなって思ったくらいだよ。

私がまだ駆け出しの営業マンだった頃に、当時の先輩が奢ってくれた蕎麦。それをもう一度食べられるとは。麺を口に入れた瞬間、先輩の顔や情景が次々と浮かび、思わず涙を流してしまった。今まで様々な高級店を訪れたが断言しよう。この店こそ一番の料理店だ。

まさか梅ちゃんがよう持ってきてたクッキーがでてくるとはなあ。ちょっと硬すぎるとこも懐かしいわ。梅ちゃん、元気しとるかな。



人間、本当に嬉しくて仕方がない時はスキップなんてしない。鼻歌も歌わない。めちゃくちゃな呼吸法で全速力で走るのだ。その人の人生で最も特別な料理を出す。きっとあの店はそんな感じなのだろう。ちっとも現実的じゃないが、あの店に至るまでの経緯は僕をその気にさせるには十分だった。死ぬ前に過去の幸せを経験して死ぬ。悪くない。いや、かなり良い。最高じゃないか。

はあはあ息を切らしながら扉の前に立つ。落ち着いて。ゆっくり深呼吸を。ああ、ハーブもいい匂いだ。家の扉とは違う、期待に満ち溢れた扉を開けた。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

ウェイターらしき男はそう言いながら僕を席へ案内する。豪華な内装はどこを切り取っても絵になりそうだ。そんな空間に自分一人だけというのもいい。この瞬間だけ王族にでもなったようだ。

「お客様は未成年ですので、こちらを」

マリーゴールドのように橙々とした液体がサーブされていく。グラスを口に運び一口。上品で爽やかな風味がすぅっと溶け込んでいく。今までの人生とは真反対な状況に内心ビクビクしていたが、次第に落ち着いた。安堵のため息を吐くと、ウェイターが尋ねる。

「さて、本日はどのようなメニューになさいますか?」

「ああ、ええと……その」


「僕の“1番幸せだった時”の料理をお願いします」

「かしこまりました」

ウェイターは表情を変えることなく、店の奥へと消えていった。

おいおい、これはもしかしたらあのブログらが言っていたことは全部本当かもしれないぞ。僕の期待はもう最高潮に達していた。僕が1番幸せだった時の料理。どんなのだろうか。それは恐らくまだ幼かった頃、まだ普通の人生を歩めていた時のなにかだろう。記憶にはないが、きっと心には刻まれている。ここならその記憶、体験を掘り起こしてくれるはずだ。


「お待たせしました。こちら、もやし炒めでございます」

「……は?」

理解が追い付かなかった。僕の幸せのピークは3歳くらいだったから、きっと乳児用の料理が出てくるんだろうなと予想していた。それでも当時の幸せという唯一無二の調味料がかかった料理なら、満足できると思っていた。

しかし目の前に出されたこれは

昼に食べた

ただ腹を満たすためだけの

生きるために食べる

安価でお手軽な


「申し訳ございません。当店も尽力を致したのですが、お客様の求めるような料理が提供できず……」

ウェイターは頭を深く下げながらそう言った。

「お代は結構ですので、どうぞおくつろぎを」

空いたグラスにおかわりが注がれるが、それは目に入らなかった。視線は目の前の、僕の不幸な人生のシンボルともいえる存在に釘付けになっていた。

いや、なにを狼狽えているんだ僕は。あのブログも全部嘘。掲示板に張り付いている奴らの悪ノリ。この店だって金が有り余ってる奴がその悪ノリに乗っただけだ。なにがお代はいらないだ。言われなくても払うもんか。そうだ。出ていくときに2度と来るかばーか、なんて罵ってやればいい。

少しの間もやしと見つめ合っていたが、どうせタダなので食べることにした。高級そうなフォークで、高級そうな皿から、バカみたいに安い物体をとり、口へ運ぶ。シャキシャキなんて音がやかましい。


味はそっくりそのまま、なんて書いていたが────なんだ、やっぱり嘘じゃないか。いつもよりしょっぱいよ、これ。


廊下に響き渡るのは、聞きなじんだ階段を登る音。建付けの悪い扉を開けば、広がるのは特に珍しくもない夜空。錆びた柵から身を乗り出せば、見えるのは絶対に死ねる地面。僕は嫌なことがあったらいつもこの廃ビルに来る。それから自分が持っていて唯一価値がある物。命を使って自分を脅すのだ。こうやって地面を見下ろしたり、足を片っぽ外に出してみたり。そして死にたくない!という気持ちを強めて帰る。でも今日は違う。本当に死ぬためにここに来た。

柵に手をかける。不思議と呼吸が乱れたりはしなかった。あの店に入るほうが余程緊張したものだ。柵を乗り越えようと足を乗せて────


バキンッ


「えっ」


柵が外れた。視点が弧状に移りゆく。すぐさま体全体を180度捻りなんとかビルの角を掴む。

腕にめいいっぱい力を入れなんとか上がろうと試みる。みるみる腕が赤色に変色した。柵のまだ残ってる根元の部分を掴んでぐいっと体を前に引き寄せ、よじ登った。

仰向けになって、バクバクいってる心臓を落ち着かせる。あんな力、引っ越しバイトの時も出したことない。生きようとしたのか?僕の人生には幸せはなかったって分かったのにか?

