無味乾燥な密室
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皆さんは、夢中になって応援したスターが居るだろうか?ミュージシャンにアスリート、アイドルなど、人によって形は違えど一人くらいは思い浮かぶはずだ。しかしそうした輝かしい道を歩く者達にも、終わりというものは必ず訪れる。前線を退き自営業に励む者、金の魔力で転げ落ちる者、タレントに身を転じ人前に立ち続ける者、いつの間にか忘れ去られる者、そして劇的な死を遂げる者。此度の事件は、謎に包まれたままこの世を去ったとあるアスリートにまつわる話だ。

その日、新人職員の阿宮あみやは例の如く"彼"の元を訪れていた。特殊顧問などという肩書を持ち、財団の職員でありながら探偵と呼ばれる胡散臭い、もとい異色を放つ男であり、名を吽野うるのという。異常存在の関与の是非を調べる部門、"判別部門"に所属する阿宮は吽野がたった一人所属する"相談室"へ案件を度々持ち込んでは助けを求めていた。

1

[10/7 9:13]

「吽野先生は、デイビット・ベリーエフという人物をご存じですか?」

「勿論だよ。僕達の世代でノー・フラッグを知らない男子は居ない。」

デイビット・ベリーエフ、90年代に名を馳せたプロボクサーだ。父は露人で母は米人、されど育ちは日本と彼以上に国旗を背負わない男ノー・フラッグという異名が相応しい人間は他に居ないであろう選手であり、そして何より恐ろしく強かった。彼のトレードマークであり、勝利の象徴とまで言われた何にも染まらぬ黒色のグローブを振るい続ける常勝無敗のその雄姿は全世界からヒーローと称えられていた。

「まあ、でしょうね。ボクシングにてんで興味のない俺でさえ名前くらいは知ってますよ。後のゴタゴタも含めて、随分と騒がれましたからね。」

「わざわざそこに触れるということは、それに関した話なんだね?」

「ええ、まぁ。そうなりますね。」

彼の最期は余りにも唐突かつ衝撃的なものだった。99年に彼の父親の故郷、ロシアでTVカメラも入らないような非公式戦に臨んだ時のこと。会場は探せば幾らでもあるようなごく小規模のもので、観客も少ないがみなロシア人。彼の仲間は専属トレーナー兼チーフセコンド1人だけの完全アウェーな空間だったが、それ自体は彼にとって珍しい事でもなければ本調子を出せない要因でもなかった。

しかし事件は起こった。彼はその会場で突然の死を迎えたのだ。なぜ?死因は?その全ては謎のまま、ロシア当局は事件を"試合中の事故死"として処理し事件の情報を完全に隠匿する異例の対応を取った。事件が起こった場に居たはずの専属トレーナーも沈黙を続けていた。メディアや風の噂ではロシア政府の陰謀説やドーピングの副作用説など様々に議論されたが、真実は未だ闇の中だった。

「つまり正確にはベリーエフ氏ではなく彼の専属トレーナーの酒井氏、酒井充氏に関する話と。」

事件はそこで終わらない。幾ら政府直々の箝口令が敷かれたとは言え二十余年に渡って何一つ情報が挙がってこないのには訳があった。関係者が誰も残っていないのだ、審判も、対戦相手も、セコンドも、果ては観客までもが皆異なるタイミングで謎の失踪を遂げている。ただ一人、酒井を除いて。

当然ながら酒井に捜査の白羽の矢が立つも、証拠はまるで挙がらず起訴どころか検挙にさえ漕ぎつけなかった。

「その通りです。その酒井氏が先日、死体で発見されました。他殺体です。」

「ふむ。」

「死体が見つかったのは酒井氏の自宅、死体には鈍器で数十回に渡って全身を殴打されたような痕跡が残っていて、そのうちの頭部に入った一撃が脳挫傷を起こしていたのが直接の死因のようです。即死ではなかったものの、長時間放置されていた事が死に繋がったそうです。検死は続いているので、新たな情報は入り次第お伝えします。」

「それで、今回は何が特殊なのかな?密室にでもなっていたとか?」

「密室にでもなっていました」

「!」

驚きと困惑、それから隠し切れない好奇心が混じり合った表情を見せる。上手く面食らわせれたようで俺は内心ガッツポーズをした。


2

[10/7 10:34]

「ほら、着きましたよ。」

「ふむ、思っていたよりずっと普通の家だね。」

平屋建ての木造建築だ。探偵の言葉通り、まるで特徴のない物件と言える。

「当時のファイトマネーは殆どデイビット本人に回していたため貯蓄は無く、現在の収入源はデイビットの死後に開業した個人経営のボクシングジムだけだったようです。独身という事もありこの小さな家屋でも何ら不自由は無かったんじゃないでしょうか」

「それで、あっちのがそのジムかな?」

指さしたのは現場の隣の建物、何の面白みもない鉄筋コンクリートの直方体建築にジムの看板が掛かっている。

「はい、そうです。主に学生にターゲットを絞っているようですが、開業から年数が経っているため青年の選手も少なからず居るようです」

「となると、これでジムが潰れてしまったら路頭に迷う選手も居るんじゃない?」

「いえ、それが選手の中からすんなりと後継者が見つかったようで。」

「ふむ、酒井氏が殺されたのは何日前だったかな?」

「四日前です。葬儀はおろか通夜も済んでいません。」

「不自然だね、早すぎる。言うまでもないけど。」

「ですね、当然ながら容疑者の一人です。一応、アリバイ自体はあるのですが。」

「仮に超常事件ならアリバイなどあってないようなものだからね。まあ最も、密室トリックに過ぎないならそれに越したことはないけどね?それで、発見当時の状況は?」

「はい、10月3日の午後8時、トレーニングの青年の部が開始する時間になってもジムに現れなかったため酒井氏を呼びに行ったジム生の一人が発見しました。その時に扉の鍵は壊されています。」

