ある財団の宗教学者のメモ:壊れたる貨物

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論理的には、「MEKHANE」について次の2つの命題のどちらか一方だけが真である。

  • MEKHANEは実在する。
  • MEKHANEは実在せず、MEKHANEは完全に想像上の産物である。1

非超常社会で著名な一人の学者がいる。戦闘的無神論者を自称し、ある要注意団体の中でも優秀なその学者様は、自らの出版した著作内において「キリスト教のメシアは実在しない」と言っていたが、[1]: 122 宗教家であるか否かを問わず、多くの人から批判を浴びた結果、しぶしぶ自分の発言を撤回し、「彼が実在したのは事実だ」と意見を修正したことがあった。

しかし、キリスト教のメシアが実在するという命題が (暫定的に) 真であるとしても、彼を描写した神話的な誕生・行程・死後の記録がすべて真であるとは限らない。簡単な例を挙げるとすれば、アメリカ合衆国初代大統領であるジョージ・ワシントンは実在するが、その事実が「ジョージ・ワシントンは子供の頃、誤って家の桜を切ったが、それを隠さず堂々と告白した」という命題が真実であることは意味しないだろう。

そうすると、上記の選択肢で、「MEKHANEは実在する」という命題が真であったとしても、その言葉が「壊れた神の教会が主張するMEKHANEと教典に書かれた歴史記述が全て真である」ということは証明されない。

少々頭に浮かんだ別の話題を書いてみよう。少なくとも非超常的な「正常性の歴史」において、機械文明の発展は人間の道具的理性の快挙であり、脱呪術化の結果であった。現代社会を象徴する技術であるIT技術もこの機械文明の延長線上にある。自然科学が発達するに従って、— あるいは、過去の肖像文明が発見したことを改めて思い出しながら—自然すらも機械に例える学者が出現したが、彼らの主張で機械を比喩対象として挙げたのは、単に複雑な法則性と精巧さを意味するものであっただけで、それ自体が人間より優れた超越存在であることを意味するものではなかった。中世が終わりを迎え現代に入り、機械の発展によって人間が容易に膨大な量のエネルギーをあちこちに移動し、変換することが出来るようになったとしても、それはあくまで人間が作り出した道具であり、人間の操縦に服従しているに過ぎなかった。ある楽観主義者は、技術が急激に発展し、全人類がその恩恵として幸せを享受できるようになると見て、それに反対する悲観主義者は、技術の急激な発展によって「人類の自由が抑圧される」、「一次元的な人間で溢れ返る」、「急激な二極化につながる」などと主張した。しかしながら、この悲観主義者の見解でも、技術文明の産物は道具として扱われることを前提としている。単に、発展した技術を扱う人々が私利私欲と悪意のために用いるだろうと予想しているのである。最後に、ある映画シリーズが広めた主張として、機械や人工知能などがすぐに人類の制御を超えて人類に対する深刻な脅威になるという主張がある。しかし、技術の発展に対する楽観論、悲観論、脅威論の三つの観点のいずれにおいても、機械は超越的なものではなく、人類が崇拝すべき対象でもない。

つまり、壊れた神の教会は、脱呪術化と道具的理性の象徴とされる機械を、極めて前近代的かつ呪術的な思想観とともに崇拝の感情を持っているのである。

再度「MEKHANEは実在する」 / 「MEKHANEは実在せず、MEKHANEは完全に想像上の産物である」という命題に戻ろう。私は個人的には前者の命題が真に近いと考える。少なくともMEKHANEが形而上学的かつ超常的な物語であるにも関わらず、知る限りでは私たちの世界に飛び出したというような事は無いからだ。そして、MEKHANEが実在しないのであれば、我々の財団の考古学的発見の成果を説明出来ず、彼らが古代に行った世界オカルト大戦の存在も証明できず、何よりその教会が存在する理由を説明できないからだ。

財団が壊れた神の教団の教義書を断片的にでも入手[4]: 23-54, 221-257, 651-703および、信者を拘束し「尋問」して得た教義の内容を基にすると、MEKHANE、あるいはマクスウェル派がWANという名前で呼ぶ神は確かに存在し、彼らは一般的に既知である人類種の誕生以前から文字通り存在しており、彼らの教典に記されている内容は文字通り真実であると信じている。[2]: 23-26, 44-50, 53-58, 72-73 ただし、この壊れた、あるいはネットワーク空間に散在しているという神を信奉する人々がどの宗派に属するかによって、信じる教自体が異なり、それらの中で何が真実なのかという興味深い問題が残るが。ところで、歯車仕掛派でもマクスウェリズムでも、互いに相反する教典のうち一つ以上が虚偽または真でなければ、壊れた神の教会全体の教典の内容が真ではないという推論も十分に可能である。