どうして。

自分の意志で落ちれなかったことが不満だったのか?いや、違う。どうせ死ぬって時にそんなこだわりを僕は持たない。
気持ちが悪い。この理由を突き止めねば。あれこれウジウジ考えるのは得意技だ。テストの時よりも頭を回して、ようやく答えに辿り着いた。




ああ、そうか。




ムカついてたんだな、僕は。




あんなに過去の幸せに固執していて、いざ「そんなもんないよ」と告げられたら。てっきり僕は深く絶望して、この世に憎悪を抱きながら自死すると思ってた。

でも違った。

「なんで僕に幸せな時期が1つも無いんだ!」ってムカついたんだ。

妥協は心に不満を残す。不満があったら死ぬのを躊躇してしまう。でも、怒りは僕を生きたいって思わせた。せめて1回は本当の幸せを経験したいと思わせた。

ただ責任能力のない親の元に生まれたからって、こんな仕打ちあるか。僕が何をした?なにも特別なことは求めてないじゃないか。普通の人生でも別によかったのに。

例えば外でケガした時、優しく絆創膏を貼ってくれたりとか。例えば遊園地で迷子になっちゃって、迷子コーナーで感動の再開を果たして泣きながら抱き合うとか。例えば子供が残した料理を、お腹いっぱいで苦しそうに食べる父親とか。
例えば、例えば、例えば。

こういう時に限って普通の幸せの妄想がポンポン思いつく。弟妹だって9人もいらない。多すぎるよ。どれだけ大切にしようと思っていても、こんなに居ちゃあ────違う。



弟妹たちなんて、ちっとも大切じゃなかった。


全部自分に自分がついていた嘘。親は憎んでいるけど弟妹は自分のことよりも大切にする。そっちのほうが聴こえがいいから。どん底から這い上がる主人公っぽいから。神様はこういうやつに味方してくれそうだから。

1番年下のしわくちゃな猿の名は知っているか?小学生の弟がよく鼻歌で歌っている曲の名は?僕の3つ下の──僕の初めての弟は、笑う時どんな顔をするのか。
何も知らない。知ろうとしてこなかった。だって関わったら絶対嫌いになってしまうから。心の奥底ではあいつらのことなんかなんとも思ってない。むしろ世話をしなきゃいけないので嫌いなくらいだ。母が死んで、弟妹たちと関わる時間が増えたことでその感情が如実に現れてしまった。もう家族を愛する長男はいない。そんな幻はとうに消え去った。

結局、僕が今までの人生で愛したのは僕だけだった。僕以上に僕が好きな者なんていない。もう死ぬことなんてできない。気づいてしまったから。自分が一番大事なことに。自分の命がかわいすぎることに。


ココアを飲みながら、公衆電話の投入口に100円玉をいくつか入れる。かける場所は、僕の家だ。携帯電話は1台も持っていないが、さすがに固定電話くらいはある。コール音が鳴るたび、やっぱりやめようかなんて考えが頭をよぎる。かかるのを待つ側なんて初めてだ。3コール目に差し掛かるところでプツッという音と共に声変わり中のガラガラとした声が飛び出す。

「はい、もしもし」

「その声、康希?僕」

「兄さん?え?今外でしょ?なんで電話……え?」

康希は僕の次に生まれた弟だ。多くの人に気に入られたいのかいつも相手を気遣って行動していて、常にヘラヘラしている。あとすきっ歯。僕がこいつのことで知っているのはこれくらいだ。あんまり話したことはない。

「なんかあったの?」

「いや……別に」

「嘘。兄さんがわざわざ金払ってまで電話するなんて、絶対なんかすぐ伝えたいことあるでしょ」

ごもっともだ。廃ビルを出てそこの自販機で両替する手間までかけて僕は電話したのだ。自分でもどうしてか分からない。もしかして僕はまだ家族を大切にする長男を演じようとしているのか。今の僕にはこいつらは重り、足枷としか思えないのに。

