歯よ、坊や
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あら、坊や。

しぃー、騒がないの。あの話はひどく大げさだわ。私は悪魔じゃないし、地獄から来た怪物ってわけでもなんでもない。お母様だったら腹を立てたでしょうね。無礼はダメよ。あんな書き様は行儀がなっていない。あなた恥を知るべきよ。まあ、今はいいわ。私たちみんな時には間違いを犯すもの。どうせあなたのせいじゃないんでしょうけど、私についた名前ってかなり威圧的じゃないの。「歯持ちの女神」。人並より歯が生えているように見えるのかしら。まあ、そうね、並のレディーよりも、ちょっと白くてまっすぐ生えた歯だけど、「歯持ち」というのはあんまりよね。ジェーン。ジェーンって呼んで、坊や。いや、言いたいことがあるの。こんな風に数字が無意味に並んでるのなんか頭がクラクラするし、「女神」っていうのは思うにちょっと堅苦しすぎね。私、あなたとお喋りしたかったのよ。それだけ。単なるちょっとしたお喋り。言葉で人はケガしないでしょ。

何の話をしようかしら。ええと、私、「歯持ちの女神」だって思われているのよね。ちょっと仰々しいけど、確かに、あの可愛らしい真珠の話をするのは好きよ。つまり、私がするのはそれだけのことよね。人間が歯肉に隠してきた可愛いらしい宝石について、他愛もないお喋りをね。私がその話をしたって、あの人たちが私を閉じ込め続ける理由になんて多分ならないわ。歯の話をする人を閉じ込めて回っているとは思えないし。でも、それって私の運命じゃないの。あなたを例にすると、あなたがここに放り込まれるまでにやってきたことと比べれば、連中が罰しようとしている私の些細なことなんて全くもって可愛いものだわ。うーん、見せてあげた方がいいわね。説明しようとして言葉で表すのは……絶対無理だものね。嫌じゃなきゃ、一緒にちょっとやってみたいことがあるの。違う、無理強いしたいわけじゃないの。違う、私には超能力なんてないわ。違う、私がやりたいのは……外の連中、あなたに何を言っているの。私は話がしたいだけ。それに、私はあなたに話を聞いてほしいの。それだけよ。ねえ、お喋りしましょう、一緒にね。

歯よ。ねえ、デンタルフロス使っているかしら。毎日かしら。嘘ね。使っていない。私には分かるの。掛かり付けの歯医者さんは、あなたがタダで立ち寄るときに、そのことを毎回くどくど説明するわけじゃないのね。ええ、そうね、多分、もっと気を遣うべきだわ。それ、大人の歯よね。その歯はまた生えてこないわよ。次に、舌を歯の上で滑らせてみて。なめらかでしょ。歯肉に可愛らしいリノリウムの欠片が積み上がっているみたい。変なお願いだってことは分かっているけど、触っていただけませんか。その歯よ、上の側切歯。んー。歯先よ、前歯の隣のところ。そう、それ。そのまま、それに触って。ねえお願い。側切歯をつついてほしいの。銀行員を殴るんじゃなくてね。人差し指を使ってね、そして……触るの。さっき舌で触ったじゃないの。それじゃ……次に進むわ。

感触はどう。結構なめらかでしょ。それほど完璧になめらかなものが人の体にくっついているなんて想像しにくいわね。その全てを確実に理解してみて。あなたと違って、誰もあなたの歯については知らないのよ。その微細な引っかかり、その小さなでっぱり、歯が吹き出たところから伸びるちっちゃなうねも誰も知らない。本当はどう曲がっているか、どんな長さか、誰も知らない、あなたを除けば。生まれたときからあなたの一部であったものをもっと大事にね。まだ触っているかしら。次に、ちょっと試してみて。あっ、そう感じたかしら。もう一回押してみて。優しく、ね。その微妙に押し返す感触分かるかしら。見ることはできないけど、感触は分かるでしょ。分かるわよね、ほんのちょっぴりゆらゆらするの。すっごく優しく押したときの、極々微小の押し返し。ちょっと身震いしないかしら。