「そのジム生が何らかの理由で鍵を掛けてからあえて壊した可能性は?」

「ありません、扉に付いている錠前はいわゆるスライドラッチで、鍵などで外から施錠できるタイプのものではありませんので。」

「ううむ、だけど扉をすぐに壊すかな普通、余程の阿保でもない限り人に判断を仰ぐと思うのだが。」

「全くです。彼も容疑者の一人ですね。」

「まあ第一発見者と後継者とやらの事は一旦置いておくとして、現場に向かおうか。現場の保存状態は?」

「酒井氏の遺体以外は殆どそのままです。指紋の採取などは終わっています。」

玄関で人払いをしていた職員に軽く会釈して中へ。廊下を歩きながら説明を続ける。

「怪しい指紋は?」

「残念ながら複数名に由来する指紋だらけでして、犯人を特定するのは難しそうです。」

「彼は頻繁に人を家に上げていたのかい?だとしてもあちこちをベタベタと触るのは不自然だよ。」

「いえ、そういう訳ではないのですが…」

そこまで言いかけて現場に到着する。正方形をしたなんてことはない普通の部屋だが、ある一点に於いて余りに違和感があった。

「…家具が何一つ無いけど、本当に現場は当時のままなんだよね?」

「ええ、当時からこの状態でした。なんでも、事件の半日前に彼のジム生と共に片付けたばかりだったようで。遺体はそこの角でもたれかかるような姿勢になっていました。追い詰められて鈍器で袋叩きでしょう。」

探偵はううむと唸る。それもそのはず、家具が無いのもそうだが窓のひとつも無いのだ。時折存在する不良物件というやつだろうが、今回の場合は彼にとって大問題だろう。

「それについても後で詳しく訊くとして、いや然し参ったね。これじゃ密室トリックなんて作りようがないよ。」

「んー…まあそうですよね。」

彼は最後に出入り口のドアと睨めっこしたのち目元を押さえた。彼の背から覇気が抜けていくのが手に取るように分かる。

「これは間違いなく能力者絡みだろうね、はぁ…」

「そんな露骨にがっかりしないで下さい、密室であることに変わりないんですし。」

「トリックのない密室なんて密室じゃない!」

「まあ実際今回のケースはそれで間違ってはいませんよね。現時点じゃ壁抜けか転移か遠隔かはたまたその他か分かりませんがどの道犯人にとって壁は無いに等しいでしょうし。」

彼は諦めきれないのか壁や天井、床を執拗に調べているが、抜け穴も回転床もある訳がなくただただ落胆を深める結果となった。

「つまらない、結局は理詰めと捜査か。」

「まあまあ、そう言わずに。理詰めであるとしても先生の明晰な頭脳は貴重なんですから。」

「…何も降りるとは言ってないだろう?探偵に撤退の二文字は無いんだよ。」

行こう、と小さく吐き捨てて部屋を去る。クールに決めたかったのだろうが、返答までの微妙な間と隠し切れない口角の緩みが"満更でもない"事をありありと伝えていた。あぁ、本当にこの男は変なところで妙に単純で助かる。


3

[10/7 10:59]

「つまり、君がこのジムを受け持つ事は生前の酒井氏の意向だったと。」

「はい、自分で言うのも難ですが、このジムの初期のメンバーの中では一番成績を残していますし…その、妥当じゃないかなと。ところで、何故そんなことを?てっきり事件の話だとばかり」

四谷 亘、33歳。2000年からこのジムに通い詰めているベテランだ。事件当時にジム生を現場へ向かわせた張本人でもある。現在は休館になっている閑散としたジムの壁際に堂々と鎮座するトロフィーのうちの幾つかは彼のものだという。刑事という事になっている二人を前に少々敬遠こそあれど特に嘘を吐いている様子はない。

「いやいや、何が事件解決に繋がるかはわからないものだからね。」

「ちなみに、ここのジムはいつ再開する予定なんですか?」

「早ければ明後日にも。はやいところ元通りに再開しないと、酒井先生も安心して向こうに行けないでしょうしね」

「安心して、ですか。」

「はい、ですからその為にも刑事さん、いち早く事件を解決して下さい。お願いします。」

「ええ、任せてください。」

四谷を離席させ、空間は一旦、俺と探偵の二人きりになった。

「何が"ええ、任せてください。"ですか、まだ手掛かりなんてこれっぽっちも掴んでいないのに。それよりどうでしたか?彼の話を聞いてみて。」

「特に矛盾した点は無かったね、ジムの再開を願っているのも見た感じでは本心だったし。」

「じゃあ推定白、ですか?」

「いやいや、まだ白黒は付けれないよ。それに…」

「それに?」

探偵は含みのある笑みを浮かべてから口元に手を当て、音を篭らせながら続けた。

「何か隠してるだろうね、彼。」

「その心は?」

「彼が僕に自身が後継者に選ばれた根拠を推察して述べたとき、それまでは質問に普通に答えていたのに露骨に話を逸らしただろう?"ところで、何故そんなことを?"ってね。犯人かどうかは別として、酒井氏との間に何かしら秘密があったとみて間違いない…はずだよ。」

「ふうむ、そういうものですか。俺は気にならなかったのですが」

「そういうものだとも。さ、もう一人呼び出してあるんだろう?話を聞こうじゃないか。」

「分かりました、じゃあ呼んできますね。」

俺はそう言って席から立ち上がり、取調室代わりの事務室から出て"もう一人"を呼びに行った。
なぜ当然のように使い走り扱いなのかと今更な不満がふと脳裏を過ったが、それ以上考えない事にする。

