命、そして未来
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サイトに夜の帳が落ち、いつもより一段と静かになった廊下。私とワクテルの足音が静かに反響する。
手に持ったアタッシュケースが揺れながら、蛍光灯の光を跳ね返し鈍く光る。
 
これがどんな結果になるかなんて分からない。でも、私はアエのもっと近くにいたい。
ちゃんと肌で触れ合って、その存在を確かめたい。彼女が一人のちょっと違った女の子だって、私がこの手で証明する、と誓ったのだから。
独善的であっても構わない。もう私には胸の中で渦巻く感情をどうしようもないの。
 
 
 
 
────タナトマは死を具現化し人間に扱えるようにするもの、そう機械が届いた日の講習で聞いた。
 
生物の死を弄ぶと言うのはきっと自然界の、そして生命の倫理に背く行為なのでしょう。そんなことは許されるものでは無いと、私の頭の中でずっと警鐘がこだましている。
でも、私だけにしかない私の命は、私の手ならどう使っても良いものじゃないのかな?
私の生を使って、他の誰かを、彼女を新しい世界へ導いてあげられるなら、救ってあげられるなら、それは、許されるのものではないの?
 
私の中で、信念と、約束と、道徳心がせめぎあい暴れまわる。このままなら私はおかしくなってしまうかもしれない。いや、いっその事おかしくなってしまった方が彼女を救えるのかもしれない。
 
彼女の涙が、笑顔が頭にちらつく。
もう、迷わない。────
 
 
 
 
この先に確証はない。でも、きっと大丈夫。
 
 
周りに誰もいないことを確認して収容室に入る。
ここの担当は私。非常時用のアラームとかの電源はまとめて切ってきた。これならすぐにはバレないでしょう。
ワクテルの不安そうな視線を背中に感じながらも、アタッシュケースからタナトマ抽出用の機材を取り出す。
最近発明されたばかりで、サイトにもつい最近送られて来たものを拝借してきた。

これが、きっと架け橋になってくれる。

きちんと動作するか最終確認をする。
ランプの点滅する機械と、それに繋がれた注射器が、薄暗い収容室の中で異彩を放っていた。
 
 
他にも声をかけようかと思った子はいた。それでも、私を手伝ってくれる子の中でワクテルが1番私のことをわかってくれていると思った。
アエの生い立ちについて知っているのも彼と私だけ。だから、助手として働いてくれていた彼を選んだ。
 


 
博士とは結構な頻度で仕事をさせてもらった。その中で、博士の中には私達の数十倍程もあるような道徳心が満たされている事も分かった。
オブジェクトや粗雑なDクラス職員達への接し方があんなに丁寧な人は他にいないと思う。
もちろん私達にも丁寧な接し方をしてくれた。

それが博士の長所でもあり短所なのだろう。何度か実験への行き過ぎた干渉によって上の人達から注意を受けているのも知っている。
それでも博士は自身の信念は決して曲げない人だった。どこまでも信念の元に正しく、美しく生きていくのだろう。
その前に幾度と無く壁が立ちはだかったとしても。
 
今回いきなり811のことで呼び出された時には心底驚いた。博士以外の人材を使わないように博士が申請していたはずだし、なんの仕事だろうと思った。
そして、要件を聞いた時にもう一度心底驚かされた。サイトに新しく送られてきた機械を使って811の収容体制を向上させようだなんて。しかも、誰にも内緒で。
 
もちろん最初は断らせて貰おうとも思った。でも、博士の説得に込められた熱量にあてられたのか、結局承諾してしまった。
確かに811に博士とともに立ち会ったのは私だ。あなたしかいないと言われたらどうしようもない。
それも涙目で。女性の涙に"No"と言うのは男のプライドが許さなかった事もあるのかも知れない。
 
それに、もう後戻りはできないのだ。
 


 
ワクテルは私に後戻りする意思も、説得に応じる気もないことを理解した上で今回の無茶に付き合ってくれた。
彼も勇気を出してくれたのだから、私もそれに応えないと。
彼は悪くない旨を書いた紙はデスクの上に置いてきた。この後起こるであろうゴタゴタの中で誰かが見つけてくれるでしょう。
どこまで認めてもらえるかは分からないけれど、格下げとかにはならないでくれたらなと思う。
減給ぐらいで済んでくれたらいいかな。
 
