自己嫌悪の味
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私はあのレストランを訪れていた。汚れひとつ無い外壁に、鮮やかなレンガ屋根。西陽に照らされて、はっきりした色まで見えはしない。それは明らかに私の見た廃墟とは違っていて、なのになぜだか私の見たあの建物だと直感した。

他に行き場所が無かったのもそうだが、何より私は好奇心に駆られて店に入った。清潔感の漂う真新しい店内には落ち着いた雰囲気が漂っていた。

「いらっしゃいませ。お席にご案内いたします」

すぐにウェイターがやって来て、白いテーブルクロスがかかった丸テーブルに案内された。他に客の姿は無く、それが少しだけ不気味だった。

「前菜にございます」

運ばれて来たそれを見て顔を顰めた。鮮やかな橙色は人参の色だ。好き嫌いはあまり褒められた事ではないが、私は人参が嫌いだった。しかし出されたものに嫌とは言えない。ためらいつつも人参のムースを口に含んだ。

私は目を見開いた。舌の上で溶けるまろやかで軽い口当たり。そこには微塵の臭みもくどさも無く、今まで食べたどれよりも上等だった。私は初めて人参を美味しいと思った。いや、人参がこれほど美味しいものなのだと初めて知ったと言う方が正しいか。夢中になってそれを貪り、空になった容器を見てハッとした。ここはレストランなのだ。こんな食べ方、マナーも何もあったものではない。私はあまりの恥ずかしさに器を下げるウェイターに頭を下げる事も出来なかった。

それからはもう食事どころではなくなった。運ばれて来たのは確かキノコのポタージュに、白身魚のムニエル。どちらも嫌いなものだったが、素晴らしかった。一度口にすればたちまちその美味しさに支配される。ところが途中からは私は上の空で、きちんと味わうことが出来なくなった。食べるうちにふと我に帰り、湧き上がる羞恥心と罪悪感でそれどころではなくなってしまったのだ。

こんな料理、私にはもったいない。されるがままにしているけれど、本当にこうして食事をしていていいんだろうか。何かの間違いなんじゃないだろうか。そう思うと何か自分がとんでもない悪事に手を染めているような気がしてならなかった。

それでつい「あの」と声をかけてしまった。「何でございましょう」と整った所作で応じる彼を見て、改めて自分の場違いさを実感した。

「私がこのようなものを食べていいんでしょうか」

「ご満足いただけませんでしたか」

「あ、いえ、そうではなくて、私のような者が、こんな立派なものを食べさせてもらっていいのかな、と。何かの間違いとかじゃないんですか」

「……あなた様はお客様でございます。私どもが受け入れた時点で、それは揺るぎようのない事実です」

「しかし」

「どうしてもお客様ではいられないとお思いでしたら、こちらを」

コトンと音がして、いつの間に取りに行ったのか、ウェイターがワイングラスを置いていた。彼の手の中にはこれもいつの間にかワインボトルがあった。彼は静かにワインを注いだ。澄んだ赤紫の螺旋がグラスを少しずつ満たしていく。

「どうぞ」

きっちり3分まで注がれたワインには、波一つ立っていなかった。これはどういう儀式なのだろう。これを飲んだら何だと言うのか。私はしばし躊躇い、テーブルの上のグラスを取った。

「お目覚めになってください」

私はその声で目を覚ました。煌びやかなシャンデリアが眩しくて目を細めた。肉の焼ける香ばしい香りが厨房から漂っている。私は目を閉じて考え込んだ。どうして眠っていたのだったか。

「どうぞ」

その声にハッとした時にはウェイターがすぐ近くにいて、びくりと体が震えた。私は目の前の物を直視して目を疑った。テーブルにはナイフとフォーク。その中間の大皿に乗せられた、肉の塊。皮膚が取り払われているものの、その形は間違いなく人間の足の一部だった。こんがりと焼け、食欲をそそる橙色のソースがかけられ、人参とほうれん草、マッシュルームが添えられたそれを、私は取り憑かれたように見つめていた。寝起きだというのに鼓動が一気に高まっていく。

「……あ、あ……あっ」

口をパクつかせながら捻り出した言葉はそれだけだった。声が出ない。胸の中で何かが渦巻いている。思わず自分の脛を探ろうとして、左手が肘掛けの外側にずり落ちた。

「どうやらこちらを先にした方が良さそうですね」

ウェイターは後ろから覗き込むようにして私の手を取り、ゆっくりと肘掛けの上に戻した。

「何、が」

「私どもはささやかながらお客様の偏食を治すお手伝いをしております」

彼は料理をテーブルの隅へとよけながら言った。

「ですが、時々あなた様のような方がいらっしゃるのです」

テーブルクロスを纏めると彼はこちらに歩み寄ってくる。逃げようと思うが体がほとんど動いてくれない。

「い……何を、や、っやめっ」

「そういう方にはまずこちらからお好みになって頂かなくてはなりません」

彼は私の足を持ち上げ、ズボンを捲った。果たしてそこに足は無かった。膝下から伝わる未知の感触に私は声にならない声を上げた。

「さあ、お召し上がりください」

ウェイターが優しく私の手を握り、フォークとナイフを握らせた。

「右足です」

気づくと目の前の皿には右足が乗っていた。自分のものだという事は分かっていた。口の中に奇妙な味を感じて、私は自分の足を食べたのだなと、今更ながらに実感した。不思議と気持ちは落ち着いていた。もしかすると一線というのは踏み越えるのが難しいだけで、踏み越えた後には特に何も無いのかもしれない。舌に残った後味が爽やかで、それを好ましく感じる自分がいた。なんとも複雑な気分だった。

「水……水を頂けますか」

「かしこまりました」

規則正しい靴音が遠ざかって行ったのを聞きながら、大きく一つ息を吐く。見上げた天井に煌びやかなシャンデリアが瞬いている。その光を眺めながら、ウェイターの言葉の意味を考えた。そう言えば、あの皿に乗った人参はすんなり食べる事ができた。ほうれん草も、マッシュルームもそうだった。どれも嫌いだったはずなのに、今はそうとも思えない。偏食を治すと彼は言った。もしかして、そういう事なのか。食べれば好きになれるのか。

皿の上の足を見る。全て食べ終わったら自分を好きになれるのだろうか、とぼんやり思った。

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