「という事で、第一発見者の大場 敏也さんです。」

「どうも。」

大場 敏也、四谷と同じ33歳の初期メンバーだ。四谷と異なり対人関係に一癖ありそうな、尖った印象を受ける。

「今日からこの事件の担当をする事になった刑事の吽野だ。宜しく、大場君。早速で悪いけど、幾つか質問をさせて貰うよ。前任者に既に話した内容と一部重複するかもしれないけど、まあ再確認だと思って容赦してくれ。」

「分かりました。さっさと初めて下さい。」

この男は事件当初からずっとこんな態度が続いている。流石にだからと言って犯人だと疑う訳ではないが、要注意と言わざるを得ない。とりわけ今日は機嫌が悪いようで、俺達がここへ来る前に四谷氏と一触即発の空気だったとその場に居合わせた職員から聞いている。

「なにかご用事があったのかな?だとしたら申し訳ない事をしたね。」

「いや、別に用事って程の事じゃない。ただ…」

「ただ、何かな?」

「亘に用があるだけだ、まだ向こうの部屋に居たが俺が終わるまで待っているとも限らないからな。」

「そうか、じゃあ巻きで行こう。」

こうして大場へのインタビューが始まった。発見当時の事を出来る限り詳しく説明させるも、それらしい新情報は得られなかった。刑事殿、もとい探偵のほうも至って単調にインタビューを続けていた、まるでハナからそんな情報に興味も期待もないと言わんばかりに。

「それじゃあ、最後の質問だよ。」

大場へのインタビューが始まって5分も経たずして探偵がそう告げていた。普段は一々まどろっこしい男だが、こういう時は至って効率的に事を進めるポテンシャルを見せる。全く以て普段からそうして欲しいものだ。

「さっき君は四谷君に用があると言っていたよね、どんな用なのかな?四谷君へのインタビューが始まる前に顔を合わせていたところを見たけど、お世辞にも仲が良いとは言えないような、険悪な雰囲気だったじゃないか。」

場の空気に慣れてきたのか態度が柔らかくなりかけていた大場が、一転して最初以上の険しい表情を見せた。まあこういう質問だろうな、という予想はついていたが、まさかここまで直球で尋ねるとは。素でやっているのなら大した無神経だ。

「事件と関係あるのか?それが。」

「大有りだよ、答えたくないなら私が当ててあげよう。君は四谷君がジムを引き継ぐのを快く思っていない、
何なら自分こそふさわしいと思っている、そうだね?」

「そうだよ、悪いか?」

まあ俺もそんな可能性を予想はしていたが、この男はもしこれで間違っていたらどんな顔をしていたのだろうか。俺ならとてもじゃないが恥辱で三日は眠れないだろう。

「悪くはないさ。それで、君は快く思わないからと言ってどうするつもりかな?」

「あんたらとは関係ない話だ。」

「そう言わずに教えてくれないかな?後から四谷君に聞きに行くのは二度手間じゃないか。」

要するに隠してもどうせわかるから吐けと言っているのだろうが、半ば脅しているような言い回しをするとはつくづく胆の据わった男だ。

「後継者の座を賭けて決闘を申し込む。」

「ふむ、決闘というと、君たちの本分でだよね?」

「あぁ。他に何がある。」

「そりゃあ決闘と言えばコレだろう。」

34歳児が手で拳銃のジェスチャーをする。

「冗談はさておき、果たしてその決闘とやらを四谷君は受けるのかな?現状、君が勝手に騒いでいるだけと言うのが実情だけど。受ける理由がないだろう、彼。」

「…受ける。」

かなり間があってから、そう答える。まさか彼は四谷が勝負を受けない可能性を考えていなかったのか?
決闘の発想といい、単に尖った性格としか見ていなかった私の認識が段々と彼を間抜けと識別し始めてきた。

「そうか。いやそう思うならそれで良いんじゃないかな?お時間取らせたね、これにて事情聴取は終了するよ。」

こうして探偵の言葉を合図に不服そうな大場を事務室から押しやりつつ、探偵へ向き直った。

「まあ、彼は違うだろう。阿呆だし。」

言いたいことは分かるがもう少しオブラートに包めないのだろうか、この男は。


4

[10/7 20:21]

「言われた通り調べて来ましたが、これは面倒なことになってきましたよ。」

「ご苦労だったよ、阿宮君。しかしまさか半日で仕上げるとはね。やはり財団はこういう点で頭2つは抜けている。」

持ち前の相談室で随分と旧式のマックブックを叩いていた探偵にUSBと紙資料を手渡す。

「それで、何人居たのかな?」

「全行方不明者の親と婚約者と子供を合わせて31人、他にも特別親しい間柄の人物を合わせると45人になります。」

「やれやれ、分かってはいたが膨大だね。能力者の犯行である以上、理論上は全員容疑者という訳だ。」

彼が俺達に頼んできたのは、酒井の関与が疑われる失踪事件の被害者の身辺調査だった。調査と言っても、当時は財団でも異常事件として調査していたため当時の資料を掘り返して来たに過ぎない。ちなみに当時の調査では"未特定の能力者による追跡不能な計画的犯行のため調査打切"という"お手上げ"の4文字を27文字に引き延ばした文章で締めくくられていた。

