灯点頃
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──そして、夜に染まる。
 
 
***
 
 
ぼんやりした視界、まだ冴えきらない意識。薄氷色の浅い眠りから、彼はのったりと身をもたげた。
目を擦りつつ、奥の壁に掛けられているはずの時計を探す。

(あぁクソ……。)

時計の針は、既に午後2時をまわっていた。昨晩から徹夜で業務をこなし続けて、ようやく終わったのが今日の午前11時。久しぶりにゆっくり昼食でも摂ろうと思っていたのに、自分としたことが、今の今まですっかり眠りこけていやがって……。

ほんとうにクソだ、と心の中で溜息を吐く。

部屋を出る気力も削がれてしまった彼は、仕方なく此処に居座ることにする。深く椅子に腰掛け直すと、ぐるりと薄暗い室内を見回した。少ししか減っていない、冷めたコーヒー。今にも崩れそうな山積みの資料。バインダーだの論文誌だのが詰まった面白みのない棚。端の壊れたブラインドカーテン。水やりの要らない観葉植物。
そして、ふと気づく。

誰もいない、静かな空間。

彼は、あることを思い出したかのように徐ろに立ち上がる。
その数歩先、上司のデスクの上にはクリアファイルがぽつんと置かれていた。

それは禁じられていたわけでも、許可をとらなければいけないわけでも無かった。
けれど今まで開くことが出来なかったのは──。

手を伸ばして、そっと触れる。程よく手のひらに馴染んだそれは、優しい空の色だった。
  
 
***
 
 
やがて開かれた、腕の中の分厚いファイル。
紛れ込んでいたのはひとつの、夕焼け色の記憶。

事件████事後調査報告書

201X年XX月XX日13:46に発生した、サイト・██でのSCP-███の収容違反の原因。
多数の怪我人と複数の死者を出しながらも再収用に成功した旨。
決まりだからと、なぐさみ程度に小さく並べられた犠牲者たちの名簿。
その中に刻まれた、ひとつの名前。
 
トロイ・ラメント。
 
彼はその人物との思い出を、遠い昔のことのように思い出す。
果たしてあの男は、自身の燈火となり得たのだろうか。
 
 
***
 
 
彼には気に入らないことがふたつあった。
若い職員達が根も葉もないうわさを鵜呑みにして、彼やその上司を極度に怖がること?それは不正解だろう。どちらかといえば彼はそのようなことを一々気にするような人間ではなかったし、むしろ、若手達が恐れおののきながら道を譲ってくるのは、彼にとって最高に愉快なことのひとつとも思えたからだ。
では何か?答えは簡単。その表情や話しぶりを見ればすぐに分かる。
 
まずひとつ目。それは彼の今の地位についてだ。僕はもっとやれる、こんなところに収まっている器じゃないはずだ、と何度上司に掛け合えど、押し付けた要望書は不認可のハンコと共にその手の中に無様に戻ってきた。
続いてふたつ目。それは少し前に配属されたエージェントの存在。
そして目下のところ今すぐにでもどうにかしたいのが、このエージェントの方だった。
 
学もなければ特に秀でた才があるわけでもなく、積み上げられてきた現場での経験と持ち前の明るさだけが取り柄のような男。書類事務は下手、世間話は無駄に長いし大きな声でよく笑う。そして、それはもっとも彼が避けたいと願う種類の人間だった。
 
はじめこそ、エージェントはその他大勢の者ども同様に彼を恐れていたものの、今となってはすっかり彼を「ちゃんと話せば悪くない先輩」と勘違いしてしまったようで、故にその一挙一動すべてが彼を苛立たせるものとなっていた。
 
 
 
本当のところ彼だって半ば諦めていたのだ。
だと言うのに彼のどうしようもない部分が、どうにもムキになって意地を張り続けているようで、それでどうしてもエージェントのことを認めることができないでいた。
場に合わない陽気な太い声と、それを切り裂く陰気な罵声。
いつのまにかそれらの色が、好きに勝手に、オフィスの空気へと塗りたくられていた。
 
 
***
 
 
それから季節がふた巡りした位の頃。
エージェントとの低能なやりとりに進展はなく、しかし変わったことはひとつだけあって。
 
それは彼自身のことだった。
 
あの墓碑銘を目にして以来彼の心の隅に巣食っていた霧のような疑念は、既に形ある確信に変わり始めていた。
抗うことと、甘んじて受け入れること。果たしてどちらが「正しい」選択なのか、分からないまま心だけが先走っては、凝結していく。氷柱のように凍った感情が、まだ温かい部分を貫いていくようで、それでもひねくれ者の彼は誰かに助けを求めることも出来ないままで。
 