彼が悪いわけじゃない、これは全部私のわがまま。
 
でも、どうしてもやりたかった。表向きに申請すればすぐにでも棄却されてしまう。
それに、許可されたとしても私以外の職員(主にDクラス)になってしまうのは嫌だった。
アエとは、ちゃんと私が向き合いたかった。
 
ワクテルには防護服を着てもらい、準備を整えガラスを叩く。
アエが静かに水から顔を出した。

アエは少し眠たそうな顔をしている。目があうと、少し驚いた後に笑顔を見せてくれた。
それでもこんな遅くに私がくることは初めてだから、少し首を傾げている。
なんで今日はいるの?とでも言いたそう。

アエに笑顔を返して、ワクテルを連れて水槽の入り口へ向かう。
手に下げた機械と注射器の冷たさが、少しずつ高ぶる体に心地よかった。
 
 
扉を開き中に入る。すぐにアエが近づいてきた。
私が防護服を着ていない事がいつもと違って不思議なのか、また首を傾げている。
 
「大丈夫よ。アエ」
 
詳しいことを言っても彼女には理解できないだろうし、安心させることを優先する。
身振り手振りも入れて、私がいつもと変わらないことを示す。
それで少しは警戒を解いてくれたようで、とてとてと近づいて来てくれた。

こんな動きも、幼い少女のようで愛おしい。やっぱり彼女は化け物でも、ハンターでもないんだと思わせてくれる。
彼女の幼さは、私を突き動かすのに充分だった。

手で触れられる距離までもう少し、その時アエがぴたりと止まる。
目が、ワクテルに向けられていた。
どうやら彼が手に持っていた注射器を見てしまったらしい。
 
 
彼女には暗い過去がある。その内容は断片的で、確かだとは断定しきれない。
それでも彼女が注射器を怖がるのは間違いじゃない。
幼い時の、きっと彼女が普通の少女だった時の、残酷なトラウマが彼女を蝕んでいる。
 
アエの体が小刻みに震えている。ワクテルに向けられていた目は今は私に向けられ、助けを求めていた。
そっと手を伸ばす。
 
逃げるように、アエが少し後ずさった。
 
 
もう時間があまり無い、アエの協力がなかったらきっと2度とチャンスは巡ってこない。
心の中に焦燥が溜まってゆく。それをなんとか押し込めて、アエを怖がらせないようにゆっくり口を開く。
 
「大丈夫よ。私達はあなたをいじめたりなんかしない。だから、ね?お願い。こっちへ来て?」
 
彼女に向けた笑顔に汗が伝う。
ほとんど賭けに近かった。彼女が私達をどれほど信用してくれているか、今ここで信用してくれているかの。
 

時間にしては数十秒、体感では十数分時間が過ぎた時、アエは、来てくれた。まだ目は震えていたけど、彼女の小さな体にあるめいっぱいの勇気を振り絞って、ちゃんと来てくれた。
アエに手を伸ばす。彼女への愛しさと感謝を込めて、そして逃げられないように、そっと背中に手を回して優しく抱きしめる。
少し肌が痺れるけど、そんなことはもう気にならなかった。
 
「ねぇ、アエ。私のこともぎゅってしてくれないかしら?」
 
タナトマ抽出に向けて、最後の関門に乗り出す。
アエは少しの間目をしばたたいていたけど意味がわかったようで、その目を大きく見開く。
それと同時に、髪がバサバサと広がるほど大きく首を振った。
 
 
やっぱり彼女は優しい子。自分の体質を理解していて、ちゃんと対象を判断できる。
私は彼女にとってどういう存在なのか分からないけれど、拒否をしたってことは大切に思ってくれているのかしら?
彼女への愛しさが膨らんでゆく、そして使命感も抑えられなくなってしまった。
 