例えば、私たちがギリシャで発見・確保した遺跡が古代メカニト帝国のものであることには私も同意するところであるが、そこから直接的に崇拝や礼拝などを意味するものはない。これを彼らの神への崇拝の痕跡と解釈するのは、壊れた神の教会の構成員が語った内容から推測したものに過ぎない。財団の公式文書で神殿と推測されている地点には、Κύθηραという文字は存在しても、Θεός2やδαίμων3という言葉、またはそれを語源とする他のフレーズは確認されなかった。[5]: 33-69 私たちが神殿と解釈している場所が、宗教的な場所とはほど遠い単純な工場や研究所、武器格納庫のような施設である可能性も念頭に置くべきだと考える。

考えてみよう。彼らは私のように超常社会に足を踏み入れた人間が考えても畏怖の対象となる機械を制作し、扱うことが可能だったのである。ある文学者は、発展した技術は魔法と区別がつかないと書いている。しかし、技術であれ魔法であれ、それを使いこなして扱い、改良できる人にとっては、恐ろしく残酷ではあるものの崇拝すべきものではないのだ。地球上の全ての国を一掃出来るほど多くの核兵器と一緒に暮らす人々は核戦争が起こることを恐れているものの、彼らが恐れているのは、狂った大統領が突然核戦争を宣言する事態や、故障した核発射システムを修理できない事態に陥ること等を恐れているのであって、ウランとプルトニウムという元素と核融合と核分裂という物理現象を恐れているわけではないように、である。この観点から考えた場合、古代メカニト帝国は機械を神として崇拝していたと言えるのだろうか?

私は暫定的に壊れた神の教会に対してある推測を持っており、それは次のような前提に基づいている。

  • 古代メカニト文明は実在し、この文明は巨大な戦争によって滅亡した。滅亡したメカニト文明の残骸が、現在の壊れた神の教会の経典に繋がっている。
  • 壊れた神の教会の教典の内容及び教義は、古代メカニト文明時代には存在しなかったものであり、後世に記録されたものである。そしてそれは全てが文字通りの真実というわけではない。

宗教がいかにして誕生するかについては多くの推論が存在する。その中で私は、トーテミズム的な視点を考えてみたい。どんな人間の人生も存在しないことに比べれば極めて惨めな人生であり、「野蛮な原始人」の人生も「最も文明化された」現代人の人生も、自分自身を自然と共存している孤立した存在として自覚する悲劇から逃れられない。私たちと同様に惨めな生活を送ったであろう当時の古代人の中で超常性を知覚できない人々が動物や植物などをトーテムとして信仰したとされており、おかしな話だが、実は現代文明も一種のトーテミズム的世界観だと言える。トーテムが誕生したのは、そのような惨めな人間が人間と自然の間の齟齬の矯正を試みたためであった。 そして現代人が直面している環境は自然環境ではなく、技術文明がどこにでもある環境であり、技術が現代人のトーテムにあたる。古代メカニト文明においても、彼らが超常技術の環境に身を置いていたことから、同様に技術トーテムの世界観を生きてきた人々であると推察できる。[6]

古代メカニト文明は確かに驚異的な技術力を誇っていたが、MEKHANEは文字通り「機械」や「ソフトウェア」、「技術」に過ぎず、これらは古代人が使っていた道具の域を出ず、彼らの神ではなかった。4しかし、この偉大な文明の強力な機械軍勢でも肉の軍勢を止めることは叶わず、結局のところこの国は滅亡した。