始まった恐怖に身体を震わせながら、仕事に没入することで彼はどうにかそれらを紛らわせていた。
 
 
 
その日は朝から、昨晩に発生したお騒がせな事件によって彼らのオフィスはキリキリ舞いだった。その忙しさたるや息つく暇もない程で、彼はそんな時に限って不在の上司を少しだけ恨んだ。
何時間経っても変わる様子のない状況に、いつにも増して機嫌を悪くしていた彼は、先ほども、彼に話しかけようとしたエージェントをこっぴどく振ったばかりだった。
 
そう、振ってしまったのは、彼の方だったのだが。
 
焦りと緊張の圧力が重くのしかかる中、部屋にはタイピングの音だけが響いている。
自分勝手もいいところと、流石の彼もわかってはいた。それでもその日の沈黙は、何故かひどく苦痛に感じられて。
 
「……なあエージェント」
 
彼は書類の山にうずもれて見えない横顔に、うっかり話しかけていた。
 
「何ですか、博士」
 
すぐに、少しの驚きと戸惑いと喜びと、それを押し殺したような珊瑚色が声にのせて運ばれてくる。
彼は手を休めることもなく、そのことをなんとも思っていないようなふりで。殻の中の叫びのままに静かに、色に染めることの出来ない透けた心を零して落とす。
 
「例えば。いつか心まで凍り付いて自我を縛られてしまう日が来るとしたら。それならよっぽど死んじまったほうがマシなんだろうか?」
 
突然のそんな質問に、どうやらさすがのエージェントも困惑したようだった。デスクトップのキーボードを叩くのをやめる音がする。
彼は考えていた。どうでもいい。他人などどうでもいいが。
 
この言葉、こいつならば何色で染めるのだろうか。
 
「そうですね……」
 
この男なら、およそ彼の考えも及ばないような色で、遠慮会釈なく塗りたくるだろうか。
 
「それなら」
 
およそ、青や赤しか知らない彼には想像もつかないような色で。
 
「誰か、その氷を溶かしてくれる人がいたらいいんじゃないですか?」
  
……ほらな。
 
 
 
「僕にはそれがどんなだか、これっぽっちも分かりませんけど。でも、僕は記憶と共に感情を忘れて、喪ってしまうことがどんなに悲しいことか知っています。そして、感情を縛られることはきっとそれと同じくらいつらいことだ。だから、もし。そうしてつらい思いをする人が隣にいたら、僕はきっと、どうしてでもその氷を溶かしてみせます」
 
 
 
その男が選んだのは、あまりにもまっすぐで鮮やかな夜焚きの色。
その眩しさに、彼は呆気にとられてしまう。
ここまで馬鹿な奴だったとは。おそらくむず痒くなるようなその言葉を、あの男は顔色ひとつ変えないでほざいているのだろう。
 
けれどその光は……。
 
例えばそれは、晴れて澄み渡り、太陽も星もなにもなくなってしまった、晩方の出来事。
ひとりぼっちで迎えようとしていた夜に、彼はどこからか現れて、こう言ったのだ。
「暗くなる前に貴方を見つけられてよかった」と。
そうして彼が灯したランタンに、優しい笑顔が映される。
さて、帰りましょうか。貴方が忘れようとした、貴方の元へ。

 
 
 
いつもあんたは、僕には理解できないことばっかりだ。
 
 
 
「……一周まわって薄気味悪いな」
そんな言葉、よくスラスラ言えるもんだな。ややあってようやく、彼は口元を歪ませてそう言った。ああそうかそうやってサイト内の女共を誑かしてんだろ、まさか男の趣味もあるとは思わなかったがな……嫌味の棘を差し向けて、しかしその音には、隠しきれないチェリーレッドをにじませて。
僕は本心を言っただけなのに、それだからアイスバーグ博士はモテないんです、エージェントが書類の向こうで口を尖らせる。
 
それから再び訪れる静けさ、しかしそこにはわずかな色彩を残して。
 
彼はそこでようやく、自身が色のない部屋を寂しく思っていたことに気づいたのだった。
 
 
***
 
 
パタリ、ファイルを閉じる音。
椅子の背に首をもたれて、静かに目をつむる。
隣の席は空っぽのまま、この先色で満ちることはもうないだろう。
窓から入り込んだ、灯のない、薄縹色の空気が頬を滑る。
不思議と、しかし必然的に涙が流れることはない。
 
……ああ、彼が僕の燈火となり得た、そんな未来もあったのだろうか。
 
 
 
そして彼は、次の年の冬、ひとつの白を手に取った。
手にした白に、暗い葡萄色で、遺書を書いた。

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