「しかし、そもそもこの事件だって酒井氏の犯行と決定付ける証拠はない訳ですし、容疑者に加える理由としては弱いのではないでしょうか?」

「彼がやった証拠があるかどうかは重要ではないんだよ、阿宮君。」

「いや、重要でしょうに。」

「言葉が足りなかったね。犯人にとって、重要ではないんだ。証拠はなくとも、一番疑わしいのがダントツで酒井氏である以上はそれだけで十分に犯行動機足り得る。」

「なるほど。それで、ここからどうやって絞るんですか?」

「どうやろうね?」

こいつ、と言いかけてぐっと堪える。

「まあ、やるとしたら全容疑者の周辺人物に聞き込みをする他ないだろうね。不可能ではないけどスマートでもない。」

「ですね。あぁあともう一つ報告が。」

「何かな?」

「酒井氏の遺体の爪の間から化学繊維の破片が検出されました。」

「化学繊維というとナイロンとかそういうのかな?」

「はい、恐らくはミットやグローブ辺りを握った時に挟まったのだと思われますが、死亡推定時刻の直前に酒井氏はジムを訪れていなかったので少々不自然だとの事で一応報告させて頂きました。まあ最も、それ以前に爪に挟まった繊維が偶然何度か手を洗っても流されなかっただけである可能性は大いにありますが。」

「そうか、まぁ記憶に留めておこう。」

「それで、吽野先生は何を調べていたんですか?」

役に立つか怪しい資料はさておき、彼がたった今ラップトップで何を調べていたのかという話題に移った。すると探偵は待ってましたと言わんばかりにその画面をこちらへ向けた。

「何ですか?これ。」

「過去のアマボク公式大会における四谷と大場の戦績をリストアップしたものだよ。」

「…はい?」

「いや、だからアマボク…あぁ、アマチュアボクシングの略だからね?」

「そ、そうじゃなくてですね?なぜそれを調べていたのかという話なんですが。」

「そりゃあ気になるからに決まってるだろう。」

「気になるって、何が。」

「決闘だよ決闘、四谷vs大場のミドル級非公式マッチ。後継者争いの決闘がどんな結果になるか予想してみたくてね?」

「そ、そんな事に時間を浪費していたんですか?」

と言うか、探偵の口ぶりからしてあのバカらしい決闘を受ける事にしたのか四谷。

「まあ見てみ給えよ。こっちが四谷の戦績でこっちが大場の戦績、でこれが四谷と大場が実際にマッチングした時の戦績だ。これを見てどう感じるかな?」

「ど、どうって…」

探偵の顔を窺うも、上手く意図が掴めない。ふざけてるのか大マジなのかさっぱりだ。

「なに、素人考えで一向に構わないよ。」

「ええと…そうですね、四谷の方がずっと格上のように思えます。単に数字だけ見ても四谷が上ですし、勝ち試合だけをピックアップしても判定勝ちとKO勝ちの両方が見受けられる四谷に対し殆どKO勝ちしかない大場は安定感に欠いたただの一発屋のように感じます。」

「つまり?」

「ああ、決闘の話でしたね。四谷が勝つでしょう、間違いなく。 …でも、わざわざこうやって訊くという事は先生の見解は異なるんですか?」

「いいや?大場に勝ち目なんか無いだろうね。」

「なんだ、やっぱりそうなんですね。ってあれ、だったらおかしくないですか?」

「そう、おかしいんだよ。勝ち目がないはずなのになんで大場は決闘なんて持ち出したんだろう?」

「ううむ、単に彼のおつむが弱いだけなような気もしますが。」

「だけど何か彼に考えがあるなら、思わぬ形で今回の事件に関わるかもしれない。」

「疑って損する事は無いでしょうけど…」

「なに、彼に正々堂々勝負する気があるのならそれはそれでいいだろう、是非とも観戦を楽しもうじゃないか。」

「あー、要するに決闘を観戦する口実が欲しいんですか?」

「人聞きが悪いよ?阿宮君。職務を全うするだけだとも。」

彼が本気で事件を解決する気があるのか、はたまた単に面白がっているだけなのか俺は訝しまざるを得なかった。


5

[10/8 12:31]

「犯人絞りは順調かな?阿宮君。」

都内某所の食堂に呼び出された私はかつ丼を掻き込んでいる探偵に出迎えられた。俺は向かいの席に座りつつ、首を横に振る。

「順調どころか、進展ゼロですよ。」

「ほう、君達ともあろう者が進展なしとはね。」

「仕方ないでしょう、当時のロシアの情報統制はホントに徹底されていたせいで失踪事件自体国内では殆ど知られていないんです。なので誰が酒井氏を恨んでいただとか、そんな情報は微塵と挙がってこないんですよ。」

「まあ、だろうね。」

「言い切りましたね。」

「そりゃそうだよ、分かり切った事だ。」

「言い返せません。それで、どうするんですか?」

「仕方ない、今は四谷君にフォーカスを当てようじゃないか。」

「あ、大場氏はスルーなんですね。」

「経過観察と言い給えよ。まあ実際、大場君には特にこうしたいという具体的な着地点が無いんだ。」

「つまり、裏を返せば四谷氏には何か着地点があると?」

「ああそうさ。彼に酒井氏から聞いていた事を洗いざらい吐いてもらおう。」

「随分と大胆ですがそもそも、彼が決定打たりえる情報を握っているとは限らないんですよ?」

「いいや、持ってる。」

「自信満々ですね、根拠がおありで?」

「いや、ただの勘だよ。」

「勘…」

「探偵の勘を侮っちゃらないんだよ?」

「でも勘なんでしょう?」

「勘だとも。」

「…」

ああ、もうこれでもかってくらいに心配だ。


6

[10/8 15:11]