滅亡の過程で、彼らが尊敬していた多くの学者が命を落とし、様々な器物を製造していた工場は破壊され、彼らの研究成果と歴史を記録していた多くの記録施設とサーバーが焼失しただろう。アジア地域に存在する一例では、超常的に存在自体が消滅してしまったのだから。残存しているのは、全盛期に比べればごくわずかな遺物とわずかな生存者、メカニト文明の生存者が他の場所に同化した「原始人」だけであっただろう。生存したメカニト文明の生存者の中には技術者や科学者もいたはずだが、全員が専門家であったとは考えられず、流民の多くはただメカニト文明の産物を消費するだけの一般人であった可能性が高い。一般人に該当する流民は具体的な原理や知識を知らなかったであろうし、メカニト文明の外部の正常性の領域にいる他の人々も同様であろう。このような人々にとって、残されたいくつかの遺物は、一度壊れたり失われたりすると取り返しのつかない伝説のオーパーツのようなものであり、これらを所有していた人々が、自分の持っている技術の一部を「宝具」や「神器」のように大切にする姿勢が世代を超えて受け継がれ、その道具を崇拝する風習が生まれたのだろう。結果的には、メカニト文明の古代史について残存しているごく一部の文書や口伝、外部者の粗雑な目撃談などが時代を超えて混ざり合い、教典として受け入れられたと言える。原始的な壊れた神信仰をトーテミズムの宗教として見た場合、他の人々がトーテムとした動物や植物に比べ、技術の一部は目に見えるものもあるものの、目に見えない、理解できない神秘性に満ちており、それ故にそれを崇拝する人々はさらに自分自身を他者と区別された特別な存在と考えるようになったと推測できる。

私は現在の非超常社会を総称して技術文明という言葉を用いるが、それもいくつかの時代に分類することができる。中世以降、今日に至るまで、機械に対する認識論的観点から、4つの機械装置が順次登場した。機械の「働き」と「エネルギー」の問題で、時計は微細な箇所まで及ぶ機械的で精巧な法則の象徴として、秤は引力と反力が平衡を成し遂げることで生じた調和のとれた運動をする自然の象徴として、蒸気機関は「力」という曖昧な概念の代わりに「エネルギー - 仕事をする能力」という新しい概念を導入した。さらに、石炭が持つ化学的なエネルギーは熱による仕事力に変換できるようになったことで、これらの現象が自然の重要な要素として研究されるようになり、「自然哲学」は「物理学」に追い出されてしまった。最後に、私がこれを書いているコンピュータの時代には、情報という概念を質量、エネルギーと同等の重要性を持つものとして、心象世界そのものを情報を処理する装置として解釈する視点が登場した。さらには、人間の脳さえも情報を処理する並列的なスーパーコンピュータに例えられ、解釈されるほどである。[3]

この物語は非超常社会の歴史を解明するためのものだが、MEKHANEに当て嵌めることも可能である。私たちが把握しているメカニト文明は、「時計、秤、蒸気機関、コンピューター」がすべて極限まで発達した、ある意味、人間技術文明の「完璧な金型」に近い超常的な文明である。古代メカニト文明においては非常に精巧なオートマトン何千年間に渡り、自ら動作可能な人工知能、そして、私の主張ではあるが、ある工場に該当するものも存在するからである。壊れた神の教会の各派は、このような技術文明の象徴を一つずつ分けて所持している。教主ブマロに従う教派は時計、歯車仕掛正教は蒸気機関、マクスウェリズム教会はコンピューターに例えることができる。5「壊れたる教会」の教主であるブマロは「偉大な構築者」を自称しており、少なくとも崇拝者からはそう呼称されている。構築者としての彼の目標は、神の身体を再構築することであり、神格の物理的形態を回復させることで壊れたる神が再び活動し、それを元に精巧な機械文明が再構築されることである。稀に誤解されることがあるが、ブマロの教会は、身体の機械化などにこだわらないという点で、最も「原始的」であることも考慮に入れるべきだろう。歯車仕掛正教は大量生産を信奉し、総主教は産業革命時代の工場主の超常版のようなものである。彼らは機関が持つ驚くべき力とエネルギー、機械装置が際限なく複製する一つの規格を秩序と考えそれに魅了され、自らの身体もそのように「規格化」して神に近づこうとする機関の崇拝者である。最後にマクスウェリズム教会は自分たちの神、WANをネットワークに求める。 彼らの神は過去の技術文明とは異なり、「物質的な」形を持っていない。彼らも自らの肉体を改造するが、その改造は自分の体をネットワークデバイス、つまり情報を生産し、送受信可能な端末にする。

