掃除屋
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私はネコ、名前はウィルバー。どこで生まれたのかは、はるか昔のことなので忘れてしまったけれど、汗と油と灰の匂いを纏った筋骨隆々の、化物じみた面の人間に抱きかかえられ、ゴツゴツした手のひらが必要以上に優しく、私の頭を撫でていたことだけ覚えている。その人間は筋金入りの船乗りであり、奴隷船の船員、もとい、戦闘員として、数多の奴隷の氾濫を鎮圧し、世界の海を渡り、富を築いたと、よく語ってくれた。その人間は、いつの間にか私の前からいなくなり、私はというと、『ムエート』という船の一員として仕事を始めていた。

『ムエート』は、死神によって作られた航路を奔り続けた。長きに渡る海戦の歴史、その末に傷つき、腐食し、動けなくなった体を無理やり改造され、奴隷船になり、あの日、黙示録の到来を確信させる天変地異に巻き込まれ、ネズミに喰われ、病に侵され、孤独のまま、哀れに漂い沈むだけに思われた。しかし、最後の最後に、『ムエート』は幸運の女神の加護を賜り、どこからともなく現れた数隻の軍艦によって曳航された。すると、忽ちに空は晴れ渡り、海は凪ぎ、猖獗を極めた病も消失した。『ムエート』が埠頭まで辿り着くと、彼らは看板を立て、言葉少なく、どこかへ去っていった。去り際に鳴り響いた汽笛の音は、私にではなく、『ムエート』に向けられていたように感じた。その音は低く、どこまでも響き渡り、この世界全体に『ムエート』を知らしめた。

私はその後、独りぼっちになった。『ムエート』がまだ元気だった頃は、遊び仲間が周りにいくらでもいた。ネズミを捕れば、大いに褒められ、御馳走が与えられた。でも、今では、私に餌を恵んでくれる人間はいない。なかでも特に仲が良かったあの人間も、ベッドに横になってから、『ムエート』と同じように、元気をなくし、動かなくなってしまった。ネズミを捕れば、なにか変わるかもしれないと期待して、船内のネズミを全て捕まえ、人間の元へ持って行きもしたけど、反応は変わらなかった。やがて、ネズミもいなくなった。私は、遊び相手がほしかった。御馳走がほしかった。あの温もりと、手のひらのゴツゴツがほしかった。


幕間

猫は古くから船乗りとの関係を築いており、数千年前の古代エジプトから、海上貿易によって、世界各地を渡り歩いていた。猫は船上でも陸上でも、目の前にネズミがいれば捕食し、それが結果的に、人間にとっても有益であったため、猫と人間は共生関係が成り立つこととなった。特に、ゲンを担ぐことを重要視した船乗りにとって、数々の神話に、時として神として存在した猫という動物を船に乗せることは、ネズミを刈り取らせるだけに留まらない、航海上で非常に大きな意味を持っていた。

我ら艦隊司令部にとっても、猫というのは特別な存在である。ただし、航海の無事を約束する存在として、ではない。

我らがいくら強大な艦船を有していようと、前人未到の海洋を発見しようと、癒やしというものがなければ、目的地までの道筋しか記されていない航海図のように、味気ないものになる。ネズミという存在を見なくなって久しい私であっても、猫の柔軟で温もりを感じる肢体と、夜闇のなかで月光に照らされながら、マストを走り回る妖艶な姿に、ときめかざるを得ないのである。要するに、猫というのは、本来の、船におけるネズミ専門の掃除屋に留まらない、利害関係の枠組みを超えた存在である。


客人

私は、このどうしようもない欲求を満たすべく、客人を招くことにした。

ある時、私が招き入れたのは、永遠を生きているようにしか見えない人間だった。私も、猫の中では抜群に長生きであるはずなのだが、その人間は、もはや寿命だとか、健康だとか、友とか、御褒美とか、そういうものを全てどこかへ置き去りにしてきたような、悟りきった眼をしていた。その人間は、私のことなど意に返さないようで、じっと海の方を見つめていた。私が必死に、人間の、ボロボロになって、灰になりかけているズボンの端を丁重に噛んで、『ムエート』の方へ連れて行こうとしても、人間は動かなかった。私はこの態度にイライラし、思いっきり脛を引っ掻いたが、驚いたことに、人間は痛がる様子を見せなかった。すら流さなかった。この人間には、血が通っていなかった。

私は怖くなり、その場から逃げ出した。後ろからは、なにかが海に飛び込んだ音が聞こえた。私には理解できなかった。どうして、海に飛び込んだのか。どうして、浮かび上がってこないのか。私のなかに、人間に対する不知の自覚が芽生えるとともに、人間に対する、今までに感じたことの無い、恐怖心を覚えることになった。

