延命
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世界は、思いも寄らない姿へと変貌を遂げようとしている。
生と死と二つの歯車は、或る溶液を潤滑油として新たに回り出していた。
 
少し昔の話をしよう。これは、ただの独白に過ぎない。
 
人類が誕生して早数百万年が経った。石を手作業で削り、木にくくりつけ得物を作っていたヒトは、今や機械であらゆるモノを作り上げ、生命の構造を左右する事すら出来る様に進化してきた。
しかし、それでもヒトには抗う事の出来ない、自らが左右される事となるモノが存在している。川に浮かぶ木の葉が、その緩やかな流れにすら抗えないように。
  
かつて先祖は飢えを凌ぐために地に降り、食糧を求めた。より安定性を求めるために農耕、牧畜を始めた。家畜を増やし、田畑を広げ、身体の構造を作り替えてまで食を得ようとした。
寒さから逃れるために大陸を渡り、住居を作った。技術の発展とともにその機能を向上させ続けた。やがてそれは集落となり都市となり、やがて国になった。
病から逃れるために神や精霊に祈った。その源が特定出来るようになれば薬を作った。身体を機械に置き換えてまで、自らの健康を願った。
 
全ては種の存続のためだった。世界での繁栄のためだった。生への渇望だった。そして
───────死への恐怖だった。



いらっしゃいませ。何をお探しですか?



人類は死の恐怖から逃げ続けてきた。物理的な面が追求し尽くされてしまった時には、新しい逃げ道を無理にでも探し出そうとした。先の見えない暗闇から、逃げ出そうと必死に走るように。
誰かは宗教によって死後の世界を美化、または醜悪化し神や仏に救いを求めた。つまり、何か強大なものにすがる事で平穏を求めようとしたのだ。カンダタが地獄の底で仏の垂らす蜘蛛の糸に、一心不乱にしがみついたように。
あるいは哲学を発展させ世界の本質を探り、臆す事なく死を直視しようとした。自らが直面しなければならないことを正当化し、普遍化し、ある種の真理とすることで概念を自らの内に内包した。
  
それでも死はすぐ側にいた。いくら遠くへ逃げようとも、強固な城壁の内に閉じ籠ろうとも。
光がさせば影ができる。若さの先には老いがある。それと同じように生があれば死はあるのだ。


当店では業界随一の品揃えを誇っています。ですから、きっとお客様の御眼鏡にかなうものが見つかるでしょう。



昔から今にかけて、死との向き合い方は同じように、しかし少しずつ発展しながら存在してきた。
その中でも一律に、ある一つの目的として存在し続けてきたのは"不死"だった。その本質を考えれば疑問は尽きることの無いものな筈なのに、依然として人々の欲望の先に佇んでいた。
 
かつて人(と言っても一部の権力者、または裕福な者と言った方がいいかもしれないが)は追い求めた、朽ちること無き身体を、老いること無き精神を、そして永遠の時を。
東洋では始皇帝が渇望し、不死の妙薬と嘯かれた水銀を飲みかえってその死期を早めた。西洋では数多の化学者が錬金術師となり霊薬を求め心酔していった。誰もが、まるで何かに取り憑かれたように。
しかし、現代になり医療が進んだとしても、肉体の限界は止められなかった。いくら延命措置を講じたとて、限界は必ず訪れた。
 
結局、それは見つからなかった。


ご希望の品は見つかりましたか?こんなものではない、ですか。では、何を?



死は儚く、切ない。命の灯火がふっと息を吹きかけられて、刹那の内に消えてしまう。
死は事象だ。誰かが何かで死んだ、という概念でしかない。"死んだ"という事実は残るが、死んだ瞬間は残らない。世界がその時に全ての時間を止めたりしない限りは。
死んでしまったものは死体であり、生きているものは生体。その真ん中に存在していて、どうしようもないほどに二つの間を切り開いているのが"死"なのだ。
 
だから、私達は逃げ切れなかった。影がひたすら付いてくるのと同じだった。


"不死"をお求めですか…



だが、日常において絶対的な死も、その影に潜む超常の域においてはそうでなかった。
 
異形のモノが闊歩し、非生物に魂が宿り、既存の空間を変貌させ、未知の世界を創造する。その世界で生きる人間にとっては"常識的"な心理など、夢想家の語る理想論の様なものでしかない。
 
通常世界にとっては未知の技術、こちら側では未だ遅れた技術と、知り得るはずのなかった事実とその細かな情報、そしてその中に存在する一掴みの真理を用いて日々異常存在と対峙する。
超常世界とはそういうものであった。そしてその日常が普遍に置き換わっていた。
そのため、日常という大きな一連の流れ、その内の一つの過程に死が存在しており、ゴールではない。死を持たない生物などごまんと居る訳だから尚更だ。
そこでは死は全く特別なものではなかった。まるで、商品棚から気紛れに食べ物を1つ取って食べるような気安さで、超常は死を弄び、捨て去っていた。


付かぬ事をお伺いしますが、何故不死をお求めになるのでしょうか?