「あー……もしかしてまた死のうとした?」

一瞬体が強張る。こんなに綺麗に図星をつかれたのは初めてだ。

「…………」

「あれ?当たり?あのさーいつも言ってんじゃん。死んだら全部パーだって。兄さん頑張ってるんだからさ、いつかきっと報われるって」

いつかきっと報われる。それならお前が今から父も母も生き返らせてみろよ。それなら僕も頑張れるからさ。こっちは普通の幸せを目指してやってきたんだ。それが急に叶えれませんってなった気持ちを考えろよ。良いこと言ってるつもりか?
そういう理解のない浅い善が悩みを持つ人を真綿で絞め殺すんだよ。

「あ、もしかして母さんと父さんのこと?それでまたしんどくなったの?」

「……まあ、関係あるっちゃあるかも」

「へー……。あ、まじか。なんか意外。兄さん、母さんと父さんのこと嫌ってると思ってたから」

「別にあの人らが好きなわけじゃないよ。でも……色々あるんだよ」

康希はそっか、とだけ言って押し黙ってしまった。少しの間沈黙が続いた後、声のボリュームを下げて話し始めた。

「あのさ、今から言う事チビ達には内緒にしててな」

「嫌いだったんだよね。俺、母さんと父さんのこと」

弟から出た意外な言葉に息が止まる。てっきり酷いとこもあったけど大好きだったとか抜かすと思ってたのに。

「だって俺らに対してさぁ、すっっっごい無関心じゃんあの人ら。まだ甘えたいざかりな年の奴もいるのにさ。可哀そうだよ。兄さんが飯作っても感謝の一言も無いんだよ。多分チビたちもそんな好きじゃなかったんじゃないかな。死んだって伝えても全然泣かなかったもん」

「だからさ、そんな重く受け止めなくてもいいんじゃないかな。気楽にやってこうよ。食扶持が2人分減ったって考えてさ!」

電話口から笑い声が聞こえる。途中すきっ歯から漏れ出た吐息がサブリミナルに挟まれた。

こいつ、こんな風に笑うのか。

「あ、そういえば。せっかくだからここで言っとこうかな。俺高校行かずに働くから」

手からすり抜けた受話器を慌てて拾いなおす。今こいつはなんと言ったんだ。高校を?諦める?自らの青春をすべて捨てることを、こいつは話のついでかのように告げたのだ。

「え、いやいやいやいや……いいよ別に。行けよ」

「ううん。色々補助金とか出ると思うけど、やっぱもっと金は必要でしょ。兄さんにだけしんどい思いはさせられないよ。それに俺、頭悪いからあんまいいとこ行けないし」

「美幸ももうすぐ小学生だしなぁ。ランドセルとか、欲しいの買ってあげたいじゃん」

あっ

「チビ達も育ち盛りだし、美味いもの食わせてやりたいよなぁ」

やめろ

「みんなには、青春っての送らせてあげたいもん」

やめてくれ

「兄さんにも楽してほしいよ。俺はどうなってもいいからさ。兄弟には幸せになってほしいな」

僕の前で“良い兄”を見せないでくれ


立て続けに様々なものが壊れた。思い描いていた普通の幸せ。あると思ってた過去の幸せ。演じていた優しい兄。17年生きてきた人生で僕が構築したそれらは、大きな音を立てて粉々になった。今の僕が持っているのは嘘っぱちの希死念慮と、強大なルサンチマンだ。そのうえ天然物の善人を見せつけられた。死体蹴りもいいとこだ。

本当は分かってた。康希こそが僕の理想とする人物像であることを。本当に幸せになるべきなのはこういう人種なのだ。薄々気付いてた。だから無意識に避けていた。もし話をしたら、悩みを打ち明けたら。たちまち弟の眩しすぎる光に当てられて、自らの醜悪な部分が隠せないくらい浮き彫りになってしまうから。

残酷なほどの善の才能にボコボコにされると分かっていて、なぜ電話をかけたのか。その問いを解くにはフェルマーの最終定理くらい頭を回さなければいけなかったが、答えは1+1よりも簡単だった。


僕は甘えているのだ。


どんな状況でも誰にでも優しい言葉を投げかける康希は、今の僕にとって宗教のようなものだった。案の定教祖様は甘いお言葉を投げかけてくれた。あまりにも強すぎる光は妬みや挫折を超えて、安堵を覚えさせる。
再三言うが、幸せになれないならそれは人生ではない。まさにこの瞬間だけ、僕は人生を歩めたと言えるだろう。