またある時には、笑顔が張り付いた人間にも出会った。その人間は、血が通っていて、目は澄んでいて、悟りとは程遠く、欲に塗れているように見えた。その人間の笑顔は、私が今までに見たあらゆる笑顔とは違っていた。私を抱きかかえてくれた人間の笑顔は、私の幼いゆえの可愛さに向けられた笑顔だった。また、『ムエート』の人間たちの笑顔は、私が勇猛果敢にネズミどもと戦い、勝利したことを称えるための笑顔だった。だが、この人間の笑顔は、何に対する笑顔なのかわからなかった。「なんてカワイイ子猫ちゃん!」「なんて綺麗な海!」「なんて立派な帆船!」などと言ってはいるが、そのどれを言う時も、同じ笑顔で、それが私には不気味に思われた。私は怖くなって、『ムエート』のなかに逃げた。人間は、私を満面の笑みを浮かべて追いかけてきた。「子猫ちゃん、どこに行くの!」「抱っこさせて!」。船の中を共鳴し、どこにいても聞こえてくる大声で、人間は私を船内から引きずり出し、喰らおうとしているようだった。私は船底近くの、元々奴隷たちがギュウギュウ詰めになっていた場所に身を潜めた。「子猫ちゃん!」。

暫くすると、声は止んだ。私は助かった。でも、これ以降、ここに招く人間を選ぶようになった。


幕間

あの猫(名をウィルバーという)が、他の猫とは全く違う特別な存在というのは、言うまでもない。日本の伝承では、長寿の猫は尻尾が二又になり、猫又という妖怪になるとされているが、あの猫の長寿っぷりといったら、既に尻尾が数十に分かれていてもおかしくないほどである。世紀を跨いで生きた猫など、我らの間でも知る者はおらず、特に、命の危険と隣り合わせの船乗り猫となればなおさらである。

ウィルバーがどうして、あれほど長い時間を生きられているのかは分からない。仲間内では、ウィルバーと『ムエート』が長い時間を共にしたことにより、魂の一片まで一心同体の存在となり、我らの管理下に置かれた瞬間に半永久的な存在になったとする説が有力だ。また、言霊の力を信仰する我が兄弟は、ウィルバーと最も親密な関係にあった人間が、死ぬ直前に何か言ったか、強烈な思いを向けたかして、それが呪いとなり、ウィルバーを現世に縛り付けていると主張している。

私としては、どの説が正しかろうとどうでもいい。ただ、ウィルバーがいまでも健在なことが何より大切だからだ。そうだろう、兄弟。


客人

でも、一番厄介な客は、人間ではなかった。それは何かわからないけど、私の皮膚をムズムズさせ、睡眠を妨害した。体が痒くなることは、昔からあることだったけど、人間に撫でられたり、水をぶっかけられる(この方法はいまだに好きになれない)と、不思議と治まるものだった。けど、今回は様子が違っていて、いつまで経っても痒みは消えず、それどころか、徐々に痒い範囲が広がり、毛づくろいだけでは辛抱できないまでになっていた。私は、人間の代わりとして『ムエート』のザラザラした甲板に体を横たえ、ぞうきんを絞るみたいに擦りつけた。そうして、体に感じる痒みはほんのわずかな間だけよくなった。

でも、まだ痒い。痒い。耳の奥が痒い。


掃除屋

ウィルバーは、正しく、この閉ざされた海域の皇帝である。私は、その皇帝の守護を行う一兵にすぎない。もう200年以上、私はウィルバーと、招かれた客を見てきた。その中には、どう見ても尋常ではない人間もいたが、幸運なことに、ウィルバーに危害が加えられることは一度もなかった。もし、そのようなことがあれば、私は、自らの艦隊総出で、その人間を撲滅すべく、砲火を浴びせかけていただろう。

だが、私もまったく想定外な、招かれざる客が1人、いや、一匹、この海域に紛れ込んでいた。異変はいまより2日前から始まっていた。ウィルバーは、毛づくろいを一日中し、地べたに体を擦り合わせたり、壁や柱に体当たりしたりし始めた。自分に取り憑いている何かを、『ムエート』にうつして、厄災の身代わりになってもらおうとしているようだった。

それはダニであった。我が兄弟曰く、ダニは猫に寄生し、猫の気を煩わせるだけでなく、数々の病を引き起こす害虫である。そして、普通、飼われている猫というのは、飼い主に定期的にブラッシングを受けるか、薬を塗って、ダニに寄生されないようにするそうだ。

私は大きな過ちをしていたことに気が付いた。ウィルバーの従僕でありながら、結局、ウィルバーの可愛さにかまけて、ただ見守ることしかしてこなかった。ダニは既にウィルバーに取り憑いているから、砲火でどうこうするわけにもいかない。私のとんだ不履行のせいで、ウィルバーは苦痛を感じているのだ。どうにかできないか、私は兄弟に尋ねた。

兄弟曰く、ダニは熱に弱いという。それを聞いた私は逡巡の末、数十年ぶりに、出航準備を号令した。兄弟は私が何をするつもりかすぐわかったらしい。ボイラー室。船が動く限り、高温を発し続ける、船の中にある灼熱地獄。これによって、あのダニを、本当の地獄に送ってやる。


あまりの痒さで、意識が朦朧とし、私が私でなくなっている気がした。『ムエート』にあまりに多くの回数、体をぶつけ、擦り合わせた結果、私の皮膚はボロボロになり、毛は抜け落ち、甲板に血が滲み、生暖かい甲板が鼓動を刻むように、静かに揺れ動いた。この船はまだ生きている、そう思った。

一塊の汽笛が海を裂いて飛んでくる。

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