しかし世の中には酔狂な者もいるようで、信仰やら何やらに心酔していた奴らがその技術などを用いて死を研究し出したのだ。
たった一瞬の事象を手中に収めようとする狂気は止まる事はなかった。
 
そしてある時、一つの集団がそれを達成した。


答えは頂けないようですね、分かりました。ですが少し忠告をさせてください。



ローマ帝国時代のギリシアの医学者、ガレノス。
彼が打ち立てた学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなったという。
 
彼は著作にヒポクラテスの四体液説を叙述している。
四体液説は人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で、古代の四大元素によって定義付けられ、かつ四季とも対応関係を持つとされた。彼はこの原理を基にして理論を創出した。
 
彼の生命に関する根源的原理は"生気"であった。
彼によれば、脳の中の動物精気が運動、知覚、感覚を司る。
心臓の生命精気が血液と体温を統御する。
そして肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司るという事だった。
 
しかし、彼は生気がただ血液の中に含まれるとは考えなかった。血液の流動にこそ、生気は宿ると考えたのだ。

通常世界の医療分野に言わせれば、そんなものは荒唐無稽だろう。生気などは空想の産物だと吐き捨てられる。
しかし、それはなんら間違いではなかった。

タナトマは生気という現象と物質の狭間に立つ存在を媒介する事で、一瞬の現象でしかない死を物質化し、取り上げ、死の克服を成す。普遍を超越した世界の隅でそれは証明されたのだ。



不死は、魔物です。耳触りは確かに甘美です。しかし─────



かつての世界で不死の定義は様々であった。
死の三徴候と呼ばれるもの、すなわち呼吸停止、心臓停止、脳停止の永続回避や継続することによる老衰死の回避。
また、宇宙空間などの極限環境でも生命活動が停止しない状態、脳などの重要器官が外的損傷や切断された後からの回復が可能な状態。
そして、肉体が消滅してもその瞬間と完全に同じ状態を再現した肉体に精神を移植させることなどと表現されてきた。
しかし、死の超越は別の場所に存在していた。
 
死の薬"タナトマ"。その名が世界の片隅に芽吹いた時、生と死の境界は音も無く崩れ始めた。


そんなことはどうだっていい、とでも言いたそうな顔をしていますね…



死は事象である。生気の循環が何らかの原因によって絶たれる。その瞬間である。
それを抜き出す事を可能にしたのがタナトマだ。
死の抽出、事象の具現化、目に見えない不確定なものを今に固定する。
世の中に溢れるあらゆる死の事象、大まかに例えると寿命、病気、事故などだ。
しかし、時は流れ技術が躍進した今では、病気の種類別、事故の種類別に死を抜き出す事すら可能になった。
そして、死の分類学なるものも同時に生まれた。


お言葉ですがお客様は健康体に見えますし、抽出できるのは寿命による死だけだと思うのですが…



タナトマが発見され世の中に浸透するまでには、さして時間はかからなかった。
なぜそんな超常技術が大衆に認知される所に至ったかは、話せば長くなるので割愛しよう。

自身からある死を抜き出せば、それで死ぬ事は一部の特殊な事例を除き無くなる。
他の死因に気をつけていれば暫定的な不死を手に入れたのと同じようなものだ。抜いたタナトマと同じタナトマを注入すれば死ねるのだから、不死に懸念される点も殆ど解決されている。

しかし、人間の技術がいくら高度になろうとも、次元や真理の違う世界に住む存在に追いつく事は難しい。
そして、死因は一概には取ることは出来ない。全てを抜き出すのは極限に挑むのと同意義だ。不可能と言っていいだろう。
無論死の抽出には高度な技術を要する。人間という実体から死という概念、つまり非実体を取り出すのだから当たり前だ。素人などがしようものなら粗悪な死しか取り出せない。
手を伸ばしても、背伸びしたとしても、天井はその先にある。



ここで不死を扱っていると聞いた、と…分かりました。ですが、これだけはお願いします。返品はお受けする事が出来ません。
よろしいですか?では────



 
 
────彼女、いや彼だったか。
それももう分からない。知る必要もそもそも無かった。

 
死を拒み、生の延長を求める人間の本能的欲望は未だ衰えることはない。
しかし、私達もタナトマの全てを扱えるわけではない。本来ならば人間などとは違う次元のモノ、障壁は探せば幾らでも聳えているだろう。
無論、顧客の要望には持てる技術の全てを用いて対応させていただく。それは販売者としては当然のことだ。
たとえ不死を望まれたとしても、対価に見合う出来る限りの死を抜き出して、擬似的な不死をプレゼントする。
私達に準備の出来る不死はそこまでだ。