「言いたいことは分かりましたが、もう少しやりようがあったのでは?問い詰められた側が言うことでもないですが。」

いや、俺もそう思う。

困惑した様子の四谷と悪びれる様子もない探偵、そして反応に困る俺。両者の間に絶妙に微妙な空気が漂う。場数を踏んでいる俺でさえ嫌な汗が止まらない。なぜこんなことになっているのかと言うと—

「なに、まどろっこしい真似は好まないのでね。」

この大戦犯あほが四谷を呼び出して早々にド直球で問い詰めたのだ。

「そうは言ったって何もありませんもん、お話しできる事。」

「何だっていいんだけどね?例えばほら、どうして君がジムの管理を引き継ぐことになったのか、とか。」

「だからそれは自分の実力が…」

「要因の話じゃないよ、シチュエーションの話だ。どんな場面で、どういう風にそれを告げられたのかを訊いているんだ。」

「忘れましたよ、そんな事。」

「適当な嘘は良くないよ四谷君。都合よく状況だけ忘れてしまうなんてことある訳ないだろう。」

探偵は遠慮も策略も無しにどんどん責め立てる。あまりにも悪手だ、これでは四谷は委縮するばかりで口は余計堅くなるだけだ。
大失敗だ、尋問をこの男に任せた俺が馬鹿だった。

「いい加減にしてください、そろそろ怒りますよ?」

「構わないさ、手を出したら公務執行妨害でしょっ引くだけだからね。署でじっくり話が聞ける。」

「…」

この男、下衆どころの話ではない。本物の刑事がやったら一発免職モノだろう。そろそろ止めに入るべきか。

「私は君が重大な情報を握っていると確信しているよ。じゃあなぜ君は私にそれを話さないか?話せば罪に問われるからだ。」

「自分が犯人だと言うのですか?何の根拠も無しに!?」

「いいや違う、他人の罪を知っていて黙っていると言っているんだ。具体的に言わなきゃダメかな?」

「ええ、何をどう疑っているのかハッキリと教えて下さい。」

「君は酒井氏からロシアで起きた連続失踪事件の真相を聞いている。彼が犯人である事、そしてどうやって消し去ったのかをね。」

「あり得ませんね、理解できません。なぜそんな飛躍した発想に至るのですか。」

「考えてみたんだけど、やっぱりそれ以外に理由が見当たらないんだよ。別に老い先短い訳でもない人間が君をわざわざ後継者として抜擢するまでの流れに、彼が後継者を選ばなくちゃいけない理由が無ければ君は納得できないどころか不審がるはずだ。君が後継者に選ばれた事をすんなりと受け入れられたのにはちゃんと理由がある、君は彼から彼が沢山の人間を消し去った事と、そのせいで多くの人間から文字通り死ぬほど恨まれている事を聞かされていたんだ。違うかな?」

「馬鹿馬鹿しい。」

「君が仮に自身が罪に問われることを恐れているのなら、心配はいらないよ。」

心配はいらない?おい、まさか—

「君の罪は黙認しよう、"君は酒井氏から聞いた話は余りに突拍子もなかったため、ただの出鱈目だとばかり思っていた"という事にしておく。」

「吽野刑事!」

この男、何の権限があって勝手なことを。

「黙ってい給え阿宮君。僕は彼と話しているんだ。」

「…馬鹿馬鹿しい。」

「それはさっき聞いたよ。まあいい、今日のところはこれで退くよ。気が向いたらいつでも連絡を寄越し給え、どれだけ連絡が遅れても君の罪は変わらず不問にすると誓うよ。じゃあ、行こう阿宮君。」

そう言うが早いか探偵は立ち上がり、その場を後にする。俺も慌ててそれに続いた。

「…」

後には、ただ険しい表情で沈黙する四谷が取り残された。


7

[10/8 15:37]

「さっきのは何ですか、吽野先生!」

「落ち着き給え阿宮君。口調が乱れているよ、君らしくもない。」

「誰のせいだと…」

振り上げかけた拳をぐっと堪え、ゆっくりと強張らせながら下ろす。

「それでいい。いや何、打ち合わせがなかった事は謝るよ、済まなかった。だけど僕はアレで良かったと思っている。」

「本気ですか?」

「ああ本気だよ。必ず好転すると保証するよ。」

俺はじっと探偵を睨み付ける。その表情はいつもの挑発的な眼差しではなく、至って真剣そのものであった。

「…わかりました、こちらこそ感情的になってしまい申し訳ないです。」

「いいんだ、僕だって横暴だった自覚がない訳ではない。さて、阿宮君。心機一転早速だけど今日はもう一つ用を済ませよう。」

けろっとした様子で語り始める探偵に若干呆れつつも話を進める。

「というと?」

「本当はさっき四谷君に聞く予定だったんだけどつい聞きそびれた事があってね。流石にあの空気で追加の質問をぶつけるのは気が引けるし、代わりに大場君辺りでも捕まえようか。」

「相変わらずのオマケ扱いで不憫ですね、彼。」

「魅力ある推理材料足り得ないのが悪いんだよ。」

「全く以て横暴です。」


8

[10/8 17:11]

