崇高なるカルキスト・ブマロは大いに安堵した。長きにわたって彼は怒り、憎悪、絶望、そして深く根差す恥辱以外の物を感じてはこなかった。しかし、その鉤爪のような手を小さな時計仕掛けの上に載せ、回転する歯車が肌に擦れるのを感じると、彼は希望に満ちているかのようにすら感じた。
可能ならば笑っていただろうし、いっそ涙すら流したかもしれないが、鋭い牙に満ちた彼の口からは不浄な音が発せられるばかりであり、彼の目は獣のそれに変わっていた。そこで彼は、再び歩くとは夢にも思わなかった真鍮の道を先へと進んだ。時計仕掛けが手の内で律動的に時を刻むと身体の全細胞が拒絶の叫びをあげたが、彼はあたかもそれが神聖な天与の物であるかのようにしっかりと握った。
それは正しく天与の物、この定命の世界における混沌の内に失われたメカーネの最後の欠片だった — 壊れた神の教会の不実な指導者、イオンその人の胸から引き千切られた神の心臓である。メカーネの力が持ち去られ、もはや己を維持できなくなった彼の死体は散乱していた。ブマロは長い間彼に憤りの念を抱いてきたが、今や振り返ろうともしなかった。彼はただ前を見つめた。
彼の前では、巨大な機械が捻じれては回転し、無声の曲を奏でていた。彼の背後には、アルコーンたちが静かに集まり、ブマロの鉤爪が握る小さな機械の欠片を見据えていた。悍ましい天使たちは、ヤルダバオートの定められし下僕が再建のために神へ近付くのをただ見ているだけだった。
ブマロが近付くにつれて、焼けるような感覚が皮膚を通し骨にまで届いたが、彼は注意を払わなかった。時計仕掛けの欠片は振動し始め、その音は大きな機械が送出している音と調和し始めた。ブマロは何世紀も身体を完璧に制御してきたが、今この時、彼の心臓の鼓動は抑えきれなかった。数千年前に聞いたのと同じ音、彼の呼吸を乱し血を沸騰させた神の呼び掛けだ。そして今回もまた、呼び掛けは彼に対するものでは無かった。
無論、初めからこのような有り様だった訳では無い。神の機械、その絶え間なく動き続ける歯車と滑らかな反射面を見上げながら、ブマロは別な時代、自分が違う人間だった頃を思い返した。当時の彼は違う顔だった — 歪んだ肉・空虚な目・牙が一杯に生えている裂けた口では無く、真鍮と鉄で強化された顔を、神への信仰を語る目と時計仕掛けの聖句を呟く口を持っていた。
数千年前の彼は単純かつ敬虔なメカニトであり、壊れた神をその座に戻すため人生を捧げる事しか知らなかった。彼は手足や器官を除去しては単純な機械構造に置き換えて元に戻し、神のイメージに合わせて自分を再構築しているのだと考えていた。振り返ってみれば、それは単にメカーネの顕現を雑に真似ただけだったのだが、メカニトにとってそれは神聖かつ高潔な行いだった。
彼は自分の肩に大任が課せられようとは予想もせず、聖遺物を一目見たいと思ったことさえ無かった。神の再構築は、彼がそれを生涯の目標とすればするほど遠く感じられた。数多くの偉大なる師がおり、その全員が時計仕掛けの精神と神に捧げる心を持つ経験豊富なメカニトだった。そして彼の人生は勉学と祈りと平和な瞑想だけで形作られ、永遠にそれが続くのだろうと思っていた。
だが、やがてイオンが現れた。偶然に神の欠片を手に入れ、それを絶好の機会と見て取ったダエーバイトの奴隷。彼が抑圧されし人々の中から追随者たちを集め、自分流のメカーネ信仰を — 神の忠実な召使としてではなく、その欠片を活用するために — 始めるまでそう長くは掛からなかった。彼がどのようにしてその力を帯びたかは誰も知らなかったが、イオンは己の身を遺物と融合させ、神の主人と化した。そしてメカーネは汚された。