それじゃあ、優しく、すっごく優しく、つまんでみようね。人差し指と親指で、ちょうど先端を掴んで……次に進むわ。次よ。こんなこと、ときたま歯を磨くだけじゃ経験することないわよ。何も傷つけてはいないでしょ。ただ触っているだけ。何もおかしなことはないわ。感触分かるでしょ。ゆらゆらするかしら。違うわ、私は何もしていない。あなたの歯が自然に緩くなっているだけ。気付いていないのかもしれないけど、歯は実際は頭部の一部じゃないの。私と一緒に我慢よ。そこに生えているかもしれないけど、その一部ってわけじゃない。そう、心地良く馴染んでいるけど、ただくっついているだけでしかない。それだけのことよ。少しの肉と神経があのカルシウムの塊と歯肉とを繋いでいる。もう痛みが出てきたんじゃないの。それはね、心地良い痛みと言えるものよ。この痛みから、ほとんど倒錯した心地良さを感じられるでしょ。歯を歯肉に押し込む方法ですって。今、もう少しゆらゆらし始めているのがここから分かるわ。少しだけ圧迫しちゃったから緩んじゃったのよ。はらはらするでしょ。

歯は脆い物よ、坊や。もう前みたいにはならない運命なの。あなたは今ゆらゆらとゆすり続けている。もし手を止めたらがっかりすることになるわ。その痛み、前後にぐらつくところから来るちょっとした安心感。手を止めたってこれ以上何も得られないわ。もうひどくゆるゆるね。ええ、ここから見えるわ。恐らくもう味も分かるわ。ちょっと鉄の味がしないかしら。心配しないで、それは完全に正常ってこと。やめないで。賭けてもいいけど、今、歯の押し返しも強まったり弱まったりしているはずよ。試してみないかしら。ちょっとだけ。ええ、いいわ。次よ。あっ、賭けてもいいけど、それはいい感触のはずよ。その痛み。苦痛が深くなっていく感じ。それが付け根のところよ、坊や。たくさんゆすったおかげで根本まで感じられるの。やめちゃダメ。

唇を上げて、私に見えるようにね。あっ、うん、今、歯と一緒に動く歯肉が見えるわ。棒にひっついたチューインガムみたいに一緒になって動いている。惚れ惚れする絵ね。ダメ、止めちゃ、もうちょっとで見えるの。捻ってみて。そう、見えるように捻ってみて、結構近いわ、結構緩くなっているわ。賭けてもいいけど、味が分かるはずよね。まだ止めちゃだめ。捻り続けるの。聞いているの。ちょっとポンってするのかしら。もう取れやすくなっているのかしら。しぃー、泣いちゃダメ。痛みは釣り合うものになるはずよ。もうほとんどその手の中よ。続けて。見えるわ。根本が見えるわ。ポン。ポンポンポン。あとちょっと。やめちゃダメ。神経を切断できたわ、坊や。もう一回だけ。もう一回ちょっとポンって。ゴールは近いわ、やめちゃダメ。ここまで来たじゃないの。続けて。もう一回。もう一回……

……ああっ……んー、ええ、素敵よね。次よ、探っちゃえ。害はないわ。あなたの舌は前は全然そこになかったじゃないの。その小さな隙間に差し込んで。ええ、分かったわね。楽しいでしょって言ったよね。泣かないでよ、坊や。しぃー、ここに置いてみて。このジェーンに見せて。んー、これは素敵よね。あら、まあ、これはもう私のものね。そう、私がいなかったら、今取り出すことはできなかったでしょ。公平としか言いようがないでしょ。了承してくれたものね。素敵な科学者さんたちにアスピリンをもらえないかって頼んできたら。うまく頼めばきっと大丈夫よ。さあ次よ。

んー? ごめんなさいね、全然気付いていなかったわ。今、どういうわけだか、ちょっともごもご話そうとしていたのね。私が何なのかって。歯の妖精ですって。あら、ひひ、あらまあ、坊や、違うわ。私は歯の妖精じゃない。歯持ちの女神よ。

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