「ああ、やっと見つけた。」

夕方の河川敷、俺達は汗だくのトレーニングウェア姿の大場をそこでようやく見つけた。電話に出ない相手を探すことのなんと骨の折れることか。

「こんにちは、大場さん。ランニングですか。」

「あ、刑事さんたち、か。こんにちは。いや、もう、こんばんは、か?」

「おっと、いきなり声をかけてしまって申し訳ありません。息を整えてからでいいですよ。」

「いいや、急に止まっちゃってアレだったがもう大丈夫だ。」

取り合えず受け答えはいたって普通だ、先日のイライラした雰囲気は解消されている。

「精が出るね大場君、やはり例の決闘に向けて気合が入っているのかな?確か明日の正午だよね。」

「勿論だ。ベストを尽くさずして負けるなんて絶対にこの俺が許さないからな!」

「あ、そういえば受けてくれたんでしたね、四谷さん。決闘を申し込んだ時どんな反応をしてましたか?」

「すんなりと受けた、というよりはハナから負けるとも思って無さそうな反応だったな。舐めやがって、いま思い出しても腹が立つ。」

「まあまあ、常勝とはいかずとも彼の戦績が優秀なのは事実だからね。プライドは高くて然るべきだよ。」

昨日のやり取りの後だと、探偵のこの煽りともとれる発言も思惑があって発しているのだろうと想像が出来る。

「刑事さんまで。いや、でも事実だ。確かに亘は強いよ、だが俺には秘策がある。文句なしにジムを俺のものに出来る秘策がな!」

「ほう、秘策。どんな秘策があるのかな?」

「それ…を言ったら秘策じゃないだろ!」

彼のハッタリでなければ事件に関係あるかはともかく、やはり探偵の読み通りの何かがあるようだ。そしてあろうことかゲロりかけたぞ、この男。

「おっとっと、それもそうだね。すまない、当日の楽しみにしておくよ。」

「それより吽野刑事、聞きたいことがあって彼を訪ねたのでは?」

「勿論忘れていないよ。ということで大場君、君に質問が1つあるんだ。」

「なんだ?前にあらかた聞き尽くされたような気がしたが。」

「事件のことじゃない。と言い切れるかはともかく、その前の事だよ。酒井氏が亡くなった部屋、君達が片付けを手伝わされたんだろう?君たちは酒井氏がどうしてその部屋を片付けたかったのか聞いていたのかな?」

「あぁ確か、亘が酒井先生から何か聞いてたのを又聞きしたぞ。向き合ってみようと思ったとかなんとか。ちなみに部屋にはその前まではジムの書類を置いてあったらしい、電子化が済んだから処分できるようになったとか言う事も聞いた記憶があるぞ。」

「向き合ってみようと思った、ですか。」

「何と、なのかは聞きそびれたけどな。」

向き合う。一番に思い浮かぶのはデイビットの事だろうか。前述のとおり、どういう訳か酒井はデイビットの死の真相について一切触れていない。彼の中にデイビットに関するアンタッチャブルが存在し、それに触れようとしていたというのなら容疑者はさらに増えることになる、当時事件を隠蔽したロシア当局だ。とはいえむしろ本当に当局の仕業なら財団の力に頼れるどうとでもなるのだが。

「そうか、ありがとう大場君。質問はそれだけだよ。あぁいや、最後にひとつ。」

「何ですか?」

「明日は是非とも頑張り給え、応援しているよ。」

「言われるまでもない。」

力強く頷いた大場に満足そうな表情を見せ、探偵は踵を返した。大場もランニングを再開して走り去っていった。

「何といいますか。」

「何かな?」

「本当に好きなんですね、ボクシング。」

「それは、僕の話かい?」

「彼も先生も、です。」

「無論だとも。」

と、そんなやり取りのさ中に探偵のスマートフォンに着信が入った。

「はい、もしもし?」

何気なく電話に出た探偵の口元が、じわりと緩むのが見えた。

「はい、それではまた明日。」

スマホを仕舞い、俺に向き直った探偵はいつもの勝ち誇った表情を見せていた。

「四谷君からだよ、『明日の昼11時に酒井先生の家に来てください、それまでに話を纏めます。』だそうだ。」


9

[10/9 10:57]

「おや、先に待たせてしまったようだね、四谷君。」

「ええまぁ、自分が呼びつけましたからね。」

既に鑑識は撤収済みの酒井邸は静まり返っている。俺と探偵を連れ、辿り着いたのは酒井の寝室だった。四谷は徐にその押し入れを開いたのち、俺達に向き直った。

押し入れには無造作に重ねられたベルトやトロフィーの数々、とてもじゃないがそれにふさわしい扱いとは到底思えない。ビニル袋が被せられ、その輝きはくすんでいる。

「これは?」

「デイビットさんの遺品です。ここにあるのを知っているのはジムでは自分だけのはずです。」

「結論から言います、酒井先生は失踪事件の首謀者です。」

「首謀者、という事は共犯者も居るという事かな?」

探偵は驚くことなく単調に質問を返す。共犯がいること含め想定内だったのだろうか。

「はい、とはいえそれが誰か、と言うところまでは聞き及んでいませんが。なんでも、"依頼した"とかなんとか。」

「依頼?殺し屋か何かかい?そんな都合よくホイホイと人を失踪させれるものかな。」

探偵は役作りで惚けているが、それくらいはザラに居る。表面化していない、財団の手の及ばない組織というのは幾らでもあるのだ。

「自分は知りませんよ、そんな事。」

「それで、君はそれを信じたのかい?」

「ええ、まあ。わざわざ嘘を吐く理由もありませんし、冗談言っている雰囲気でもありませんでしたから。それでまあ、色んな人間から恨みを買っているだろうという話になりもしもの時は自分に後を継がせる、と。そういった流れでした。」

「それと、どうして君がその話を聞くことになったのかって経緯も話してくれるかな?」

「非常に唐突でしたよ、それこそ事件の数日前です。前から自分を懇意にしてくれている節はありましたが。」

「ふむ、"向き合ってみようと思った"という話もそれに繋がるのかな?」

「あぁ、大場あたりから聞いたんですかね?そうですよ。デイビットさんの事と向き合う覚悟を決めたと話していました、何のきっかけで覚悟を決めたのかは分かりませんが。あの部屋を整理したのは押し込めていたこれらのデイビットさんの遺品をあるべき姿で飾るためだったそうです。」