「大丈夫、大丈夫だから。ね?お願い」
 
さっきから同じ言葉の羅列でしかないが、背に腹は変えられない。一刻も早くやってしまいたかった。
アエはここにしかいない。別のサイトにも研究室にもいないのだから。
 
 
私の懇願が通じたのかは分からない、それでも恐る恐る手を伸ばしてくれた。抱きしめるまでは行かなそうだけど、それでもよかった。
 
アエの手が胸の少し上に触れる。即座に服は溶けて、皮膚が露わになる。
アエが本当にいいの?とでも言いたげな目で見つめてくる。いいよ、と肯定を込めた笑顔で頷く。
 
少しぬるっとした冷たい手が皮膚に触れ、それも束の間にその箇所から黒い液体に変わってゆく。
鈍い痛みが少しずつ大きくなりながら広がっていく。それに耐えながら、ワクテルに合図を送る。
アエが手を背中側に滑らせてゆく、ちゃんと抱きしめてくれるみたい。
腐食箇所が広がっていき、痛みとともに出血も少しずつ増えてゆく。
 
だんだん息が苦しくなって、目の前がぼやけ始める。ワクテルに最後の合図を送り、アエを精一杯の力で注射器を見ないように自身の胸に埋めるように抱きしめる。
 
お願いします、どうか私に今しばらくの加護を。
 
 
冷たい感触がする。注射器が腐食箇所に刺さったのと、機械が静かにうなり始めたのを感じる。
 
上手く、いくだろうか。
 
そんな不安も束の間に、自分の身体から何かが抜け落ちていくのを感じた。
注射器には不思議な色の液体が溜まっていった。
機械の音が止まり、注射器が抜かれる。
 
「博士、終わりましたよ。成功です」 
 
ワクテルが呼んでいる。もう、苦しくなかった。
腐食は体の深層まで届かずに、出血も止まり、意識もはっきりしている。
傷が治るかは分からない、でもそんなことはどうでもよかった。
 
ワクテルに「ありがとう」と一言だけ言って、早く帰るように促す。
笑っているのか、泣きそうなのか分からない顔をした彼が、全ての機材を持って水槽から出るのを見届けて、アエに向き直る。
私の様子が変わったのを不思議そうにしていたけど、私が大丈夫だと分かるといまにも泣き出しそうなくしゃくしゃな顔でにこりと笑った。
 
ワクテルの足音が遠ざかっていく、それと同時に遠くから何人もの足音が近づいてくる。
 

結局アエは泣き出してしまった。その頭を優しく撫でる。不思議と髪の油分も気にならなかった。
泣き止まないアエが抱きついてくる。
それを優しく抱きしめ返した時、収容室の扉がやかましく開け放たれ数人のエージェントが乗り込んで来た。
 
 
この先どうなるかなんてどうでもよかった。アエが怯えないように優しく抱きしめる。
彼女の為に、何かを本当に成し遂げるためにここに来て、それを成し遂げた。
アエと、ちゃんと向かい合えたのだから。
 
 
私とアエの間には、ただ互いの温もりと優しい鼓動だけがあった。
 
 
彼女のそばに居られることがただ、幸せだった。
 


 

サイト管理官より通達
 
今回のインシデントに置いて、タナトマ抽出用の機材を用いたSCP-811の腐食により生じるタナトマ抽出により、SCP-811への長期的な接触が可能になりました。これはオブジェクトの収容において新たなプロトコルの確立に寄与する可能性があり功績に値します。しかし個人の独断によっての機材の持ち出し、及びプロトコルの非遵守のもと抽出作業を行ったことは問題です。
 
上記二つを考慮した上で、SCP-811による腐食停止部分や人体への異常性付与の可能性など、タナトマ抽出による影響が予測できない為、今後は博士をSCP-811-1とした上で同収容室にて収容、監察とします。また、実行に関与されたとされるワクテル下級研究助手は博士による脅迫の可能性も考慮し、3ヶ月の減給処分とします。
 


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サイト管理官からの追加通達
 
経過観察において、SCP-811はSCP-811-1と共に収容する事で有意にストレスレベルを低下させることが確認されました。
 

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