紙食い虫
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 また出たと知らせが入ったのは、丁度未返却図書資料の回収から帰還した時のことだった。

「もう追う必要もないと思いますが」
「誰も人のため、などと言っていませんよ。紙のためです」

 地下深くの閉架書庫から、救難信号が届いたのだ。と言っても、厳密には解錠アラートで、送り主も人ではなく本だが。
 職員は極めて冷静にタブレットを叩き、それから遠野の大きな瞳を一瞥して、すくりと立ち上がった。「行く」以外の選択肢が無いことぐらい、彼とて重々承知している。

「わかりました。今回のタイトルは?」
「聖書」

 タコのぬいぐるみを持つ手に、無意識に力が入った。

「あれを読みに行ったんですか」
「まさか。閉架の実態を知りながら侵入する者の大抵は、神よりも本を崇める人間だ。"読む"で済めば御の字ですよ。幸い前の時は、本をアタッシュケースにつめたまま口惜しそうに死んでいましたが」

 その時は確か発見が遅れたために、辺りの本に腐臭が移って大変なことになったのだった。職員が忙しない理由の一つは、それなのだろう。特にあの"聖書"のこととなれば、その焦りもひとしおだ。
 収容されたSCPオブジェクトの"付属品おまけ"として、ついひと月前にサイト-L7ここにやってきた一冊の聖書。それ自体に異常性は認められなかったが、オブジェクトの調査に必要になる為、一時的に財団で保管することとなった。問題は、何故それがわざわざサイト-L7に迎えられたかということだ。
 四十九部目のグーテンベルク聖書。羊皮紙に刷られた、保存状態の非常によい完本。億単位で取引される程価値を持った稀覯本など、用のある時以外は本のプロフェッショナルに預けておくのが道理だ。それに、盗まれることを恐れぬほど財団は愚かではない。もし間違いがあって世に出れば、出処を調べる人間も出てくるだろうし、ひいてはオブジェクトの露見に繋がる可能性もある。木を隠すには森の中という言葉に従って、本は第七大図書館の管理下に置かれることが決まった。
 今回の標的が眠るサイト-L7の閉架書庫は、迷宮といっても過言ではないほど複雑だ。それ故、優れた案内役を付けないばかりに遭難する職員も少なくない。その上グーテンベルク聖書が保管されている場所は、遠野のように構内を把握した者でなければ、辿り着くことも戻ることもできないようなフロアの奥深くにある。彼は今から、そのような場所から本を許可なく持ち出してみせた盗人を、盗まれた本を追う機動部隊の案内をせねばならない。
 幼い彼は大きなリュックサックを背負い、支給品の電池式カンテラの動作を確認する。

「"猟書癖も-71"は既に下で待機しているそうですから」
「他のひとは行かなかったんですか?」
「言うまでもないでしょう。でなければ、あなたに白羽の矢が立つわけありませんし」
「……それもそうですね」

 遠野は、もう手遅れだろうと思った。本も、盗みを働いたその者も、全ては狂気に飲まれていることだろう。無論そうでないことを祈りたいところだが、どう転んでもしばらく総務課の機嫌は悪くなりそうだ。
 今度から稀覯本保管計画会議には、もっと積極的に参加するとしよう。

 しかし、財団は教会ではない。神殿でもない。信憑性に欠ける祈りよりも、彼の何一つ欠けず刻み付いた経験の方がここでは役に立つ。聖なる本からすれば皮肉な話ではあるが。
 迷路を構築するが如く複雑に並ぶ書架。ところ狭しと詰められた、叡智の塊。愛書家ならば悶絶するであろう光景は、漂う死臭のために台無しになっていた。
 同じような景色が続く、暗く長い道のりを休み休み歩き、ようやくたどり着いたショーケースの中身は空っぽ。それにもたれかかるように、痩せた男が死んでいた。捜していた侵入者である。首からぶら下がったネームホルダーの、大して高くもないセキュリティクリアランスレベルが涎を被っている。どうやら研究職の人間のようだ。

「餓死じゃない……窒息死ですね。口に何か詰まっています」

 機動部隊員はグローブを嵌めているだけあってか、戸惑うことなく死体の口に手を突っ込み、それを引っ張り出す。

「最悪だ……」
「道理で見つからないと思った」

 出てきたのは、涎の染みた羊皮紙。芸術的な程に揃えられた文字が並び刷られているそれは、紛れもなくグーテンベルク聖書だ。遠野の予感は、真となった。
 保管されていたケースの強化ガラスは、壊されることなく開いている。正式なパスコードが使われたのだろう。つまり、誰かがこの男の悪趣味な食事に手を貸したのだ。でなければ、ここにすんなりと来られるはずがない。地上に帰った時の新たな仕事が増えたことに、ため息をつきながら大切な友人を抱きしめた。

「とりあえず死体袋にいれてください。タコさんは見ちゃだめですよ」
「遠野司書、グーテンベルク聖書は……」
「復元はもう無理かもしれません。最善は尽くしてもらえるでしょうが……」

 カンテラを照らせば、男の白い、幸福に満ちたまま硬直した顔が浮かび上がる。その白衣のポケットには、膨らみがあった。

「待ってください」

 白い手袋を着け、体にできるだけ触れぬようそれを引き出す。小さな紙が入った封筒だ。

神の本は私となり、私は神の本となる。焚書がいかに愚かな行為か、ここにたどり着いたお前ならば分かるだろう。

 遠野は、自分の優れた記憶力を呪った。偉大な本の死よりも、飛び抜けた馬鹿の死が、一生こびりついてしまうなど。
 帰ろう。そして、この死体を解剖し、聖書を一枚残らず分離してもらおう。復元作業には可能な限り協力しよう。残り滓は好きな者が好きなだけ燃やし骨に涙を注げばいい。

 幸いなことに、活字の擦れや紙の筋、臭いに至るまで、あの本の全てを僕は記憶している。

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