何らかのきっかけでデイビットの事件と向き合うことを決めた酒井が四谷に事件の事を打ち明け、自身の後を継がせたいという事を伝え、そしてその後殺された。流れとしてはそこまで無理はないものの、やはり疑問は残る。

「となると増々分からないな。君に打ち明けてから酒井氏が亡くなるまでがあまりにも早すぎる。仕組まれたみたいにスピーディーだよ。フィクションじゃあるまいし、死亡フラグなんてものある筈もない。君に打ち明けた前後の一連の流れと彼の死には何らかの因果関係がある筈だ。」

俺の言いたいことは探偵が全て代弁してくれた。とはいえ、言語化したところで四谷が最適解を持ち合わせているとも思えないのは確かだ。もっと言えば、異常存在が関わっていれば早業くらい出来ても疑問ではないし、何なら探偵が一蹴した因果律の方を弄られた可能性だって大いにあり得る。どちらにせよ並じゃない能力者が関わっていること請け負いなのが先が思いやられる。

「と、言われても自分には何とも。」

「そう、それと。もう一つ疑問があるんだよ。」

「と、言いますと?」

「そもそもの話だよ。なぜ彼はデイビット氏の件について口を閉ざしていたんだ?そこが判らないままなんだ。」

「…」

四谷は小さな沈黙と共に再び押し入れの方を向き、手遊びをするような覚束なさで中を漁りだした。

「刑事さん、スポーツを観戦するのは好きですか?」

「あぁ、人並みには。ボクシングも好きだよ。」

「じゃあ、大好きな選手を見てて悲しい瞬間って何ですか?」

「そうだね、応援しているプレイヤーが引退するときは悲しいし、ドーピングなんかが発覚した時も別の意味で悲しい。」

探偵は背を向けられている事を意に介さず単調に答え、四谷もまた振り向くことなく落ち着いて問答を続ける。

「そういった特例的な話ではなく、もっと頻繁に起こり得る話です。」

「となれば、やはり応援側が負けた時だろうね。連勝記録や優勝が懸かっていたりすると、特に。」

「ええ、自分もです。酒井先生もきっとそうだったんでしょう。」

「それで、それがどうしたのかな?」

「負けたんですよ、デイビットさんは。」

「負けた?」

「はい。彼はリングの上で殺されました。」

「!」

「試合中に、です。対戦相手は鉛を仕込んだグローブを使用してデイビットさんを一方的に殴り倒したそうです。」

場に鈍い沈黙が漂う。真っ当な反応は期待していないのか、四谷はそのまま話を続けた。

「普通に考えればそんなグローブが検査を通る筈もありませんし、審判も黙って見ている筈もない。酒井先生だって止めに入ったはずです。しかしそうはならなかったのは…」

「その場の全員がグルだった、からかな?」

「はい。酒井先生は観客に取り押さえられ、ただデイビット氏が死ぬまで殴り続けられるのを見ている他無かったようです。」

「なるほど、合点がいったよ。」

「いや、待ってください。どうして今のが沈黙を続けていた理由になるんですか?」

「わかってないね、阿宮君。君は本当にスポーツマンのプライドというものをわかっていないよ。」

「どういうことですか?俺にはさっぱり。」

「デイビット氏は他でもなくボクシングに負けたんだよ?世界中のボクシングファンからヒーローと称えられる彼が、無名のボクサーに。」

「でもそれはグローブに仕込みがあったからじゃないですか、もしかしたらドーピングだってしていたかも。」

「だからわかってないと言っているんだよ。絶対王者が絶対足るには、どうあれ敗北というのはあってならないんだ。それに考えてもみ給え、鉛のグローブとはいえ初撃を食らわない限りはただの鈍いパンチだ。少なくとも1回、彼は純粋なミスで格下相手に一撃を食らっているんだよ。これを敗北と呼ばずして何と呼ぶのかい?酒井氏はこの上なく屈辱でやりきれない思いだったろうよ。」

「そ、そうですか。」

四谷も背を向けたまま頷く。どうやらついていけないのは俺だけのようだ。

「その対戦相手や観客、審判らを裏で糸引いていたのはロシア政府だったようです。ネットに流れていた噂通りですね、殆ど。」

粛清の2文字が脳裏を過る。幾ら約20年前の事件とはいえ、あまりにも異常な国家の在り方に背筋が凍る思いだ。

「ところで、四谷君。君はさっきから何を探しているのかい?」

「グローブです、デイビットさんが事件の時にも嵌めていた黒いグローブ。前に見せてもらった事があったんですよ。巷じゃウィニング・グローブなんて呼ばれてるぶん、事件があってからはとりわけアンタッチャブルだったようで、取り出してから直ぐにしまい込んでしまっていましたが。確かここら辺にあった筈なんですが…あった、この箱の中に…」

彼はそう言って立方体の紙箱を取り出し、こちらに向き直って開く。それを俺達が覗き込んだ。

「無いようだけど?」

「ありませんね。」

「無い?そんなはずは。この場所は私しか知らない筈なんです、なのになぜ。」

「少なくとも鑑識はグローブなんて押収してませんでしたよ。」

「となれば、あとは酒井氏が自分で持ち出し…」

そこまで言いかけて探偵が硬直する。口が小さく動いているが、独り言らしきそれは小さすぎて間近でも聞き取れない。俺と四谷がほぼ同時にその顔を覗き込もうとした直後、がばっと顔をあげて俺の方を向いた。

「阿宮君、現場の情報って直ぐに出せるかな?」

「あ、粗方なら頭に入ってますが。」

「部屋の広さは?」

急に食い気味になった探偵の意図が判らない。この流れで何か閃く要素などあっただろうか?