みっともない。ビルから落ちたくなくて足掻いている時からずっとみっともない。家族は全員嫌いという結論に辿り着いておきながら、その家族に慰められようとしている。挙句の果てに僕は真に弟を幸せにしたいと思った。長男が故の責任感や父性でもいい。とにかく康希を幸せにしてあげたい。あいつが幸せになれない世界なんて間違ってる。康希は家族全員のために。僕は康希のために。これから日銭を稼ぐ毎日がやってくる。だがそれも悪くないと思っている。康希はきっと家族を幸せにしてくれる。彼に着いていき、彼のために働いて、彼の幸せを祈る。

宗教だ。これを宗教と言わずに何と言おうか。数分前まで心の中でキレていたのに、今では立派な康希教の信者だ。

「そうか、ありがとうな。そうだ。なんか飲み物買うよ。なにがいい?」

「マジで!チビ達の分もいい?」

「いいよ。きいてきな」

足音が徐々に遠のく。少し間が開いてコーラ!カルピス!なんて叫び声が聞こえた。それと一緒に笑い声も。まさに僕が望んでいた普通の家庭のように、和気あいあいとしていた。

まさか不幸だと思い込んでいたのは僕だけで、皆は今のままでも幸せなのだろうか。給食費も満足に払えない。学校でもきっとイジメられている。飯はマズいし、ゲームなんてあるわけない。なのになんでお前らは笑えるんだ。


もしかして────不幸でも笑っていいのか?


そうか、笑っていいのか。いや、辛い時こそ笑うのか。そうだ!笑わなければ!

じゃないと両親のように周りに不幸をまき散らして死んでしまう。嫌われてしまう。笑って、あの飲み屋街の酔っ払い共のように見てくれだけでも幸せにならなければ。ウサギとカメの絵本を見たときを思い出せ。口角を上げるんだ。口を開いて、息を吸い込め。

どんな人間でも笑う時は笑う。感情というものにアクションを起こされるのは、他の動物にはない人間様の特権。誰にでもその権利はあるし、それには抗えない。権利というより性かもしれない。
たとえ幸福でも不幸でも善人でも悪人でも聡明でも愚か者でもあちらさんもこちらさんも。
笑うし怒るし悲しむ。みんな感情に支配されて生きているのだ。しかし────

「お待たせ。えーとコーラ2本と、それとカルピスが──」



「なんで泣いてんの」


泣くという行為は2通りの意味があるから少し厄介である。


あの夜から2年が経った。まだ幸せとは言い難いが、それでも僕の人生は続いている。康希もバリバリ働いて、たまに家事や赤ちゃんの世話もしてくれている。それに時々中学の頃の友達に勉強を教えてもらってる。なんでも高卒認定試験をいつか受けるらしい。つくづくよくできた弟だ。

ほかの弟妹と話すことも増えた。今学校では「林先生死ね」の歌が流行ってるらしい。

この前、家族全員で夏祭りに行った。1人300円までというルールだが、みんなそれなりに楽しんでくれたようだ。

あの料理店には感謝している。もし妥協してなんでもない飲食店に行っていたら、自分の気持ちに気づかずそのまま自殺していたかもしれない。あの後またあの裏路地に行ってみたが、なにもかも綺麗さっぱり無くなっていた。移転したのか、潰れたのか。少なくとも僕という人生のエンドロールには“謎の料理店”として名が載るだろうな。

だが今日。その料理店は再び僕の前に姿を現した。今度はシャッター商店街の一角に。周りの雰囲気に合わせてるかのようにみすぼらしくなっているが、やはり目の前にすると言葉にできない異質さが体全体を覆う。2年経って、僕は幸せな料理を食べれたのか。答え合わせだ。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

ウェイターはあの時と何も変わらず席へと案内し、注文を聞く。頼むのはもちろん。

「僕が1番幸せだった時の料理を」

「かしこまりました」

料理が運ばれてくるまで何が来るか予想する。やっぱりこの間の夏祭りで食べた唐揚げ串だろうか。脂っこいものを食べるのは久しぶりだったので、涙を流したものだった。さて、運ばれてきたものは。

「お待たせしました。もやし炒めでございます」

「…………」

2年じゃそう変わらないか。肩を落としてモシャモシャと食う。会計を済ませようと席を立ち上がろうとするとウェイターが止めた。

「お待ち下さいお客様。本日は、デザートがございます」

そう言ってテーブル上の皿からからクロッシュを取ると。大層な食器の上に5円チョコがポツンと置かれていた。あまりの釣り合わなさに自然と笑みがこぼれる。ああそういえば。今年のバレンタイン、バイト先の女の子からもらったな。これが1番幸せだった時か。なんとも恥ずかしい。

ひょいっと口の中に入れると、びっくりするほど早く舌の上で溶けた。2年で見つけた幸せが一瞬でなくなってしまった。



だが、うん。なるほど。確かに特別な味だ。

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