ダエーバイトは程なくして滅亡し、時計仕掛けの帝国が成長を始めた。だが彼らの建造する機械は美しくも調和的でも無く、むしろ破壊的で怪物じみていた。鋭い研磨音が耳を聾し、黒煙が空を覆った。山々は丸ごと巨大な構造物に呑み込まれ、それらを癌のように成長させた。メカニトたちは彼らと意見を同じくせず、ダエーバイト同様に滅ぼされた。
全てはあっという間だった。壊れた神の教会はメカニトと全く同じ力を用いていながら限度を知らなかった。ごく少数しかいなかったメカニトたちは、イオンに仕える四人の聖人が放った鉄の獣によって動物のように狩られていった。獣の鋭利な爪は真鍮を捻じ曲げ、蒼白い牙は僅かでも生身が残っていれば咬み裂いた。
ブマロにとって、それは恐怖であり絶望だった。彼は寺院が燃えるのを見、自らの師と同輩の信者たちが八つ裂きにされるのを目撃し、最低の悪夢の中で思い浮かべた事しかないような機械を目の当たりにした。それまでの彼に想起できる悍ましい存在は“肉なるもの”だけで、機械というのは優雅で繊細な物としか認識していなかった。しかし、巨大な軋る歯車が足を押し潰し、鋭い金属質な叫びが耳を劈いた時、彼は自分が間違っていたと知った。壊れた神が汚され、これこそその神聖ならざる形態であることを悟ったのだ。
彼は瀕死であり、望みも無かった。残っている生身はねじれて血液が流れ出し、金属部品はイオンの罪深き獣たちによって貪られていた。絶望の内に、そして恐らくは心の深くに潜む怒りと憤りの内に、ブマロは祈った。人生においてただ一度だけ、あらゆる物事を変えられる力を求めた。だが、応えたのは別の神だった。
それは殆どシュールとすら言えた — 囁きは空から降臨した恐ろしげな天使では無く、彼の内側から聞こえてきたのだから。それは力を、復讐を、神の再創造を約束するものだった。最初のうちブマロは困惑し、ただの幻聴だと思った。しかし囁きが心象に、この世界の物ではなく、また決してこの世界に存在すべきでない光景に変わった時、ブマロは声が何処から来たかを悟った。
それは彼に残る生身の部位、万人の内に葬られたヤルダバオートの名残から響く、肉なるものの呼び声だった。死に際の夢の中で、ブマロは肉の世界を、自然に反した形状で広がる巨大な肉の塊を見た。偉大な力と休むこと無き目を持つ六匹の忌まわしき獣を見た。あらゆる物の中で最も恐ろしくもあり最も美しくもある存在、大いなる真鍮の檻に囚われた龍が、我が身を自由にせよと子孫に呼び掛けるのを見た。そして、彼は自分が何を求められているかを理解した。
どちらが良く、どちらが悪いかは判然としなかった。恐るべき機械か、恐るべき肉か。だがブマロは決断を下した。瀕死の身で自暴自棄だったのかもしれないし、イオンをより大きな脅威と見たのかもしれないし、或いは単純にメカーネが汚染されて生命無き道具として扱われるのを見るに忍びなかったのかもしれない。何にせよ、彼は囁きを受け入れ、条件を呑んだ。
彼の引き裂かれた身体から新たな命が芽吹き、夢の中の獣たちは大声で、龍は囚われの身で静かに笑った。人が獣と化すのを目の当たりにした機械の怪獣たちは驚愕した。かつてブマロの誇りだった機械部品は身体から剥がれ落ち、引き締まった生身は癌のように成長した。骨に食い込んでいた機械仕掛けが放り出され、かつて彼の一部だった大小の歯車は打ち棄てられ、失われていた手足はより多くの付属肢と化してもう一度生えてきた。