超常技術にはやはり限界というものがある。
一つ一つの不死の条件は満たせたとしても、完全な不死とは程遠い。
死がタナトマによって細分化されたことによりその道のりは果てしないものとなってしまったのだ。

大抵の顧客は最初は夢のような不死を求めてはいるが、事情を説明すればそこで納得し妥協してくれる。
が、今回のように分からず屋な顧客もいるのだ。

ただひたすらに幻想を追い求め、天高い雲を掴もうともがく。
何かに追われ、急き立てられているのか。はたまた元より気が狂っているのか。
こちらが追い返すか、承諾するかしないと立ち退かないのも困りものだ。

 
だが、いくら厚顔無恥であろうと顧客は顧客。為すことは一つ。



お待たせしました、ご要望された品に不備はございませんか?
…これでも満足して頂けませんか。



私達が持てる技術の先にある不死。それを実現するにはどうするべきか、長い議論が幾度となく繰り返された。
技術の進歩を待っていては、今回のようなケースに対応できるのは先延ばしになり続けてしまう。

 
私達の研究は佳境だ。新たな事例を見つけない限り進展はない。
運よく研究対象に出来て、なおかつ捕獲しやすく個体数を確保できるモノはいない。兎は自分から切り株に頭蓋を割りには来ないのだ。

私達の前身となる組織はもう無い。利益が芽生え、それぞれの思索が入り混じり、遂にはバラバラになった。
裏社会の闇に身を投じた者もいれば、私達のように新たな組織を作り商売を始めた者もいる。そして超常社会に以前から存在していた団体に吸収された者も。

答えを求めるのならば、そういった団体とも関わりを持たなければならないのではないか、そんな意見も出ていた。
かなり多くの団体が存在していることも知っている。その中の一つ「財団ファウンデーション」。

既存の団体の中で、最も多くの超常存在を保有しているとみられる団体。かつての組織から離反した者も幾人か取り込まれているらしい。
タナトマの研究技術は歴の長い私達の方が優ってはいるが、何しろ研究対象の宝庫だろう。私達の知らない領域まで解明するのも難しくはない。

超常世界での統制的な事を行い他の組織から煙たがられているようだが、今やタナトマの研究のみなら技術があれば一般的な事だ。
私達を解体、吸収するなどといった揉め事が起こるかどうか定かでは無いが、そこまで心配する必要もないだろう。
行うのは交渉であって、気に入らなければ辞退すれば良い。

販売の統括を任されているが、このような事が最近多くなってきた。面倒ごととはおさらばしたい、変な争いが起きれば私達にも目がつけられるだろう。
 
次の会議で掛け合ってみよう。



この先は返品不可能です。



果てし無い問答の末に、私達は一つの結論(実際には仮説に過ぎないがそうする他なかった)に辿り着いた。
タナトマは血液の流動と共に循環する生気を媒介としてる。つまり生気と血液とが生を支配しているのだ、と。

 
血液の流動が止まらない限り、人は死ぬ事はない。例え骨を、肉を、そして内臓を失ったとて。


本当に、よろしいのですね?



人間が辿り着くことのできた"完成された不死"は、あまりに虚しく、滑稽だった。
この世の真理を掴むのは、今の段階では不可能だったのだ。バベルは、神に届かなかった。

 

 
虚空に向かって、まるで友人にでも語りかけるような声が飛ぶ。

「あなたがその後どうなったか。
詳しくは述べられませんが、私共の技術を用いて抜き取れる限りのタナトマを抜き取りました。
刺されても焼かれても死にませんでしたよ。死には、しませんでした。
 
あなたの中に窒息死はなかったので、呼吸は必要ありませんでした。
あなたの中に餓死はなかったので、食事は必要ありませんでした。
あなたの中に衰弱死はなかったので、睡眠は必要ありませんでした。
疾患による死はなかったので、生命を維持する機関も必要なくなりました。

目も、耳も、鼻も、口も、皮膚も必要ありませんでした。
筋肉も、脂肪も、骨も、内臓も必要ありませんでした。
最後には、脳すらあなたの生命には不要となったのです────」

 
全てが終わった部屋には、静寂だけが取り残された。
私の向かいにあるのは、リング状に整形されたガラス管と、その中を半分ほど満たす小量の血。

血液は何かが触れるわけでもないが、ゆっくりと流動している。ガラス管の中で彼は生き続けている。
彼は生を手に入れた。不死のようでそうではない、いつ散ってもおかしくはない不確実な永遠。タナトマによって不死を手に入れることのできない実証。

 
全てを失ってでも手に入れたかった結末がこれだ。本当に彼が望んでいたものはお伽話のようなものだった筈だ。
私達には、それが出来なかった。そして出来る事をした。対価は払ったのだ。

 
 
死は、常にそばにいる。そして生も同じように。背中合わせに立っている。

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