神が壊れているとは何か? 彼らの神が壊れている(Broken)と言うとき、その言葉は物理的に壊れている、割れている、損傷しているという意味もあるが、故障しており正常に機能していないという意味もある。どちらの見方でも構わない。現代の壊れた神の教会は、財団の立場からも侮れない能力を保有しているが、彼らの神が壊れていると自ら表現する限り、自分たちの機械、あるいはソフトウェア(マクスウェリズム教会は自分たちの神が物理的な機械ではないとしつこく主張するため、いちいちこれを言及するのは非常に面倒なだけである)が不完全であると自ら信じているのである。当然だろう。完璧に近いテクノロジーを築き上げた文明であるメカニト文明が享受していたものとは比べ物にならないほど遅れており、バラバラになった破片の一部しか持っていないとも言えるからだ。 上記から推察するに、壊れたのは彼ら自身でもある。メカニト文明は時計、秤、蒸気機関、コンピューターが一つであるのに対し、そのうちの一つだけを神の形で祀っているということは、彼らが壊れているということであり、また彼らが神を壊しているのではなかろうか。

太平洋の島々の真ん中には、輸送機を崇拝する信仰がある。それを崇拝する人々は、木を切って「銃」を作り、森を切り開いて「滑走路」を作り、木を積み重ねて「管制塔」を作れば、いつかそこに米軍の輸送機が着陸し、偉大なるジョン・フラムが無限の貨物を運んでくれると信じている。この信仰を信じる人々が見たものは確かに真実である。実際、米軍が作った滑走路に航空機が着陸し、莫大な貨物を運び出し、その貨物の一部が島の先住民に与えられたからだ。つまり、彼らが観察したことと彼らの子孫が覚えている内容は事実だが、解釈は大きな誤りである。私は壊れた神の教会は超常社会の貨物崇拝だと信じている。実際には存在したことのない「壊れたる神」が、彼らが熱心に崇拝して復元しようと努力すれば「再構築できる」と信じて、木で管制塔を建てる儀式の超常的なバージョンを行っていると言えるだろう。

現時点では、このような見解は検証されていない推測に過ぎない。それでもこの見解が事実だとすると、壊れた神の教会は肉の信奉者、サーキック・カルトとは完全に相反する。ナルカ達は、野蛮で原始的にすら見える肉塊の儀式に従うが、神の存在を認めながらも神を崇拝せず、むしろ神を越えて人間(少なくともサーキックの崇拝者だけ)自身が神のように強くなることを望んでいる。サーキックの崇拝者たちが歪んでいながらも人間の発展の可能性を信じて努力し始めた場合、壊れたる神の信奉者たちは、洗練された高度な機械を前に自ら屈服し、存在しないものの信者を名乗ることになるだろう。

参考注
1. R. D██████, T██ ███ ████████, R██████████ 2006.
2. F. Habermas et al, 『壊れた神の教会信者が持つ教義に対する解釈差と教義論争 - SCP財団の尋問記録を中心として』、SCP財団 人類学部門 超常現象宗教研究科 2006.
3. Frans van Lunteren, "Clocks to Computers: A Machine-Based ‘Big Picture’ of the History of Modern Science," Isis 107 (2016) 762-776.
4. U. Matteotti & V. Kryuger, 『MEKHANE系宗派の教典及び教義書注解』、SCP財団 人類学部門 超常現象宗教研究科 2000.
5. G. ████████ and W. ████, 『██████地域の超常遺跡の探索報告』、SCP財団 考古学部門 1984.
6. James W. Quirk and John J. Carey, "The Mythos of the Electronic Revolution," American Scholar 39 (1969-70), pp. 219-241 and pp. 395-424.




 

私の考えを推測以上のものにするには、少し、いや膨大な調査が必要だろう。世界中に存在するメカニト文明の遺跡をもっと発見し、残っている記録を掻き集め、さらには壊れた神の教会本部に侵入し、彼らが持つものまで調べる必要がある。しかし、少なくとも3つ目は不可能だ。ただ超常社会の古代史を調べるというだけで、事実上財団が教会に宣戦布告することは、評議会は望まないだろう。とはいえ、1つ目と2つ目も困難極まりそうである。財団がただ壊れた神の教会の歴史を知りたいという理由だけで、Keter級の異常個体を隔離するために逼迫した資源を私に支援してくれるだろうか。

それに、もしかすると、O5評議会の連中には実際にMEKHANEを見た者が居る可能性もある。 あの評議会の老害共は、文字通り見境なく見てきたはずだろう。

 

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