苦痛は束の間だった。新たに復活した肉体が捻じれ動くのを止め、ブマロが再び物事を明瞭に考えられるようになった時には、戦闘は既に終わっていた。彼の師や友人を虐殺した鉄の獣は細断され、鋭い摩擦音は止んでいた。その残骸はブマロの身体から零れ落ちた輝く真鍮の欠片と混ざり合っていた。寺院を包む炎がより赤々と燃え盛り、立ち上がったブマロは、機械の怪獣たちの頭を裂いたのが己の爪であり、鉄の肌を刺し貫いたのが己の骨の槍であり、残忍な咆哮を放ったのが己の口であることに気付いた。
神聖ならざるものと戦うために、彼は不浄と化した。
その日から、彼は最早メカニトではなく、崇高なるカルキスト・ブマロ、ヤルダバオートの神聖なる司祭となった。彼は龍に、メカニトの聖書に従って立ち向かってきたはずの存在に隷属し、新たな人生を歩み始めた。彼は信者を集め、自分でも信じていない言葉を説き、獣と化す力を彼らに与えた。自ら嫌悪する物事を主導しながら、彼は別の怪物との戦いを始めた — 恐ろしい運命から彼の神を救うという微かな望みを抱いて。
しかし、それはもう真に彼の神とは言えなかった。彼は最早かつてのように神の御声を聴くことができず、機械の中に美を見出すこともできなくなった。人生は苦痛となり、彼は無感動になっていった。自分の計画が失敗し、信者たちが滅びるのを見ても気に掛けなくなった。彼はただ、アルコーンが囁く言葉を遵守して初めからやり直すだけだった。
彼は敗北し、裂かれ、龍の檻へと追放されたが、あたかもそうした挫折が一度も起こらなかったかのように再び立ち上がり、戦いに向かうのだった。イオンとその胸に嵌めこまれた遺物を目にするだけでも、彼が抱く僅かばかりの感情は掻き立てられ、何のために戦っているかを思い出させた。彼は、自分でも計り知れないほどの力を持つ不浄と化していた。
だが、そんな事は大した問題ではない。彼は何度も失敗を重ねてきたが、今は教会の廃墟の上に勝ち誇って立っていた。彼の微かな希望は現実になったのだ。アルコーンたちは最後の瞬間を見届けるためにこの世界へ降臨していた。ブマロがもう一度鉤爪を見下ろすと、時計仕掛けは彼の肉を燃やし、その下の骨を露わにしていた。
カチッ。
神の心臓は、壮大な機械の中に完璧に収められた。美しかった — 歯車は全て信じ難いほどの速度で回転し、最も大きく素晴らしい音を立てた。次の瞬間、それはもう歯車でもなく、時計仕掛けの機械でも無かった。秩序を司る者、長らく隠されていた栄光と長らく失われていた力を宿す者が彼を見降ろした。それは神、彼の神だった。
ブマロは最早、何が起きているのかを認識できなかった。おそらく数千年前の若きメカニトだった彼ならば可能だったかもしれない。しかし今、彼が感じられるのは、彼方から響くアルコーンたちの笑い声と龍の唸りだけだった。メカーネの光は目も眩むほどだったが、ブマロは何かが起きようとしているのを知った。
檻が壊れた。ヤルダバオートを閉じ込めるためにメカーネ自らの身から作り出された檻が、今や破壊されたのだ。龍が自由の身となり、神がついに完全な形態を取り戻したこの時、一瞬の沈黙があった。偉大なる龍と大いなる機械が姿を現すと、アルコーンたちが二神の再会を寿いだ。彼らの力は共に衝突し合い、彼らの精神と形は一つに混ざりあった。
崇高なるカルキスト・ブマロはこれを静かに見届けながら、何か違うもの、長い間感じてこなかったものを感じた。彼はヤルダバオートが己の身から力を取り去り、メカーネの威光が己の腐れた肉を焼き尽くすのを感じていた。しかし、彼が本当に感じていたのは、小さな歓びだった。彼の罪が最早壊れていない大いなる神の御前に曝け出された事への、彼の債が返された事への、彼の務めが果たされた事への、彼が遂に自由の身となる事への歓び。
龍と神は咆哮し、再び争い始めた。
ブマロは地に伏し、静かに祈りを捧げた。「我が主よ」 その声はすぐに途絶え、彼の身体は灰に帰っていった。