「えーと確か、一辺がおよそ6mなので36m²ですね。それがどうかしましたか?」

「ああ、全てが繋がったよ。」

「なんですって!?」

四谷が驚愕の声を上げる。無理もない、俺だって全く話についていけない。

「ところで四谷君、今、大場君は何処に居るのかい?」

探偵にそう問われた四谷は腕時計を確認する。時刻は11時を回って久しかった。

「えっと、大場なら多分ジムに着いてるんじゃないでしょうか。後輩にミットを持たせる約束してましたし、今頃打ち込みを始めているかも。」

「!」

今度は探偵が驚愕の色を示す。と、同時に血相を変えて走り出した。玄関の方向だ。

「吽野刑事!?」

「急ぎ給え阿宮君、大場君が危ないかもしれない。」

真っ先に息切れした探偵を置いてきたまま四谷とジムへ乗り込むと、リングの上に大場の姿を発見した。コーナーで蹲っている、ただ事ではないのは明らかであった。リングの外でジム生が一人、怯えた様子で腰を抜かしている。

「刑事さん!あのグローブです、あれがデイビットさんのグローブです!」

彼の手には擦り切れた黒いグローブが嵌められていた、探偵が先程急に眼の色を変えたグローブだ。しかしなぜ彼が、その疑問を後回しにして四谷が我先にと彼の元へ駆け寄った。

「酷い痣だ、それも全身に…これじゃまるで酒井先生の時みたいな…」

「みたい、ではなく同じなんだと思います。尤も、まだ呼吸はありますが。」

後に続いた俺が軽く付け足しながら、落ち着いて大場を回復体位に持っていく。

「同じ?一体どういう…」

「今はその説明より先に救急車です、まだ助かる筈。」

「その必要はない、僕が呼んでおいた。君たちが僕を置いて行った時点でね。」

背後から息のあがっている探偵の声が聞こえてきた、どうやら追いついたようだ。探偵が語る傍から救急車のサイレンも聞こえてくる。それを聞いて俺は何気なく探偵の傍へ寄ると言いたいことは察したようで、探偵は小声で耳打ちしてきた。

「安心し給え、本当に呼んだのは救急車ではなく君の同僚だよ。」

「あぁ、なら良かったです。」

「大場君が助かろうが助かるまいが、これで一件落着だけど…一応、答え合わせはしておこうか。やれやれ、探偵の推理の醍醐味と言えばクライマックスのプレゼンテーションなのに、これじゃあまったくどうして蛇足じゃないか。」



10

[11/2 14:22]

結局のところ、超常犯なんてものは居らず事件は一つのアノマリーが引き起こしただけに過ぎなかった。最初に"犯人捜し"の路線に行ったことが今回の反省点だろう、視野が狭かったと言う他ない。リングの上で、正確にはリングのサイズの正方形の空間で嵌めると活性化する殺人グローブ。具体的な検証はまだだが、おおよそデイビット氏が死んだ時の状況を強制的に再現させられるとかそんなところだろう。経緯はともかく性質自体は良くある部類のものだ。

大場がグローブを持っていた経緯だが、死体を見つけた際に現場からそれを盗み取って隠し持っていたようだ。彼曰く、デイビットの威光にあやかれると思ったとか、グローブそのものを持っていることが継承者として誇示できると思ったとか、そんなところらしい。何とも彼らしい、幼稚な発想だ。死体を見たというのに恐怖より先にそれを利用して決闘をするという発想に至ったとは、阿保も度が過ぎると空恐ろしいものだ。

酒井がどうしてデイビットの件と向き合うことを決意したのか、なぜグローブを嵌めようと思い立ったのか、そこの所だけはわからずじまいだったが、探偵は「まぁ人なんて気まぐれなものだよ。」と思考放棄してしまった。随分身勝手なものだが、そこが重要ではないというのは正直なところ俺も同感だ。

大場の一件の3日後には聞き取り調査が済み、関係者達には今回の一連の事件を何の異常性もない事件であったと記憶処理が施された。事件が多重に縺れているせいで中々骨が折れたとカバーストーリーの担当者が愚痴を零していた。ちなみに大場だが、あの後財団の医療施設で目を覚まし、全治4週間を告げられたところ2週間で退院してのけた。なんとも野性的な男だ、あれでも四谷より戦績で劣るというのだから格闘技というのは良く分からない。

「そう言えば、昨日の事だけれど。」

「昨日?何かあったんですか?」

「ああ、例のジムに行ってきたよ。」

「何をしに?」

「とぼけるなよ阿宮君、彼らから決闘の約束の記憶を消さずに処理するよう仕向けたのは君らしいじゃないか。」

「なんだ、聞いてたんですか。」

「聞いてたさ、どうやら僕の差し金だと勘違いされていたみたいで苦情が飛んできたよ。」

「いやなに、別に決闘にはまるで興味もないんですがね。ただ彼らも巻き込まれた身、今後に関わる大事な約束を綺麗さっぱり忘れちゃ気の毒だろうと思いまして。」

「相変わらず素直じゃないね、全く。」

「何とでも言って下さい。それで、どうだったんですか?結果は。」

「おやおや、まるで興味もないんじゃなかったのかな?」

「…はぁ、相変わらず捻くれてますね、全く。」

「ふふ、何とでも言い給えよ。」

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